Syrma-10-
騎兵による偵察は、交代で常に行っている。式典中に得られた情報を地図に書き込み、今後の方針の討議を始めたが……。
「未だに、退路上に敵は確認できていませんね」
ネアルコスが式典前のプトレマイオスを真似るように、俺達の現在位置から俺達の船のあるアカイネメシスの港までの道を指でなぞっていった。
「敵の輸送艦隊を撃破後に、余勢を駆っての敵前強襲上陸作戦だからな」
プトレマイオスが答えながら、分散したラケルデモン軍の規模を見て難しい顔をしている。
ラケルデモン軍は、占領したアテーナイヱ野営地を策源地とし、対岸の占領下の都市から物資を運び、主要な街道や今回の戦闘のために整備された軍道に小部隊を送り込んでいるらしい。
占領後の手際は悪くないが、糧秣の調達や輸送にアカイネメシスの商人を使っているため、こちらにも多少の情報は漏れ聞こえてきている。
そう、情報が得やすいのは確かにありがたいが……。
ただ、主要な退路以外の周囲の村へも巡察隊を繰り出しているのがやや面白くない。
おそらく、今回は勝てたものの今後再び海戦が起こらないようにするため、徹底的に潰すつもりなんだろうな、とは思う。もっとも、それなら野営地を包囲するべきだったんだが、おそらくそれが出来ない事情があったのだ。
多分、今回の海戦は、ラケルデモン艦隊の指揮官にとっては望外の戦果だったんだと思う。輸送艦隊に損害を与えられれば上々ぐらいで襲ってみたら、戦闘への備えを怠っていたアテーナイヱ艦隊に完勝してしまった。
このままでは、士気の低いアテーナイヱ艦隊はこの戦域から退避してしまう。そして、どこか別の場所でまた艦隊決戦を挑まれでもしたら、海が苦手なラケルデモンが次は勝ているか分からない。
当たらずとも遠からず、ってとこだと思う。
ただ――。
「ラケルデモン艦隊の軍艦、そして、鹵獲したアテーナイヱの船を確保するため、半数は港に残っている。これなら、問題ねえダろ」
クレイトスのどこか暢気な声に、俺は難しい顔で答える。
「北のアテーナイヱが穀物を買い付けていた方面への追撃が三百。まあ、所詮は
トラキア方面への追撃の動向は、距離的な問題で直接的には偵察できていないが、こちらに向かってきている兵を引いた数になるのでおよそ千前後。場合によっては、マケドニコーバシオの関所で足止めをして、然る後に未だにアテーナイヱが確保している殖民都市への攻撃も視野に入れているのかもしれない。アテーナイヱ艦隊の脅威が無い今、ラケルデモンは海上輸送による軍の高速展開が可能となったのだから。
「千二百の追撃対の全てがボク達を追っているわけではないのですよ?」
知らずに難しい顔をしてしまっていたのか、ネアルコスがどこか不思議そうな顔で俺に訊ねてきた。多分、数字上は然程問題といえる規模ではないのに、最初から俺が悩んでいるのが納得できていないんだと思う。
「いや、それはそうだが……ってか、千二百が丸々こっち追ってきてるのなら、死に残りの小部隊を置き去りにしながら進むしかないっつの」
「オい!」
クレイトスが怒鳴ったが、俺は「状況を鑑みた結果だ」と、言い返した。
そもそも撤退戦の要は如何に損害を少なくするかにある。そして、追撃戦は、単純にその逆というモノではない。既に大局的には勝利している以上、追手側は自軍の損害にも留意する必要がある。
小部隊でも、守りを固めた兵士を皆殺しにするにはそれなりの準備も必要だし、場合によってはその殿の小部隊に敵の荷駄を襲わせることで、進軍速度を更に遅らせることも出来るだろう。
そう、間違った事を俺は言っていない。
「そもそも、騎兵は高さがあるので目立つし、死に残りの部隊を選ぶとしたら、俺の軍から抽出する」
歩兵、しかも軽装歩兵なら、鎧の擦れ合う金属音や、大盾なんかの目立つ武装は少ないし、木陰や岩陰、窪地に身を隠しやすい。
しかしクレイトスは、苛立ちを隠さない声で怒鳴った。
「そういうことを言ってるンじゃねえよ! 安易に味方を殺すなっつってンだ」
「見捨てるわけではない。百生かすために十死ねと命じるだけだ!」
「バカか? 何度も置き去りの部隊を出すなら、一戦して敵を退かせた方が損害が少ねエだろ」
「勝てるならそれで良いだろう。しかし、負けたら終わりだ。撤退において、そんな博打を打つのが正解か?」
喧嘩、というわけではないと思うが、クレイトスとにらみ合う俺に、プトレマイオスが「敵の追っ手の数を鑑みて手を変えるんだろう?」とか、ネアルコスが全体に向けて「迎えうつ際の地形や状況も見る必要はありますよ」と、取り成したりしてくれていたが、正直、会議の空気は悪いままだった。
いや、喧嘩をしているつもりは無い。
そして、どちらの主張も間違っていないから、賛否が分かれて緊張感が漂っているだけ。
そんな中、王太子は薄く目を閉じ――軽く、居眠りでもしているのかを疑うぐらいの間が開いた後、ゆっくりとした声で呼びかけてきた。
「アーベル」
「ん?」
「どうした? 少し、らしくないぞ」
本当に普段通りの声だったから、刺々しかった会議の場の緊張がほどけていくのがはっきりと見えた気がした。
スッと……いつの間にか暑くなっていた心も冷静になっていく。
そしてそれはクレイトスも同じなんだと、その表情の変化からわかった。
「己はアーベルとクレイトスの軍なら充分に戦えると考えたんだが、見通しは甘いか? ラケルデモンに詳しいお前さんの意見を聞きたい」
そう問われれば……どうだろう?
正直、分からないと言うのが本音だった。
おそらく、いつかくるラケルデモンとの決戦のためにマケドニコーバシオ式の重装歩兵と先方を温存するために俺の軽装歩兵とクレイトスの騎兵が選ばれたとは思っていた。
ただ、俺とクレイトスの軍の戦術も、既存の南部のモノとはかなり毛並みが違うし、それにラケルデモンがどう対応するのかは不明な点が多い。
そしてなにより……。
「敵の規模にもよるし、偵察をまめにしながら判断したい」
王太子は、うむ、と、頷いた後クレイトスにも軽く視線を向け――今度はクレイトスもすんなりと頷いた。
話はまとまったな、と、思っていた矢先、不意に王太子が俺に訊ねてきた。
「で? どうしてそんなに熱くなったんだ?」
結局それも訊くのかよ、と、口を一本線に結んで王太子を半目で見る。
どこか底意地が悪そうな、そして楽しそうな笑みを浮かべた王太子。
周囲の
「言ってみろ。大丈夫だ、笑わんさ」
「って言ってる顔がどこか笑ってるんだがな」
促す、というよりは、どこか唆すような王太子に軽く嘆息し、俺は……正直、あんまりこうしたことは言いたくなかったんだが、その言いたくないことを言葉にした。
「なんとなくなんだが、申し訳ないような気もしてな」
周囲のキョトンとした顔が向けられる。クレイトスやなじみの薄い
「なにがだ?」
「うん……いや、なんというか、ラケルデモン人相手の闘いで戦死者が出ると、それはなんだか、俺が殺してしまったんじゃないかって気がしてな」
場の一拍の空白に気まずさを感じていると、次の瞬間に案の定噴出されてしまい、ほらな、と、俺は口を尖らせた。
「最近は、丸くなったと思ったが。丸くなったらなったで面倒なヤツだなお前は」
くくっとどこか可笑しそうに話すプトレマイオスを、うるせえよ、と睨みつける。
そして、その笑いが収まった頃合で王太子が、今度は威厳をもって告げた。
「これは、己達に対する試金石となる。己達が陸戦最強国のラケルデモンと戦えるのか否か。いずれ越える壁の高さを測るための戦いである。そのために、マケドニコーバシオでも武勲のあるクレイトスと、ラケルデモン出身のアーベルに戦場を任せる。異論はあるか?」
反対意見は全く出なかった。
誰も、声を発しないが、ぎらぎらした視線が全てを物語っている。
王太子は満足そうに頷いた後、俺ひとりを見つめて訊ねてきた。
「アーベル、やれるな?」
「……もちろんだ」
上手く言えないが、心にあった澱は消えていた。
ようやくここまで、捨てられた祖国と戦うところまで来たんだな、と、感じ入るものが無いわけではなかったが、その感情はごく弱いものであり、皆との不思議な一体感の方が強かった。
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