Spicaー7ー

「しかし、人の気持ちってのは分からんものだな」


 山に潜みながら、アテーナイヱ軍の動向を偵察していたんだが、見るべき点が無さ過ぎた。プトレマイオスが怒るのも納得してしまう程に兵士はだらけきっていて、戦闘への備えを怠っている。

 もっとも、この野営地の後方には俺達がいるんだし、ラケルデモン軍は対岸の港に引きこもっている。装備を抱えたまま泳いで渡れるような海峡ではないので、港さえ見張っておけば良いという理屈も分からないでもないが……。

 こりゃ、両軍共に戦う気はなさそうだなな。

 勘が外れたかな、とは思うが、悔しくは無かった。これは実戦なんだ。金も資源も人材も限りがあるので常に備えておくのは難しいが、負けて死なないために出来ることは全て行い、不測の事態に備えるのは当然の事だ。

 何事も起こっていないことを確認するもの重要な仕事なのだ。


 半分は独り言、もう半分は手持ち無沙汰から出た言葉だったが、同じように野営地を監視しているネアルコスが応えた。

「どちらのお嫁さんの事ですか?」

 ヤな感じの笑みで、心底楽しそうな顔をしてあがる。

 まあ、こういうことを訊くのには一番の相手なので、それ込みでの独り言でもあったんだけど、な。

「どっちかっつーと、自分自身の気持ちが、なのかもな」

 嫁じゃないだろ、と、否定する気も失せて、俺はどこか投げ遣りに返事をする。

 今回の遠征直前のエレオノーレと話した時、アイツの感情の輪郭がありありと見えてしまっていた。エレオノーレの高揚も、不安も、告白も、諦めも、全てを分かっていた。

 でも、それを前にして、どこか冷静で沈んでいる自分の心に気付いてしまい、あんなふうに振舞うことしか出来なかった。

 なぜなんだろうな、と、今更かもしれないが考えてしまう。

 こうして離れている分には、ふと思い出す限りにおいて、今どうしているのか不安になったり、心をかき乱されるのに。

「それは、アデアさんに飽きてしまったという意味で?」

 ごく普通の雑談でもするような口調でネアルコスがとんでもないことを訊ねてくるもんだから、こっちが動揺してしまった。

「いや、お前な……」

「ああ、エレオノーレさんとなにかあったんですね」

「その二択かよ」

 勝手に納得したネアルコスを軽く睨むが「まさか、他に懸想された方が?」なんて、人好きのする笑顔で訊ねられては、不貞腐れるしかなかった。

「いねぇよ」

 会話を打ち切りアテーナイヱ陣を観察するが――、いまひとつ集中できない。いや、手を抜いてるってわけじゃなくて、偽装ではなく寛いでいる兵士なんて見ていて面白いものでもないし。

 付近の村から攫ってきたらしい女を天幕の中へ連れ込んでいる兵士や、ワインで酔ってるのか所構わず小便しようとしている姿、アテーナイヱで流行ってる曲か演劇の台詞かは分からないが、大声でなにかを唱和している場面なんて、覚えて帰っても役に立つとは思えなかった。

 もし敵対してるなら、今、ここで、急襲したい! ぐらいの感想しか浮かばないのだ。


「……なあ」

「はいはい」

 俺から再び声を掛けられるものだと確信していたのか、ネアルコスが即座に応じたが、食い気味で返事をされると、微妙に話し難い。

 目を細めてネアルコスを見詰めるが、腹黒いのにそれを感じさせない無邪気な笑みを向けられたので、軽く舌打ちするしかなかった。

 まあ、態度はこんなだが、信用出来ないってわけでないのは知ってるしな。

 俺は恥を忍んでネアルコスに訊ねてみた。

「婚約したら、なにするものなんだ?」

 俺の顔を見詰めたまま、急に真顔になり、目をぱちくりとさせたネアルコス。

 どうもいまひとつ意味が伝わっていない気がしてならない。

 もしくは、冗談だとでも思ったのか。

 俺は、本気で訊ねているんだがな。

 とはいえ、ネアルコスも返事に困っている様子だったが――。

「今、アーベル兄さんがアデアさまとしているようなことですよ」

 不意になにか閃いた顔になったと思ったら、そんなどうとでも取れるような返事をされてしまった。

 アデアとしてるようなことっつってもなぁ……。

 別に、なにか特別なことをしたつもりは無い。まだ婚約なんだし、下手に手を出すよりは、もう少し歳をとった際に結婚しろといわれるまではアデアの人となりを知れれば良いかな、ぐらいの感覚だ。

 俺との相性が悪いなら、アデアの方からなにか文句を言い出すだろうし。

 まあ、確かに、アデアに引っ張られて金持ちだの権力者だのに挨拶したり、食事を一緒したり、買い物に連れ出されたりはしているが、それが婚約しなければ出来ないことだとも思えない。

 いまいち納得できなかったので、もう少し突っ込んだ質問をぶつけてみる。

「じゃあ、結婚したらどうすんだよ」

「子供を作るんじゃないですか?」

 しれっとした顔で訊き返したネアルコスに噴出しかけたが、寸での所で飲み込んだ。多少大声を出してもアテーナイヱの陣地に届かないような距離と場所を選んでいるが、どこに耳があるかも分からない。騒いで得なことなんてひとつも無い。

 眉根を寄せて睨みつけるが、ぽん、と手を叩いたネアルコスは「あ、具体的な作り方についてなにか疑問が――」とかなんとか続けあがった。

「お前、下世話なのも程々にしとけよ」

 流石に二度目の衝撃で噴出すようなことも無かったが、なんか、真面目に考えるのがバカらしくなって、俺は乱暴に腰を落として木に背中を預けた。

「いえ、すみません。アーベル兄さんらしくない質問だったので、つい、嬉しくて」

 投げ出した俺の足――戦闘用の鋲の着いたサンダルを軽くツンツンと蹴りながら、ネアルコスは口元を緩めている。

 悪びれるふりさえ見せない態度に嘆息する俺。

「エレオノーレとは、ラケルデモンから一緒に抜けたし、思うところは多いんだが……」

 変な話かも知れないが、あのころの方が、色々と割り切れていたような気がする。

 こんなちぐはぐな共生関係はいつか終わる、俺とエレオノーレの道はそう遠くないうちに別れる。だから、その時までは守り通す。

 終着点を決めていたからか、取るべき行動にはあまり悩まなかった。と、思う。

 しかしいつからか、なにかがずれ始め――ラケルデモンへの執着が、マケドニコーバシオへの愛着に変わっていったように、アイツに対する感情も変遷してしまった。

 最初は殺してみたかった、面白いヤツだったし……なんて言ったら、ネアルコスはどんな顔をするんだろうな。

 もう、そんなこと考えてはいないが――。しかし、他に俺が出来ることなんて無いと思う。

 結局俺は、殺すことしか覚えてこなかった。気に入ったヤツの敵を殺すことぐらいしか、好意を伝える手段が思い浮かばない。他の事で、なにかを表現することは苦手だ。

「なんか、エレオノーレと婚約とか結婚したとして、俺がアイツにしてやれることは、もうなんにもないんだよな。だったら、別に、もう、変に引っ掻き回さずに今のままでいい気がする。慌しい日常に、自然と、お互いの事が押し流されて、忘れていくような感じで」

 なんか、もう、ネアルコスへ話しているというか、独白……いや、それも違うな、自分自身の感情を整理するために心の中を言葉へと変え、他ならぬ俺自身へと言い聞かせているような、そんなまどろんでいるような気分になった時だった。

「……え? いえ、それ、本気で仰ってますか?」

 ネアルコスの戸惑ったような声で我に返ったのは。

「ん?」

「あの、して上げられることなんて山ほどあると思うんですが」

「どんな?」

 ちょっとだけ慌てたようなネアルコスをみつめ、本心からそう訊ねてみると――。

「……重症ですね」

 ネアルコスは視線を宙に向けたり、周囲のどこかに小さく答えでも書いてあるのか、めまぐるしく視線を左右に彷徨わせたものの、最後にはがっくりと肩を落としてそう呟いた。

 具体的なことのひとつでも教えてくれれば良いのに、結局なんにも言ってくれないネアルコスに、俺もそっぽ向いて捻くれるしかなかった。

「うっせえよ」


 そもそも、ラケルデモンでは夫婦といえども一緒に住むことは無い。少年隊に入ってから、六十を過ぎて兵役が終わるまでは、ずっと部隊単位での生活となる。無論、結婚が決まれば、その相手と住む家を建てる事は出来るが、睡眠は兵舎でとるため、それこそさっきネアルコスが言った子供を作る時以外は、夫婦で関わりが無いのだ。

 様々な国を渡り歩くことで、文化や風習の違いは学んだが、それを自分自身が出来るか否かということはまったく別の問題なのだ。


 まして、エレオノーレやアデアがその心の内でなにを求めていて、それに俺が適うのかなんて、知る由もないのだ。

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