番外編[καλλι´στη]

 遺棄されたような古びた神殿でアーベルと王太子が語り合っていた頃。今現在は迎賓館として使われている円堂の最奥に設けられたエレオノーレの私室でも、女同士の秘密の会話が行われていた。


 アーベルは全く気付かなかったものの、アデアは、自分自身の悪心の原因がアテーナイヱ式のやたらめったらにオリーブオイルを使った料理のせいだと気付いていた。毒があるとか、そういうわけではない。単に、生のままに近いオリーブオイルを飲んだり、滴り落ちるほどパンに浸して食す事に慣れていなかったのだ。

 本人達に自覚は無いものの、ラケルデモンの食事事情によって恐ろしく胃が丈夫なアーベルやエレオノーレとは、そもそもが違うのだ。

 無論、それは、他のマケドニコーバシオ出身者も同じではあるのだが、一般の兵士に振舞われる食事はアデア達の物よりは質素であったし、他の王の友ヘタイロイはそれなりに旅の経験があるからか、ある程度、抑えて会食をしていた。

 オリーブオイルの口当たりや風味に、つい食べ過ぎたと思った時には既に遅し。夜宴が最高潮に達する前に、胃のむかつきが抑えられなくなってしまっていた。


 元々が騒がしい場面が好きで、おべっかを使っているだけだと分かっていても、わざわざ歳若い自分に挨拶に来る野心家や商人を見るのも好きで――、そもそも喋ること自体が好きなアデアは、惜しいことをした、と、心から感じていた。

 最近は、戦場とは打って変って壁の染みにでもなろうとしているアーベルを引っ張り回す事も、アーベルが嫌そうな顔をしつつもきちんと付き添い、本人としては最低限の挨拶をしているつもりになってる場面を見るのも好きだったから、余計に。


 だが、更に言うならば、その持ち前の好奇心というか、なんにでも興味を抱く性格がここにきても遺憾なく発揮されてしまっていた。

 今のアデアの行動原理を説明するならば、腹具合が落ち着いたら、大きな扉があり、気になったので開けた。中には、豪華な部屋に似つかわしくないほどいじけた女がいたので、構いたくなった。

 単純といえば単純であり、強引といえば、相当に強引だった。王族でなければ、到底許されざる行為である。


 そもそも、この盛大な宴会は、ミュティレアに着いたばかりの王太子達に、住居を割り振るための時間稼ぎのような側面もあった。円堂は確かに広く、様々な設備も揃ってはいるが、今回島に到着した全員が宿泊できるような規模ではない。であれば、夜通し宴会を開くことで初日の寝床の問題を乗り切ろうという作戦だ。同時刻の円堂の一角――評議員詰め所においては、事務方が総力戦で上陸者名簿と戦っている真っ最中である。

 無論、家族連れで国を出る者もいるので、女性が混じっていることも考慮はされていたのだが、アデアの身分を考えると、生半な場所で寝泊りをさせるわけにはいかない。アーベルの私室は既にあるものの、人の隠れられる隙間が嫌いとのことで、恐ろしく狭く物のない部屋であり、アデアが快適に眠れるだけの場所があるとは思えない。

 そこで、急遽エレオノーレの部屋のすぐ近くで休ませることになったのだが……。

 事務方の誤算を挙げるなら、想定していた王族としての慎みをアデアが持ち合わせていなかったことだろう。


 寝台で膝を抱えて座るエレオノーレ。

 長い金髪は式典では頭の上に冠のように結い上げられていたが、夜には解かれ、いつも通りに……過去にアーベルから貰った銀糸を編んだ髪留めでとても簡単にまとめている。

 エレオノーレは膝を抱えて座っているものの、アデアよりも背が高いことがはっきりと見て取れた。が、年齢の差を考えればそれも当然だろう。むしろ、未だに痩せ型のエレオノーレと、背はエレオノーレより低いものの、胸や腰など出る部分が出ているアデアを見比べれば、場合によってはアデアの方が年上に見えるかもしれないぐらいだ。

 表情やまとう雰囲気が、まるで対照的な二人だった。


「はっきり言うけど、さぁ?」

 寝台の横にことわりもいれずに勝手に腰掛け、猫が鼠や小鳥を見つけた時のような、どこか嗜虐的な笑みを浮かべてエレオノーレと向き合うアデア。

「……なに」

 あまり人を嫌うことの無いエレオノーレではあったが、アデアに対しては最初から苦手意識というか、軽い嫌悪感を抱いていた。

 キルクスの妹でもあるイオにも我侭な部分はあるのだが、イオ以上に謙虚さを全く感じられないアデアは、どこか好きになれないらしい。

 そして、そんな人とアーベルが婚約したのかと思うと……、アーベル本人の意思はともかく、そんな現実は嫌だな、と、エレオノーレは感じていた。

「ワタシがアンタだったら、そんなにこじらせなかったぞ。ラケルデモン人とは、複雑にモノを考えるのが好きだのう」

「…………」

「我が夫が鈍いとか、聡いとか、そういうのじゃないのだ。自分の気持ちを優先すればいい。逃げないようにがっちりと、それこそ、組み敷いてでも婚約を宣言してやる」

 初対面なのに、ずけずけと物を言う所も嫌いだな、と、エレオノーレは思った。そして、一度はっきりと嫌いだと心の中で呟いてしまうと、態度も、声も、仕草も、全部が嫌いに思えて来るから不思議だな、とも。


 一方、アデアはといえば、エレオノーレとは初対面だったが、噂は聞いていたのでエレオノーレよりも余裕があった。

 いや、アーベルは、婚約後もエレオノーレに関することをアデアに一切話そうとはしなかったのだが、その分、他の王の友ヘタイロイが気を利かせて色々と情報を伝えていたのだ。得てして、人間関係とはそういう風に出来ている。

 しかも、貴族や王族という共同体においては、噂は尾鰭つきでとてつもない速さで伝わってしまうものなのだ。無論、彼等にも国政に関する仕事もあるのだが、皆が皆、王の友ヘタイロイのように勤勉で、意欲的に改革に取り組んでいるわけではなく――むしろ、今の枠組みの中でも充分に豊かな生活が保証されているため、大多数は宮殿でダラダラと、なにか面白いことはないかと考えながら過ごしている。だから、必然的に、大袈裟で面白い噂がさも正しいことであるかのように、流れていく。

 婚約の話が出た日の夕刻には、もう既にアーベルの容姿や生国、これまでのとてつもない武勇伝がアデアの耳に入ってきていた。

 エレオノーレに関することも、最初はアーベルの妻だとか、既に子供もいるらしいとか、色々と王宮で囁かれていたのだが――。

 噂から想像した姿とは、随分と印象が違うな、と、アデアは思った。

 もっと落ち着いた年上の女性で、ほっとくと無茶ばかりするアーベルを包み込むような性格だと勝手に思い込んでいた。なのに、目の前の実際のエレオノーレは、自信なさげで、ひどくいじけて見える。

 我が夫は、こんなののどこがいいのだろう? と、本気でアデアは不思議に感じていた。そして、それと同時に、アーベルがエレオノーレのどこに執着しているのかを見極め、自分のモノにしてやろうとも考えていた。


 アデアとあまり話したくないと思うエレオノーレではあったが、自分の部屋から逃げ出すわけにも行かず、かといってこのままなにも答えないでいるのも、それはそれで気まずく感じていた。

 しかし、相手がどう反応するかを予測して返事を選ぶことが苦手なエレオノーレは、曖昧にはぐらかしたり、遠まわしに会話を切ることもできずに、律儀に『組み敷いてでも』というアデアの一言に正直に答えてしまった。

「……したのに、気付かれなかったんだもん」

 目を瞬かせるアデア。

 そんな話は、誰からも聞いていなかった。

 だが、エレオノーレの口調や仕草からは嘘だとは思えないし、そもそも嘘だったとしたら、もっと刺激的なことをでっち上げて牽制してくるはずだ。

 そう、付き合ってみないと分からないのかもしれないが、アーベルは、……なんというか、物凄く変なのだ。税制に関する職務において豪商との折衝を器用にまとめたりもするのだが、もっと簡単な、そう、可愛いの一言が欲しくて着ける髪留めを吟味しているのに、なんでも同じだ、動きの邪魔にならなければ良い、なんてことを平気で言ってくる。し、こっちが怒って見せても、なんで怒られているのかに気付けずに首を捻っていたりもする。

 だから、そういう部分を知っているアデアとしては、『気付かれなかった』という部分が、酷く現実味を帯びていたし、今後を見据えた上では、なんとかしたい部分でもあった。


「え? ウソ⁉ ホントに? どうやったの? いや、その時どうなったのだ?」

 しかしエレオノーレは、苦々しい過去を興味津々な瞳で抉ってくるアデアに対し、より警戒心を抱いてしまい……。

「教えない」

 と、言うか、教えらる程のモノではない、が、正解なのかもしれないが。

 エレオノーレとしては、あのラケルデモンの港へと通じる丘の上で気持ちを伝え――それが通じ合ったんだと思っていた。

 だが、アーベルは単にしばらく面倒を見て欲しいとか、そんな風に解釈していたらしい。

 いや、でも、アーベルがそんな風に解釈した理由も、エレオノーレは分かるのだ。確かにアーベルは、それよりも前の逃避行の最中に、結婚は決められてするもの、恋愛とは別だとはっきりと口にしていたのだから。

 エレオノーレは、自分だけに優しくしてくれるから、気があるのかな、なんて思わせる癖に、決して自発的に距離を詰めようとはしてこないアーベルの姿勢を、悲しくも感じているし、腹立たしくも感じていた。

 もっとも、アーベルにそんな事を伝えれば、拳が飛んでくるか、剣を抜かれるかのどちらかだったので、溝が決定的に広がるまで、エレオノーレはなにも出来ずにいたのだが。


 最初は、実はひけらかしたい癖にもったいぶっているだけなのだと思い、ニヤニヤ笑いでエレオノーレをつついていたアデアであったが、いつまでも詳細を語ろうとしないエレオノーレに対して、すぐに焦れてきてしまい――。

「言えと言っておる!」

「嫌です! だいたい、なんで私が……その、恋敵に……」

 エレオノーレは、気恥ずかしかったわけじゃない。それよりもむしろ、アデアが自分の気持ちをアーベルに言ってしまうんじゃないかと心配して――声を抑えたものの、それは二人だけの室内では、驚くほどはっきりと響いてしまっていた。

 自分自身の台詞に赤くなって俯き、無かったことにしようとするエレオノーレを、どこか無神経なアデアの声が追い打つ。

「安心しろ、マケドニコーバシオは一夫多妻制だぞ」

 ふふん、と、漏れ聞こえたエレーノーレに本音に、嫌な感じの笑みを浮かべるアデア。

「そういうことじゃないもん」

 毛布被って――、いや、毛布を身にまとって、アデアになにも悟らせないようにと口元を隠すエレオノーレ。


 だが、そこでふとエレオノーレは、アデアは他の女性が自分の愛する人と一緒にいる場面を見ても嫌じゃないのかな? と、疑問に思った。だが、見詰め返してくる自信たっぷりな視線を前に、考えるのを止めた。

 婚約は、周囲にさせられるものなので仕方ない、でも、実力で独占する。そう、顔に書いてある。

 そういう部分は、少し羨ましいな、と、エレオノーレは思った。もっとも、そんな風になりたいとは思えなかったけれど。


 そんな複雑な気持ちのエレオノーレの神経を逆撫でするかのように、アデアが笑顔のままで罵って来た。

「根暗、卑屈、バーカ」

 アデアとしては、エレオノーレの会話のペースが好きじゃなかったので、からかって怒らせて主導権を握ろうとしての行動だったが、初対面相手に対して有効な手法とは言い難い。

 エレオノーレが怒って言い返すまでは予定通りだったが――。

「なっ! あ、貴女には分からないでしょ! どうせ、私とアーベルの、……その、色々と複雑なんだもん! 出会いも、その後も!」

 怒ったすぐ後に、口が軽くなるのではなく、むしろ口が重くなって落ち込むのがエレオノーレだった。


 エレオノーレにとってアーベルとは……。

 最初は、嫌いだった。けど、変な所で筋を通す男だった。善人か悪人かで言えば、掛け値なしに悪人なのに、その行動には独自の美学とか哲学があるようで、残虐な振る舞いにも、一応の理由と動機があった。無論、理由があったら許されるってことでもない。でも、それゆえに憎み切れずにいて――自分をかばって負傷した際には既に、心が揺れ始めていた。

 嫌いなのに、気になってしまう、と。


 その後の、レオとアーベルの戦いや、その際に明かされた事実は、未だに上手く処理できていない問題だった。

 無論、国が滅んで奴隷とされていることを善しとしていたわけじゃないが、自分達が生まれる前に起こっていた出来事に対し、アーベルにどんな感情を抱けば良いのか分からなかったのだ。

 エレオノーレが生まれた時には、既にメタセニアなんて国は無かった。生まれた時から農奴としての生活しか知らなかった。

 そして今、こうして祭り上げられていると、そんな簡単に、たった一人の意志で戦争は始まったり、止まりはしないのだとも理解しつつある。


 こんなことを考えているとアーベルに知られれば、怒られるかもしれない、と、エレオノーレは思うものの、既に憎い相手とは全く思えず、むしろ、自分と同じラケルデモンの政治による被害者という感覚しかなかった。

 だから、もう、戦争に関与して欲しくないんだよね、と、エレオノーレは心の中でひとりごちる。

 アーベルが戦いを捨ててくれるのなら、きっと、全て上手くいく。そんな風にエレオノーレは考えていた。


 しかしアデアは、はぁ? と、王族らしかねるしかめっ面を見せた後、問題を振り出しに戻してしまった。

「好きか嫌いかの二択だろう? せめて、好きなら好きとはっきり言え、意気地なし! そんなだから我が夫も態度をはっきりさせられぬのだぞ」

 それでどうにかなるのなら、苦労は無いよ、と、エレオノーレは思ったが口には出さなかった。理解してもらえないだろうな、っていう確信があったから。

 その代わり、小さな意趣返しとして、唇を尖らせ、さっきまでよりも幾分はっきりとした口調でエレオノーレは呟いた。

「アーベルは、私の言うこと、きいてくれてたんだもん。あの時まで」

「甘ったれてただけであろうが」

 ばっさりと一言で斬り捨てるアデアに、半分は純粋な疑問として、もう半分は未だに自分が特別だという確信が欲しくて、エレオノーレは訊ねた。

「アーベルは、アデアちゃんのお願い、きいてくれるの?」

 不意に胸に冷たい手を差し込まれたような感覚がして、アデアは一瞬だけ凍りついた。

 確かに、日常の些細なことなら、こちらから言えば、こだわりがない限り従ってくれる。クラミュスの件も、その他の事も、強く言えば大体は聞いてくれるものの、既にある自分の考えを曲げることは、アーベルはアデアに対して行っていない。

 婚約の件も、嫌がっている部分はあるものの、明確な拒絶はしていないし――しても無駄と思っているだけなのかもしれないが――、なんだかんだで大事にはしてくれている。

 でも、出自や立場を抜きにした場合、アーベルがアデアに対し同じ振る舞いをするかという問いに対しては、アデアは答えられなかった。

 エレオノーレは、その態度から全てを察し、ほんの少しだけ嬉しそうに目を細めた。


「そ、それは、関係ないだろう⁉ もう、婚約したんだから、いずれ、ワタシのために戦うようになる」

 動揺を隠せないのか、早口になるアデア。

 エレオノーレは、鷹揚に聞き流そうとして……ん? と、なにか引っ掛かったような感覚を覚えた。

「もしかして、アーベルに戦い続けて貰いたいの?」

 エレオノーレは、それを聞くまでは、同じ相手に惹かれていると言う部分においては、なんとなく親近感も感じていたのだが、死ぬかもしれない戦場に向かうことをむしろ推奨するかのようなアデアの言動が信じられなかった。


 すっとお互いの心が離れていくのを、エレオノーレもアデアもはっきりと感じていた。


 しかしアデアはそれに気付きつつも、どうにかするつもりは無かった。言ってしまったものは仕方ない。そもそも、間違ったことを言ったとも思っていない。そういう感覚だ。

 元々、王族であるアデアは、人間関係において自分から歩み寄るようなことはしてこなかったというのも原因のひとつではある。向こうから勝手に擦り寄ってくるんだから、自分からなにか我慢をしてまで交流する気がないのだ。

 離れていくならそれで良い、ただし、こちらも便宜を図ってやることはしない、という姿勢だ。

 むしろ、戦いそのものの化身であるかのような男から、それを取り上げようとするエレオノーレがアデアには理解出来なかった。

 そして、アデア自身も――。

 王族としてなにも不足の無い生活をしていた。だが、マケドニコーバシオも最初から今のように強かったわけではない。むしろ、アデアが生まれて以降に急激に発展した国家であった。

 なので新興国特有の格差や、不均衡、内部の勢力争い等、多くのひずみが生じていた。

 現国王の手に終えなくなり、改革を進めようとしている王太子や王の友ヘタイロイの存在も、そうした国内の不満分子の受け皿として、必要に応じて作られた差別・隔離のための階層だったともいえる。

 だが、問題は内政面だけではない、現国王には色狂いの気もある。

 先だっては、正式に王太子の母親との離婚を表明し、正妻を誰にするかという問題――ひいては、後継者問題にも繋がる――で揉めていた。その際に、国王本人はごく最近結婚した、マケドニコーバシオ貴族の女を推挙したって話まである。

 王宮におけるアデアの立場も磐石なものではない。

 アデアにとって現国王は祖父にあたるが、祖母は現国王が最初に結婚した女性であり、むしろ、祖母の年齢的なものを考えれば、王太子以上に危うい立場にあった。そんな中、降って湧いたようなアーベルとの婚約は、まさに渡りに船だったとも言える。

 現在、民衆の支持の厚い王太子からおいそれと王位継承権を剥奪することは出来ないが――マケドニコーバシオは、確かに世襲制の王制ではあるが、即位に際し、自由市民による民会における支持・承認が必要となる――、王太子の母であるオリュンピアス王妃の離婚及び国外追放により、かなり状況は流動的で、内乱の可能性は高いとアデアは感じていた。

ギリシアヘレネスでは、女ってだけで、政治の表舞台から排除されるのだぞ? 戦争で国が負ければ奴隷として売られていくのに。不公平だと思わないのか? ワタシは、ワタシの戦争を戦い続けたい。その隣にいるべきは、我が夫以外には居ない、それのどこが間違っているのだ?」

 どこかの誰かのおまけとして扱われるのは、アデアにとって我慢がならなかった。

 アーベルとは全く違う経緯ではあるが、アデアもまた戦わずに生きていけるなんて楽観的な思想は持っていなかった。

 つく側は自分で選ぶ、強い男を夫にする、そして自分自身も強くある。

 自分自身の人生を自ら歩むための戦いをするのだと、アデアは決めていた。


 だが、アナタだってそうでしょう? とでも言うかのように詰め寄るアデアに対し、エレオノーレは引きながらも曖昧に頷くが、それが正しいのか否かよく分かってはいなかった。

 確かにエレオノーレは過去、生きるために武器を取ったものの、それは苦渋の選択であり、ラケルデモンから逃げる際に殺してしまった人の事を考え、今も胸を痛めている。殺さなければ、殺される場面だったというのにも関わらず。


 アーベルと初めて会った日は、そこまで昔の事でも無いのに、エレオノーレはそれをひどく昔のように感じ……そして、思い出してしまうと、少しだけ息が苦しくなってしまった。そんな目をして、そんな顔で、人を殺さないで欲しい、と、エレオノーレはアーベルに切に願っている。

 ごく普通に、雑談しているような顔で、アーベルは人を殺す。ちょっとした遊びみたいな感覚で剣を振り、強敵を前にすると、ひどく楽しそうに頬を緩めるのだ。

 エレオノーレがアーベルとミエザの学園で再開した時、つい口からこぼれた『変わってない』の意味は、そうした残酷な笑みに対して向けられていたのだ。


「ワタシは、我が夫と共に全てを手にする。他の王の友ヘタイロイや、現国王の息子、色々な男を見てきたけれど、みんなみんな、なにかが足りなかった。ワタシの夫に相応しいのは、もっと純粋で、強くて、そして……」

「それは、好きってことじゃないんじゃない?」

 どこかうっとりと話すアデアに対し、エレオノーレは自分自身の中の不安や迷いに押されるようにして訊ねた。

 アデアが、いつかアーベルを窮地に追い込むんじゃないかという不安を、エレオノーレは感じていた。

「どうしてだ?」

 エレオノーレの質問を、本当に理解出来していない顔で訊き返すアデア。

「だって……」

 アーベルが嫌いだといっていたその口癖は、未だに直っていなかった。し、アデアもアーベルと同じように、その後ろ向きな言い草がどこか気に入らないと思った。


 いくら待ってみても、だって、なんなのか、エレオノーレが口にすることは無かった。なので、苛立ったアデアはエレオノーレを問い詰めることにした。

「愛しいと思うことと利用することが相反するなんて、誰が決めたのだ? のう? 我が夫だって、ワタシを利用すればいいのだ。あの男は、きっと王になる。そうできている」

 こうなると、エレオノーレはより意固地になる。貝みたいに口を閉ざし、瞳にはアデアの顔を映しているものの、それを見てはいない。草木、いや、石のように、ただ、そこにあるだけ。

 農奴であった日々の中で、自分を守るために心の動きを止めることをエレオノーレは覚えている。


 アデアは軽く嘆息し、エレオノーレと会話するというよりは、特定の個人に対してではなく、広く宣言するような感覚で告げた。

「アーベルにはワタシが必要で、ワタシもアーベルが必要であり、かつ、愛している。どこにも矛盾はないだろう?」

 矛盾は無いのかもしれない。でもね、アーベルが誰かを必要とすると本気で思っているの? と、エレオノーレは心の中で……最初はアデアに向かい、でも、最終的には自分自身へと問い掛けていた。

 必要とされている、アーベルには私がいないと周囲と摩擦を起こすだけだ……そう思っていたのに、あっさりと置いていかれた。一度目はマケドニコーバシオで、二度目はミュティレアで。

 ミエザの学園へ勝手に行ってしまった際、エレオノーレは、不安と期待がない交ぜになった感覚で待っていた。ミエザの学園に上手く馴染めずに、自分達の元へと帰ってくることを。



 でも、そんな日は訪れなかった!

 結局、全部勝手にひとりで決めてしまう。近くにいるのに。私が頼るばっかりで、私に頼ってくれはしない。確かに、私に出来ることなんてなくて、頭もアーベルよりも悪いのかもしれないけど。でも! でも……。

 本当に、なんなんだよ、と、泣きそうな気持ちで、心の中だけでなじった瞬間、気付いた時には口からも言葉が溢れていた。

「私は……アーベルを連れて、逃げ出したい」

 もしも、やり直せるのなら、港町で――そう、アテーナイヱの領事館出た後、アーベルが念を押すように、即断するな、じっくりと考えろって、言ってくれた時、今の私はこう答えるだろう。

 戦場になんて行きたくない、だから、このままここで一緒に過ごそう、と。

 皆の事は嫌いじゃない。でも、どうしたら良いのか分からなくなっちゃった。

 最初は、仲良くしたくて、困っている人に優しくしたかっただけなのに。いつの間にか、なにかが変わっていって、最初にあったものは、どこかに消えてなくなってるの。

 

「昔みたいに、ふたりぼっちで、また……」

 やり直せるなら、アテーナイヱになんて行かなかった、船なんて欲しくなかった、マケドニコーバシオへも向かわなかったし、きっと今もふたりぼっちのまま。

 アーベルは、なにも変わらないままだったかもしれないけど、でも今よりも昔のアーベルの方が、私を必要としていた。

 二人で、戦いから離れて生きていれば、いずれきっと分かってくれたはずなのに……。



「根暗、卑屈、バーカ」

 さっきと同じ口調で――でも、さっきとは少し表情を変えて――テンポ良く罵るアデアに、エレオノーレは一言だけ答えた。

「そんなこと、アーベルにも、さんざん、言われたもん」

「らしくないことを無理強いしたって、良いわけあるものか! 結局、我が夫は、死ぬその日まで剣を捨てられはしない。きっと、誰にも止められない。叔父殿にも、ワタシにも」

 返事が返ってきたことで、少し……安心すると言ってしまうと変かもしれないが、ずっと無言だったエレオノーレから反応があったので、アデアとしてもつい口が軽くなり、いうつもりのなかった本音が出てしまった。

 それを隠すように、続けて捲くし立てるのだが――。

「ならせめて、離れてやきもきするよりも、隣に居たいじゃないか! お前も! だからミエザの学園まで追いかけていったのだろう?」

 しかし、勝手に言うだけ言った後は、再び口を噤んでいるエレオノーレには、最早、どんな問い掛けも挑発も無意味だった。

 既に、エレオノーレの中では結論が出ている。

 もう一度、お願い出来る日が来るまで、待ってることしか出来ないと思い込んでいる。

 でも、その時が来たら、ラケルデモンを抜け出した日のように、あの日と同じ願いを口にすると決めていた。


 アデアは、苛々している自覚があったが、どうしてこんなにエレオノーレを見ていると苛々するのかが自分では分からなかった。マケドニコーバシオでアデアをそういう気分にさせる人間は少なかったけれど、皆無というわけではない。

 しかし、一度激しく怒って、それでお仕舞い。

 嫌いになって、遠ざけるだけ。

 エレオノーレに対しても、今後関わらなかったところで特に問題は無い。アーベル次第ではあるものの、基本的に、アーベルはマケドニコーバシオの一夫多妻の風習に従うつもりもなさそうなのだから。

 でも、それでも……。アデアは、エレオノーレを見ていると苛々する、と、思った。

「……いつか迎えにきてくれる、なんて思ってても、そんな日は来ぬ。ワタシは、我が夫を手放さないからだ」

 このまま黙られていたら、掴み合いの喧嘩をしてしまいそうな気がして、アデアはそう言い残して部屋を出た。エレオノーレに対する、これまで感じたことの無い種類の憤りに、混乱したままで。


 早足で離れていく足音が高く廊下に響いている。

 それも消え、しんと辺りが静まり、人の気配が完全に消えてから、エレオノーレはアデアの出ていった扉に向かって呟いた。

「そんなのわかってるよ」

 それに続く、でも、もうどうしようもないじゃない、は、飲み込んだまま。


 奇跡みたいななにかを待ち望むエレオノーレ。

 がむしゃらに欲するものへと手を伸ばすアデア。


 ただ、夜だけが更けていった。

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