Porrimaー13ー
祭りの日であっても、なんとなく人が寄り付かない空白地帯のようなものは存在する。国が勃興するように、神々への信仰だって流行り廃りがあるんだから。
風雨に削れているものの、残された部分の神殿の意匠を見るに、古い時代の……アイギナを祭る神殿だったのではないかな、と推察は出来るが、それだけだ。もしかしたら、その子孫のどちらか――人格者にしてアヱギーナの王となり、しかし、運命の三女神が神に取り上げるのを許さなかったため、人として死に、後に冥府の裁判官となったアイアコス。トロイア戦争で劣勢下においてヘレネスの軍を鼓舞し、勇敢に戦うも戦死した、アキレウスの親友のパトロクス――を祭っていたのかもしれない。
立地はそう悪くないんだが、祭神と係わりの深いアヱギーナが没落した今となっては、どことなく不吉に感じて人が寄り付かないのだろう。意外と、どこででも、人は験を担ぐものだから。
きっと、そう遠くないうちに、ここも別のなにかへと立て替えられるはずだ。
都市の構造上、神殿は比較的高所に作られており、それはこの古びた神殿も例外ではない。いや、むしろ、古い建物であるが故に、一段高い場所から賑わうアゴラや、目抜き通り、港までもが見渡せた。
井戸で汲んできたばかりの水の入った瓶を片手に、大きな柱のひとつに背中を預け、長く息を吐き出す。
呑んだわけじゃない、が、雰囲気には呑まれた。
戦場では気にならないんだが、平時にはごちゃごちゃした場所は少し苦手だ。どこにでも敵の潜める物影がある。
見上げれば、冬の雲の消えた、春の霞むような夜空が広がっていた。町中の篝火のためか、星が掻き消されるような蒼く黒く輝く夜空で、下半分だけの月が、まるで人の営為を嘲うかのように輝いている。
「よう」
主賓がこんな場所にこれるはずはないんだが……いや、王太子の歓迎はあくまで口実なのは分かってる。
民衆は、冬で縮こまっていた身体を伸ばすために、もしくは、ヘレネス全土で繰り広げられる長い戦争に倦んでいて、どこかで息抜きしたかったとか、または、単純に大騒ぎによる商売で経済を回したいとか、そういう他の意図も多く、最初の挨拶さえ切り抜ければ、後は比較的自由に動けるんだろう。
「おう」
王太子は呑んでいたのか、赤ら顔だったので、瓶の水を渡す。
俺の正面で、立ったままで瓶を受け取り、直に口をつけて水を飲む王太子。喉仏が動くのがはっきりと見えた。
王太子は、左右で違う瞳の色もそうだが、肌の感じも少しだけ人と違っていて、酔ったり日焼けしたりすると、すぐに赤くなり、それが引くのにも時間が掛かる。これだと、明日は辛いんじゃないだろうか? まあ、キルクスの行動の裏を取るための連絡船を出したばかりなので、しばらくは様子見程度の仕事しかないのも事実だが。
最後に口元を手の甲で拭って、瓶を俺に返してきた王太子。それを受け取って、適当に背中の柱へと立てかける。
「バカ騒ぎはどんなぐあいだ?」
右隣に座った王太子に訊ねてみる。
最初は俺もアデアとあちこち挨拶回りしていたんだが、慣れない船での長旅で疲労が溜まっていたのか、それともマケドニコーバシオやエペイロスとは全く違うこの都市の
しかし俺は、この空気の中、寝台に横たわる気にはなれずに……でも、アデアが引っ込み、エレオノーレもあの後衆目の前には出てこなかったので、自然と、喧騒から遠ざかって、気付けばこんな場所へと流れ着いていた。
王太子は俺を見た後、皮肉っぽく口元を歪め――。
「先生を間に挟むとは、搦め手も上手くなったじゃないか」
いや、表情だけでなく、そんな皮肉をはっきりと口にした。
先生ぇ……結局、俺の名前出したのかよ。まあ、そうするだけの理由があったのかも知れねえけどさ。
あの人だけは分かんねえなぁ。ほんとに。
どこか喜劇的になってしまった状況に苦笑いを浮べた後、表情を改めて俺は問い掛けた。
「俺を、初めて兄弟と呼んだ日を覚えてるか?」
「無論だ」
即答され、つい、笑みが漏れた。
なんとなく、今日はその日と似ている。町の空気というか、いや、俺達の気分がそう感じさせているのかもしれないが。
明るく、華やかに煌めくほど、影もまた濃く深くなる。
「俺達は、確かに似た闇を抱えているんだと思う」
それは、この夜空のように星々に飾られるわけでも、松明で照らされることも無い……冥界の更に地下、神々さえも立ち入ることを躊躇うというタルタロスのような、ひとしずくの光さえも届かない、夜の底が抜けたような真っ暗な闇で、多分、きっと、これからも未来永劫癒されることは無いんだと思う。
俺も、王太子も、掛け値無しで信じられる存在に捨てられ、どうやったってもう取り戻せないモノがある。普通の人が当たり前に持っているものを欠落させたまま、ここまで来た。
けれど、再び立ち上がるために代わりに掴んだものは、違っていた。
いや、俺にも、王太子と同じモノを選べる機会はあったのかもしれないが、俺は生きる手段として、力と恐怖を選んだ。後悔はない、と、思うが、その時点でやはり王太子と俺は違ってしまったんだと思う。
王太子と
「でも、こっちに来たらダメだ。アンタが俺になったら、全部終わっちまう」
並んで座りながら、顔だけを右に向けて、王太子と視線を合わせ、はっきりと俺は告げた。ある意味、明確な拒絶の言葉を。
「お前さんも、己を捨てるのか?」
王太子から返されたのは、ちょっと疲れたような、乾いた笑顔だった。
嘘があるわけじゃないが、驚きや切実さに満ちた声ではなく――どこかそれを予見していたような、前々から準備された態度だと感じた。
「違うよ。アンタのためになりたいんだよ。……闇に向かって倒れこもうとしたら、体当たりして無理矢理でも弾き返してやりたいぐらいにな」
王権が、はっきりと見えた瞬間があった。そう、レオと異母弟を前にして――俺がもう選ばれることが無いと、理解した瞬間のことだ。
が、それと同時に、異母弟は、あくまでもラケルデモン王にしかならないだろう、とも悟っていた。
覇道に選ばれるのは、王太子が相応しいと、少なくとも今は思っている。挫折の痛みが癒えないままに。
「…………」
「だから、汚れ役は俺に押し付けちまえよ。綺麗な道のはずはないだろ、王権へと至るのは、俺達はそれをはっきりと自覚している。誰よりも。だが、他の
汚れる、ということは、難しい。
強い意志を以って、魔を飼い慣らすような、そんな人間でなければ勤まらない仕事がある。
俺は、結局、ここまで来ても何者にもなれなかったかもしれないが、それに関しては誰にも負けない自負がある。
俺は、王太子の影で良い。
俺は、既に血に染まり切っていて、真っ黒なんだから。
王太子は、貼り付けたような笑みのままで俺に訊ねてきた。
「アデアの事はどうするんだ? 兄弟」
ふん、と、軽く鼻を鳴らしてみせる。
「なんで俺とアデアを婚約させたんだ?」
これまでずっとはぐらかされてきた、最初の疑問を俺はようやく口に出来た。
んだが、王太子としては、それを今更訊かれるとは思っていなかったのか、軽く噴き出した後、笑いながら……目尻に涙を浮べるほどに笑いながら、言い返してきた。
「お前さんを、手放したくないからだ。分かれよ、それぐらい」
出来の悪い弟で悪かったな、と、不貞腐れて見せてから、俺は視線を空に向けて訊ねる。
「どの程度本気だった?」
冗談で婚約させたわけじゃない。それは当然だ。仮にもアデアは王族であり、その婚約者ともなれば厳正な審査があっただろう。
これまで聞いてきた話を総合するに、マケドニコーバシオは一夫多妻制であるため王と王妃の関係も複雑で、なんらかの利害関係があったんだと思う。アデアのあの性格が、それをさらに拗れさせた。そこに、王太子や他の
納得できない話ではない。
が、それならもっと他に遣り様があったように思う。アデアの手に負えない性格と、エレオノーレに対する俺の微妙な感情を読み取っていたのなら、尚更。
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