Vindemiatrixー9ー


「前の話は覚えているのか?」

「ん?」

 前の話と言われても、こうして同じ部屋で生活している以上、心当たりは山ほどある。軽く首を傾げて見せると、不満そうな顔でアデアは……そう、あの時のあの場面をなぞるようにして答えてきた。

「ワタシは、この婚約に反対ではなかった」

 俺は、顎を引くようにして頷いた。

 はっきりと、覚えている。

 もっとも、それほど昔の話ではなかったはずなのに、随分と懐かしく感じてしまうが。人間とは慣れてしまう生き物なんだな、と、感じる瞬間だ。同じ寝台で寝る事に対し、最早なんの動揺もないんだから。

「でも、反対ではない理由を言ってはいなかっただろう?」

 ああ、そういえば、確かに、理由までは聞いていなかったな。とは思うものの、それほど明確な理由があったのだろうか? 当時の俺は、いや、今もそうではあるんだが、ラケルデモン王族であり、非公式ではあるものの王太子の側近という意味では間違いなく王の友ヘタイロイという身分だった。

 確かに、アデアの家柄を考えれば、現在の身分の定まらない俺との婚約は釣り合っているとは言い難い部分もあるのかもしれないが、障害は然程高いものじゃない。ラケルデモンの王妃となれる可能性に対する投資と考えれば、反対ではないとか、そういうのじゃないだろうか?

 しかし、そんな俺の打算に満ちた予想は、アデアの最初の一言であっさりと覆された。

「好きだからだ。腕っ節だけでではないぞ。金勘定の上手さや、指揮能力だけを言っているわけでもない。それは、後付で知ったことだ。それよりももっと前に……そう、上手く言えないのだが、初めて会った日に、少しだけ微笑んだあの顔が、何度も、いや、あれから毎夜、思い起こされて……、その……婚約の話をされ、相手がそうなのかもしれないと気付いた日から、自分の気持ちを自覚して」

 嘘やからかいを言っている表情ではない。いつもの勝気で強気な瞳の奥が、微かに震えているのが見て取れる。

 歳相応の少女の表情で……オイルランプのオレンジの炎でもはっきりと分かるほどに顔を、いや、耳まで赤くしている。

「いや、あ――。どうした? 急に」

 不自然に乱れた鼓動を誤魔化すように俺は訊き返してみる。

「数日前に告げた」

 上手く話についていけていない俺から、膨れっ面でそっぽ向いて顔を背けたアデアは……でも、すぐにチラッと左目だけで俺の反応を確かめ。若干、がっかりしたような顔になって付け加えてきた。

「臥所を共にしているんだ。素直になってやってるんじゃないか」

「あ、……そうか」

 そうか、以外に言うべき言葉が、いや、言える言葉が思い浮かばなかった。

 っていうか、なんの話だ?

 プトレマイオスに、前に、そういう雰囲気になればするとは言っていたんだが、いざその段になってしまうと、どうしたら良いのか分からない。

 ちょっと、どころじゃなく、困る。

 好きだ、と、そんなに真っ直ぐに言われてしまうと……。

 だって、俺は――。

「ワタシだけではない。急な婚約の話に戸惑うワタシを前に、皆、あらん限りの言葉を尽くして悪い縁談ではないと薦めていた。叔父だけじゃない。プトレマイオス殿もそうだったし、他の王の友ヘタイロイも。それぞれ、素直だったり、遠まわしだったり、言葉は色々だが、我が夫の事を話す時、良い表情をしていた。嫌いな相手に、そんな顔は出来まい?」

「その時とは事情が違う」

「どこがだ⁉」

 むきになって言い返すアデアが、少しだけ可笑しくて。そして、俺に関してそんなふうに真剣に考えてくれているという事実は、嬉しいよりも、申し訳ないようにも感じてしまう。

 得意がったり、赤くなったり、怒ったり。アデアは、表情がころころ変わる。それに、ここで他の王の友ヘタイロイの名前が出てくるあたり、まだまだ子供ってことだ。

 ……いや、ナニを考えてるんだ、俺は。

 自嘲した後、俺はゆっくりと解説を始めた。

「異母弟がいれば、事は成る。今は確かに、俺の方が有用だが、いずれそう遠くない未来において、俺は不要になる。ラケルデモン王は……その正統性は、異母弟で充分だ。俺は、多分、無能ではない。しかし、明らかに異分子だ。周囲と摩擦を起こし、調和を乱す」

 なんか、色々と、身構えてしまったんだが、どうも、ソッチ方向でのアプローチではなさそうだということに気付くと、ゆっくりと話しているうちに落ち着きも戻ってきた。

 アデアは、アデアなりに真面目に心配してくれてるって言うのにな。

 ったく、他の王の友ヘタイロイが色々と唆してくるのが悪いんだ。

「そんなことか」

 どこか呆れたように言うアデアを軽く睨むが、アデアはずいと身を乗り出して、鼻がぶつかるような距離で続けた。

「良いじゃないか。あの国は、異母弟にくれてやれば。お前はワタシの夫として、マケドニコーバシオに根をおろせ」

 まるで、それが当然の事だと言わんばかりに傲然と言い放つアデア。

「おい」

 今度は俺の方が呆れたような声を上げる。

 俺を気遣ってるなら、そんな簡単に整理できる問題ではないから悩んでいる、と、気付け。

 しかしアデアは、ラケルデモンに関することには余り興味はないのか――婚約が成立した時点では、ラケルデモンの王妃となる可能性も示唆されていただろうに――あっさりと話を変えてきた。

「ラケルデモン王に即位できなかったとして、ここを去る理由にはならないだろう? 確かに我が夫には悪い部分はあるんだろうが、それ以上に良い部分があるんだし……そもそもワタシもお前が夫で迷惑だなんて思っていないぞ?」

 最後には、少し甘えた目を俺へと向けてきたアデア。


 当の俺の方はといえば、上手く反論が出来なかった。現国王の暗殺計画を提案したことは、たとえ婚約者といえどもおいそれと明かすわけにはいかない。

 いや、それだけじゃない。

 ラケルデモンを継ぐことはないだろうと悟った日から、上手い言葉が見つからないが、不全感のようなものを感じてしまってもいた。婚約に関してだけではなく、王の友ヘタイロイとして俺が受け入れられている現実に対しても。

 本当にここが自分の居場所なのか、と。


 生き方が折れることは、これまで何度もあった。

 ラケルデモンのアクロポリスから捨てられた時にも、王太子に敗北した時にも、他にも沢山の妥協や変節があった。

 だが、今のように、これからどこを目指すのかで迷うことは初めてで。自分がなにを望んでいるのかが分からないということが、極めて重要なくせに、これまでにないほど漠然とした問題であるということに気付かされていた。


 口を噤んだままの俺の耳に、そっと口を寄せてきたアデアが「せっかく……婚約してやったというのに、ひとりで勝手に結論を出すんじゃない。ばか」と、囁き――。

「アデア?」

 呼び掛けてみるも、アデアは囁き終えると同時に俺の肩を掴んで体重を掛けてきたので、大人しく、されるがまま、寝台に押し倒されることにした。

「どうも、我が夫は、分かっているようで、焦らしているようで。でも、結局は、分かっていないんだよな」

 馬乗りになったアデアの顔が近付いてくる。俺を追及するような、しかし、どこか嗜虐的な笑みを浮べて。しかし、その表情全てが、極度の緊張の上にあるからなのか、強張って歪んでもいる。

 俺は、ただ真っ直ぐにアデアを見上げていた。アデアがなにをする気なのか、いまいち良く分かっていなかったし。

 まず、コツン、と、軽く額と額がぶつかった。

 軽く口付けしてきた後、ペロッと、舌を出して俺の唇を舐めたアデア。

 これは、やっぱりそういうつもりなのか? と、今更かもしれないが、最後の確認のために僅かに動く範囲で首を傾げて見せる。

 しかしアデアは肯定も否定もせずに上体を戻し――。

「お前をモノにするには、まず、敵を知るところから、だな」

 どこかすっきりしたような、しかし、盛大な溜息を伴ってそんなことを告げるアデア。


 わけが分からん。

 結局、アデアはなにを伝えたくて、なにをして欲しかったんだ?

 はっきり言ってくれないと、こちらとしてはどうしようもないんだが……。あんまり、その、なんだ。こう、ガキ相手にがっつきたくもないんだし。アデアの場合、男女の事についてどこまで分かっているかも不安があるし。


 俺が戸惑ったままでいることに気付いたのか、アデアは俺の上から降りる前に「ミュティレアが楽しみだな? 我が夫よ」と、凄んで見せてきた。

「ん? ああ、まあ、古い都市国家だからな。琥珀金もそうだし――」

 女には装飾品と光物、それと甘味を与えれば問題ないとは……えーと、誰の言だったか分からないが、ともかく商人はそんな認識のようだったので、それに則ってあの島で見聞きした事を話そうとしたんだが……。

 不意にごすっと、アデアに頭突きされた。


「ワタシがレスボス島に着いてから、後悔してしまえ。この鈍感!」

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