Vindemiatrixー8ー

 春が来た。

 雪解けによる河川の増水はまだあるが、エペイロスからテレスアリア――王の友ヘタイロイや王太子が追放状態である以上、ミュティレアへは、マケドニコーバシオを経由するわけにはいかない――へと向かう間に、水量は落ち着く。なによりテレスアリアでの外交交渉の予定が入っているので、エペイロスから出発するには良い時期だった。テレスアリアは、どちらかと言えば王太子寄りではあるものの、それは越境街道の諸都市が王太子派だからという消極的な支持であり、ここでもう一度しっかりと地盤を固めておく必要がある。


 しかし……。

 もう慣れはしたんだが、同じ部屋で、明日の出発準備を嬉々として行っているアデアを見ていると、微かに頭痛というか、軽い眩暈も感じてしまう。

 結局、レスボス島へはアデアも着いてくることになった。というか、俺以外の全員がアデアを帰国もしくはエペイロスへと残せはしないと考えていた。しかも、アンティゴノスが、どんな宮廷交渉を行っているのか不明だが、現国王もそれでいい、という話らしい。

 放任主義も甚だしいが、元をただせば、あっさりと俺との婚約が決まってエペイロスで待ち受けていたぐらいだし、ミュティレアについていくぐらいの事は今更なのかもしれない。

 おそらく、ミュティレアへ着くのは来月になるので、まだ時間はあるとも言えるが……エペイロスでの日々を考えると、アデアの心変わりを期待ってのも無理な話だろう。

 結局、王太子にもプトレマイオスにも、婚約を破棄したい旨は……それとなく匂わせてみたんだが、無視されている。つまり、そういうことだ。


 ただ、レオと異母弟を、マケドニコーバシオ側との交渉のためとはいえ、エペイロスに残していく事を考えれば、しこりが残る部分もある。エペイロスへと集った亡命もしくは戦争奴隷のラケルデモン人から抽出した兵士を、臨時の王太子護衛部隊として俺が指揮することになった一件も含めて。

 まあ、分断と懐柔は戦略の基本だろうけどな。それに、ラケルデモン人を指揮するなら、俺以外に適任者がいないのも事実だ。


 軽く溜息を吐く。

 これまでの人生で分かりきっていることでもあるが、どうにも思い通りには行かないものだ。

「見よ。この旅支度を! 雪解け水対策の治水事業も、冬季の毛皮取り引きもこれまでにないぐらいに上手くいったおかげだ」

 長旅を前にした豪勢な夕食の時点で浮かれていたアデアであったが、都市の有力者からの貢物を前に余計にはしゃいでいるという現実も込みの溜息は、随分と重く深いものになっていた。

「夜も遅い。持っていく物が決まったのなら、もう寝ろよ」

 明日以降は……、いや、王太子と一緒のきちんとした旅なので、野営するにしても充分な拠点作りは行うし、基本的には大きな都市に宿をとることになっている。油断するつもりはないが、よっぽどの事が無ければ寝床に不自由はしない。

 いや、たとえそうだとしても、そもそもの出発を前に寝坊されては適わないけどな。

 もう寝ておけ、と、毛布を捲り上げ隣を空ければ、素直にアデアは衣類や装飾品の山から離れ――。

「我が夫が、意外と商才があることには皆、驚いていたぞ」

 ピョンと寝台に飛び乗り、毛布をヴェールのように被ったアデア。そうしてそのまま、起きている時には頭の後ろで結っていた髪を解きはじめた。

 さっと頭を左右に振って、髪を自由にして、上目遣いに俺を見つめている。機嫌の良い時の、勝気な笑顔で。


 その仕草は、嫌いじゃなかった。

 いや、これは……俺が悪い部分もあるんだが、動きやすいように髪を縛っている時の印象や、寝る際に結っていた髪を解く仕草は、どこかエレオノーレを思い出させるから。

 瞳の色や大きさ、髪の色も、何もかもが違っているのにな。

 でも、それを見ると、少し、安心する。

 アデアはアデアだって分かってきている、つもりなんだがな。

「別に、戦争するには金がかかるんだし、そういう計算も必要だろう」

 素っ気無い声になってしまったのは、『意外と』なんていう余計な形容詞に対してだけじゃなかったが、アデアはそう誤解したようで「……我が夫は、自分自身で思っているよりも、周囲に評価されているし、好かれてもいるんだぞ? 否定的だったここの貴族達も、最終的には認めていたのだしな」と、言い訳じみたことを付け加えてきた。

「金になる限り、いや、利用価値があるなら人は寄ってくるさ」

 軽く返事してアデアから顔を逸らし、オイルランプを消そうとした時だった。

 不意にペチン、と、軽く頬をアデアに叩かれた。

 左の頬だが、気付かなかったわけじゃない。避けるまでもないと判断していたし、そうした理由も知りたくて、敢て受けたのだ。

 なんだ? と、尋ねる前に、肩越しに振り返った俺の鼻先にアデアが言い放った。

「最初に聞いていた話、そして、王宮で会った印象と比べると……我が夫は変わった」

 うん? と、唐突な話に首を傾げるが……生返事を返していたことに対する不満という軽い内容ではなさそうだったので、俺はオイルランプはつけっぱなしで再び寝台に腰掛け、アデアと向き合った。

「今の雰囲気も嫌いじゃない。でも、卑屈になんかなるな!」

「そんなこと!」

 図星を衝かれた、なんて思ったわけじゃない。そもそも、俺は卑屈になったつもりなんてなかった。だがしかし、不意に大きくなった自分の声に気付くと否定の言葉は続けられなくて……。

 アデアは、それみたことか、とでも言いたそうな得意げな顔で続けた。

「あるのだろう? 宮中の噂の伝わる速度を甘く見ないことだ。そして、他の王の友ヘタイロイの観察眼もな。隠し通せている、なんてのは傲慢だぞ?」

 自分でも上手く説明できない。が、アデアの言っている事は当たっている、とは言い難いとも思う。

 卑屈とかそういうことではなく、俺は俺に出来る事をしようとしている。その中で、どうしても俺でなければならない事以外の事を、異母弟に……任せたい、というのも何か違う意味合いになってしまいそうだが、多分、大凡ではそういうことだ。

 アイツを陽の当たる場所で育てたい。だから、俺は積極的に暗い世界に身を投じる。それでいい。そんな自分自身の在り方に納得している。

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