Vindemiatrixー6ー

 話題が途切れたし、丁度奴隷が細長く焼いたパンを持ってきたので、そのままなんとなく無言でパンをハチミツに浸し、二人で軽い食事を始めた。昼食と夕食の丁度中間ぐらいの時間だ。

 小腹がすく時間だったし、然程の量でもないので夕飯への影響はない。

「春になったら」

「ああ」

「ワタシもお前とミュティレアに向かう」

 意味のない雑談だと決め付けてしまっていたので、何気なく、生返事を返しながら、固く焼いたパンをハチミツに浸して柔らかくし、それを口に含む。舌の奥までとろけるような、甘く、しんなりとした触感。それを堪能した一拍後、アデアの言葉の意味をようやく理解して、俺は思わず大声をあげてしまった。

「いや、なんでだよ⁉」

「婚約したんだから当然だ」

 あくまで、当然の事と、しれっとした顔で、二本目のパンをハチミツに浸すアデア。


 しかし、なんか、こう、上手くいえないが、しっくりこないって言うか……まあ、はっきり本音を言えば、あんまりエレオノーレとアデアを会わせたくない。良い影響をアイツに与える気がしない。

 いや、そもそも、アデアはマケドニコーバシオを追放されてもいないんだし、ミュティレアに向かう必要なんて全くない。位置的には、アカイネメシスとも近く、また、今回のラケルデモンとアテーナイヱの戦いにおいても戦場のひとつとなっているし。

 それに、戦場へと向かう夫を家で見送るってのが、一般的なギリシアヘレネスのスタイルだ。戦場についてくる妻とか、聞いたこともない。

 うん、まあ、……確かに、その、なんだ? エレオノーレと俺は、別に恋仲でもなんでもないんだし、俺に婚約者が出来たぐらいで、顔を合わせにくくなるとかじゃ無い、とは思うんだが。

 いや、そもそも、政略結婚は本人の意図の外で決められてるわけだし、周囲が納得しているなら、逃げる手段は少ないわけで……。それに、エレオノーレ本人が、俺に結婚するなとか、結婚しようとか言ってきたことは無かったんだし、そういう方面の約束があるわけじゃない。

 ただ……なあ?

 んむ……。上手く言葉にならない。

 俺は、あいつが、安全な場所で良い暮らしをするなら、それだけで良くて……。他になにか望みがあるわけじゃない。そもそも、最初の目的が違う。俺は王権を望んでいたし、エレオノーレは平和に暮らせる、家族のような存在との平和な生活を望んでいただけ。

 俺は、もう、ラケルデモンを抜けた頃の俺じゃないし、望みも変わった。だが、だからといってエレオノーレを動機や口実や、逃げ道にしたくは無い。

 じゃあ、アデアとの婚約を維持し、結婚すれば全て上手く行くのかって尋ねられれば、それも違うと感じているし……。

 ハチミツの小瓶の中をただただかき混ぜながら、返事に困っていると――。

「お前を」

 ――俺がなにか言う前に、アデアが口を開いた。ので、まずはそれを聞いてみることにした。

「先生と話させる」

 だが、あまりにも意外な名前が出て来て、少しだけ、ふん、と、鼻で笑ってしまった。

 いや、まあ、アデアもまだまだ多くを学ぶ必要がある人間なので、先生のお世話になっていてもおかしくは無いが。ただ、アデア自身が先生になにか訊ねたいことがあるのでついてくるというわけではなく、俺を先生と話させるという動機は理解し難いものだった。

「いや、そりゃ喋るさ。報告もあるんだし」

 肩を竦めて見せる俺。

 しかしアデアは一瞬だけ俺の目を覗き込んだ後、軽く目を伏せ、俯いたままで呟いた。

「意味合いが違う」

「あん?」

 訊き返す俺を、上目遣いにアデアが見詰め返してきた。

「多分、ワタシがお前に知っていて欲しいと思うことを、お前は先生に訊かないはずだ。だから、ワタシが隣に居る」

 分かったような、分からないような事を真剣な眼差しで告げるアデア。その意図が、上手く読めない。

 俺が先生に訊けない話ってなんだ? 知らないということにさえ気付いていないなにかとは?

 案外、婚約に関する件だったりしてな。

「重装騎兵、王の友、ヘタイロイなんていきがってても、皆、ワタシとほんの少ししか歳が変わらない子供なんだぞ?」

 皮肉げに口元を歪めていると、思いの外切実なアデアの声に気付き……表情を改めた。アデアは、俺に何かを伝えたがっている、ということは理解出来たのと――。

「ほんのちょっと賢くて、ほんのちょっと腕っ節が強い、それだけじゃないか。強がりの裏側は、不安や迷いが張り付いているんだ。分からないことだらけなんだから。……そんな中、叔父殿と無理して突っ走ってるんだから」

 アデアはアデアで、俺と他のヘタイロイとの微妙な距離感を敏感に感じ取り、真剣にそれをなんとかしようと考えているのだと理解出来たからだ。

 無論、アデアの言っていることの全てに納得は出来ない。不安や迷いを持たない人間はいないし、簡単に口に出せる程度の苦悩なら、それは悩みでもなんでもない。

 強がりとかそういうんじゃなくて、あくまで俺達は共に歩む仲間であって、誰かに寄りかかりたくて集ったわけじゃない。

 そして、ヘタイロイの強さは『ほんのちょっと』って程度の物でもない。

「恥ずかしがってるのかなにか知らないが、そういう暗い感情を隠しておいて、どうしようもなくなるまで表に出さないお前達は、ばかなんだ」

 アデアは言い終えると、些細な表情の変化も見逃したくないのか、鼻と鼻がぶつかりそうなぐらい、距離を詰めてきた。

 嘘を紛れ込ませられる距離じゃない。

 だが、俺は……今の自分の気持ちや、自分自身の考えを上手く言葉にすることが出来なかった。それに、俺はまだアデアを信用しているわけじゃない。これは、あくまで、政略的な婚約だ。主導権を奪われるわけにはいかない。

「……アデアはアデアで素直じゃないがな」

「当然だ。女が素直になるのは、夫と臥所の中に入った時だけなのだろう?」

 アデアの顔に落胆はなかった。むしろ俺の反応は予想通りだったらしく、聞くや否や再び距離を開け、自分自身の胸の上に右手を乗せて……妖艶とはお世辞にも言えないが、意味ありげな視線を向けてきた。

 もしかしなくても、アデアの方も友人――他の貴族の娘に、そういう方面でどうなったかをあれこれ訊かれたり……逆に、余計な知識を入れ知恵されてるのかもな。

 迷惑この上ない事だが。

「ガキが調子に乗るな。ほんとに怖いことするぞ」

 呆れた目を返せば、意固地になって挑発するような顔を突き出されてしまう。

「やってみるがいいさ」

 アデアにも分かるように、はっきりと嘆息して見せてから、アデアの右耳に口元を寄せ、囁いた。

「強がりはどっちだ? 王宮では、随分と可愛らしい悲鳴を上げたよな? 婚約に反対ではなかった理由は、そういうことなのか? ん?」

 来ると予想出来ていたので、アデアが反射的に放った裏拳を軽く上体を反らしてかわす。

 ニヤニヤ笑いで、奥歯を噛み締めているような表情のアデアをみつめる。

「いいのか? 誰かに聞かれたら、拙い話じゃないのか?」

 睨む視線に迫力が無い。だから、脅迫として成立していない。

 むしろ、そんな目をされてしまうと、まるで図星をついてしまったみたいじゃないか。

「ああ、だから、アデアだけに言ったんだろ?」

 アデアの反応は少し予想外だったが、この返しまでが用意していた台詞だったので、それをそのまま口に出した。

 すると、やはり最初の反応は間違っていたのか、ちょっとだけ調子を戻したアデアが、自惚れるようにきっぱりと言い放った。

「まっ、まあ、ワタシはお前の妻だからな」

 いや、そういう意味で『アデアだけ』と、言ったんじゃなかったんだけどな。

 既に、俺がなにしたか分かってる相手だから気兼ねが無かっただけ。後、それを密告する気があるなら、とっくの昔にしているはずなので、今更喋りはしないだろうとも――俺の罪を裁くには、間が開き過ぎているので、この場合、アデアも共犯や捏造を疑われる。それに、物的な証拠は何も残っていない――思っている。

 ただ、まあ、本人がそういう風に理解したいならそれでいいけどな。

「手も、強く柄を握りすぎて震えてたしな」

 変な空気を吹き飛ばしたくて、子供をあやすような口調で、あからさまにバカにする視線を向けると、アデアは短く怒鳴った。

「忘れろ!」

「いいか? 剣を剣として使うには、全力で握れば良いってもんじゃないんだ。腕力よりも、自由に振り回せる柔軟性をだな」

「う、うるさい、うるさい! 今は、そんな話じゃなかったろ!」

 思いっ切り子供っぽい仕草で地団太を踏むアデア。

「じゃあ、なんの話だよ?」

 俺は、分かり切った上で、敢てとぼけて見せた。

 俺の意地悪に気付いているのか否か、アデアは頬を染めながらもしかめっ面で俺を睨んでいたが……。

「む」

「む?」

「睦言だ!」

 あまりにも力いっぱい叫ぶので、その必死な姿につい噴き出してしまった。

「ぶっ、はぁはははは」

「全力で笑うとは何事だ!」

「お前、さぁ」

「なんだ!」

 アデアがあまりにも余裕のない表情をするから、たっぷりと溜めを入れ、充分にもったいぶってから俺は告げた。

「意外と可愛いな」

 忍び込んだ王宮で初めて出会った時には、一瞬だけエレオノーレと被って見えたことが切っ掛けで、らしくない態度になったんだが……。今みたいに、必死で、余裕のない姿を見ていると、誰かの面影が被ったからではなく、アデア本人に対して素直にそう感じた。

 そう、俺はあくまで、感じたことを素直に口にしただけだったんだが……。


 その後、なぜか絶句したアデアは、顔を赤くして目を吊り上げたり、声を出さずに口をもごもごさせたりしていたが、最後には駆け出してどこかへ逃げ去ってしまった。

 アイツもかなり変なヤツだな、と、ニヤニヤ笑いでその背中を見送りった後。もったいなかったので、残ったハチミツとパンをひとりで処理した。


 黄昏時に部屋に戻るとアデアは毛布を被っていたので、暫く放っておく事にしたんだが、夕飯の時間になってもアデアの機嫌は直らなかった。流石に不安になって酒宴の前のプトレマイオスに相談してみたんだが、経緯を話しただけで絶句され――一応、アデアの方に上手くとりなしてはくれたものの、夜中まで長々と説教されるはめになった。女心の機微という内容で、正直、ぜんっぜん理解も共感も出来ない小言だ。だが、どうも、俺が悪いって話らしいことだけは分かった。


 ちくしょう、俺がなにしたってんだ!

 ほんっと、女って厄介だ。

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