Vindemiatrixー5ー

 あれだけの数を運び込まれたからか、服を選ぶだけでもなんだか精神的に疲れたってのに、朝食を手早く済ませた後は、上機嫌なアデアに部屋から連れ出されてしまった。まず、宮廷内ではエペイロスの王族や貴族との会談……というか、話の内容そのものは、まったく急ぐ必要のない、季節の話題や、今王宮にいない誰某の悪口なんかの、中身のない似たような話をあちこちで行い。次いで、昼頃からアゴラ――市が立ったり、民会が開かれたりもする、公共多目的広場――で、アクロポリスの富裕層の連中との、これまたさっきと変わり栄えのない、ご機嫌伺いの会話と食事。

 結局、口実である風邪の養生に入れたのは、太陽が中天よりもかなり西へと傾き始めた頃だった。

 ったく、これじゃ、普通に兵隊鍛えて、会議で緊急の議題について討論してた方がはるかに楽だっての。


 普段とは全く違う疲労感から、椅子に深く腰掛け、中庭でアデアのお喋りを聞くともなく聞き流し、背凭れに体重を預けながら空を仰ぎ見る。

 朝方は冷え込んでいたが、昼を過ぎたぐらいからは日差しのおかげで、かなり温かい。結果として、クライナではなく、丈の短いクラミュスで正解だったかもしれない。

 ……暫くは交互に寒暖が続くんだろうけどな。

 実は、この時期が一番船旅は危ない。雪が溶け、河川が増水し、増えた水が海へと流れ込むからだ。潮の流れが普段と大きく異なり、波が少ないエーゲ海も大きく荒ぶる。船を出せるようになるのは、まだ二十日……いや、マケドニコーバシオの水夫の錬度や造船技術、レスボス島までの航路を考えるに、三十日前後は様子見が必要だろう。

 なら、エペイロスを出発するのは――。

「ほれ」

 不意に、思案中の顔に影がさしたかと思うと、王太子が俺の顔を上から覗き込み、ハチミツの入った瓶を頬に押し当ててきた。

 蓋を……いや、今食べきれってことなのか、蓋は開いていた。中を覗けば、冬のハチミツなので若干結晶化してはいたが、持ってくる前に温めていたのか、結晶の量は少なかったし、手に取ると瓶からはほんのりとした暖かみを感じた。

 どうしたんだ? と、椅子に座りなおしてから、視線で訊ねると――。

「まあ、食っておけ。この季節には中々ないものだぞ。あちこち顔出しして、疲れたんだろう?」

 にやりと笑った王太子は、それだけを伝えるとすぐに行ってしまった。

 もうちょっとは話していけば良いのにとは思ったが、今日は俺がいないんだし、それなりに仕事も多いんだろう。

 引き留める方が悪い、か。

 今じゃなくても……というか、今はアデアが目の前にいるので拙いが、婚約に関する件は、一度、きちんと二人だけで話したかったんだけどな。


 なんとなく、王太子が置いていった小さな瓶を掌で玩んでいると、いつの間にかテーブルにアデアが身を乗り出していて「ハチミツが好きなのか?」と、上目遣いに俺を見上げて訊ねてきた。

「ん――」

 アデアとハチミツの小瓶に交互に視線を向けながら、鼻を鳴らす。

 王太子は俺にアデアの件を相談されたくなくてそそくさと帰っていったのかもな、とか。でも、だからこそ、反対意見が少ないことに甘えてアデアを婚約者としたままにしておくのもな、とか。

 深読みし始めると、アデアからの些細な質問に答える気にはなれなかったんだが……。

 次第にアデアの目が細くなり、口角が下がって口が尖りだし……それでも、ぼんやりとし続けていたら、ペシンと額を軽く叩かれた。

「はっきりと答えろ」

 嘆息と気付かれない程度に、詰めていた息を吐く。

「干した果物より、自然な甘みがあって良いだろ?」

 はっきりと好きだと口にするのは、というか、好きという単語をアデアに向けて口にするのになんだか抵抗があって、俺はそんな風に訊き返した。

「ふぅん、そうか」

「……なんだよ?」

 アデアの方から訊いてきた――返事の催促までしてきた――くせに、思いの外あっさりと話を終わらせるから、つい、そんな風に話題を追いかけてしまった。

「別に」

 さっきの仕返しなのか、素っ気無い態度のアデアは「そうなのだな、と、思っただけだ」と、生返事を返すだけ。

 俺は、奴隷を呼んで蜂蜜を食べるためのパンをもって来るように命じた後、再び黙ったままで空を見上げた。が、思索にふける前に、不意にアデアの微かな声が聞こえて来た。

「これで、またひとつ、我が夫の事を知れたな」

 顔を横に向けると、アデアは立ち上がって、椅子に座ったままの俺の横に並んだ。

 うん? と、首を傾げてみせる。

 アデアは、いつも通りの勝気な笑みで俺を見おろし、軽くハチミツの小瓶に人差し指と中指を浸し、俺の顔の前に突き出した。

 嗜虐心なのか、悪戯心なのか、微妙な感じの笑みだ。

 嘆息して見せるが、アデアは指を引っ込めなかった。アデアの指についたハチミツが、ゆっくりと指の先端に向かって流れ雫となって地面にこぼれそうになり――。

 ……もったいなかったので、素直にアデアの指を舐めた。

 まあ、普通のハチミツの味だ。うん、それだけ。

 指のハチミツを舐めとった後、もう一度やられてはつまらないので、瓶を持つ手を変えてアデアから遠ざけたが、アデアは一度だけで満足したのか、大人しく自分の椅子へと戻っていった。

 アデアが座った瞬間に、俺も同じことをしてやればよかったな、とも気付いたが、既に遅かった。

「お前は、随分と前のめりなんだな」

 アデアの態度に呆れてはいたが、特に深い意図もなく、何気なく言った一言だった。だが、途端にアデアの眉間に皺が寄った。

「『は』だと?」

「あん?」

 怒った理由が分からずに、首を傾げてしまった俺だが、その俺の鼻をアデアが即座に抓み、詰め寄ってきた。

「『お前は』だと? 誰と比較しているのだ?」

 ……めんどくせえ。

 ここでむきになったり、本当の事を教えたら余計に面倒になるのは分かっていたので、俺は務めてつまらなそうな表情を作って、素っ気無く答えた。

「たいしたことじゃない」

「ワタシ比較するな。ワタシ比較するんだ。お前の物差しは、正妻のワタシだ!」

 しかし、アデアは……まあ、そういうめんどくさい性格なのは、なんとなく分かってきてはいたが、案の定騒ぎ始めてしまった。

「婚約は確約じゃないだろ」

 と、冷静に指摘しても、鋭く睨まれるし。

「なにか言ったか?」

 もう、これは、どっちにしても言い合いになる流れだな、と、思ったので、さっと左右に視線を巡らせ――。

「わーお、アデアよりも美しく、身体つきも素晴らしい女官が――」

 冗談を言い終えるよりも前に、アデアの拳が飛んできたので、左手で受け止めた。

 機嫌が良かったり悪かったりする時に、鼻を抓まれる事が頻繁にあるんだが――多分、アデアの癖みたいなものだ。もっとも、俺意外に対してはそんなことをしていないので、微妙なところでもあるが――、拳が飛んできたのは初めてだった。

 確かに、そこそこは鍛えている拳だとは思う。婚約者を、腰を入れたパンチで殴るのはどうかとも思うが。

「殴んなよ」

 軽く腕をひねったらどんな顔をするのかな? と、少しだけ悪戯心というか、普段高飛車なアデアを屈服させてみたくもなったが、暴力を使うと歯止めが利かなくなりそうだったので止めた。

 ここに来てから――いや、レオ達と合流してからは、なんだか、自分自身の中に燻っていた嗜虐心が消えていた。それ以上の、もう、どうしようもないぐらいの空虚な気持ちがあるからなのかもしれない。自棄になるわけじゃないが……。そうだな。アクロポリスにいる分には、今の方が都合は良い。下手に、自分の仲の悪い虫を刺激する必要はない。

 軽くアデアを押し返すと、ふん、と、そっぽ向いたアデアがあからさまに不機嫌な声を上げた。

「そういう、ありきたりな冗談は好かん!」

「いや、本音だが」

 アデアは、容姿という意味では実年齢よりは大人に見えるが、中身はまだまだガキっぽいし。

「バカだな、我が夫は」

「なにがだよ」

「五年も経ってみろ。我が夫が結婚の適齢期になった時、あの女官はばあさんだろ。ワタシは、ばっちりと美しく育っている」

「大した自信で」

 アデアが微塵の迷いも感じさせずにはっきりと言い切って胸を張るので、苦笑いが浮かんでしまう。

 いや、苦笑いだけってわけじゃないな。アデアのこうした未熟な自負心は、そう嫌いではない。無論、過信との境界を上手く定められていないとも思えたが、そこは、本人が言うように、これからの成長に期待する部分でもある。

 ……まあ、もし仮に今目の前にいるのが、五年後のアデアだったとするなら、俺が婚約者だということに対し、今と同じ感情を抱くのかは疑問があるけどな。

 自然とアデアの気持ちが離れてくれる――婚約に興味をなくすか、別のもっといい縁談が来て、それに乗り換えてくれる――のが、一番楽で言い訳しやすい結末だ。

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