Vindemiatrixー3ー

 アデアと手合わせした五日後。

「イッキシュ!」

 半端に穏やかな日が続いた後に、寒気が盛り返してきた。寝床から出たばかりで、上着を羽織る前だったし、くしゃみぐらいは普通の事だと思うんだが……。

「風邪だな」

 アデアが寝惚け眼を擦りながら上体を起こしたので、俺は口の端に皮肉を浮かべて窓を開け放った。

 風は冷たいが、湿気による重さは消えている。雨季である冬を象徴するような曇天も、もう見えない。エペイロスに着いてから、すでに半月が過ぎようとしていた。

 もうすぐ、春が来る。

 春が来たら……。


「ラケルデモン人は、そんなに柔じゃねえよ」

 部屋の空気を入れ替え、いつも通りの身支度を整える俺だったが、しかし、部屋の外へと出ることができなかった。

 アデアは王族だし、俺も、立場は非常に微妙ではあるが、王族という扱い――ここでの扱いは、ラケルデモンの王族というよりは、マケドニコーバシオの王族であるアデアの婚約者としての付随的な王族の地位のような気がするが――なので、部屋の前には警備の兵が詰めている。

 アデアの『風邪だな』一言で、朝の見回り・訓練・会議といういつも通りの職務へと向かう俺の進路を、四人のエペイロス兵が身を挺して塞いでいる。

 はっきり言って、俺の腕力で押し通れないこともない。

 だが、大の大人が真面目な顔で、こう、ドアを塞いでいる姿がちょっと哀れなのと、こいつ等はこいつ等で仕事として道を塞いでいるんだから、それを吹っ飛ばすってのもなんだか気が引けて……。

「王太子かプトレマイオスの指示を仰いで来い」

 と、嘆息し、寝台へと戻った。

 身支度を整えたアデアが、さして長くもない髪を結い上げながら、どこか底意地の悪い眼差しと笑みで俺を見詰めている。

 もう一度だけ、嘆息してみせる俺。

 差し込む朝日が、アデアの栗色の髪に煌めき。金に近いような色合いに見せていて――。少しだけ、そう、少しだけ上手く言い表せないような気持ちになった。


 なんで、婚約者がアデアで……。ラケルデモンから旅をしてきたのがエレオノーレだったんだろうな。

 偶然と片付けても良いし、生まれの立場による必然でも構わない。ただ、そこに、納得できるだけの理由が欲しい。

 もし……プシュケー――魂や人格――だけが、二人の間で入れ替わったら? ふはははは。……いや、意味のない思考の遊びはやめておこう。迷いの元になるし、それはそれで両方に失礼だ。


 しばらくして、アデアが普段の装いを整えた頃、朝食を運ぶ世話係の奴隷を引き連れてプトレマイオスが部屋に来たが「今日は、大人しくしてろ」と、熱の有無も調べずに言い放った。

「いや、そういうわけにも――」

 今日は都市部の大規模な奴隷を所有する農場経営者への課税方法に関する研究会と、エペイロスの山脈を貫く形での新街道の整備に関する報告会もあるし、せめて昼食以降の会議には出ようと食い下がってみるが……。

「温かくして! 美味い物を食って! アデア殿と仲良くしろ!」

 と、俺がまだ喋ってるってのに、それを遮ってまでプトレマイオスが凄むので、大凡の意味を理解した。

 確かに、訓練に顔を出されるのは嫌だったので、前よりはアデアと会話するようにはなってきたものの、午前か午後のどちらかには仕事を入れていた。

 って、春にはエペイロスから移動するんだから、それまでにエペイロス国内の財政改革に、軍事改革、それにマケドニコーバシオへの働きかけと、やることが山積みだったので、仕事を理由に避けてたわけでは……あまりないんだがな。

「俺が、休んでて平気なのかよ?」

 既に、そういう流れだってのは分かってはいるんだけど、こんなふうにあっさりと仕事を取り上げられるのも、なんだか無能といわれているようで面白くない。

「だからだよ」

 しかし、意外なことにプトレマイオスは額に手を当てて答えた。

「ん?」

「働き過ぎだ。仕事はひとつ終わったところですぐに新しく舞い込んで来るんだから、たまには自分の都合を優先しろ。あと、お前は、余暇を楽しむことを覚えろ」

 確かに、新街道整備の話が出る前に揉めてたのは、治水事業だったし、その前にはエペイロスのアクロポリス内の古くなった区画の再整備案とか、到着後、なにかしらの仕事はあった。

 んだが……。

 余暇の使い方、ねぇ。

 アデアの方へと向き直る。

「のう? プトレマイオス。アーベルに新しい外套クライナが必要だと思わないか?」

 アデアは、俺の視線に気付いているはずなのに、敢てプトレマイオスの方へと顔を向けて訊ねた。

「よろしいですね。風邪は引き始めが肝心ですから」

 緊張してるわけじゃなさそうだが、プトレマイオスはアデアと話す時はかなり丁寧に喋る。

 いや、確かにマケドニコーバシオ貴族であるプトレマイオスとしては、王族であるアデアに対して態度に気を使う必要があるのは分かるんだが、王太子とは比較的親しい感じを出すので、未だになにか違和感も感じる。もっとも、少し前にそれを指摘した際には、俺の感覚や態度の方が変だとか言われてしまったが。


 食事を持ってきた奴隷は、俺に伺いは立てず、アデアとプトレマイオスの話を聞くや否や、即座に別の奴隷を呼び寄せ――朝飯前なのに、次々と衣類が部屋へと運び込まれてきた。

「俺は、着慣れた服でいい」

 ちなみにクライナとは、亜麻布や場合によっては東方の絹で織られた装飾的な意味合いの強い外套で、とても長旅や戦場での実用に適しているとは思えなかった。どちらかといえば、身分を表すために身につける服だな。

 俺が旅装束でよく使うのは、羊毛を粗く織ったトリボーンという防寒用の外套で、生地が厚いので、野宿の際にゴツゴツした場所に敷くのにも適している。

 ムスッとした顔で、服を運び込んでくる奴隷を眺めていると、こつんと、プトレマイオスに額を叩かれた。

「貴人としての振る舞いも覚えろ」

「要所は締めてるだろ?」

「たまには、着飾った姿を見せておけといっているのだ。それだけで、兵や町の者の印象も変わるものだ」

 プトレマイオスの言っていることも分かるが、俺はどうも剣を背負うのに適していない服はあまり好きにはなれないんだよな。それに、着飾って市民に顔を見せるってのも、アデアとの婚約を印象付ける意味合いが強いので、そこまで乗り気になれないし……。

 そんな俺の微妙な気持ちを知ってか知らずか、クラニス――女性用の丈の短い外套――を羽織ったアデアが、楽しそうな顔で俺の腕を取り、運び込まれた数十着のクライナの前へと引っ張っていった。

 プトレマイオスは、遠慮しているのか、俺の左後ろをいつもよりも少し距離を詰めて付いてきている。

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