Vindemiatrixー1ー
「悪いが、意味が全く分からん」
エペイロス軍に戦闘訓練を施している最中だった。
いや、主な訓練は、普通の都市国家の倍の長さの槍と首掛け盾を装備したファランクスによる集団戦術であり、マケドニコーバシオと同じであるため、俺以外の重装歩兵担当の
そのため、普段軽装歩兵を指揮していた俺は、攻城戦のや市街戦における、浸透と斬攪の訓練を行っていたので、他の者程忙しくはなかった。兵の訓練以上に、俺自身が左目を失った事に慣れる事に重きを置かれていたせいもあるんだろう。
だが……。
だがしかし、今、俺の目の前には、エペイロス兵ではなく戦装束に実を包んだアデアがいる。とはいえ、年齢的に重装歩兵の鎧兜は重過ぎるのか、布を重ねた胸鎧と、騎兵用の視野の広い兜をかぶり、盾は持っていなかったが。
一応、王太子に視線を向けてみるが、あっさりと突き放されてしまった。
「言っても聞かぬ」
仲が良くないというのは、冗談ではなく本当らしい。いつもの豪快さの無い、強張ってた顔で、それがはっきりと分かった。
次いで、プトレマイオスの方に身体ごと向き直ってみるが……。
「私は反対した」
怒っていることを本人は隠しているつもりなんだろうが、声にはっきりと現れてしまっているプトレマイオス。
いや、うん、まあ……自覚がなくはない。しかも、少年従者の件でもそうだったし、今回も全く同じ経過なので、俺は小言が飛び出す前に身体の向きを変えた。
助けが降って来ないとは知りつつも、軽く視線を周囲に巡らせてみる。近くでは、兜を被り、首掛け盾を装備し、長槍と剣で武装したエペイロス兵が固唾を呑んで成り行きを見守っている。更にその背後には……どこか故郷のラケルデモンを思い起こさせる山脈が天を衝いていた。もっとも、ラケルデモンでは、こんな風に山全体が雪を頂いた真っ白な山脈というのは目にしたことはないが。
ただ、エペイロスの厳かな白銀の山並みも嫌いではなかった。
もっとも、冬の盛りはいつの間にか過ぎていて、降り注ぐ日差しは足元の雪や凍った地面を溶かし始めていたし、口に布を当てなくても鼻の奥や喉が冷えて痛むようなことはもうなくなっていたので、直に雪も溶け出すのだろうが。
最近は、場所によっては、気の早いクロッカスの蕾を目にすることも多い。
冬の終わりが近付いている。
気乗りはしなかったが、最後にアデアに顔を向ける。
ついさっきまでエペイロス兵との稽古をしていたので、足元は少しぬかるんでいて、踏み出した一歩は少し湿った足音を響かせた。
「我が夫よ、毎日毎日、訓練だのなんだのと急がしそうではないか?」
訊ねる口調ではあるものの、その表情には随分と含みがあるようだった。
アデアの綺麗な海の色をした瞳が、細く皮肉げに引き絞られていて、口端を下げ、歪んだ笑みを浮かべている。
「ああ、まぁな」
俺が生返事をして、踏み出す足を一歩で止めたので、アデアが「部屋に戻る理由は短い睡眠のため、食事は三食外で済ます、話しかければ今忙しい! 税制改革案のまとめ! 経費関連の書類作成! 戦略会議!」最初はゆっくりと歩を詰めて来たんだが、段々苛々してきたのか、怒鳴りながら大股で俺に詰め寄り――。
「ん? ワタシは、いつお前と会話すればよいのだ? んん⁉」
中指と人差し指で、俺の胸の中央をつついて来た。
だから、喋らないのは、避けてるとかじゃ……なくはないのかもしれないが、それ以上に、なにを話せば良いのか分からないんだっての。前にも――。
……ああ、いや、それは違うか。
思い出してしまうと、浮かんでいる苦笑いは変わらないままだったが、意味合いが少し変わってしまった。表情が変わっていないので、誰もそれに気付いていないことが、少しありがたい。
そう、ずっと昔に、喋りたいなら自分から話題を振れと言い返してやったのは、エレオノーレに対してだった。
……アイツ大丈夫だよな? まあ、内政面はネアルコス、軍事面はラオメドンが上手く補佐してるはずだ。それに、冬の荒れた海で海岸線を離れては漂流するんだし、島であるあの場所は侵攻もされていないはずだ。
なにより、先生も合流したのなら、エレオノーレの精神面においても上手く気遣ってくれるだろうし。
「で、これは?」
エレオノーレの事は頭からすぐには消えなかったが、今は目の前のアデアを見詰めながら、その非難がなぜ武装して俺の目の前にいることに繋がるのかを冷静に訊ねてみる。
決闘とか申し込むんじゃないだろうな?
いや、それならそれで、怪我させずに上手く勝って、婚約を破棄させるって手段も――。
と、そこまで考えた瞬間だった。
「ワタシにも稽古をつけろ」
今度は、さっきまでの含みのある笑みではなく、満面の笑みでアデアが胸を張ったのは。
歳の割りに……ってか、胸鎧で潰されているとはいえ、それでも確実にエレオノーレ以上の胸が俺に向かって突き出されている。
俺は、天を見上げ、口を一直線に結び、王太子へと視線を向けるが、プトレマイオスと王太子二人から刺すような目を向けられ、俯いた。
「あのな?」
と、切り出しはしたものの、言葉が続かない。
コイツ、誰に稽古つけろって言ってるのか分かってるんだろうか? 今でこそここまで落ち着いたが、元々は日常的に人を斬ってて、それが楽しくて……少なく見積もっても千人以上は既に殺してきた人間なんだがな。
そう……アデアと同じぐらいのヘロット――ラケルデモンの農奴――を殺したことも、何度もあった。エレオノーレは、本当に稀有な例だ。
「我が夫は強いのだろう?」
しかしアデアは、そんな俺の気持ちを知らずに、挑発的な笑みで訊ねてくる。
「まぁな」
強さを否定する理由はないので、俺は頷いた。
「しかし、ワタシはそれを人伝に聞いただけでしかない」
「いや、今の訓練も見てただろ?」
打ち合いの訓練のはずだったんだが、次々と飛び掛ってきては一撃で吹っ飛ばされていくエペイロス兵を見て、よくもまあ単独で勝負を挑めるものだと、そこだけは感心してしまう。
もっとも、呆れに近い感心だが。
こんな風にバカ正直に無策で正対せずに、もっと、こう、罠を使ったり俺を疲れさせたりしないと、絶対に勝てないって分かりそうなものなんだけどな。普通は。
「折角なので、ワタシが試してやる」
アデアには、話がまるで通じない。
まあ、なんとなく、こんな気の強さは最初から感じていたけどな。
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