Virgo

夜の始まりー1ー

 アルゴリダのアクロポリスで、いきなり婚約を伝えられた直後。あまりにも突然な事に硬直した俺だったが、理解が追いつくとすぐさま――。いや、明確になにかをしようとしたわけじゃないんだが、俺が動く前には、事態を理解したクレイトスとプトレマイオスに腕を取られて、拘束されてしまっていた。

 が、身体は動かなくても口は動いたので、まずは穏やかに尋ねてみた。

「おい、待て……。いや、婚約もそうだが、なんでその台詞の直後に俺の腕を極めてんだよ⁉」

 それも、二人掛りで。

 病み上がりだってのを差し引いても、こんなにしっかりと腕を極められていたら、片方の腕を折る覚悟が無きゃ抜け出せない。

 しかし二人は慣れたものといった普段通りの顔で、しれっと言い放った。

「暴れるからだ」

「暴れンだろが」

「……こんな時だけ息がぴったりだな、おい」

 ジト目で二人というか、その場にいるヘタイロイを睨むが、誰も彼もがさらりと受け流し――って、ハルパロスさえも涼しい顔をしている。政略結婚で権力者と俺がくっつくなら、やっかみの一言か嫌な顔のひとつでもしそうなのに。そんなにアレな相手が俺の婚約者なのだろうか?

 しかし、俺がまだなにも理解しない内に、王太子の「ほら、嫁を待たせるな。急ぐぞ」の一言で、納得も同意も無いままにエペイロスへと向かう旅が始まってしまった。



 いや、旅というほどものでもないな。エペイロスへの帰路――エペイロスは、王太子の母親の母国で、現在大太子が居を構えてはいるんだが、俺はエペイロスはアルゴリダに向かう際に経由しただけなので、あまり帰国って感じではないんだが――は、驚くほどあっさりと抜けてしまったから。

 俺は騎乗出来ないので、馬車でレオとガキの相手をしているだけで、俺がなにかしなくても、勝手に道を進んでいってしまう。途中、ラケルデモン制海域である、内海のパトラ湾を抜けたが、ラケルデモン海軍の姿は見えなかったし、追撃隊もなかった。

 単純に追っ手が馬速についてこれていないだけかもしれないが、アルゴリダ駐留軍の全滅を受け、新たに戦力を抽出する余裕がないように俺は思う。海軍も、ミュティレア方面で越冬しているんだろうし、案外ラケルデモン国内の軍備は手薄なのかもしれない。

 とはいえ、少年隊や青年隊は残っているので、こちらから能動的にラケルデモン本国を攻めるのは得策とは言えないが。


 現状、俺は正式な王の友ヘタイロイではないかもしれないが、既に仲間なので俺に対して気を使う必要はない。だが、レオと異母弟を連れている以上、エペイロスのアクロポリスへと向かう旅はラケルデモンとの一種の外交戦となる。商業力や軍事力を見せつけ、抵抗の意思を挫き、または懐柔する。兵を損耗するよりも余程スマートで経済的な戦い方だ。

 だから、他国を抜ける際には移動速度を重視した強行軍ではあったが、エペイロスへと入国した後には、移動速度ががくんと落ちた。

 アクロポリスへはやや遠回りとなってしまうようだが、大きな街道を選び、エペイロス国内の商業的な要所である大都市を経由――視察しながらのゆるゆるとした進軍だ。途中、馬を休ませるという名目で、豪華な宿を取る事さえあった。

 そして……。

 初めて入城したエペイロスのアクロポリスは……ラケルデモンやアテーナイヱの南部の都市国家や、新興のマケドニコーバシオと比べてしまうと、やや見劣りする部分はあったが、それでも充分な活況を呈していた。

 そう、それらは、ヘレネス南部の先進諸国で言われているような、田舎の洗練されていないあばら家の集まったような村では決して、ない。きちんとした都市計画に基づく城塞都市だ。

 驚いた顔のレオに、まあ、元々が牢屋暮らしで世間知らずの異母弟のきょろきょろする姿、生き残りの雑務兵のあんぐりと口を開けた顔を見ると、悪戯が成功した時のような……いや、それもあるが、どこか嬉しいのに少し切ない不思議な気分がした。

 本当に、いつの間にか、俺はラケルデモンのアーベルではなくなっていたんだな、って。


 流石に王宮内をレオや異母弟を自由に出歩かせるわけには行かなかったので――レオそのものは亡命の意思は薄く、立場が曖昧な外国人であり、かつ、異母弟に至っては宮廷での振る舞いを身につけていない――、二人を客室に残し、挨拶回りは俺が行うことになった。

 最初に御目通り願えた王太子の母は、確かに、美しいとは思ったが、噂で聞くとおり、中々に激しい性格なのがその切れ長の目や口調からはっきりと見て取れた。ので、まず最初は、無難過ぎるぐらいの面白みに欠ける挨拶になったが、王太子も近くの王の友ヘタイロイも特になにか言ってはこなかった。

 その後も簡単な挨拶を王族に済ませ、レオと異母弟の保護を正式に要請し、かたっくるしく、細々した手続きと面通しをやっと全て終わらせた午後だった。


 戦っている時よりも疲労、というか、心労がかさみ、に関しては翌日にしようと提案した俺に告げられたのは――。

「アデア?」

 嫌々ながら婚約者が待つ部屋の前まで来た俺の背中を押そうというのか、王太子が婚約者の名前をようやく教えてくれたんだが、正直、思い当たる顔は無かった。ミエザの学園の関係者なら、忘れているはずは無いんだが……。

 逆に、王太子の方は、俺が名前でピンと来ると思っていたようで、どこか当てが外れたような顔をしている。

「覚えておらんのか? 顔合わせはした、と、聞いたんだが」

 あ! もしかして、まだ学園に慣れる前の頃に、王太子やプトレマイオスの側であちこち見て回ったときに顔を合わせた誰かってことか? もしくは、クレイトスと冗談で、宴席の貴族の令嬢を、誰それが可愛いとか言い合ってたのが人伝に伝わったとか。それなら、覚えが無くても――。

 と、考えている間に、勝手に目の前の扉が開いた。

「遅い」

 扉が開くと同時に、いきなり正面から、拗ねたような声がぶつけられた。

 不貞腐れたような顔で、軽く俺を睨む青い切れ長の瞳。肩に掛かる程度の長さの髪……だったはずだが、今は、その……一応は将来夫となる俺の前に出ているからか、髪を編んで頭上で冠のように結い上げ、羽根の髪飾りをしている。身体つきは、普通の王族の女と違って鍛えられているし、胸や腰もそれなりにあるので誤解しがちだが、よくよく見れば、まだどこかしら幼さを感じる。

 俺よりも少し年下に見える――王太子の異母兄に、毒を飲ませるために忍び込んだ王宮で出合った少女だ。


 一通り観察した後に、王太子に視線を向けると、やっぱり知っているんじゃないかという呆れた顔をされてしまった。

「あ? ……ああ、いや、顔合わせっつーか」

 額に手を当ててみる。

 横のプトレマイオスと黒のクレイトス、リュシマコスが不思議そうな顔をしている。王太子は戸惑う俺が可笑しいのか、にやにやとした笑みを浮かべているだけ。

 この反応から察するに、毒を盛ったことを――まあ、確かに場面そのものは目撃されてはいないんだが、状況からそれは容易に想像出来るはずだし――この女のガキは言ってない様だが、顔合わせしたって公言するのもどうなんだろうな。

 少女は、俺の顔を見上げ、驚いたような困ったような顔に満足したのか、今は腰に手を当てて胸を張っている。

 婚約って年でもなさそうなんだがね。俺もこのお子様も。

「また、すごいの引っ張ってきたな……って、待て! コイツ、一応、王族だろ?」

 呆れながら言ってて思い出したが、確か、コイツは王太子の事を叔父と呼んでいた。王位継承順位的に然程高くないとはいえ、マケドニコーバシオの王家と縁戚関係になるのは間違い無い。そう簡単にくれてやれるような出自の女ではないはずだ。

 その事実に慌てて、王太子に詰め寄ろうとした時だった。死角になっていた、左足を踏まれたのは。

「コイツとはなんだ! ワタシはアデアだ! ワタシの事は、アデアもしくは我が妻、と、呼べ」

 今の自分の視野に慣れていないのも事実だが、一応とはいえ公式な場だったので、いきなり足を踏まれるとも思っていなかった事の方が影響が大きかった。

 もっとも、反撃するわけにはいかないんだし、驚き過ぎて動けなかったのが、結果的に良かったといえばそうなんだが。

 不満たっぷりに目を細め、王太子を見る。

「見ての通り、気性が荒くて、持て余してる。お前さんが相手にはうってつけだ」

 助けを求めるようにプトレマイオスの目を覗きこもうとしたが、一瞬で逸らされた。黒のクレイトスは楽しそうだ。リュシマコスは、なんか良く分かっていないが、こんな程度の低い遣り取りさえもどこか祝福するような目で見ている。

 ……この薄情者共め。

 結局俺は再び王太子に向き直り――しかし、上手い言いようが見つからずに「おい?」とだけ、訊き返した。

 つか、うってつけって、どういう意味だよ……クソ。

 だけど、王太子は、まったくぶれない態度で、一生懸命にどこか楽しそうに俺の足を踏んづけているお子様を努めて視界に入れないようにして、最悪な追加情報を話し始めた。

「しかも、己との関係は良くはない、ときたもんだ。はっはー」

「……おい」

 別に、女に体重かけて足を踏まれたところで痛くも痒くもないが、なんとなくめんどくさいのでアデアの額を押して距離を取らせ、ようやく王太子の方へと一歩踏み出す。

「政略結婚とは、そういうものだろう? 上手く手懐けろよ」

 が、近付いた意味を、アデアに見えないようにして婚約拒否について耳打ちしたかったからだとは気付かなかったのか……いや、気付いていてそれを口にさせたくなかったのか、白々しい笑顔で肩をバシバシと叩かれてしまった。

「おーい」

 と、叫んでみるが、既にただただ空しいだけだった。つか、これ、皆、本気でやってるのか? 俺を騙してからかってるとかじゃなくて?


 どこか疑心暗鬼になっていると、不意にアデアが大きな声ではっきりと告げた。

「ダイジョウブだ」

「なにがだ?」

 なんだか、一番大丈夫じゃなさそうなヤツにそんな事を言われると、余計不安にしかならないんだが。

「ワタシは、強い男が好きだからだ」

 得意そうな表情で、周囲の反応から察するに普段からこんな事を言っているのだと思う。

 ……頭が痛ぇ。

 は、と、肩を竦めて軽く笑い。

「中身はどうでもいいってか?」

 軽口を返せば、アデアは一瞬だけキョトンとした顔になったが、すぐさま「バカが強いわけはないだろう。なにを言っている。ワタシの夫はバカなのか? ん?」と、挑発的な表情で言い返してきた。

 生意気っつーか、なんつーか。

「アーベル!」

「言い返してさえいないってのに、そんな怒った声を出すなよ」

 アデアから視線を外し、左手の指を耳に突っ込みながら答えると、今度は右肩をプトレマイオス、左肩をリュシマコスにガッとつかまれ、壁に押さえつけられた。

「いいか? ヘレネスの女は気が強い、そういうものだ。妻にするということは、その……分かるな? 力強く、だ。乱暴にするのではなく、きちんと――」

「アデア殿の顔を見てみろ。そりゃ、ちょっとは気が強そうだが、あれはきっと将来性がある。わかるだろう?」

 プトレマイオスのいつもの小言を聞き流しつつ、リュシマコスに促されるまま、アデアの顔を見てみる。

 クソ生意気そうな面だと思うんだが……って、将来性ってなんだ? まあ、いいとこの女なんだから、育てばそれなりに見えるようにはなるんだろうが……。

 いや、でも、顔だけで、そういうのを選ぶってのもなぁ。確かに、顔が気に入らなけりゃ、そういう気分になれないのも分かるけどよ。ただ、ラケルデモンでは、結婚しても一緒には住まないので、もっと、こう、良い子供が生めそうかどうかとか、うん……基準がちょっとこことは違うわけで、なぁ?

 しかし、この場で駄々をこねるのもみっともないので、上手いお断りの理由は後付で考えるとして――。

「だから、俺はそんなにガキじゃねえっての」

 と、溜息混じりにそれだけの返事をすれば、不承不承といった様子ではあったが二人は案外あっさりと俺を解放した。


 着衣を整え、改めて婚約者を見てみる。

 ふふん、と、どこか調子に乗った勝気な笑みを返された。

 次いで、王太子を見るが、こちらもどこか生意気な婚約者と似た表情をしていて、親戚とはいえ血は繋がってるんだな、と、頭を抱えるしかなかった。

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