番外編[χρυσο´θρονος Ήω´ς]

 遅過ぎたのだ、と、レオは痛感していた。

 アーベルの祖父が死に、十余年の時が流れている。

 記憶が風化し、決意が鈍るには充分な時間だ。

 アーベル達が成長し切るには足りず、その盾となるはずの者達が老いによって怠惰になるには充分な時間が……既に流れてしまっていたのだ。


 牢獄からの脱出に困難は無かった。

 元々、不気味な叫び声や腐臭漂う牢屋の見張り番なんて誰もが嫌がる仕事だったので、密やかに仲間で周辺を固められていたし、無論、逃走経路に関しても入念な下準備を行っていたからだ。

 確かに、レオとアーベルの異母弟は国家に対し好ましい相手ではなく、むしろ、邪魔者として排斥された存在である。が、伝手と心得さえあれば、説得はそう難しいことでもなかった。精鋭の処刑部隊を率いていたことにより、レオは各拠点の長を熟知していたし、秘密裏に接触を図ることも難しくなかったからだ。

 また、正式に王家の血筋を引くものに武勲のある老将という肩書きが、交渉の場で更に有利に働いていた。積極的な協力は出来ないが、かといって無碍にするわけにもいかない。もし上手く政権を奪還したのなら、その時にどんな処罰を受けることになるか解らないからだ。

 また、逆に、レオ達を取り押さえようとし、それを失敗した際の懲罰を恐れるという、ある種の矛盾を孕んだ思考から協力を申し出るものもいたし、逆に、自分の周囲でいかなる問題も起こって欲しくないので、レオ達をただの一介の旅人として処理するという権力者もいる。

 そう、協力の内容は、その土地土地の訓練所の長によって違っていた。より正確には、その性質や個性とでも言うべきか。

 通り抜けるのを見逃すだけという地域が大半であったが、稀ではあったが衣食住までの協力をしてくれる場合もあったし、また、多くは無かったが、直前になって態度を変え、管理区域への立ち入りを拒まれる事もあった。


 アーベルの異母弟は、ずっと牢屋の奥に押し込められていたため、足腰も弱く、まだ長い距離を移動することが難しい。

 素直に周囲に言われるがままに行動をしているものの、経路の変更による負担に、少年の身体が悲鳴を上げている。元が牢屋暮らしとはいえ、洞窟を利用した牢屋は風雨を凌げるし、多少の寝具も特別に用意されていたことを考えると、野宿はその小さな身体には負担が大き過ぎた。発熱や疲労による筋肉痛、足の皮が剥けた事、等により、レオ達は度々足止めを余儀なくされた。

 だが、レオがアーベルから受けた傷を理由に、裁判を夏の終わりまで延ばせていたこともあり、野山の実りや肥えた獣と食料が不足することも無く、また、秋は気候的も穏やかでアーベルの異母弟を負担に思う者はなかった。その上、逃亡を始めてすぐにアテーナイヱとの戦争が始まったためか、国内には治安維持のために少数の兵士が要所に配されているだけで、レオ達の進軍速度が低下していても襲撃を受けることもなかった。

 軍事拠点に近付かず、水が確保でき、起伏の少なく歩きやすい道を北へと進めばよかっただけ。

 そう、全ては予定通りに進んでいた。

 冬が、始まるまでは――。


 戦闘をほとんど行わず、北の国境線に辿り着いたレオ達は、しかし、冬の半ばを過ぎてもコンリトス側へと抜けられずにいた。

 国境線に、軍が展開していたためだ。ラケルデモン兵だけではない、受け入れを約束していたコンリトス側からも相当の兵が派遣されており、共同で関所、そして、およそ人が通り抜けられる国境線の要所全てを固めている。

 いや、確かに国境を警備するのは普通のことで、しかも現在ラケルデモンはアテーナイヱとの戦争を遂行中である。コンリトスはラケルデモンの同盟国であるし、しかもペロポネソス半島と大陸を繋いでいる陸運の要所であり、また、北西にイオニア海、南東をエーゲ海と接する地峡が国土の大部分を占める。

 平時に人の行き来がしやすいように造られた都市国家であるために、敵の進軍を阻む手段は乏しい。

 要は、攻められ易く、守り難い土地なのだ。

 陸戦最強国の自負があるラケルデモンと共同で国境を守るのは、むしろ自然なことであったし、レオたちもそれは想定していたのだが……。


「レオ殿」

「うむ」

 関所へと補給物資を運ぶ半自由人――ラケルデモンでは、ラケルデモン人の犯罪者を農奴であるヘロットの上におき、半自由人とし商工業を行わせている――に紛れ込み、コンリトス側と接触した兵士が戻ってきた。

「やはり、コンリトス側としましては、自力で国境を突破することを求めております。王としての資質を示すべし、と」

 国境付近の山岳地帯に潜み、既に何度も交わされた遣り取りだったが――それでも、レオもその部下達も心のどこでは今度こそはと思ってしまい……毎回、飽きもせずに落胆していた。


 レオでさえも老いていたのだ。

 若き日のレオだったなら、一度目の拒絶でその意図を全て見抜き、別の手段を講じていたはずなのに、部隊を動かす危険性リスクを恐れ、不安定な均衡状態に甘んじ、ダラダラとした交渉で時間を浪費している。


「ラケルデモン政変後の亡命組織の方は?」

 首を横に振った兵士が答える。

「アヱギーナ、アテーナイヱに抜かれたとはいえ、コンリトスは商業国です。ラケルデモンのような富の分配制度は無く、農地を農奴に任せておけばいいというわけでなく、その……。護衛や傭兵として得られる資金は乏しく……支援は難しいと」

 周囲の部下達が頭を抱え、アーベルの異母弟は、旅の最初と同じようなよく分かっていない顔で周囲を見詰めていた。


 そう、全ては、遅過ぎたのだ。

 メタセニアとの戦争、その後の反乱の鎮圧と、レオと共に最前線で数的劣勢を跳ね返した世代は死に絶えている。コンリトス側の亡命組織といえども、今やその息子や孫が主体となっており……形骸化していた。

 ラケルデモンへの帰還、奪還、自分達こそが誇りあるラケルデモン人である、等というお題目は、既に自分自身に対する慰めや、仕事の報酬を上乗せさせるための方便となっている。

 今現在、レオと志を同じくする者は、アギオス家の騒動によってアクロポリスでの居場所を失った者や、このままでは出世の見込みの無い者、半自由人の生まれであるがゆえに市民権を渇望する者。

 才能がある人間や、強い意思を持つ人間は、レオただ一人だったのだ。


「もう一度、こちらの話を――!」

「やめておけ」

 唇を噛み締め、勢い良く立ち上がった兵士を押し留めたのはレオの声だった。

 縋るような兵士の視線に、レオは軽く目を伏せて重ねて言った。

「やめておけ、もう、無駄だ」

 レオは、愚かではない。事実を受け入れるのに時間が掛かっただけで、このままここで春を待ったところで事態が好転しないことに気付き始めていた。


 コンリトスとしては、ラケルデモンが他の商業国を攻めさえすれば、それでよかったのだ。問題は、その戦争の規模だった。

 確かに海はまだアテーナイヱが握っている。いや、だからこそ陸運の重要度が増し、ラケルデモンと大陸側の同盟国への物流を取り仕切っていることによる旨みが増していた。

 コンリトス側にとって、レオ達はあくまで保険だったのだ。

 アテーナイヱが、戦争を回避したり、あっさりと降伏してしまった場合、経済的にラケルデモンを支えたコンリトスの利益は少ない。むしろ、戦後にラケルデモンとアテーナイヱの結びつきが高まり、コンリトスの商業国家としての地位が相対的に低くなる可能性すらあった。

 その場合、ラケルデモン国内を動揺させ、ラケルデモンとアテーナイヱとの戦争につぎ込むはずだった物資と人材を売りつける必要があった。そのための火種だったのだ。レオもアーベルの異母弟も。

 しかし、現在、ラケルデモンは無駄な損害を避け、アテーナイヱの各主要都市に対し、兵糧攻めを行っている。攻囲陣の維持には、莫大な金が掛かり、その補給を一手に担えたことで、コンリトス側は当初想定していた以上の利益を得ていた。

 ならば、ラケルデモンの国家の敵である二人を匿う意味は無い。

 むしろ、逃げたことで反逆者となった二人を匿い、その背信を責められて賠償をふんだくられたら大損だ。

 コンリトスは、あっさりとレオ達を捨てた。


 この分では、無理に国境線を突破したところで、支援が得られる保障はない。

 なにより、寄せ集めの部隊では効率的な作戦行動は難しい。現状、強行突破という賭けに出るまでは追い詰められていない、と、損害が出ていないことでレオは事態をまだ楽天的に考えていた。

 今後を考えれば、ラケルデモン側と交渉する後ろ盾も窓口も失い、もうすでに詰んでいるというのに。


「レオ殿……」

 途方に暮れたような声に、レオは力強い声で答えた。

「大丈夫だ。手は打ってある」

 とはいえ、レオにも確信は無かった。しかし、自分達が助かる可能性は、アーベルが握っていると強く感じていた。

 根拠は、無かったが……。

 しかし、アーベルは予想以上の成長を見せていることをレオは知っている。単なる暴力だけではない。人を慮ることは下手だが、その覇気に惹かれる者は少なくない。そして、それを率いることにも、少年隊で手馴れている。

 アギオス本家の旧臣達がアーベルを選ばなかった理由に、優秀過ぎて手に負えないという理由があった事をレオは知っているし――自覚している。

 関所での戦いでレオがアーベルに感じたのは、奇妙な懐かしさだけではない。

 恐ろしかったことも思い出したのだ。

 アーベルの祖父は、戦場において信頼され、また、平時にも落ち着きがある素晴らしい王だった。

 だが……。

 その心の奥底まで見通すことは出来なかった。長年、親友として、また、側近として使えてきたレオでさえも。

 時々、夜の底のような見通せない暗さをその瞳に湛えていた。非情な命令を出すその時にも口から薄い笑みが消えることはなった。弱音を吐かなかった。

 どこか人間離れしたその姿勢を――不気味だと感じる側近も、少なくは無かった。

 アーベルは、祖父に似ている。レオは強くそう感じている。

 ……良い部分だけで無く、あらゆる面で。


 だが、上手くアカイネメシスの商人連中がアーベルを探し出してくれていれば、十年を越す時間の中で腐ってしまったコンリトス側に逃れたラケルデモン人組織よりは余程力になってくれるはずだった。

 対アテーナイヱという目的が一致し、ラケルデモンやその同盟都市の取引が増えてはいるものの、アカイネメシスはかつてヘレネスと大戦争を行った敵国だ。そんな簡単に信頼できるはずが無い。

 ラケルデモンとコンリトス、いやそれ以外の同盟国との間を商用で行き来しながら、アカイネメシス人はあくまでも部外者であり続けている。

 そこに、レオが個人的な依頼を紛れ込ます隙があった。

 そう、レオは、アーベルがコンリトスに潜伏していると考えていた。そこで力を蓄えている、と。

 ラケルデモンとの同盟関係を嫌ったのなら、その北のテレスアリアまで逃れているのかもしれないとは考えていたが……。まさかアーベルが、連れて行った農奴の女であるエレオノーレの希望に従い、アテーナイヱとアヱギーナの戦争に加担していたとは全く考えていなかった。しかも、ラケルデモンとアテーナイヱ間で戦端が開かれた後は、先の戦争で得た兵を率いてヘレネス最北の地マケドニコーバシオに拠点を移している等とは夢にも思っていなかったのだ。

 だから、レオからの伝言は迷走した。

 そもそもがどこに居るのかも分からない人間に対しての伝言だったので、依頼後はアカイネメシスの商人がどれだけ本気になってくれるか次第だったのだが――。レオが半端に重要性を匂わせたため、予想以上の騒ぎとなってしまっていたのだ。

 今や、レオが第一線で戦っていた時代よりも、遥かに人や物・情報の行き来の速度が速いことに気付けていなかったのだ。

 そして、更に悪いことに、中途半端な人探しの結果として、もう一人の王位継承者がコンリトスにいるかもしれないという情報が波紋を呼び、元々少なかったレオの協力者達が完全に手を引く遠因のひとつとなった。


 アーベルは良い意味でも悪い意味でも目立つ男だ。他国にも、いや、ラケルデモンにあってさえも似た男がいるはずもない。

 その特徴はしっかりと伝えているので、その耳にこちらの情報が届くはずだった。問題は、それが自分達が敵に捕まる、あるいは殺される前であるか否か、だ。


「拠点を移そうか」

 アーベルの異母弟だけではなく、従う兵の顔にも疲れがはっきりと見えたので、レオは務めて明るい声でそう宣言した。

 しかし、周囲を取り巻く人間の反応は鈍かった。

 少し待ってみても誰も口を開かなかったことから、再びレオは――今度は、普段通りの口調で続けた。

「ラケルデモン国内に留まり続けては、いつ攻撃を受けるか分からない。コンリトスがダメでも、やりようはある」

「では、どこに?」

「アルゴリダ。最も注目されていない属国だ。一応、他国としての体裁をとっている以上、ラケルデモンとしてもそう簡単に軍は送れないだろう。最後に、アカイメネシスの連中に、アーベルとの待ち合わせ場所の変更を伝言してくれ。それが終わり次第出よう」


 しかし、ここでも、レオの読みは大きく外れることになる。

 アルゴリダはもう既に自立への道を諦めており、あっさりとラケルデモン軍の進駐を許した。レオ達がアルゴリダへと移動している冬の間、ラケルデモン側がなにもしなかったのは、アルゴリダ側が受け入れに難色を示したからではなく、ラケルデモン周辺での海戦の影響によるものだったのだ。

 また、秘密裏の接触ではあったが、レオ達がアルゴリダ王家へと接触をしたものの、当然のごとく支援要請は断られていた。レオ達が王権を握ったあかつきには、アルゴリダの自立を認める。成功する可能性が低いからこそ、充分な見返りを提示しての交渉だったのだが、アルゴリダ側としては目まぐるしく変化する国際情勢に翻弄されるよりも、安寧としていられる日々の方を選んだのだ。たとえそれが、誰かの支配下の偽りの平和であったとしても。


 策は、尽きていた。

 だからといって、今更降伏しても許されないことは明らかであった。

 包囲網は狭まってきているが、身を寄せ合い、息を殺し、潜伏して時間を稼ぐことぐらいは出来ていた。春、夏、秋と野山の実りに依存しながら、国境付近の山岳地帯にひっそりと隠れ住んでいる。

 しかしそれは既に単なる延命であって、当初の目的へと向かう道ではなかった。

 そして、それを指摘する者もいなかった。

 今日死ぬよりは、明日も生きていたい。そんな妥協がレオ達を支配していた。

 もしかしたら、コンリトスかアルゴリダの気が変わり、支援されるかもしれない。アテーナイヱとの戦争で王が死に、中央監督官の方針が急に変わるかもしれない。

 どこかの誰かが、助けてくれるかもしれない。

 状況を自力では打破できず、そんなありえない奇跡だけを祈っていた。


 海は、陸で劣勢なアテーナイヱが、必死にラケルデモンと戦っている激戦区であり、たかだか五十名程度のこの集団では、船を奪えたとしても無事に海域を抜けられないとレオは判断していた。

 そう、レオ達は知らなかった。

 レスボス島でその主要都市ミュティレアがアテーナイヱに反乱をおこしたことも。ラケルデモンが、味方についたミュティレア救援のため艦隊をエーゲ海の東へと派遣したことも。アテーナイヱが、レスボス島懲罰のため、主力艦隊をラケルデモン近海より引き上げていたことも。

 そして、最後にマケドニコーバシオの王太子派が、アーベルを中心とした軍を派遣し、レスボス島を影から支配することに成功していたことも……。

 海へと逃れれば追撃を降りきれたのに、冬で海路が閉ざされているとの思い込みから、唯一の機会は永遠に失われてしまっていた。



 そして、迎えた二度目の冬。

 野山で糧を得られなくなり、止むを得ず日用品を補充に出かけた分隊がつけられた。

 包囲された絶望下で覚悟を決めたその場に現れたのは――。


 誰にも選ばれなかった、もうひとりの……孤独のラケルデモン王太子だった。

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