Menkhibー3ー
それほどまでに俺という危険物と長期間の旅をしたくはなかったのか、馬車は八日程でエペイロスとの国境の関所へと到着した。距離を鑑みれば、普通に進めば十日程度のところを、日の出から日没まで馬車を走らせたおかげで、天候の悪い冬季にも関わらず二日間も短縮出来ていた。
まあ、俺としても急いでくれるに越したことはないので、余計な口は挟まなかったが……。馬や雑用の奴隷には、良い迷惑だったかもしれないな。
関所は、立派とはいえないが、積雪や侵攻に対抗するため、付近の山で切り出した石灰岩とモミの木を組み合わせた堅牢なつくりをしていた。
ふと、こんな場所で糧秣はどうしているのかと疑問に思ったが、ここまで案内させた山賊のような連中を使ったり、山の動物を狩って食料にしているんだろう。
ふと、小屋の軒先で血抜きされている白い鳥が目に入り――。
「おい、あのでかい鳥は、なんだ? サギか?」
と、山賊連中に訊ねてみたんだが、どいつもこいつも、ただ首を傾げているだけで、返事を返すものはいなかった。いや、むしろ、どこか気が漫ろで……。
ああ、目的地に着いたので、馬車や奴隷を奪われるんじゃないかと心配しているのか。
確かに、昔の俺なら、コイツ等の商売道具を奪った上で、文句を言うなら皆殺しにしていたんだろうが……。今は、正式にマケドニコーバシオに身分を保証されて入国しちまってる以上、醜聞となるような行動をするわけないだろうに。
……まあ、多少は残念っちゃ残念だが、別に今は斬りたい気分でもないし、街道を荒廃させるわけにも行かないだろう。
「もう行って良いぞ。お前等が、まともに出国できるわけもないしな」
苦笑いで告げると、山賊どもは顔を見合わせた後、恐る恐る訊ねてきた。
「その、奴隷は、よろしいんで?」
「あん?」
なにがよろしいのかって……。ああ、確かに、前に率いていた商隊は、奴隷を買って解放しながら勢力を拡大していたので、それが歪んで伝わっているのか。
ここまでの旅で、雑用をさせられていた三人の奴隷を一瞥するが、特に、どうこうしようという気は湧かなかった。
いや、それ以前の問題か。
「俺は、これから戦争中の地域に突っ込むんだが、ついて来たいのか?」
山賊の何人かがバカみたいに大口を開け、もう何人かが後退りし、奴隷は怯えた顔になった。つまり、そういうことだ。
奴隷とはいえ、見た感じ、メシを食えてないわけでも死にそうなわけでもなさそうだし、俺に連れて行かれる方が迷惑だろう。
つか、そもそもが別に俺がとやかく口を出すような問題じゃない。
あの時と、今は、立場も状況も、目的も、なにもかもが違う。
ふん、と、軽く皮肉を口の端に乗せ、山賊の――頭領なのかどうかは、結局、訊かずじまいだったが、最初に話しかけた大男に向かって俺は言った。
「そういうことらしい。……じゃあ、達者でな」
山賊は、大慌てで、振り返りもせずに元来た道を引き返して行った。
その様子を、ははん、と、軽く笑ったら、礼を言ってなかったことに気付いた。前に、プトレマイオスに注意されてたんだがな。
もっとも、礼を言う必要のある相手か、と訊かれれば微妙でもあるが。
改めて、腰に手をあて、ほう、と、息を吐くと、まだ昼なのに白く曇った。
いや、それだけではなく、なんとなく、頬や手の甲になにかが当たるのを感じ――梢の隙間から空を見上げれば、霧雨が凍ったような微かな雪が……降る、というよりは、舞うように薄曇の空から降りてきていた。
もう、すっかり冬だ。
小降りとはいえ、雪の中で山越えをする物好きは少ないためか、門前広場に人影はなかった。管理小屋で暇そうにしている役人に許可証を渡し、開門と出国の手続きをはじめる。
「さっきの連中は?」
おざなりに書類を確認し、なにか書き加えながら、番兵の一人が尋ねてきた。
駐留の兵士は少なくはないようだが、配置換えは少ないのか、人との交流に飢えているのかもしれない。でなきゃ、俺みたいな明らかに気難しそうなヤツに、雑談を差し向けてはこないだろう。
ふふん、と、笑い――。
「貴国の山賊らしい。街道で遭ったら、ぜひとも旅の手助けをさせて欲しいと懇願されてしまってね。いやあ、この国の山賊は人間が出来ている」
皮肉ってわけではないが、暇つぶしのからかいを含めて大袈裟に話し始めると、ソイツは苦笑いで応じた。
態度を見るに、あの山賊とは初対面なんだろう。海沿いのあの町の近くの山を根城にしている山賊が、こんな南西の国境警備兵と顔見知だって方が不自然といわれれば、もっともだが。
「あの鳥な」
お返しのつもりなのか、どこか呆れのある笑みで、小屋の軒先の鳥を指差す番兵。
さっきの話は全部聞こえてたってことなんだろう。
「おう、美味いのか?」
ついでなので、話に乗っかってあの鳥について訊ねてみると薄く笑った兵士が首を横に振って答えた。
「肉は臭いが、食えんこともない。でかいから、たまに捕まえる程度だ」
はぁん。
まあ、確かに翼を広げれば、子供の背丈ぐらいはあるし、肉はそれなりに取れるんだろう。味がイマイチでも。
「嘴は、ちょっとした工具代わりにも使うがな。丈夫じゃないので、あんまり無茶も出来ないが」
兵士は、そう言って、まだ微かに血の匂いのする、ヘラのような嘴を台の上に乗せた。
「嘴の形が、平地の物と違うな」
サギは黄色いくちばしの物が普通だと思っていたんだが、これは黒い嘴をしている。鼻孔の位置から判断するに、嘴の先端が膨らんでいいて、これは初めて見る特徴だった。他にも、マケドニコーバシオの沼地で見られたものとは少し湾曲が緩いように見える。上顎だな、これは。
ミエザの学園の本に書かれていた内容と比べ、微妙に特徴が違う。もっとも、羽やその他の特徴はサギなので、山岳部の固有種なのかもしれない。
「詳しいんだな」
ちょっと意外そうに兵士が真顔で俺を見ていたので、一拍間を空け、苦笑いで俺は首を横に振った。
まあ、昔は食えるかどうかぐらいにしか興味はなかったしな。
「いい先生に、学問を教わっていてね」
それはそれは、と、兵士は答え、書類を俺に返却した。
詰め所から出てきた兵士は五名で、通行希望者が滅多にいないのか、すぐさま開門の準備に入ってくれた。
「場所が場所だから山賊は次の町まで出ないだろうが、獣には気をつけろよ」
門に繋がる鎖を巻き上げながら教えてくれた兵士に「なにがいる?」と、訊き返す。
「クマに、オオカミ、ジャッカル」
「クマは、冬眠してるだろ」
それに、オオカミやジャッカルは、基本的に人を襲わない。家畜を連れているなら、厄介な相手だが、馬車を帰しているので当分は歩きだ。
むしろ、曇り空で方向を見誤ったり、雪で道が消えている場合の方が問題となる。
「遭難するなよ」
開ききった門を抜ける時、そんな声を掛けられたので、右腕を上げて応え、俺は振り返らずに……しかし、山で疲労を溜めるわけにも行かないので、意図的に余裕のある速度でゆっくりと道を下り始めた。
背中から、門の閉まる大きな音が聞こえ――、微かに山の動物達が動く気配を感じた。
出入国の証明書と一緒に受け取ったエペイロスの簡単な地図を見ながら、アラフトス川に沿って南西に進み、南端の国境に近い昔ながらの港湾都市のアンプラキアへと抜けると決めた。
食料は、取りあえずは水さえ取れれば問題は無い。山野草はもうこの季節じゃダメだろうし、本格的な狩りは時間が掛かる。そもそも、飢えて動けなくなるまでの間……十日以内に次の町に着けば良いだけだ。
もっとも、好き好んで飢えるつもりもないがな。
炒った後、挽くことで嵩を減らした大麦の粉が残り一袋に、欲し無花果少々、活力剤のニンニクを球根のかたまりで二つに、干し魚。節約すれば、無補給でエペイロスを横断することぐらいは可能だ。
脆くなっていない適当な長さの枝を拾い――完全に乾ききって脆くなった枝も、野営時の薪として少しは拾い集めるが――、杖がわりにした。歩行を補助するためなので、両手に一本ずつ。
山は、腕の力も使って昇り降りした方が良い。歩き方も、平地を駆けるように爪先だけで引っ掻いて進むのではなく、足の裏全体を地面に着ける。歩幅は小さく、下りなので膝を高く持ち上げる必要はないが、逆に重心が踏み出す足に移動しがちなので、軽く踏み出してから体重を前に掛けるように……。
呼吸はゆっくりと、息が少しでも上がるようなら、歩く早さを緩めるか、いっそのこと小休止を挟む。
……どれも、ラケルデモンの少年隊で得た知識だ。
あんな、下の下の環境の中でも――、いや、あれだけクソな環境だったから、役立つ知識はしっかりと覚えることが出来ていたんだろう。
覚え損ねれば、死ぬだけだったし。
関所近くの山頂付近では針葉樹が多かったが、中腹を越えると広葉樹が混じるようになり、粉雪も止んだ。まだ雲は厚いが、足元には雪の湿り気や、凍った土の感触はしない。
もっとも、夜になれば分からないが。
なにか無いかと思い広葉樹の木の枝を観察するが、木の実は既に落ちていたし、枯葉の中の腐っていたり、良いところは虫に食われているような堅果を食いたいとは思わなかった。
川沿いを歩いているので、イタチでも出てくれば、肉が取れて毛皮も高く売れるので良いんだが、すばしっこく、しかも、この辺りのイタチは冬には暗褐色の体毛に覆われているため、雪が一面に積もらないと中々見つけられない。
まあ、積もったら下手に歩けなくなるので、雪が降るように祈るのは本末転倒か。
雲のせいで正確な時間は分からないが、空に明るさが残るうちに野宿の準備を始めた。ひとつ目の尾根は越えたが、山脈はまだ続いている。
港湾都市イコラオスから関所までの間も野宿は野宿だったが、山賊の方で勝手に気を使ってくれていたので、馬車の中で毛布に包まって寝れていた。だが、今日からはそうはいかない。
曇り空の下、樹高が低いが枝が広くなっている木を選び、その下に寝床の準備をする。雪が降り始めても枝でさえぎられるのが理由のひとつではあるが、煙が枝葉で散るので、周囲に居るかもしれない賊の目に止まらないようにするためでもある。
焚き火でイワシの干物を炙って食べているうちに、日が完全に落ちたらしく、夜になっていた。厚い雲のおかげか、気温は然程下がったように感じないが、予備の外套を毛布代わりに身に纏い、横になる。
長旅、しかも冬場の山越えとあっては、体力は温存するに限る。
食事を終えたらすぐさま横になるが――、昔と違って、すぐに眠気は訪れてくれなかった。少年隊時代には、いつでも寝れたっていうのにな。ラケルデモンを出てからは部屋を貰っていたので、整った寝具に慣れてしまったせいかもしれない。それとも、俺も年齢だけならもう十六になり、それなりには大人になったせいか。
いや、単に、今日がたまたまそういう気分の日だったのかもしれない。
……そう、あの時も冬だった。
忘れていたと思った記憶が、不意に瞼の裏で煌めく。
秋にヘロット――国有の農奴、エレオノーレがかつて所属していた階級だ――が、麦を蒔くので、穀物の備蓄量が減り、冬に間引かれる人間の目星がつくのは、ちょうど今ぐらいの時期だった。
単純に生来の体格で間引かれるものが決まる初年度は別だが、二年目以降は秋の実りを受けられずに痩せ、また、怪我のある人間が間引かれる。
そう、名目上、身体の弱い人間が冬に間引かれることにはなっているが、しかしそれは、単純な個としての強弱だけでは決まらなかった。弱者が群れることで、強い身体を持った人間が標的にされることもある。
腕力だけじゃ足りない。
知能も、技能も、なにもかもが生き延びるには必要なのだと、少年隊に落ちぶれて初めて俺は知った――。
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