Menkhibー1ー

「ほれ」

 呼びかけられ、薄く閉じていた目を開ける。

 視界に広がるのは、相変わらずの冬の薄曇の空。磯の臭いには慣れてしまって鼻は……、いや、臭覚はほぼ麻痺してるな。酷く揺れるせいで、平衡感覚も若干怪しい。起き上がる際に、床に衝こうと思っていた手が、若干滑った。


 まあ、初めて船に乗った時のように吐くほどでもないが……。

「ん? なんだ?」

 甲板っつーか、大人が四人横になればいっぱいになるような小船だったので、甲板も船倉もあったもんじゃねえが、ともかくも横になっていた体を起こす俺。

 俺の足元と頭の上には、船首と船尾で船を漕いでいる二人の漁師がいる。

 日が差した所で、冬なら焦がされる程のことも無い。だから、甲板で外套を被って仰向けに寝転がり――とはいえ、他人の前で熟睡するのは危険だから、薄く目を閉じ、身体だけ休ませていただけだが――、今後に備えていたんだが……。

「タコだよ。食いな。タコは冬が美味いんだ」

 頭の上、もとい、船尾側で船を漕いでいた、もみあげが髭に繋がっている毛深い方の漁師が、串に刺したタコの足を俺につき出している。

 表面も乾燥しているし、見た感じ、オリーブオイルも使わず、一夜干してただ遠火で焼いただけの荒っぽい料理だった。

「ああ、ありがとう」

 そういえば、昼を取っていなかったか、と、受け取りはするが、食欲は余り無い。眩暈って程じゃないんだが、なんか、船酔いになる寸前のような頭の重さとだるさがある。

 ったく、小型の漁船はダメだな。

 揺れが、三段櫂船の非じゃない。どうやら、船体の揺れは、大型の輸送用ガレーが一番穏やかみたいだな。ちくしょう。


 乾燥させたミントや数種の刺激の強い木の実を、冬でも手に入るウィンターセイボリーの生葉で包んだ気付け薬を噛み、唾液と胃酸を出してからタコの足を齧る。

 味は……塩が利いてるってよりか、海水に潜らせて焼いたような、そんな単調な味だ。タコと塩以外なにも主張してこない。

 って、日頃から香草をたっぷり使った食事を取ってるせいで、舌が贅沢になってきてるな。昔は、毒じゃなければなんでも良いって環境にいたこともあったってのに。


 俺の足元――船首側で船を漕いでいたもうひとりの男が、気付け薬を噛んでからタコに齧りつく俺を見て笑っている。

 まあ、その程度で怒りもしないが……っつーか、そんな気分でもないってのが本音だが組んだ足の膝の上に肘を乗せ、頬杖を衝いて目の前の男を軽く睨む。

 漁師としては、船酔い……いや、俺はまだ酔ったって程ではいないが、少なくとも揺られて調子が出ない程度で薬を使うのは、確かに贅沢なんだろう。この辺の連中の収入をはっきりと知ってるわけじゃないが、身形を見るに、塩漬けのオリーブを買うのでさえ苦労してそうだ。


 ふん、と、軽く鼻を鳴らせば――。

「タコは冬でもとりやすいンだ。見てな」

 そう言って、禿げてる方の漁師が、おもむろに櫂を逆手に持ち替え、得意そうな顔で柄の先端を海中の岩の隙間に突っ込むと、なぜかタコの方から櫂にしがみついてきた。

 刺してないんだから、海から引き上げる前に逃げられるだろうと思っていたんだが、びっくりするぐらいあっさりと水揚げされ、俺の足元に叩きつけられるタコ。

「今は、まだ、目を回してるだけだからな」

 と、そんなことを言いながら、禿げの料理がタコに……噛み付いた?

 そのまま生で食うつもりなのかと、内心戸惑っていると、獣の血抜きのような処置だったらしく、二~三度漁師が噛めば、タコはもう大人しくなっていた。

 ほ~、と、思わず声が漏れるが、それ以上に疑問の方が大きい。

「なんでタコは逃げないんだ?」

「さぁ? ただ、エサが無くてもくっついてくるし、変に銛で突くよりも、傷がない方がいいからな」

 経験則、か? 多分、ずっと昔の誰かが試して、それが伝わっているってだけなんだろう。先生は、もう知っている習性だろうか?

 なんだか、不思議だよな。学者が観察して必死で記録していることが、ある職業では普通の常識なんだから。


「って、おい! そのまま食うのか?」

 てっきり、今日の成果として持ち帰るのだとばかり思っていたら、あっという間に、さっき引き上げた禿げの漁師が、ハルパー――武器というよりは、下草を刈ったり、簡単な加工に使う鎌状の短剣――でタコの足の付け根の……なんだ、あれ? 口、か? ん、まあ、ともかく、タコを開いて、内臓を引き出し、手際よく捌いている。

 って、もう、足から頭から、食いやすく加工されちまってるな。……ぬめってるけど。いや、まずもって、まだ動いてるけど。

 食って平気なのか、これ?

「塩でもみゃあいいんだよ、食え食え、昼の一休みだ」

 その動きは、塩揉みではなく、ただ塩をまぶしただけだと思ったが、日頃海に出ている人間が食えるんだから、俺が食っても大丈夫だろう。多分。


 つか、俺としては、さっきの蛸足だけで昼飯のつもりだったんだが、どうもあれは休憩に入るための口実だったらしいな。

 まあ、海の上で船乗りに逆らう趣味も俺には無いが。それに、ただ乗ってるだけの俺と違って、漕ぐのは重労働だろうしな。腹が減っては力が出ないか。

 今日中にテレスアリア領に入れるのなら、休憩をすることに対し、特に不満は無い。

 俺も懐から、炒った大麦の粉を水と少量の蜂蜜で練った携帯食料――ただし、焼き締めていないので日持ちしない。船上では調理が難しいので、その日しか持たないお手軽料理でも、結構重宝する――を取り出し、握り拳大に千切って二人の漁師にも渡す。

「甘味付きとはありがたいね」

 薄くしか混ぜていないので、それほど香るはずもないんだが――事実、俺は潮風の中で蜂蜜の匂いを感じていないし――、日頃から海の匂いに慣れていると、吹きさらしの船上でも嗅覚はそこまで鈍らないのかもしれない。


 拝むようにして、無醗酵で焼き上げてもいない携帯食料を受け取る二人。

 随分と大袈裟な態度のようにも感じたが、海沿いだと、日持ちする蜂蜜は目にする機会が多く、しかし、口にする機会が少ない贅沢品だということを思い出し、軽く苦笑いを浮べてしまった。

 干した果物ほど、手軽には手に入らない、か。

 船旅を始めた頃から食事に不自由していないので忘れがちだが、蜂蜜は高価だ。自由市民以外は、運よく巣を見つけ、煙で燻したりして苦労して取り出さないとありつけない……いや、そもそも自家消費よりも、金に換えるほうを選ぶのかな。量で言うなら、蜂の巣ひとつでも、数日飲んだくれられる程度の安ワインには交換出来るんだし。

「悪いな、冬に遠出させて」

 分けた食料で向こうが気をよくしているうちに、そう付け加えると、どこか調子に乗ったような、軽いノリで応じられた。

「なぁに、漁師ならこの程度。それに、駄賃が出るとあっちゃぁな」

 中々に逞しいことだ。

 まあ、こんな小船では一年中ひどく揺れてるんだろうし、冬に少しばかり海に流れてくる水が増えたところで気にはならないんだろう。

 そもそも漁だけじゃ、商人みたいに冬に休んでても食っていけるだけの稼ぎにはならないんだろうしな。


 折角の甘味なんだから、味わって食えば良いのに、二口、三口で飲み込んでしまった二人。わざわざ捕るところまで見せたタコには、大して手をつけていない。多分、食い飽きているんだろう。

 確認するまでもなく、船に積んである非常食はタコが多い。タコ以外には、少量の貝の干物に、後は適当に引き抜いた海草を干した物が、雑に大きな葉で包まれて置かれているだけだ。

 小麦はおろか、大麦も中々買えていないのかも。

「なあ」

 割とあっさりしていて、見た目以上には食いやすい生のタコを適当に抓みながら、小脇に抱えられる程度の小さな瓶のワインを回し飲みしている二人に呼びかけてみる。

「ああん?」

 酒で若干良い気分になっているのか、さっきよりも気安い……ってよりかは、乱暴な口振りで返してきた漁師。

「お前等は、海賊になって俺を人質にしようとは思わんのか?」

 体格的に見て、戦えないってわけじゃないと思った。もし戦争が始まれば、金のある自由市民の下で、軽装歩兵に取り立てられても不思議じゃない。いや、軍船の漕ぎ手として徴用されるかな?

 ともかくも、そうした健康的で充分に動けそうな連中だったから――いや、不健康な痩せっぽちじゃ、そもそも船なんて漕げないだろうが――、場合によっては、町から充分に離れた途端に掌を返されるかと思ったが、別段、なんの問題も無く船は進んでいた。

「ああ、まあ、そういう連中も多いがな。アンタ、軍人だろ?」

 軽く頭を掻き、きまりが悪そうな顔で俺に訊き返してきた。

「そうかもな」

 明言はしないが否定もしないでいると、肩を竦められてしまった。

「命がいくつあっても足りない」

 俺がもっと弱そうだったら、そうしていたのか否かは、判断出来ない顔だ。が、先払いの駄賃以上の欲はださなそうだと感じた。それは、無論、こいつ等が無欲ってわけじゃなく、俺を襲って駄賃を使う前に死ぬ危険と、俺の有り金全部を奪うことの利益、そして自分達の力量を把握した上での合理的な判断の結果だと思うが。

 どっかの誰かのように、つけいれられる隙を見せてばかりいては、対等な取り引きなんて成立しない。それは、当然の事だ。


 ま、いずれにしても、分をを弁えられる連中は嫌いではないがな。

 はは、と、軽く笑ってから、目を細めて俺は続けた。

「実は偉い将軍なんだ、部下になるか?」

 瞳の奥を覗き込むが――、二人の漁師は、野心も狂気も出さず、考える間さえも取らずに即答してきた。

「そんな危ないことも勘弁さ。勝てそうな戦争なら混じるかもしれねえが、守るほどの家も財産もねえんだから、とっとと船で次の港を探すのが長生きのコツだ」


 なるほど。

 理がある話だ。

 都市国家の――安全な城壁の中に、立派な家をもてるなら別だが、船上に乗る程度の全財産なら、命を賭けてまで守るようなものではないのか。


 忘れていたわけじゃないんだが、人はどんな場所でも生きていけるんだということに改めて気付けた気がする。

 攻め取りたいものもまだ山ほどあるが、最近は、守らなきゃならないものが増えてきちまってたからな。



 長い昼休憩の後、船は再び南下をはじめ、雲間からオレンジの光が漏れる黄昏時には、テレスアリアの公共市場都市へと入港することができた。

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