夜の始まりー5ー
先生の横を擦れ違い、漁船の出入している小さな桟橋の方へと向かう。
背後から、先生の足音も聞こえててきた。
一歩、二歩……そして――。
長い瞬きの後。
「先生」
三歩目を踏み出せなかった俺が呼びかけるのと、先生が三歩目を踏み出したのは同時だった。
「はい?」
三歩目で足を止めた先生が、右回りでゆっくりと振り返り、再び俺の顔に視線を向けている。
今更、しかも、俺の方から先生を呼び止めたのが意外だったのか、露骨に不思議そうな顔をしていた。
まあ、俺にとっても先生を呼び止めてしまったのは意外なことではあったが。
気付いたら、声が出ていた。
……うん。
いや、理由は分かっている。俺が、迷っているせいだ。
さっき先生と話して、少しだけ、なにかが分かったような気になったせいだ。
もう少し話せば、もっとなにか掴めるんじゃないかと――他人任せも甚だしいが――思ってしまったからだ。
「人の命、いえ、プシュケーには、目的や……理由が、必ずしも必要でしょうか?」
別に、かっこつけたかったわけじゃないが、先生の前だからか、必要以上に飾った言葉を選んでしまった。もっと、簡単に悩みを打ち明けられたら良いのかもしれないが――。やっぱり、そういうのは苦手なんだな、俺は。
「どういうことでしょうか?」
質問に対してという部分もあるんだろうが、呼び止められた事に対しても訊いているような言葉に……いや、主語の無いその問い口に、一言目を口にすると、勝手に次々と言葉がわいてきた。
「命の意味は、後付の理由なのではないかと、俺は思うことが多くありました。ほんの少しの違いで、俺の今は大きく異なっていたでしょう。もしかしたら、既に死んでいたとしてもおかしくはありません」
船団を率いていた時に、マケドニコーバシオとの大口の取り引きを行わなければ、あんな小規模な商隊が王太子の耳に入ることも無かっただろう。
いや、そもそも、アヱギーナ人を引き連れてアテーナイヱを出た当時は、ラケルデモンとアテーナイヱが戦争状態に突入したという情報も無く、場合によっては南のクレーテの方に向かおうかとも考えていた。
それ以前に、エレオノーレが追われているキルクスを助けなければ、アテーナイヱに向かうことは無かっただろうし――昔の俺は船は嫌いだった――、ドクシアディス達、アヱギーナ人戦災難民を自分の兵隊にしようとも思わなかっただろう。
あの、全てが始まった夜に、エレオノーレになにも感じず、他の奴隷と同じように殺しておけば、ここまで来ることは出来なかったと思う。……良い意味でも、悪い意味でも。
「運命の三女神が、そう俺に割り当てた、ということなのかもしれませんが、それを知るのは、やはり、物事が終わった……そう、危機を脱した時です。生き延びたことにより、新たな命題を手にしているのです。『死せる英雄であるより、陋屋のなかの生きた農夫が望ましい』とは、アキレウスの言葉ですよね?」
苦悩するぐらいなら、なにも知らないまま、あの国で殺すことだけを覚え、今回の戦争で好き勝手に暴れまわるような……、そんな獣と変わらないような生き方も、悪くない気がする。
真面目なだけのクソ親父がそうだったように、自分自身で考える事を止め、いちラケルデモン兵士として戦死できたなら、思い悩むことなんてなかっただろう。
目の前の敵を殺して、殺して……殺し続け、最後に誰かに殺されるのは、楽だ。
人を殺すことは、日常だった。
人に殺される際に必要なのは、ほんの少しの覚悟。それと、人生の長さと比べれば、比較にならないぐらい短時間苦痛に耐える忍耐力だけだ。そんな程度のモノは、誰だって持っている。別に特別なモノじゃない。
結局のところ、生まれてしまった以上、死は誰にでも訪れるモノなんだから。
けれど、俺がそうなるには、もう、既に手遅れだった。
俺は、既に知ってしまっている。船で世界を回り、取り引きから経済を実地で学んだ。ミエザの学園で、最新の学問も学んでいる。どんな知識でも、会得してしまえば、消し去ることは出来ない。それが、知ってしまうことの責任なのだ。
どんなに悩もうが、難しい問題に直面しようが、自分自身の人生を自分自身の意思で歩めるだけのものを、いつのまにか手にしていた。
ラケルデモンをこのままにはしておけない。財政・人口の推移を見れば、それは明らかだ。
しかし、それでも! 俺は、多分、やっぱり……ラケルデモンが負けて欲しいわけじゃないんだと思う。国土を失い、市民が奴隷となり、国体が破壊されれば――。
いや、今のラケルデモンにとっては、敗北そのものが致命的な毒となる。他の全てをなげうって得た軍事力でさえも否定されるのだから、市民は依って立つ術を失う。国はまとまらず、絶望に駆られた市民が野盗となり、刹那的に明日も生きているためだけに戦い……治安の悪化で復興も出来ず、ラケルデモンの国土にはなにも残らない。
歴史の全てが、なかったことになってしまう。
だから、最小の犠牲で国家を刷新するために、俺がマケドニコーバシオの一員として征服者の勢力の一翼を担わなければならない。あくまで、僭王からの王権の奪還の形にしなければならない。
では、俺は、本当の意味でマケドニコーバシオの……王太子やヘタイロイの皆の仲間には、なれないんだろうか?
……分からない。
俺の居場所は、皆のいるマケドニコーバシオ以外にはありえない。しかし、ラケルデモンの事を考えると、冷静になれない俺がいるのも確かだった。
「仮に、賢く清く正しいということが人間の本来あるべき姿なのでしたら、我々は、いったいなんなのでしょうか? 都市国家は、独自性を持ちます、が、それは、他者との果てしない闘争の歴史でもありました。数限りない殺し合いの記録です。だから、ラケルデモンにいた頃の俺は、ラケルデモンが最も優れた国家だと疑わずに思っておりました。そして、それ以外の都市国家を見下してもいました」
「実際に、貴方が見た世界はどうでしたか?」
「解りません」
うん? と、先生は俺の返事に意外そうに小首を傾げている。
もしかしたら、マケドニコーバシオの方が優れているという答えや、各国の独自性を賛美すると思っていたのかもしれない。
確かに、
「優れている所も、劣っている所も、どちらも数多く見つかりました。どこの国でも。ただ、その非効率的な部分こそが、文化なのではないのか、とも思います。その国らしさ、ひいてはその人らしさという部分は、ある種、劣っているような部分や、病的な執着から生まれるのかもしれません。俺は、強くなりたいだけで、ここまで来てしまいましたし」
マケドニコーバシオの一夫多妻制は、他の都市国家からヘレネス的ではないと問題視されているが、婚姻によって国境を接する他国との関係を安定化させる上で有効なシステムであった。だがしかし、それにより、現在マケドニコーバシオが直面している後継者問題を生じさせてもいる。
アヱギーナやアテーナイヱは、穀物の栽培に不向きな土地であり、それを補うために海上通商を重視した商業国となり、足りない食料を物流で得た金で買うことで国家を巨大化させた。その過程で商人が力を持ち、民主制となった。だが、いつの間にか、専門家ではなく扇動者が権力を握るようになり、戦争を引き起こし、また、戦後の油断しきった時期に奇襲を喰らって現在の仕儀と相成っている。
ラケルデモンは、広大な国土と数多くの農業奴隷を抱え、昔は経済的にも発展していたが、その莫大な数の奴隷の管理を、かつてアカイネメシスを追い払った武勇に求め、増大する軍事力で国家を磨り潰している。
結局、様々な試みがなされている都市国家でさえも、完璧ではないのだ。
いや、結局は都市国家さえもイデア――先生の先生が唱えていた、物事の真の姿。人は、それを直接見知ることは出来ない――の似像であって、万能なものなど存在しないということなのかもしれない。
そう、ひとつの問題も無い、完全な全能の政治機構が地上に存在しない以上、帰属する都市国家を選ぶための基準は、あくまで個人的な好悪でしかない。
そして、好悪だけで言うなら、俺は。
「ただ、ひとつ断言できることがあるとするならば、俺は、王太子や
……なんなのだろう?
これまで自然と溢れていた言葉が、急に出なくなった。
最終目的を達した姿、か。俺は、そんな人物を知らない。王太子やヘタイロイの仲間が近いのかもしれないが、まだ過程にあるような気がするし、そもそもが他のヘタイロイにも欠点がある。王太子だって、俺と同じような狂的な心を抱えているのを知っている。
違う、そうじゃない。
完璧な人間にしか至れないものが、エンテレケイアではないと思う。が、あまりに低俗な目的を達する人間がその状態にあるわけではない。
俺は、王太子の元に集っている全員が、既に、エンテレケイアに至っていると感じている、のか?
いや、……そうか。
俺は、レオが、ラケルデモン人としての完成された姿だと思っているんだ。だから、それを追い求め、確認し、体得するために飛び出したんだ。
しかし、先生にとってのエンテレケイアがレオだとはとても思えなかった。ので、不自然さを自覚していたが、口を開けずにいると――。
「……進みなさい、アーベル。貴方の真理のために。おそらく、貴方が今探しているものは、わたしが伝えられることではないでしょうから」
――俺の内心を察したというよりは、最初から言い切れない事を知っていたような口振りで、ゆっくりと先生は告げた。
首を傾げてしまったのは、一瞬だけの事だった。
先生になら、見透かされて当然なのだ。だって、俺が考えるよりも遥かに長く、先生はエンテレケイアがなんたるかを考えていたんだから。
年季が違う。
きっと、俺よりも多くの“相対的に”エンテレケイアにあると思える存在を知っていて、でも、俺と同じように“絶対的な”エンテレケイアに至るための過程を見つけられずにいるんだと思う。
「はい」
「春に、海が落ち着いた時。貴方だけが見つけた今回の旅の答えを、わたしにも教えてください。願わくば、その心身が健やかにあらんことを」
礼をして、今度こそ桟橋に向かおうと顔を上げた所で、今度は先生に俺が呼び止められた。
「アーベル」
「はい?」
「貴方が求める強さとは、どういったものなのでしょうか?」
「……分かりません」
果たして、人を上手く殺せるだけが強さなのか? 他人をうまく使うことが強さなのか? 戦術や戦略の知略を持つことが? どれも、今はしっくりとこない。
そういうことじゃない。
もっと別の――。
刺すように鋭い眼差しが、脳裏を過ぎった。
ああ、そうだ。あの夜に、確かに俺は自分よりも弱い人間の中に、強さが存在するのを既に見ていた。俺達と対峙した、エレオノーレの視線に、表情に、立ち姿に。
では、エレオノーレの強さとはなんだろう?
知恵も無く、浅慮で、直情的なアイツは、時として酷く頑固で、譲らず、そうした行動が俺に影響を与えた。
意志の強さ、か。
でも、それは、どんな意思だ? 精神論だけで本当に全てが解決するとでも言うのか?
……いや、いずれにしても――。
「少なくとも、迷いがあるうちは強くはなれないでしょう。俺は、母国に対する未練を……いえ、自分自身の上手く言い表せない感情に決着をつけるため、全ての切っ掛けを与えたレオに再び会いに行くのです」
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