夜の始まりー4ー

 第一の中継地点には、テッサロニケーを選んだ。事前に第二陣を指揮しているプトレマイオスに連絡は出来ていないが、ミエザの学園には制圧したばかりのダトゥよりも近い。まあ、プトレマイオスの領地からは遠いが、上手くいけば他のヘタイロイとの接触はできるだろう、と、思う。

 ……もっとも、勝手にミュティレアから出ているので、接触したらしたで余計に厄介になるかもしれないが。


 説得もしくは、一方的に事情を説明して逃走した後、テレスアリア領の港湾都市イコラオスへと海岸線を……商船はもうほとんど出ていないようなので、漁船で南下する。小型の漁船じゃ、当初の予定より日数は掛かるが、走るよりは遥かにましだ。次いで陸路で――さすがに距離があるので馬車を借りて、王太子の母親の生国であるエペイロスへと内陸部を抜ける。そうして、最終的には、イオニア海経由で激戦地を避けるようにしてアルゴリダへと向かう予定だ。が、エペイロスは初めて行く土地だし、船の手配をつけるのにこっち以上に時間が掛かるかもしれない、な。


 ……ミュティレアで皆に説明した通り、アルゴリダは小さな国だ。

 レオの特徴的な容姿を考えれば、探すのはそう難しくは無いだろう。

 だがそれは、レオを追っている者にとっても同じで――。

 つまるところ、時間が、無かった。


 ミュティレアにいた時には感じなかった焦燥感が、強く身を焦がしている。あの都市では……いや、マケドニコーバシオへと流れ着いてからは……、迷った時には相談出来る相手も出来たし、文武に秀でたヘタイロイの仲間に協力を仰ぐことも出来た。

 少しだけ、自嘲的な笑みが浮かんでしまう。独りで行くと決めたのは、自分自身なのにな。

 ラケルデモンにいた頃や、武装商船隊時代には考えられなかった事だ。誰かを頼るなんて、俺は弱くなったんだろうか?

 いや、結局のところ、自分の判断だけが正しいと自分自身にさえ思い込ませていた暗示が解けたってだけだろう。もしくは、根拠も無く上手くいくと思えていた幼さが、クソな戦場を経験することで抜けたか。


 同乗していた連中が、船から降りディグマ――対外交易用の埠頭――に、戦闘後にアテーナイヱ兵からひっぺがした武具や、魚の燻製なんかを降ろしているのを尻目に、そのままエンポリウム――都市の中の対外交易用の区画――を出ようとした時、一番、会うと思っていなかった人物が、真正面から歩いてきた。

 向こうは、とっくに俺だと気付いているらしく……隠れる余裕も無かった。

「先生……」

 ゆっくりと歩いてきた先生は、俺の刃圏を普通に越え、正直、いつまでたっても慣れないぐらい間近に止まった。

 学園都市と変わらないその距離感に、つい苦笑いが浮かんでしまう。いや、苦笑いの理由はそれだけじゃないが。

 事情を説明する上では最適のような……、逆に、一番知られてはいけない人のような。少し判断に悩んでしまう、な。


 先生は、ミュティレアにいるはずの俺がこんなところにいるのに、特に不審に思ったような顔はしなかった。いつも通り、まじまじと見詰めているだけだ。

 多分、経験を積めば、多少の不測の事態には動じなくなるのだろう。そう感じさせるような、年輪のように深い先生の額の皺が、目の前にある。

「わたしは、アテーナイヱにいたこともあります。一時期は、アカデメイアですごしておりました」

 咎めたり追求されるかとも思ったんだが、先生は、いつも通りに穏やかなゆっくりとした口調で、世間話を始めた。


 意図は、分からなかったが――。

「はい……」

 少なくとも、出鼻は大きく挫かれてしまったのは間違いなかった。時間が、無いのに。


 ちなみに、俺は実際にアカデメイアを見たわけじゃないが、アテーナイヱのアクロポリス近くの学園都市らしく、船で旅をしていた時に話程度なら耳にしていた。

 当時は、ラケルデモンの少年隊で基本的なことは学んでいるので、後は実践だけと思い上がっていて、全く興味を持たなかったが……。惜しいことをしたのかもな。アカデメイアは、外国人居留者にかなり寛容な学園都市らしいし。

 と、そこで、もしかすると、ミエザの学園の創設に関して参考にした町だったのかな、と、今更ながら思った。

 そして、そのまま先生の顔を見ていいると、不意にある考えが頭に浮かんだ。

「まさか、先生もミュティレアへ向かうのですか?」

「はい。国王様からは、ペラへお誘い頂きましたが、わたしはミエザの学園の長としての責任を全うしなければなりません」

「…………」

 言葉が出なかった。

 意外、というか、考えてもいなかったというのが本音だ。

 第一、ミエザの学園の閉鎖に関しては、先生の責任ではないと思う。現国王側からの、王太子派への嫌がらせというか、牽制というか……。ともかく、あくまで俺個人の認識としてだが、先生は政争に巻き込まれただけだったはずだ。

 それに、閉鎖したところで、あれだけの規模も町をただ捨てるというのも経済的に考えられない。なにか形を変えて、現国王派が支配するものだと思っていた。

 確かに、町を支配するなら、先生のような知識層の人間は邪魔になるんだろう。しかし、それは政治的な野心のある人間であるのが前提の話で、純粋に学問を教える人間を国外に出してどうするつもりなんだろうか?

 いよいよマケドニコーバシオの現国王に対して、良い印象がなくなってきたな。


「上手く、気持ちを、表現できませんか?」

 黙ったままでいたので、先生でも不安に……というか、不審に思ったのか、そう問い掛けられたが、まさにその通りであったので、俺は頷くことぐらいしか出来なかった。

「あ……はい、その、予想外でしたので」

 呆気にとられた俺が可笑しかったのか、先生は少しだけ笑い――口角を下げるだけのいつもの笑みではなく、もっと感情を感じさせる笑みで、そんな顔をする先生を俺は初めて見た――、僅かに顔を上げて、先生よりも背の高い俺の顔を覗きこむように見上げてきた。

「教育するということは、意図しようとしまいと可能性を秘めております。少年従者を自由市民の文武に秀でた男子が教育し、都市国家ポリスの共同体の自覚を喚起することと同じです」

 生徒である俺達とは違う場所で先生も戦っていたんだということを――、そんな当たり前の事が、今、はっきりと分かった。そして、確かに年齢的には従軍が厳しいのかもしれないが、軍の指揮者として先生が行動しない理由も。


「……先生」

「はい」

 雰囲気から、重要なことを話すんだと先生も感じたのか、表情を引き締め、真っ直ぐに俺を見詰めてきた。

「俺は、俺自身を衝き動かす、最初の動力を見極めるために、一度、向かわなくてはならない場所が出来ました」

 うん? と、軽く首を傾げて見せた先生。

 簡潔にしようと思う余り、必要な部分の説明まで削いでしまっていた。まあ、先生ならそれでも察してしまいそうだ、とも感じてしまっていたんだが。

 そんな超常の力なんて。どこにもあるわけは無いか。

「あ、ミュティレアの攻略は大成功です。心配は――」

 慌てて、一番最初に伝えるべきだったことを告げるが、分かっています、とでも言うようになずかれ、掌を俺に差し向け、自分のペースで話して良いという意思を示してくれた。

「先生。俺は、先生のプシュケーの話を、まだ、部分的にしか窺っておりません」

「そうですね。もう少し、時間があればよかったのですが」

「ラケルデモンに生まれたこと、家庭教師のレオに鍛えられたこと、少年隊での一般教育……それらが、動力因……つまり、俺という人間が今この形で、俺としていることの原因であるなら」

 先生の表情を見る限り、俺の四原因説の解釈に間違いはなさそうだった。ので、俺はひと呼吸入れた後、先生の意見を待たずに、そのまま話し続けた。

「俺という存在の目的因を見定めたいのです。そうすれば、かつて先生が感じていた危惧の正体もはっきりすることでしょう」

 人は、誰だって譲れないものがあるはずだ。たかが老将一人のためと、他人は嘲うかもしれないが、それでも引けなかった。

 状況は不明であり、今度はどんな立場で対峙することになるのか、なんの保証も無い。

 味方になるってんなら連れ帰るが、切り札の中身次第、そして俺の対応次第では、再び戦うこともありえる。

 ……うん。

 ただ、もし、レオが死ぬとしたら、やっぱり殺すのは俺であるべきだと思った。アイツが全く憎くないと言えば嘘になるが、憎いから殺したいってわけじゃなく。単純に、ラケルデモンの師弟のあるべきすがたのひとつとして。


「まさか、ラケルデモンへと向かうのですか?」

 珍しく慌てた様子の先生に、いくら先生でもあの国に向かうと聞けば慌ててしまうんだな、と、つい苦笑いが浮かんでしまった。今は、あんなんでも、俺にとっては故郷だし、常在戦場の国家とはいえ、そこまで住み心地が悪いってモノでも無いんだがな。……メシの不味さと少なさを除けば。

「……いえ、俺にとって、そう、他国の表現で言うなら、父のようなそういう人物にあたるレオという軍人が、アルゴリダまで出て来ているようです」

 先生は、ラケルデモンではないと知って少しだけ安心した様子だったが、アルゴリダの位置や地理は頭にきちんと入っているらしく、表情が完全に和らぐことは無かった。


 間に入ってきた沈黙に、微かに嘆息した俺は――。

「ネアルコスとラオメドンの二人がミュティレアにおります。差し出がましいかもしれませんが、もし、万が一、二人が困るようなことがありましたら、力を貸してください」

「わたしは、わたしの生徒のために行くのです」

 先生は、俺の言葉と被せるように答えてきた。

「はい」

 やはり、付け加えるまでもない言葉だったか、と、若干きまりの悪さを感じていると、先生は少しだけ口調を改めて続けた。

「春に戻られたら、哲学の授業を再開しましょう。統治者には、正しく人を導くための知識と人格が必要ですから」

 言葉の意味を吟味し、目を瞬かせて一拍後。


 今更かもしれないが、先生の瞳が灰色だということに初めて気がついた。

 先生には顔を近付けて物を見る癖があるので、とっくの昔に気付いていてもおかしくないことなのに。

 つまりは、そういうことなのだろう。

 見えているのか、視界に入っているだけなのか。なにが当たり前なのか、当たり前とはなんなのか。昔の俺はどこまでレオを知っていたのか? いまの俺はレオのなにを理解できるのか?


 会いにいこうという気持ちが、意味が、少しだけ変化したことに気付き――。

「はい!」

 俺は、大きく返事を返した。

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