夜の始まりー2ー

 あの日――。



 俺にレオからの伝言を伝えた使者に向かって、護衛官から剣を奪って抜き、怒鳴り声を上げたのはネアルコスだった。

「罠です!」

 普段とは違うその様子に周囲は面食らった様子だったし、今だから言えることだが、俺も内心ではかなり驚いていた。が、だからこそ、動揺を表に出すわけにも行かず、務めて冷静に断定した。

「いや、それなら、そこまで回りくどい事をするはずが無い」

 そう、俺を排除するのが目的なら、こんな明らかに疑わしい誘いで――もったいぶって呼びつけるよりも、島民を使って内部へと暗殺者を潜り込ませ、食事に毒を盛るなり夜襲を掛けるなり、いくらでもやりようがあるはずだ。

 生け捕って情報を吐き出させたいのだとしたら、尚更不合理だ。わざわざ危険な俺を手間隙掛けて捕まえるよりも、実務の人間を甘言や脅迫で操った方が余程正確な情報を得られる。

 一見、疑わしいからこそ、そこに真実があると感じていた。

「誰かが名を騙っているだけかもしれません」

 油断無く切っ先をアカイネメシス人の使者へと向け続けるネアルコス。使者の方は、流石に、刃から視線を外せない様子ではあったが、想像以上に頑張っていた。

 背を向けたら斬られる、と、本能的に理解しているからかもしれない。剣を向けられて逃げるのは普通の反応だが、この場では斬る口実になってしまう。やましいことがあるから逃げた、疑わしいのだからなにか起こる前に処理するのは当然だ、とな。


 ふん、と、微かに鼻を鳴らす。

 この作戦にネアルコスが選ばれた意味が、なんとなく分かった気がした。

「その男に、なにか特徴は無いか?」

 ネアルコスの殺気を押し留めるように、俺はいつも通り、少しだけの皮肉屋の口調でのんびりと尋ねかけてみた。が、最初から分かっていたことだが、こちらの言葉が分からない使者は戸惑ったような顔をしただけだった。

 俺とネアルコスにちょうど挟まれる形になってしまったラオメドンが、対応を決めかねているのか俺の言葉を通訳しなかった。いや、心情的に……そして、立場的にもネアルコスの方に加担したいのかもな。


 分からないわけじゃない。

 これは、俺の――俺だけのためにしかならない、我侭だ。それを、この二人が止めるのは当然だった。王の友ヘタイロイとして。

 どうしても折れたくないというのも理解できるし、その選択も支持する。

 ここでラオメドンが口を閉ざしてしまえば、これ以上の情報を使者から得ることは出来ない。王の友ヘタイロイに対して、俺も力で強制することは出来ない。


 特別な意思を込めず、選択を待つように見詰め続けていると、渋々と言った様子でラオメドンが老人に俺の言葉を伝え、老人の短い言葉を通訳もしてくれた。

「……隻眼、隻腕の老人らしい」

「古傷か?」

 大凡答えは分かっていたが、これだけあちこちで戦争が起こっている以上、手や目を失う人間が少なくないのも事実だ。それに、追加で訊ねられたことに動揺し、鎌掛けと思い込んで余計なことを口走るようなら、この老人は信用するに値しないことになる。

 覚悟はさっき決めていたのか、今度はすぐさま老人に尋ねたラオメドン。

「……いや、動きにぎこちなさがあったそうだ。傷が障っているようには見えないので、今回の戦争で受けた傷ではないようだが、比較的最近腕を失ったものではないか、と」

「ああ、そうだ。俺が、あの国を抜ける際に斬り落としたんだ」

 その答えに満足し――支持不支持は別としても、取り敢えずは通訳を続けてくれたラオメドンに感謝する意味でも俺は頷き、……しかし、さらっと告げるはずだった過去に対して、口元が歪むのを、はっきりと自覚してしまった。

 あの時、勝ったのは俺のはずだ。

 手傷を負わされた恨み、か? いや、違うな。レオとの闘いは、澄み切っていた。靄が掛かっているのは、その後の決着についてだ。

 エレオノーレの歪めたラケルデモンの掟が、今ここに来て大きな波乱を引き起こしてくれたことに対する皮肉だ。

 アイツのあの時の行動は……正しくもあり、間違いでもあった。

「そんな相手を信用するんですか?」

 俺がかつて、目を、そして、腕を斬り落とした相手ということで、ネアルコスの切っ先が迷っている。だが、その理由が、俺が親しい相手でも――いや、あの時のレオは追手なんだが、そんな事情はネアルコスは知らない――斬る男だと思ったせいなのか、逆に、斬りつけるだけの理由がある相手を安易に信用する心理を量りかねたのかは分からなかった。


 ただ、使者を斬ろうという激情が迷いで揺らぐのが、剣を構える仕草からはっきりと見て取れた。

 椅子から立ち上がり、鞘を兵士の腰から取り上げ、ネアルコスへと投げる。

 ネアルコスは、素直に剣を鞘に収め――護衛の兵士には返さず、自分の腰へとさげた。

「任務に忠実な男だから信用するんだ。あの時の立場上、あの男は俺と戦わなければならなかった。もし俺を連行しろという命令が下っているのなら。人伝に呼び出さず、ここまで乗り込んで来ただろうよ」

 軽く肩を竦め、かいつまんで事情を説明する俺。

 だが、ネアルコスは俺の口にした任務という言葉を取って、はっきりと言い返してきた。

「アーベル兄さんの任務は、この島の制圧と統治です」

「制圧は完了し、法も完成している。後は、ひとりでに走っていける」

 円堂に集った仲間達は良い顔をしなかったが、その言葉に嘘はなかった。

 細かな法の改定やヘタイロイの受け入れ準備に関しては、大枠が出来ている以上、小さな意見に耳を傾け微調整する作業しか残っていない。市民の訴えの処理や、細々した治安維持業務は、俺よりもむしろネアルコスの方が向いている。

 また、冬は船を出さないので、交易に関する業務は不要だし、内需のための市場管理ならミエザの学園での実務とそう変わらない。

 確かにメテュムを攻撃する上では俺が指揮した方が良いのかもしれないが、持久戦でダラダラと戦う、消費のための戦争である以上、防御力が弱く運動戦を旨とする俺の軍団との相性はあまり良いとは言えない。

 アヱギーナ人が無理攻めしないように適度に押さえ、督戦するだけなら、ヘタイロイである俺達ではなく、軍団兵の中から指揮能力のある人間を選んで経験を積ませてみても面白いかもしれない。未来の戦力の拡充に繋がるんだし。


「アーベル兄さんの部隊が抜けると、正直、少し厳しいですよ」

 うん? と、首を傾げて見せるが、ネアルコスは拗ねたようにそっぽ向いたままで、俺の顔を見ようとはしなかった。

 だから、その意味を考えるために一拍の間が開いてしまった。


 俺の部隊は三百程度の少数で、展開している軍団規模では最小だが、通常の重装歩兵で構成されたラオメドンの軍や、咄嗟の反応では難の有る弓兵中心のネアルコスの軍よりも即応性に優れている。

 むしろ、都市の治安維持と犯罪捜査の面で見れば、装備が軽いので足で稼げる俺の軽装歩兵の方が適している部分もある。自由市民の武装にしたって、日常的に鎧を着込んでいるわけでも帯剣しているわけでもないからな。喧嘩の仲裁や、犯罪者の処理程度なら重装歩兵は過剰戦力になる。

 また、実戦における有用性に関しても、北伐、そして今回のミュティレア攻略で実証されているしな。


 そこでようやくお互いの意図が食い違っていることに気付き、俺は苦笑いで補足した。

「そうだ、これは、俺個人の問題だ。だから、行くのは俺だけだ」

 軍団兵を連れて行く気は、俺には最初からなかった。指揮はネアルコスへと引継ぎ、有事の際には後衛に弓兵と投石兵、そして前衛に軽装歩兵といった連合部隊での運用をして貰うつもりだった。だが――。

「ダメです! 尚の事認められません。せめて、プトレマイオス兄さんが来てから――」

 顔を赤くし、さっきよりも声を大きくしたネアルコス。しかし俺は、その発言を遮り、叩きつけるように断言した。

「それでは遅い」

 特別大声を出したわけじゃない、が、周囲の音は、潮が引くようにさっと引いていった。


 なぜ、アルゴリダだったのか。その理由を考えれば、ギリギリまで追い詰められているという状況を察するのは難しくない。

 マケドニコーバシオの人間の多いでは、遠方のペロポネソス半島の地勢を判断し難いのかもしれないが、あの場所は危険だ。潜伏地としては最悪な方で、エレオノーレを連れて国外を目指していた時でさえ、選択肢に入れていなかった。

 意図的に選んで潜伏しているというよりは、他の手段を全て断たれていると見て間違い無い。


「冬場、敵地に向かうなら、半端な軍勢では不利になる。他の季節と違って、山野で食料を得にくいし、補給のために町に逗留すれば警戒されるからな。秘密裏に潜入するなら、多くても十人以下だ。が、俺の足手まといにならないだけの技量の有る兵士はいない」

 周囲を固めている警護兵達が、俺の言葉を聞いて顔を背けたのが分かった。

 そう、顔を顰めるのではなく、背ける。警護兵達にも自覚があるからだ。ミエザの学園での訓練と、今回の実戦を経て、兵達も成長している。素人には判断の付かないようなほんの一瞬の差が、決定的な実力の差だと今なら理解できるんだろう。

 良い兵士達だ。信頼もしている。

 しかし……。

 俺と同じことが出来るとは思っていなかった。


「全軍で……いえ、せめて、マケドニコーバシオを追放される他のヘタイロイと合流を……」

「ネアルコス」

 溜息混じりに呼びかけたのは、ネアルコスもそんなことをすれば、どうなるか分かっている顔をしていたからだ。

「これは、俺が清算しなくてはならない過去なんだ。そして、事前に現国王に作戦を――他国との諍いを俺達が独断で起こせばどうなる?」

 事実、ネアルコスは名を呼ばれて以降、唇をきつく噛み締めているだけで、言い返してはこなかった。

「当然、マケドニコーバシオは俺達と無関係だと主張するだろう。それだけではなく、潔白を証明するために、軍を向けてくる可能性は極めて高い」

 現国王派の王太子派に対する態度は、どこか場当たり的で一貫性が無い。が、少なくとも現国王は、王太子以外の王位継承者を求めているのは、アリダイオスの結婚話からも想像に難くない。

 今、口実を与えるわけには行かなかった。一気にマケドニコーバシオの国家としての旗色が決まってしまう。

「そうなれば、俺達は、マケドニコーバシオとも戦わなくてはならなくなる。確かに王太子は国外追放の処分が下っているが、現国王自身がかつてはヴィオティアの人質だった時期もある。国家の継承を、武力で訴えるにはまだ早過ぎる。違うか?」

「……はい」

 俺が単独で行動しなければならないという部分に関しては理があると判断したのか、ネアルコスは素直に頷き――いや、項垂れた。

 だが、一拍後、すぐさま顔を上げ――。

「このままで、いいじゃないですか。なにが不満なんですか?」

 感情的になっているのが、声だけではなく表情からも分かった。演技、ではないと思う。

 ただ、どうしてそんな判断をされたのか分からなかった。

「不満? 不満なんてなにもない」

 ここに居たくないから俺は行くわけではない。マケドニコーバシオの軍門へと下ったあの日とは、似ても似つかない状況だ。

「では、なぜ出て行くんですか?」

 少ししつこい追求に、元々が感情を隠すのが得意ではなかったことも相まって、つい言い返す言葉に力が入ってしまった。

「俺は、離脱するつもりは無い。切り札がなんなのかは判然としないが、もうひとつの王家の方の血筋の誰かなのか、それとも、子供だった俺に知らされていない、なにか王権を象徴する神器があるのか……。いずれにしても、今後、役に立つはずだ」

 これ以上の議論は無用、と、話を打ち切ったつもりだった。つもりになっていた。だが――。

「それは、今、必要なものですか? そして、長期的に見て、それらが無ければ、ボク達はラケルデモンを獲れないんですか?」

 ネアルコスの言葉が……スッと、鋭利な鋭利な氷の刃のように胸に刺さるのが分かった。


 そうか……。俺がレオ――ラケルデモン人の都合を優先したことで、裏切られたとネアルコスは――、いや、ラオメドンも、他の仲間も感じてしまっていたのか。


 ほんの僅かに表情の緊張を――少し無理して解いて、俺は答えた。

「さっき言った通りさ」

 向けられている顔は、皆が皆戸惑っていた。

「俺を、最初に鍛えたのはレオだ。俺がラケルデモンに思いを馳せる時、最初にアイツの顔が浮かぶ。無論、確執もある。が、だからこそ個人的に、決着をつけなくてはならないんだ。敢えて俺を呼んでいるというのなら、尚の事、な。それもまた、あの国の師弟の務めさ」

 ネアルコスは更なる反論を見送ったが、納得していないのは顔を見れば明らかだった。いや、他の仲間の顔色も優れてはいないな。


 ……分かっている。

 雰囲気を悪くしたのは俺だし、この摩擦も不毛だと、誰よりも分かっている。最早流れが変わらないことも。

 ラケルデモンとアテーナイヱの戦争の行方という話だけではない。自由市民の人口が大きく減っているラケルデモンは、勝った所でメタセニアの時のようにアテーナイヱ全土を版図に組み込めないし、そもそもがオリーブ以外には目立った農産物の無い商業国を運営できる経験蓄積も無い。

 アテーナイヱにしたところで、既に海上交易の利権を大幅に減じられており、今やマケドニコーバシオがテレスアリアを通じ物流面での支配を強化している。領土の生産性の低いアテーナイヱが、商業で後れを取ることは致命的だ。


 ……余程の失策を犯さない限り、最終的に勝つのは我々、マケドニコーバシオの王太子派になるはずだ。

 そう……。果たして、俺を失うということがその大きな失態となるのだろうか?

「ネアルコス、ラオメドン」

 答えは、否だった。

 きっと、俺が居なくても、王太子はマケドニコーバシオの王権を獲り、マケドニコーバシオはヘレネスの覇権を取るだろう。


 二人を呼び、視線が俺を正面から捉えたのを確認し……。

「アーベル兄さん!」

 深く頭を下げれば、驚いたというよりは軽率な行動を非難するような声でネアルコスが叫んだ。

「行かせてくれ。たいていの人間は、過去を忘れられる。良くも悪くも時間が解決できるんだ。だが、俺には無理だ。俺自身を衝き動かした、最初の動力は復讐だった。悔いを残せば、俺は、また同じことを繰り返す。この国と、ただひとつのわだかまりも無く共に歩むために、この我侭を認めてくれ」

 こうした態度で、気持ちで、誰かに頼みごとをするのは、初めてのことだった。

 納得してくれるまで説得する……ことまでは出来ると思っていないが、最低限、誤解されない形で、きちんと本心を伝えた上で出立すべきだと思っていた。

 昔と、今は違う。

 今や、どうやったって、周囲を巻き込んでしまう。

 それに、ここに帰ってくるつもりなんだから、あんまり無茶な形で旅立つわけにもいかないしな。


 短くない沈黙の後、疲れた様子で口を開いたネアルコス。

「……作戦会議を開きます。……今は、それ以上は言えません。ラオメドン兄さんもそれで良いですか?」

 ラオメドンが、いつもと同じように無言で、しかし、いつもよりも若干固い表情で頷いたので、その場はそういうことになった。



 その時の俺の態度を解釈するため、レスボス島攻略軍の間で熱い議論が繰り広げられたということを知ったのは、出港の準備が全て整った昨日の事で――。

 ただ批判や非難をされるだけじゃなかったという事実は、少しだけ胸を熱くさせ……そして、少しだけ申し訳ないような気持ちにもさせた。

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