Perseus
夜の始まりー1ー
波は穏やかだったが、冬の到来を告げるような朝靄に港は包まれていた。昨夜の湿った霧雨が、白んでゆく晴れた空に冷やされたせいだ。
乗船は、大型の商用のガレーを選んだ。
大型船の方が波による影響を受け難い……らしい。また、商人連中としても、状況が落ち着いた今、手元の在庫を少し吐き出して、ついでに島外から必要な物資を調達したいらしく、多少危険でも船を出したいとのことで、お互いの思惑は一致していた。
「行くんですか?」
港で、荷の仮置き場の影から出てきたネアルコスが、丁寧ではあるもののどこか咎める調子の口調で口を尖らせて見せた。
見送りは不要だと言っていたし、出立の日取りも告げていないってのにどこで聞きつけたのやら。
「罠かもしれません」
そんな忠告も、もう何度目かも分からない。今日の出発まで、毎日顔を合わせるたびに思い留まるように説得されていた。ラオメドンが、たった一度だけ、強い口調で念を押したのとは少し対照的な反応だと思った。
……いや、何度も言ってるから言葉が軽くなった、ってわけでもないんだがな。
ネアルコス自身も、引き止められるとは思っていない顔をしているが、それでも、どうしても言わずにはいられないんだろう。そういう男だ。
「構わない。逆に、本当に切り札だった場合の方が問題だ」
俺は歩調を買えずにネアルコスの正面まで歩み寄り、そして、一度足を止めた。
「ここを維持するだけなら、必ずしも俺が必要というわけではない。内政での財政再建として、貨幣の改鋳の指示は出してある。エレクトラム貨を造るための、琥珀金の配合比が判明したのは大きかった。戦時中、当事国の貨幣の信用は落ちるからな。それに、冬の間は他国との接触もあまりないだろう? 都市の治安維持と軍備拡張、地盤固めは、お前さんの方が適任だ」
適任? と、首を傾げたネアルコスに、俺は少しだけ笑って付け加えた。
「顔が良いからな、有力者の歓心を買いやすい」
俺が嫌われ切っていない理由としては、商売の話が出来るからってだけで、基本的に好かれてはいない。まあ、俺は元から好かれようともしていないがな。誑し込むより、脅して強制させる方が得意だし、その方が手っ取り早い。
ただ、長期的な統治においては脅すだけじゃだめだ。多少時間を掛けてでもしっかりと根を張った方が有益になる。そしてそれは、攻略作戦で前線指揮を取っていた俺には出来ない仕事だった。
あの戦いの時――基本的に、ミュティレアの市民は外出禁止、もしくは軟禁されていたが、ごく一部の目撃情報が尾鰭付きで流れている。戦時の占領下の都市ではよくある流言だが、恐れられていては心中を打ち明けられるはずも無い。
ネアルコスは若干不満そうに――しかし、俺がこの都市を離れることに対する不満と違って、まだ余裕のありそうな人好きのする態度で、子供っぽく頬を膨らませて見せたが、やっぱり最後にはどこか気落ちしたような顔になってしまった。
「ひとりか?」
「ええ、泣かれるのが分かっていて、伝えに行く趣味はありませんので」
ラオメドンに関して俺は訊いたつもりだったんだが、ネアルコスはエレオノーレを連れてきていない理由を口にした。
まあ、ネアルコスは少し前に、エレオノーレに言って止めて貰うとか息巻いていたらしいので、今回の誤解されたのは……そういうことにしておこう。わざわざ訂正する意味もない。
が――。
「アイツは、そんな性質じゃないだろ」
ふぅ、と、これみよがしに溜息をつけば、より重い溜息に打ち消されてしまった。
「だから、アーベル兄さんは、鈍いって言われるんですよ。前にアーベル兄さんが出て行った時も、酷い落ち込みようだったらしいですから。私のなにが悪かったのかな? が、口癖になるほどに」
少し前にエレオノーレに人を惹き付ける才能がある、と評したのはネアルコスだっていうのに、いつのまにか上手く丸め込まれていたようで、なんだか苦笑いが浮かんでしまった。
警告になるかどうかは不明だが、俺は、これまであまり話したことが無かった――簡単に他人に話すつもりもなかった――過去の一部を口にした。
「アイツも、ラケルデモンにいた頃は、……いや、あの国を出る際にも、人を殺してる。それが一時的な激情であっても、そうした激しさが芯にあるはずだ。お前等、ちょっと甘く見過ぎてるんだよ」
そう、俺とアイツは最初は敵同士だった。
その後――どこからか、いつの間にか、なにかが変わってしまっていたが、好意だけを拾い上げて俺とエレオノーレの関係を口にされるのは、なんだか上辺だけを見られているようで面白くない。多分、ネアルコスが仲間だから、尚更。
強い執着は、愛情だけじゃ成り立たないものだ。
……いや、あるいは、アイツの場合、俺を憎んだ結果として、今の優しさがあるなんて皮肉なのかもな。
闘争の権現のような俺は、アイツの理想の対極にある。近くに居れば居るほど、そして、エレオノーレの元に集った時期が遅い者ほど俺を嫌悪するだろう。
いつか、エレオノーレを信じる誰かが、勝手な判断で俺を殺しに来る日は、必ず訪れるだろう。
……ハン。
「兄さんが穿って見過ぎなだけです。多分、といいますか、ううん、多くの人は、やっぱりその罪悪感を肩代わりしてくれる絶対的な人からの命令が無くては、そうそう人なんて殺せません。逆に、アーベル兄さんといるために、それだけ無理をしていたって受け取ってもいいじゃないですか」
罪悪感、か。
どうだろう? 俺はそうしたものを感じたことは無かったと思う、し、急にそんな感覚が湧いてくるとも思えなかった。
いや、まあ、今回、予定にはなかった行動をしてしまうことに関しては、王太子やヘタイロイの仲間に対して多少は悪いとは思っているが、それは罪悪感とはまた違っているような気が――。
と、そこまで考えてから、ゆるゆると首を横に振って俺は話を打ち切った。
「いや、なんの話だよ。論点がずれてるぞ」
迷いは、切っ先を鈍らせる。これから向かう先では、ラケルデモンの軍人と退治する可能性がかなり高い。前回の、動員中の留守居の連中じゃない。正規軍との戦いだ。死にたくないなら、余計なことに気を回すわけにはいかない。
「心変わりは、してくれないんですよね」
訊ねるというよりは、どこか断定するような口調で念を押すネアルコス。だから、俺の方から質問を返した。
「俺が、止められると思うか?」
「無理ですよ。……アーベル兄さんを止める唯一の手段は」
言葉を区切ったネアルコスが、長すぎる間を空けていたので続きは俺が口にした。
「殺すこと」
「そうです。そして、ヘタイロイで、それが出来る可能性が最も高いのがボクです」
なぜ? と、首を傾げて見せればネアルコスは懐から短剣を出し、少しだけ疲れたような笑みを浮かべた。
ハルパーのような、湾曲した補助作業向きの短剣じゃない。短いが太くて厚い真っ直ぐな刀身を持つ、実戦用の短剣だ。突き立てれば、骨も容易に貫くだろう。
「真正面からなんて絶対に戦いませんよ。仲良くなった心の隙をつき、背後から一刺しです。ボク以外に適任者がいますか?」
まあ、そうかもしれない。
しかし、それでも五分五分と言ったところじゃないかとは思う。戦場に長くいるので、皮膚や肉が切れる感覚で、反射的に身をよじって急所を外す癖は付いている。
俺たちは仲間だ、が、戦場に生きる戦士でもある。甘いだけじゃ生きていけない世界だ。信頼と油断は違うし、馴れ合いと友情もまた別の物だ。
そう、武器を構えること、戦うことは個人的な好悪とは別の部分で思考している。必要なら、止むを得ないなら、俺達は戦うし殺し合うだろう。恨みや憎しみが、ひと欠片も無かったとしても。
「ヘタイロイは、子供が集まって遊んでいる集団ではありません。もしアーベル兄さんがマケドニコーバシオを捨てるのなら、絶対に他国に渡すわけには行きませんから」
強い眼差しを俺に向けるネアルコスだったが、短剣は抜いていない。
そう、俺は、知り過ぎている。マケドニコーバシオの軍事技術も、戦略も、経済状況も……そして、王宮でのゴタゴタに関しても。
生きて他国へと亡命させてはいけない人間の一人だ。
……ネアルコスを殺すことは、今の俺には出来ない。ミュティレアを維持する上で失ってはいけない人材だからだ。しかし、向こうは俺を殺せる。
さて、どうしたものか……と、顎に手をあて考え始めたその瞬間。
「預けます」
良いのか? と、訪ねる間は無かった。むしろ、意図的に俺に話させないようにしようというのか、短剣を無理に俺に握らせた後、すぐに再び口を開いたネアルコス。
「気をつけてくださいよ。後でプトレマイオス兄さんに、たっぷりとお説教していただかなくてはいけないんですから」
戻ってくると信じるってことなんだろう。まあ、端から裏切るつもりなんてありはしなかったが……。かえって重いな。行くなと騒がれるよりも、必ず帰ってくると約束しなくてはならないのは。
むしろ、そこまで考えての選択だったのかもしれない。
チラとそっぽ向いたネアルコスの表情を回り込んで確認するが……。これが偽装ならヘレネスで比するものの無い役者になれるような、微塵の邪念も感じさせない顔をしていたので、俺は元の位置に戻って姿勢を正した。
「なら、小言も出ないほどの大戦果を手土産に凱旋してやろう」
気まずさも手伝っての大言だったが、ネアルコスの口調はあくまで心配そうなものだった。
「……本当に、注意してくださいよ。神託のこともあるんですから」
神託、ね。
真剣な話にどこか水を差されたような気がして、思わず俺は鼻を鳴らしてしまった。
船乗りを安心させるために、神託所で当分の海の様子なんかを訊ねた際に、訊いてもいないのに俺の未来までを予言されてしまっていた。曰く、『これから向かう先で、貴方は大きな変革を迎えるでしょう』との事だ。
周囲が凶兆か吉兆かを訊ねても、運命が変わるほどの大きな変化としか巫女は答えなかった。
「気にし過ぎだ。大きな旅に出るのに、なにも成長しない人間なんていないし、これだけあちこちで戦っているのに危険がないわけもない。誰に対してもそんなことを言うんだよ。アイツ等も仕事なんだから」
どうせ、追加の駄賃目当ての戯言としか思っていない。巫女と言ってもあくまで人だ。飯も食うし、冬には暖かい外套も欲しいだろう。
と、いうか、既にマケドニコーバシオへと流れ着いたということが、充分以上に大きな変革なのだから、今更という気持ちが強いのかもしれない。
ネアルコスの肩にポンと、一度だけ右手を乗せ、そのまま俺は擦れ違って船へと向かった。
背後からは、もうなんの言葉も追い掛けては来なかった。
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