Maasymー1ー

 目覚めは悪くなかった。

 夜中まで書類仕事をしているせいで、どこか眠りが浅かったような気もするが、不調ってわけでもない。むしろ、万全にやや足りないぐらいが、分をわきまえた戦い方が出来るとも言えるし、今日の仕事や勉強に支障はない。

 亜麻布のキトンを、右肩を出してエクソミスでさっと身にまとい、長い革のベルトを腰ではなく腹に樫材を青銅で補強した特注の腹当と共に二重に巻き込み。長剣を背負う。

 最後にサンダルを履き、寝室を出た。


「おはようございます、アーベル様」

「ん? ああ」

 煮炊きの匂い、いや、それ以前に足音で既に来ている――少年従者は住み込みが基本だが、正当な理由があれば通いという形も認められる――のは知っていた。が、記憶にある顔と違う顔が寝室を出てすぐ、竈の前にあったから、少し混乱した。

 不思議そうに俺を見詰め返してくるのは、どこか中性的な……多分八つか九つぐらいの丸顔の少年だ。

 んん? 確か、俺についてたのは、どこぞの地方貴族の次男で、武人に憧れ、俺の下へと希望して移動してきた……ええと、名前が出てこないが、ともかく、歳も十一ぐらいで顔が四角くなりはじめていて、鼻が少し潰れたような顔のヤツだったと……。


「朝の大麦の粥ですが、干した魚と貝で出汁をとりました。浮き身には、パセリも――」

「そうか、わかった。ありがとう」


 ――ああ、そういえば、五日ほど前にもひとり辞めたんだっけな、俺の少年従者は。

 プトレマイオスのお決まりの小言を思い出し、起き抜けから微妙な気分になってしまった。

 いや、分かってる、この件に関しては俺が悪い。

 しかし……。

 俺に少年従者が付くというのも、どうにも変な感じだった。

 いや、ヘレネスのきちんとした男なら、少年従者と寝食を共にし、様々なことを教え込むのは義務だ。ただ、それは市民権を得た後の段階であり、正直、十五の俺が少年従者を受け持つのは異例中の異例だと思う。

 それを、ヘタイロイとしての立場がどうとか、将軍候補とかなんだと丸め込まれ――。いや、そもそも、演習や訓練、休日のアゴラでの遊び半分の手合わせが噂になったのが原因だ。事実、ひとつ年上の白のクレイトス――今、王太子と新都ペラに行っている黒のクレイトスと名前が同じなので、肌の色で区別されている。別にあの二人が兄弟とか言うわけではない。むしろ、あまりあの二人は相性が良くない――は、まだ勉強中だからと少年従者は付いていないんだし。

 まあ、あっちの場合は、やや華奢な身体つきで性格的にもやや文官寄りだってのが、無理してまで少年従者に自分の息子を付けたいと思わせないのかもしれないが。線が細い印象意外にも、服のセンスなんかから、どちらかといえば白のクレイトス自身が他のヘタイロイの少年従者的な性質があるとも言えるし。


 ……俺が、そう、例えば俺の教師となっているプトレマイオスあたりの少年従者として振舞えば――。いや、プトレマイオスは未婚だが、既に長く付いている少年従者が居るしな。下手に演技をすれば、かえって面倒になる、か。

 人気のあるヘタイロイの少年従者となれば、選ばれなかった連中の妬み嫉みの対象となり、気苦労が多いという話だしな。


 席に着くと、皿がテーブルに並べられた。粥と、林檎がひとつ。肉か魚の焼き物があればもっと良かったが、まあ、見た感じ食が細そうなヤツだし、これでも多めに作ったのかもしれない。

 まるで夫婦のように、向かい合わせの席に少年従者が座るのを確認し、食べ始める。

 距離は……、まあ、ラケルデモンの少年隊も狭い場所に押し込められていたから、そこまで気にはならないが……。

「本日のご予定は?」

 ニコニコと人好きする顔で笑い、尋ねてきた少年従者。

 本来の予定なら、今日は町の巡察だけで、午後からは空いているはずだった。だから、軍の編成を始めていなければ、昼の鉦で帰宅し、昼食を一緒した後は、学問について指導を行い、あとは日暮れまで戦闘訓練を行う……はずだった。

「軍を編成するに当たり、目星をつけていた連中に会いにいく」

 短く答え、食事を続ける俺。

 こんなに早く自分の軍を持てるなんて、とても名誉なことですよ、ボクも鼻が高いです、とか言ってたのはコイツだったか、その前のだったか。いまいち思い出せない。言った方にそのつもりはないのかもしれないが、おべっかはどうにも鼻に付く。だから、努めて早く記憶から消したんだが、どうもそれが裏目に出たかな。


「夕飯はどうされますか?」

「いや、大丈夫だ。人を選考する作業だ。終わりの時間が予想できないし、会食や宴席に呼ばれる可能性もある」

 夕飯は、適当な店でプトレマイオスと……ああ、まあ、おふざけが過ぎ、やや飲み過ぎる傾向があるのであんまり気は進まないが、アンティゴノスも誘ってみるかな。アンティゴノスはどちらかといえば実務中心に動いているので、じっくり喋る機会が少ないし、現場について、余裕のある今の内に少し話を聞いておくのも必要なことだろう。


 不意に、粥の皿をかき回していた匙の音が止まった。

「ボク、待っていたらいけませんか?」

 顔がひと刷毛赤い。


 そう、これが少年従者の一番厄介な点だった。

 勉強と運動を教えるだけなら、別に構わないが……それ以上の関係を要求されるのが――いや、制度として少年従者と結ばれるのはむしろ普通の事なのだが――どうにもいただけなかった。

 なにが悪いとか、ダメとか、そういう話でなく。一番正直な感想としては、面倒臭い。特別な感情を抱けない。どうすれば、そういう気持ちになるのか、不思議でしょうがなかった。

 男だからダメというわけではなく、女に対しても、誰に対してもそうだ。


 俺も匙を置き、顔を上げ、少年従者を真っ直ぐに見据えて言った。

「俺は、仕事がいつ終わるか分からない、と、答えなかったか?」

「はい。あの……でも……」

 返事を待たずに、食事を再開する。

 俺に聞く気が無い、というのを悟ったのか、か細い声で――。

「いえ、ごめんなさい」

 と、聞こえてきたのが最後だった。


 食事の音も、もう聞こえてこない。

 それとなく視線を向けると、案の定落ち込んだ顔をしていて……。舌打ちも、喉の溜息も飲み込んだ。こういう時に追い打つと、ろくなことにはならない。いつだったか、町の巡察中に腰にまとわりつかれた上に大泣きされ、散々に冷やかされたこともある。


 これは、今日の午後にでもまた辞めるだろうな。

 プトレマイオスの小言をまた聴かされるかと思うと、朝から気が滅入る。

 これで志願者が減ればまだましなんだが、尾鰭の付いた武勇伝を訓練で立ち会った王の友ヘタイロイの連中が面白がってあちこちで喋るせいで、その気配は未だに無い。巷の噂では、俺が自分に相応しくないと判断したとな。

 辞めたのは、そいつの力不足のように思われてしまっているから、余計に性質が悪い。ったく、誰がそんなこと言ってるんだかだから、三日もすれば新しいヤツをプトレマイオスが選び出してしまう。

 まあ、プトレマイオスはプトレマイオスで、空きがあるならウチの子を、とか突き上げられているかと思うと、心中察するに余りあるところはあるが。


 まったく、これからが忙しくなるっていうのに、な。

 どうにも締まらない朝の空気に、俺は軽く、ふん、と、鼻を鳴らした。

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