ーΠερ`ι ψυη″χσー
座学のためにプトレマイオスの部屋を訪ねる。
葡萄の収穫はピークに達しつつあり、無産階級があちこちの農園へと向かっているので都市内部は静かなんだが、城壁外からの浮民の市や山河の収穫物を売る行商人など、遠くからの大声が聞こえてくる。今日の巡察隊も、市の統制に貧民の都市への流入阻止と大忙しだろう。
いや、それは兵士だけではなく、農民だってそうなのだ。葡萄の収穫とワインの仕込みが終わっても、次はオリーブの収穫と加工に、麦の種蒔きと秋は休まる暇がない。
通常なら、軍の人員確保には難儀する季節ではあるんだが、逆にっだからこそ俺が欲しい人材を探すには良い季節だった。
部屋の奥の椅子には、いつも通りプトレマイオスが座っている。
勉学を始めた頃と比べれば、すっかりと日に焼けた顔になっている。
入口の横には、等身大のネメアーの獅子を絞め殺すヘーラクレースの青銅の像が置かれていたが――。触れたところで、金属の冷たさは感じなかった。
プトレマイオスの椅子の横の石のテーブルには、武具の他に領地から送られてきたという果物の皿が置かれていた。座学が終われば、摘まませて貰おう。
こうした収穫期には、自分の領地がある連中が羨ましい。
プトレマイオスは座ったまま、椅子に座るように促してきた。
記録係を買って出たプトレマイオスの少年従者が、羊皮紙への筆記を始める。
【プトレマイオス曰く】
軍の編成作業に入ったからとはいえ、学業を疎かにするわけにはいかない。無論、人員の選定や、装備調達のための試算、軍の基本方針と戦術、陣中令の制定も、期日通りに行わなければならない。それが出来て、初めて将軍だからな。
【アーベルは答えた】
分かっている。抜かりは無い。と、言うか、プトレマイオスは心配性過ぎる。俺はアンタの息子か。
【プトレマイオス曰く】
もう少し落ち着きが出るなら、私も安心できるんだがな。いや、……まあ、良い。今日は、プシュケーについて学んでもらう。先生と話す際には、哲学の基礎知識も無くてはな。
プシュケーについての認識は?
【アーベルは答えた】
……いざ言葉にするとなると、難しいな。
プシュケーとは、人間を人間たらしめている、目に見えない、生命の作用だ。心や感情も、プシュケーの作用によって生まれ、生きている人間は全てそれを持っている。
【プトレマイオス曰く】
では、プシュケーは不滅か否か?
【アーベルは沈黙した】
…………。
【プトレマイオス曰く】
考えたことも無かったか?
【アーベルは答えた】
ああ。
おぼろげに、冥府や奈落があり、死後にそこへ行くというのなら、不滅のモノであるような気はしていたが。
【プトレマイオス曰く】
うむ。しかし、身体からプシュケーを分離したという話は聞かないし、人を殺した際に、そのプシュケーが……。うむ、なんと表現するかな。プシュケーが失われる瞬間のようなものは分かるな?
【アーベルは答えた】
ああ、殺した後も口や手足が動くこともあるが、目の光が消え、それは物が運動するような、小石が坂を転がるのと同じ無意味で無機質な状態となっている。
【プトレマイオス曰く】
うむ。
しかし、失われたプシュケーそのものを確認したことはないだろう?
殺した瞬間、プシュケーを見たり、触れたりしたことは無いはずだ。
【アーベルは答えた】
そう、だな。
【プトレマイオス曰く】
どうした? 歯切れが悪いな。
【アーベルは答えた】
いや、どうも、話を煙に巻かれているような気がしてな。
【プトレマイオス曰く】
まあ、お前のように実在するものをあるままに認識し、戦っている人間にとっては中々受け入れ難い感覚かもしれないな。
話を続けよう。
証明できないモノである以上、かつての哲学者達は、プシュケーは定義するが、死後に関しては不明という態度を取るようになる。
中には、オルペウス教のように、魂は何度も人として生まれ変わるという思想を持ち出す宗教集団もあるが、生まれ変わりを自称する連中は、どうも怪しげで確実ではないからな。
【アーベルは訊ねた】
不明なものを論じる意味はあるのか?
【プトレマイオス曰く】
不明だから、だ。分からないものを理解しようと努力する。そこを否定するるなら、学問全てが否定される。
それに、この分野は近年急速に議論され、新たな認識が示されてもいる分野だ。
先生の先生の更にその師は、曖昧だったプシュケーを、英知と道徳のための存在と定義してみせた。正義や勇気、悪事や粗暴を検証し、道徳を定義しようとしたが、結局それは、見方によって変化していくという側面もあり、それを以って『無知の知』とし、無知であることを知っていることの優位性を解き、知恵があると奢る人間を批判し――。
【アーベルは答えた】
死罪となった、か。
【プトレマイオス曰く】
知っていたか。
【アーベルは答えた】
まあ、これでも、少し前は船で世界を回っていたのでね。
【プトレマイオス曰く】
ああ、それもそうだな。
彼は、無知であることを自覚した上で対話による検証を推奨し、それにより、これまで意識していなかった様々な矛盾をあぶり出し、哲学の隆盛の礎となった。
【アーベルは答えた】
平時に人を殺せば殺人だが、戦場で敵を殺せば英雄、か。
【プトレマイオス曰く】
……まあ、そういうことだ。
我々のように、強い目的意識の元で、信念を持って戦うなら良い。
しかし、徴募された下級兵にまでそれを要求するのは酷だからな。簡易なものであっても、人を殺す恐怖や罪悪感を、他の感情に置き換えさせるための方便は必要となる。
【アーベルは訊ねた】
……講義する割には、その論をあまり尊重していないのか?
【プトレマイオス曰く】
少し待て、先生が唱えているプシュケーには、段階があるものと定義していて、そこに関わる部分だ。
次は、先生の先生が示した見解だ。
【アーベルは頷いた】
分かった。
【プトレマイオス曰く】
先生の先生は、プシュケーを不滅の物と定義した。
【アーベルは答えた】
ん?
【プトレマイオス曰く】
身体は、いつか必ず滅びる。しかし、我々は、まあ、神々の時代の栄光を別とすれば、時代を得るごとに文明を発展させているだろう?
【アーベルは答えた】
そうだな。様々な技術は新しく、そしてより良いものに変化している。
【プトレマイオス曰く】
そう。だから、知を備えた機関でもあるプシュケーは不滅で、人は知を育て続けていると定義しているが……。
【アーベルは訊ねた】
問題が?
【プトレマイオス曰く】
我々のプシュケーが、忘却の川を渡ってしまったことで、かつて在った
そんなことを言われても、いつまでもたどり着かない場所を目的地にすることに意味はあるのか、という別の問いが発せられるだろ?
それに、想起にしても、あるモノを見て、万人が同じものを想起しないのだからな。
【アーベルは答えた】
度を越すなかれ、か。
【プトレマイオス曰く】
世界の中心にある、アポローン神殿の碑文だな。
まあ、そう受け止めることも出来るが、知的な探求に節制を求めるのは、なにかが違うだろう?
それに『汝自身を知れ』とも示されている。
我々は万能ではない、しかし、自分自身を律するためには、知らなければならない。正しいものはなにか、なにが間違っているのか。
【アーベルは答えた】
まあな。
【プトレマイオス曰く】
続けるぞ。
イデアという、完全なのに曖昧なものを離れ、先生はプシュケーを命が目的を達するための段階として定義した。
【アーベルは訊ねた】
命が、目的を?
【プトレマイオス曰く】
例えば……そうだな、今朝も食べたと思うが、大麦について考えてみてくれ。大麦の種は、自然な状態では芽を出し、花を咲かせ、種子を増やす。そういうモノだな?
【アーベルは答えた】
ああ。……まあ、既に煮られて俺の腹に収められては、それを達成できはしないだろうがな。
【プトレマイオス曰く】
お遊びじゃないぞ。真面目に聞け。
つまり、種子には植物となる可能性がある。その可能性の原点のようなものをデュナミスと呼び、花をエネルゲイアと呼ぶ。
【アーベルは訊ねた】
花?
実じゃなくてか?
【プトレマイオス曰く】
実は、再び花を咲かせるという可能性の原型だ。だから、ここでは目的を達した状態が花であり、その花が完全に……充分に育ち、最大数の実をつけられる状態であるならば、エンテレケイアと呼ぶ。目的を完全に達した形だ。
【アーベルは答えた】
ふ、ぅむ。
【プトレマイオス曰く】
しかし、ここで考えてみてくれ。植物の種から、動物が生まれてくるか? そんなことはありえない。植物の種からは植物が、卵からは雛が生まれる。
つまり、そこにおけるプシュケーとは、
【アーベルは難しい顔をした】
理解は出来る。あくまでそういう言葉と分類がある、という認識だけならあ。
まあ、プシュケーが目的を達する段階で別けられるという事も、大丈夫だ。
【プトレマイオス曰く】
うむ。
では、人間という括りで見た際の、エンテレケイアはなにになる?
【アーベルは答えた】
難しいな。俺達は、王太子と世界国家を樹立することが目的だが、人間個々人には其々別の目的があるんだし。
【プトレマイオス曰く】
いや、そういう意味ではない。
それは、やらなければならないことだろう?
もしくは、行いたいことだ。無論、それも目的ではあるが、もっと別の、人としての到達点の定義だ。
【アーベルは断言した】
そんなものは、存在しない。
【プトレマイオス曰く】
うん?
【アーベルは答えた】
人間は、個々に目的を持ち、それを実現させようとする生き物だ。種全体の目的というなら、それは、子を生すこととでも定義できるかもしれないが、自分の血脈を残すことが最上ではない。場合によっては、自身の子を殺めてでも、保つべきモノがある。
【プトレマイオス曰く】
それが、ラケルデモン王家の考え方なのか?
【アーベルは悩みながらも答えた】
……そう、だな。
無能な王も、優秀過ぎる王も、国家を大きく揺らしてしまう。
ラケルデモンは、中央監督官とふたつの王家が相互監視しつつ、事案によって協力し合う国家だ。異分子は、排除される。それにより、安定を保っていた。
間違っているだろうか?
【プトレマイオス曰く】
いや、むしろ、その概念があった方が良い。
人間のプシュケーの目的を先生は、最高善と定義した。個人よりも国家、国家の上にヘレネスの全ての人間、そしてさらに広がり人という種全体がある。
そうした全てを、遍く幸福である状態に持ち上げるために政治があり、政治は最高善を体現するために行わなければならない。
【アーベルは訊ねた】
幸福、というものも、曖昧なものだな。銀貨を同じだけ渡しても、充足する者とそうでない者は出てくるぞ?
【プトレマイオス曰く】
まあ、な。だから、そうしたたゆたっているモノであることを認識し、それを一つ一つ証明し、定義していくことでプシュケーや最高善に関しての輪郭をあらわにしていくのが哲学なんだ。
【アーベルは難しい顔をした】
ん、む。
【プトレマイオス曰く】
苦手そうだな。
【アーベルは答えた】
勝ち負けも無く、数字の計算でも出ないことを話したり考えたりするのは、どうも、な。
実態や実感を伴わないものは苦手だ。
曖昧なものを議論していたところで、目の前に切っ先を突き出されては、敵を殺すか、敵に殺されるかの二択しかないだろ?
それが現実ではないのか?
【プトレマイオス曰く】
……まったく。最近はようやく落ち着きが出てきていたと思ったのに、結局はそこに行き着くのか。
まあ、このご時勢、腕が鈍るよりは良いのかもしれないがな。
【アーベルは答えた】
仮初めの大義名分なら謳えるぞ?
【プトレマイオス曰く】
今は良いかもしれない。だが、いつか悩む時が来る。その時に、殺めてきた命で押し潰されないように、しっかりと考えておくんだ。偽りではなく、仮初めでもなく、本当の自らの目的、お前自身のエンテレケイアを、な。
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