Ras Algethiー6ー

「アーベル?」

 俺の顔を忘れるほど時間が流れた、というわけでもあるまいに、少し不安そうなエレオノーレが、まるで誰何するような調子で俺の名前を呼んだ。

「ああ、久しぶりだな」

 また『変わった』だろうな、と、さっきまでのコイツ等の反応からエレオノーレの言葉を予想し、呆れるとまではいかないが、多少、食傷気味に続く言葉を待っていたが……。

「……うん」

 小さく頷いたエレオノーレ。

「どうした?」

 中々口を開かない――ああ、そういえば、昔も、周囲によく知らない誰かが居る時には、口ごもる癖があったっけな。もっとも、怒っている時は別だが――エレオノーレを促すように訊ねてみる。

 一拍後、顔を上げたエレオノーレは、少しだけ上目遣いで俺を見詰め、真顔で「その。アーベルは、変わらないね」と、呟くように、だが、はっきりと告げてきた。

「ふは⁉」

 予想とは真逆の事を言ったエレオノーレに、思わず噴出してしまう。

 王太子やアンティゴノス、黒のクレイトスも可笑しそうに笑っているが、俺の教育係でもあるプトレマイオスは、変わったとキルクス達が言っているのを聞いて鼻を高くしていたので、若干不満そうに唇を歪めている。

「え? あ、その!」

 ミエザの学園の俺の仲間からの視線に、今、初めて気付いたのか、急に慌てだしたエレオノーレ。普通に考えれば、この場所にキルクス達だけのはずもないだろうに。

 ははは、と、腹を曲げて一頻り笑い、エレオノーレの顔を下から覗き見る。

 恥ずかしさのせいか、頬が少しだけ赤い。困っているような顔。視線が右往左往して助けを求め、最後に俺と目が合うと少しだけ拗ねたように切れ長の目を更に細めて俺を睨んだ。

 ふふん。

 変わらないのは、コイツも同じ、だな。きっと。


 だから、もう、ここでは俺の戦いに関わらせはしない。絶対に。


「気にするな。どっちでもいいことだ」

 目の前で軽く手を振って笑みを押さえ込み、会話を打ち切ろうとする俺を、エレオノーレが呼び止めた。

「よくないよ」

 うん? と、訊ねる視線で続きを促すと、やはり周りが気になるのか、かなり迷っている様子ではあったが、最後にはどこか怒ったような――いや、ただの照れ隠しか? ――子供がするように頬を膨らませて見せた。

「私は、もう、追いついたんだから」

 胸を張り、真っ直ぐに俺を見つめてきたエレオノーレ。

 本人としては、わざと難解に言ったつもりなんだろうが、正直、なにも隠されても折り畳まれてもいない言葉だった。

 全員、はっきりと状況と事情を察したぞ、ほぼ確実に。


 それに――。

 ただ、近くにいられればそれで終わりか?

 違うだろ。隣り合って立っていたとして、世界を同じように見れない以上、それは同じ場所に居るとは言えない。

 あの頃の俺は目的地の違いを口実にしていたけど、それだけではなかったのだ。

 それに、最早立場が違う。ここに居る事の意味も。

 追いかけてくる意味なんて、本当はもう無いんだ。エレオノーレには。多分、それを気付かせるのが、俺のエレオノーレに対する最後の仕事だな。

「過去に囚われるな、今を大事にしろ」

 エレオノーレが気付くようにあえてはっきりとした動きで町の代表団に視線を向け、エレオノーレが俺の視線を追ったのを確認してから、再び顔をエレオノーレに向けた。

「うん……わかってる。……つもり」

 歯切れが悪い。

 ああ、そういえば、コイツ等の都市では、軽度ではあるが人種間の諍いというか、対立があったんだっけな。エレオノーレは、それを俺達に知られたことまでは知らないので、この場でその事実は言わないでおこう、と、思っているのかもしれない。もっとも、隠し通したいなら動揺するなと叱りたいところだが。

 軽く溜息を吐くと、どこか切羽詰ったような様子でエレオノーレが俺の腕を掴んだ。

「あの、この後で――」

 俺の腕を掴むエレオノーレの爪が、白くなっている。

 無駄に力んでいるようだな。あの町の問題については、この場では既に終わったことなのに。

「町の代表団は明日帰るんだろ? ここに留まるなら、俺と話す機会はいくらでもある。今日はあっちについていってやれ」

 と、親指でキルクスを指差せば、キルクスは打ち合わせの邪魔という俺の意図を正確に読んだのか、わざとらしく困った表情をして、エレオノーレを扉の方へと促した。

「……うん」

 エレオノーレの指が解け、間合いが一歩広がると、無邪気なのか、無邪気を装っているだけのかはまだ完全に判断できないが、チビがエレオノーレの手を引いて俺から引き離す。

 ふん、と、軽く鼻を鳴らす。


 さて、これでようやくこちらの会議が――。

「あなたが? ……ふむ」

 そう思ったのもつかの間、先生が、かなり顔を近づけて俺の顔を見ていた。目が悪いってわけでは無さそうだけが……。

 いや、元々、人やモノと接する距離が近いのか?

 俺みたいに、日常的に戦っていた人間は、たとえ仲間であっても、即死の間合いに入られるのは、なんだか背筋がざわざわして苦手なんだが。

 ああ、そういえば、先生が蝶の羽化を観察しているのを一度だけ前に見たことがあるが、その時もかなり顔を近づけて観察していたっけな。


 先生は、額の皺が深く、髪は近くで良く見れば薄くなり始めているようでもあったが、少し硬そうなしっかりとした顎鬚や、程好く鍛えられている腕を見れば、四十代といっても誰も疑わないだろう。既に、六十間近だというのに。


 俺が先生を観察し終えても、先生はまだまじまじと俺を見詰めていたので、さすがに居心地の悪さを感じ「あの、なにか――」と、口を開く。

 しかし、先生は俺の声にハッとしたような顔になり、……いや、それでも暫くは声を掛けてくれなかった。

 たっぷりと間を開けてから、先生はゆるゆると首を振り、どこか独り言のように呟いた。

「いえ、わたくしの思い過ごしてあれば、それに越したことはないのですが……」

「はい?」

 てっきり、なんらかの評価がくだされるものだとばかり思って、緊張していたんだが、肩透かしをくったような……いや、直接伝えられないような問題をなにか見つけられたの、か?

 ひと目でわかるほど、俺に足りないものがまだあるんだろうか?


 結局、目の前であまり話してくれない先生に困ってしまい、プトレマイオスの方へと視線を送るが、プトレマイオスも先生のこんな様子を見るのが初めてだったようで、視線から戸惑っているのをはっきりと感じた。

 アンティゴノスも黒のクレイトスも同様で、場の空気の変化に戸惑いを隠しきれていなかった。王太子だけは、なにか気付いたような顔をしているが、あの嫌な感じの笑みを見る限り、それを口にしてはくれないだろう。


 失礼に当たる溜息は飲み込んだ、が、いつまでもこうしているわけにはいかないのでは? と、王太子に目配せする。

 くく、と、王太子がのどの奥で笑う声が聞こえたような気がした。

 その直後――。

「先生、今度、アーベルも先生の議論に混ぜようと思うがどうか?」

 王太子が大きな声で注目を集めると、先生は王太子の方に向かい「そうですね。わたくしとしても、実践での哲学のため彼のお話も窺いたいですから」と、丁寧な言葉で告げた。

 そうして、先生が王太子から視線を俺に戻したので、俺は、よろしくお願いします、と、頭を下げた。

「はい」

 と、穏やかに応じた先生。

 しかし、結局、どこか――。上手く形容し難いが、不安を感じているようでもあり、それでいて、俺を推察しているだけのようでもある、先生から向けられる不思議と落ち着かない視線は、ずっと変わらなかった。

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