ー”Eργα κα`ι ‘Hμε´ραιー

 座学のためにプトレマイオスの部屋を訪ねる。

 蝉の声がかしましい。夏はいよいよ季節の中心へと向かっており、この一ヵ月において、雨どころか雲さえも見てはいない。ギリシアヘレネスの夏は、暑さと乾燥の季節だ。そして、それこそがギリシアヘレネスにおいて、小麦とオリーブと葡萄の富をもたらしている。

 季節のためか、椅子の下の敷物が変わっていた。前は熊の毛皮だったが、今は羊毛の織物に代わっていた。

 部屋の奥の椅子にはプトレマイオスが座っている。

 入口の横には、等身大のネメアーの獅子を絞め殺すヘーラクレースの青銅の像が置かれていて――。プトレマイオスの椅子の横の石のテーブルには、武具の他に水瓶と陶器のコップが用意されていた。ヒュドリスケと呼ばれる、水を入れて持ち運ぶ陶器の瓶なんだが、南部で作られたものらしく、黒絵式でキュクノスと戦うヘラクレスが描かれている。

 もしかしたら、過去にラケルデモンで作られたものだったりしてな。

 プトレマイオスは座ったまま、少年従者に水を注がせ、椅子に座った俺にそれを進めてきた。

 喉を流れた水が、汗で失った身体に浸み込んでゆく。

 記録係を買って出たプトレマイオスの少年従者は元の位置へ戻り、羊皮紙への筆記を始めた。


【プトレマイオス曰く】

 お前がここに来て、もう大分時間が経つな。もうすっかり夏だ。

 どうだ? 名物のセミのオリーブオイル揚げは食ったか? 屋台でも良いが、羽化する前のをたっぷりの油で素揚げにしたのが上等品だ。軽く塩を振って食う。表面はカリッと、中はフワッとした食感が良いんだ。


【アーベルは答えた】

 悪くはないが。口当たりが軽すぎる。下手に手を出すと、満腹になる前に財布が空になりそうだ。


【プトレマイオス曰く】

 はは、ほどほどにな。

 そういえば、ラケルデモンでは、基本的には黒シチューが食事なんだろう? どういうものなんだ?


【アーベルは答えた】

 ……多分、ここの誰の口にも合わないぞ。

 町の位置にもよるが、少量の肉もしくは魚と、玉葱、適当な季節の野菜と野草を獣の血で煮込んだものだ。味付けも、塩と酢が基本だからな。ハーブはほとんど入らない。

 ちなみに、煮込むといっても汁気は少ないんだ。グズグズに煮た穀物で粘っこくしている。


【プトレマイオス曰く】

 ふむ。

 まあ、今更かもしれないが、ここでの食事はどうなんだ?


【アーベルは答えた】

 十分だ。

 ここでは、獣肉が多いからな。ラケルデモンではもっぱら豚肉だったが、ここで食うハトも鶏も十分に美味い。


【プトレマイオス曰く】

 野戦料理や、進軍の時期の調整もあるため、ヘレネスの農業と料理の基本について、今日はおさらいしておく。

 まず、ヘレネスで一番重要な穀物。麦についてだが、基本的には大麦、土地によっては燕麦を秋撒きの初夏収穫で耕作している。しかし、連続で麦を作っていると、すぐさま収量が落ちてくる。そこで、一年毎に、耕作と休耕を繰り返すようになった。ただ、それでも土地の力を麦が吸う方が強く、不作が襲うことが多かった。しかし、きっかけは、偶然の産物であったらしいのだが、休耕の後に豆を育てることで、食料の生産をしつつ土地の力を回復させられることが分かり、最初の一年目に麦を育て、次の年に土地を休ませ、三年目に豆を育て、四年目に再び麦を育てる今の農業の形となった。


【アーベルは同意した】

 まあ、確かに麦、特に小麦は高価だからな。

 数年休ませても、小麦の生産に適した土地が維持されるならそう悪くはないだろ。


【プトレマイオス曰く】

 ああ、生産に適した西方植民都市があるにはあるが、全ての市民に行き渡るって量ではないからな。大麦に関しても、休耕の多い年には高騰し、低所得層の食事では栗や樫、楢の実を粉にした粥や団子が主食になる。

 ちなみに、大麦は基本的に粥や、平焼きパン、平焼きパンを更に硬く焼き上げた戦場で湯がいて食べる硬パンが一般的だが、小麦ではもっと違う調理法法があるのは知っているか?

 醗酵中のワインや、古代王国発症でヘレネスでは奴隷層が主に飲むビール、そうした酒の元を入れて寝かせることで、ふっくらとしたパンが焼けるんだ。


【アーベルは答えた】

 アテーナイヱで、うろちょろしてた頃はよく食ったな。

 大麦のパンと比べて確かにふんわりして、加工せずとも食いやすいから、蜂蜜やチーズと合う。


【プトレマイオス曰く】

 そうか、……羨ましいな。

 ここでは、頻繁に食えるものじゃないからな。

 ちなみに、進軍中の保存食としては、堅く焼いたパン、炒った大麦の粉の他に、ソーセージを携帯する。ここでは、山羊の胃に血と脂身、塩を入れて作られる。昔は自然乾燥させていたが、失敗も多かったので、今では魚と同じように煙で燻して保存食にする。

 他にも、豚の腸に肉と塩を入れて作るものもあるが、こちらは、どちらかといえばその日のうちに食べる金持ち用の料理だ。そもそも、子豚一頭が常備軍の兵士三日分の給料と同じ価値なんだ。

 だから、ソーセージは安価な血のソーセージと高価な肉のソーセージに二分される。

 他にも、レンズ豆、玉葱、なんかは比較的一般的な軍用の食品だな。

 だから、戦場での食事は、豆と玉葱、保存肉でスープを作り、大麦のパンを調理して食すのが一般的だ。

 それらの栄養素を補助するため、どこにでも見られるスイスチャードも使われる。葉がゴワゴワしていて、葉軸がしっかりした野菜で、摘んでもすぐに生えるからな。他に、葉が細長いスイバや、カルドン――今の時期は、紫色の花が咲いているが――の茎や蕾、ダンディライオンは全草が食用に出来る。


【アーベルは答えた】

 干したイチジクや、アーモンドなんかもあるにこしたことは無いな。

 甘味は士気が上がるし、木の実は保存が利く上に栄養価も高く、味も悪くない。


【プトレマイオス曰く】

 そうだな。果物は士気にも影響する。

 この辺りでは林檎も取れるので、それを数個携帯する場合が多いな。他にもニンニクなんかは強壮剤も兼ねて兵糧に加えることを検討している。

 あとは……、ああ、キャベツも多く作られる野菜のひとつだが、あまり進軍時に持っていくということは無いな。都市生活においては、スープや炒め物のつけあわせでよく出てくるが。


【アーベルは訊ねた】

 卵なんかは、どちらかといえば士官用なんだよな?


【プトレマイオス曰く】

 ああ、戦場や進軍中の野営地付近で野鶏を捕まえて、卵を産ませることもあるが、基本的に卵は高級品だし、食べるよりも金に替えたい兵士の方が多い。

 ちなみに、輸入されるガチョウの卵を茹でたものは、普通の兵士じゃまず口に出来ない代物だ。


【アーベルは納得した】

 まあ、野外演習を見る限り、野兎なんかは取ってすぐにさばいていたし、卵を売ろうが食おうが、栄養状態にそこまで大きな違いは出ないか。


【プトレマイオス曰く】

 ちなみに、穀類の栽培には難のあるヘレネスの土地ではあるが、葡萄にオリーブ、ハーブには適していて、それらを加工したワインに薬、そして調味料が交易品となっている。

 つまり、だ。

 戦争を行うに辺り、注意すべきは農繁期を避けるということになる。

 となると、戦に適した時期は春と晩夏の年二回だ。

 ただ、基本的には、麦の収穫前の晩春から初夏にかけての時期で戦争を行うのが望ましいとされている。敵の備蓄が減っている状態で、籠城には難があるし、国を征服した後、収穫した穀物は兵士に配る財源にもなるからな。

 しかし、出兵が長期に及ぶ場合、自国の農作物の収穫に難をきたす場合もあるので、その見極めが重要になってくる。


【アーベルは補足した】

 海の状況も考える必要があるだろう。高速で軍を展開したり、進軍する味方への迅速な補給を行う場合には海運に頼る必要もあるからな。


【プトレマイオス曰く】

 ああ、だから葡萄の収穫と加工、それに麦の種植えまでも行う秋は戦いを避けるし、海が荒れる冬も戦争には不適だった。

 だがしかし、今回のラケルデモンとアテーナイヱとの戦争で、少し見方は変わりつつあるな。

 農業人口と別に常備軍を編成し、国内生産を安定させると共に敵国の農業を妨害する。そういう戦略も検討されるべきだ。


【アーベルは訊ねた】

 国内の参戦可能な成人男性の総数から、国内の経済活動に必要な労働力を差し引き、その動員数によって達成可能な軍事目標を設定する。

 今後の戦争においては、そうした数学的な要素が加わるということか?


【プトレマイオス曰く】

 ああ、戦場で指揮を取るだけが戦争じゃないからな。

 それに至る前の国内、そして国外状況、軍需物資の手配、武具の戦時増産態勢と原料の備蓄状況。戦場で戦うだけが将軍じゃない、兵の錬度や士気だけじゃない、軍船や軍艦を集めるだけでも足りない。

 大局を見る目が今後はより重要になってくるだろう。


【アーベルは考え込んでいる】

 …………。


【プトレマイオス曰く】

 ああ、もちろん、個々の兵士の能力があってこそ、だ。

 だから、あまりそういう顔はするな。強い兵がある上で、その先を見て動く、そういうことを覚えていくんだ、アーベル。


【アーベルは答えた】

 いや、その部分で機嫌を悪くしたわけじゃない。子供か、俺は。

 そうじゃなくて、戦っているのが民なんだから、そうした国家運営上の制限や戦略が重要なのが分かる。

 ただ、兵士の中心が常備軍に移った場合、民会の決定において自自由市民が参戦するこれまでの都市国家のルールとは別の枠組みが要るのではないかと思っただけだ。

 都市の自由市民が、都市の利益のためや防衛のために戦うのがギリシアヘレネスの戦争だった。ラケルデモンにおいての国民皆兵でさえも、生産者たる奴隷の支配とそこからの搾取を利益とし、あくまで都市市民として得られるであろう更なる利益のために戦っていた。

 常備軍という形で、兵を、農業からも商業からも工業からも切り離すなら、新たな階級と利益構造が要るんではないだろうか?


【プトレマイオス曰く】

 無産階級における労働形態の一種としての兵士、という認識では不足があるのか?

 役職に応じた貨幣の支給という報酬形態に、どのような問題があると感じたんだ?


【アーベルは答えた】

 上手くは言えない。

 まだ、ぼんやりとした違和感があるだけなんだ。

 兵士と国が同じ方向を常に向くとは限らない、というか、んん……。どの程度、兵の民会での発言権を認めるか、とか。

 国が大きくなり、軍団の規模が大きくなった際の、統制方法について改良の必要性を漠然と感じる、が、正しい心情かもしれない。


【プトレマイオス曰く】

 ふむ……。

 お前の考え方は、私達とは違う。だが、それは非常に良い事なんだアーベル。

 言葉に上手く出来ないのはまだ途上だからなんだろうが、そうした問題を感じるということは大きな成長だ。

 ラケルデモンで得た知見と、ミエザの学園の英知を合わせ、お前にとっての答えを探していき、それを皆に教えてくれ。皆の理想を、より良いものにしていこう。友よ。

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