夜の始まりー12ー

 話はまとまったが、では、そのままミエザの学園へ出発できるかといえばそういうわけにも行かない。少なくとも、俺の荷物は取りに行かなくてはならないし、折角、王太子がこんなとこまで出張っているので、まとめるべき話も――とはいえ、おそらく、王太子の出した案をあの連中は丸呑みすると思うが――残っている。

 しかし、わざわざ顔を出して会議に水を差すのも面白くない。

 様子を窺いつつ、アゴラ周辺へと足を向けるが……。どうも思った以上に飲み食いしていたせいか、円堂での会議は終わっているようだった。周囲の灯りも乏しい。

 肩透かしされたような……いや、まあ、都合が良いといえばそうか。アイツ等にまで、さっきのような態度が出来るとは思えなかった。照れとか、そういうのではなく、単純に能力の差による上下関係として。


 南の柱廊――町が運営され始めたら、出店や芸術家の作品の展示などを行う、屋根を列柱で支えた壁のない廊――を抜け、荷物の仮置き場へと向かう。

 一言ぐらい挨拶して来い、とは、プトレマイオスに言われたが、この町とはこの先関わることもないだろうと思っているので、適当に金と荷物さえ回収したら、野営中の王太子の部隊にもぐりこむつもりだ。

 そういえば、この流れだと、俺の監督官……じゃないな、マケドニコーバシオで、監督官という立場があるかは不明だ。ただ、まあ、俺の教育係はプトレマイオスになりそうだ。

 悪くは無い、と、思う。実際に座学が始まってみないと、なんとも言えない部分もあるが。ああ、他にも戦闘訓練や、仕事に関しても――いや、そうか、まだ細部は詰めてなかったな。


 不思議な、気分だった。

 誰かの下につけば、目的地から遠ざかるような気がしていたんだが、昨日までの俺よりも今の俺は、自分の手で祖国を再建する機会を得たという確信がある。

「アーベル」

 声に、弾かれるように身構え――いや、構える前に声の主に気付いた。女の声だったし、そもそも俺を呼ぶのは、もう、ひとりだけしかいない。

「どうした?」

 訊ねれば、エレオノーレは少し笑い「待ってたんだよ」と、言った。

 春の花は咲き始めているとはいえ、まだ夜は冷えるだろうに。困った奴だ。俺がいなくなった後は、全員をまとめる――とはいえ、実務でではなく、象徴という形になるだろうが――役割を担うのにな。

「それは?」

 ふと、夜気の中に甘い香りを感じ――またニオイスミレかと思えば、もっと色々な……花を集めた、小さな花束をエレオノーレが握っていた。絞った袋のような細長い白の花に、同じ形の紫の花。ああ、クロッカスか。確かに、ニオイスミレよりも早くに咲く花だな。これなら、今の季節に咲いていても珍しくない。

 エレオノーレは、花束を少し持ち上げ、これ? と、首を少し傾げ――、そのまま、今度は逆方向に首を傾げて俺の顔をしげしげと見詰めてきた。

「あの後、ニオイスミレを、女の子にあげたら、町の近くで咲いてたんだって、こんなに」

「そうか」

 土地が豊かなのは良い事だ。

 持ち上げた花束を、俺に向かってエレオノーレが差し出すが、俺は首を振ってそれを断った。

 エレオノーレが腕を下げ、側の柱に背中を預け――俯いて一呼吸ついてから、再び俺の顔を見た。

「皆、心配していたよ。大きな仕事が終わった後に気が抜けるのは良くあることだけど、模擬戦で負けたから、魂が抜けたようになっているんじゃないかって」

 心配ねえ。

 どうにも、会議を抜けた時の感じから言って、とてもそうは思えなかった。むしろ、気が抜けているから外そうとか、そういう話だったように思う。エレオノーレに気を遣って、腑抜けたから外そうとまでは、言えなかっただけで。

「非道を行う人間に対しては、見限るのも早いものだな」

「違うよ……」

 エレオノーレは、俺を非難するように――顔自体は下を向いていたので、少し上目遣いに睨んできた。

「この町に入居する条件で、ドクシアディスさん達とキルクスさん達で少し揉めて……ごめん、どんな内容で揉めたかまでは、ちょっと……だけど。それで、結局、王太子の出す条件そのままでいこうって」

 まあ、そうなるだろうな。

 おそらく、祭事関係の役職と常駐議員の割合・報酬なんかで、アテーナイ人とヱアヱギーナ人の派閥争いが起きたんだろう。まあ、王太子もそれは分かっているだろうから、おそらく、基本的には両人種を平等に登用し、揉めそうな役職はマケドニコーバシオからの派遣としたんだろうな。

 ……そうか、だから兵権を外部管理の形にしたのか。将軍職をどちらの人種が取るかで、場合によっては虐殺が起きる。

 単に、武力による簒奪がしやすくなるからそうしているんだと、ここに来る道中では思っていたんだが、細部までよく考えられていたってことか。


 まったく、と、入念過ぎる計画に少しだけ口元が緩んでしまった。

「最終的にまとまったのなら、大丈夫だろう。全体的に不利益になるって内容なら、協力して反対でもしただろうしな」

 最後に軽く肩を竦め、エレオノーレの批判をかわす。

 エレオノーレは、顔を上げ、真っ直ぐに俺を見て――。一歩、強く踏み出した。間合いが詰まり、息が掛かりそうな距離で……真正面から向き合う。

「アーベル、ひとつだけ、いい?」

 この前の一件が堪えたのか、二人きりでもエレオノーレはアルと呼ばなかった。いや、まあ、俺だってもう二度とエルと呼ぶつもりも無いし、それで良いんだが、な。

「なんだ?」

「そういう態度は、嫌だ」

「アン?」

 呼び方の件か、会議を抜けた件か、……最近のことに関しては、心当たりが多過ぎてどれを言われているのか分からなかった――が、分からないまま謝罪するつもりは俺には無いし、そもそも謝るつもりもほとんど無かったので、無自覚な振りをして訊き返した。

「自覚がないかもしれないけど、アーベルは、時々、そういう顔をするんだ。距離がある態度。どうせ分からないだろ、って思っているのかもしれないけど、口にしてくれなきゃ、いつまでも分からないままだよ、皆も……私も」

 力が入りすぎているのか、エレオノーレが話す声は、時々詰まった。

 少し、意外だった。

 もっと、直接的になにかした件を非難されると思っていたから。

 いや、エレオノーレにとっても思うところがあったってことなんだろう。俺が、船の変化を感じ、エレオノーレに対して、思っていたことが変わったのと同じように。

「それで、構わない。もう結論は出ている。お互いに」

 エレオノーレは首を横に強く振った。

「私も、皆も、アーベルを否定したくてここに居るわけじゃない……。そうじゃなくて、むしろ……」

 右手をエレオノーレの肩に添える。

 少し上目遣いに見上げる視線が――一瞬、違和感を感じる。旅の始まりでは、目線の高さはほとんど変わらなかったはずだったのに、今でははっきりと分かるだけの差があるようだった――俺とぶつかった。

 エレオノーレが少し上を向いたからか、添えていただけの右手に、エレオノーレの身体が預けられ、支えるために少しだけ引き寄せた。

「そうか、だが、俺はお前等を否定する」

 断言すると、ハッとしたような顔になったエレオノーレは……唇を噛んで視線を逸らした。

 分かっている反応だ。

 いや、分かっていない方がおかしいんだ。

 俺達は長く傍にいた。

 なのに俺達は、なにひとつとして、同じようには見ていなかった。

「俺とお前等は違う。良し悪しじゃない。そもそもが、全く別の存在なんだ。生きるべき領域が違う。もう、ここで終わりだ。それがお互いのためだ。お前も――もう、好きにしろ」

 右手を離す。

 少しバランスを崩したエレオノーレがよろけて、俺との距離が一歩分開いた。

「好きにしろって……」

「もう大丈夫だろ。仲間も出来たんだし、ごくごく平凡で慎ましやかに生きていける場所も貰えたんだ。もう俺は、お前に必要無い存在だ」

 これまで、全く別の存在であるエレオノーレを、守るための俺の最大のルール。エレオノーレのお願いは、もう、俺じゃない人間が叶える。ここに残していく連中が。それでいい。それが、自然な形だ。


「そっか、……いや、ううん。ずっと、そうだったよね。なんでアーベルは、私を置いていこうとするの! 一緒に、二人だけで、旅を始めたっていうのに!」

 エレオノーレが、さっき一瞬だけ離れたことに対する抗議のように、深く踏み込んできた一歩は――気持ちだけが急いていたのか、造成途中の床石に躓いたようで……。

 花が辺りに撒き散らされた。

 エレオノーレは、俺の腕を掴んで踏み止まっている。

 抱き合いなんてしない。お互いに、腕で相手を支えているだけだ。

「なんで戦おうともしないお前が、いつまでも俺の近くにいれると思うんだ? ここまで、お前は、俺の邪魔しかしてこなかっただろう?」

「違う、邪魔なんてつもりじゃなくて、私は!」

 エレオノーレが姿勢を正したのを見て、俺の腕を掴む腕を支えていた手を離す。

 あの時の間合いと比べれば、かなり近いが……。

「……また剣を抜くか? 技を見せるか?」

 試すような笑みを向けると。

「違う!」

 血を吐くようにエレオノーレが叫び――。仰ぎ見るようにして空へと視線を向けた後、深呼吸し、先走る感情でぐしゃぐしゃだった表情を落ち着かせてから俺を見た。

「……アーベルは、たとえ目の前に奈落の入り口が開いていたとしても、そのまま突き進むだろう? 分かっていても、破滅に向かって躊躇せずに駆けていくような、そんな危うさがあるんだよ」

 声は枯れかけていたが、諭すように、ゆっくりと話し始めるエレオノーレ。グリーンの瞳に、迷いは無いように見える。

「私や、皆の生活の為に、凄く頑張ってくれたのも知っているし、いつか、名君って呼ばれるような人になれると思っていたし、なってくれるって信じてたんだよ?」

 縋るような表情は、村での虐殺を止めたときと同じで――どうしても、だよ、と、空耳が聞こえた。


 だから、俺に、ここに残れ、と?

 それがエレオノーレの希望なら、なんていうか、上手く言えないけど、やっぱり俺とエレオノーレは別の存在だとしか思えなかった。

 俺は……いや、確かに、今の俺のままでも、この町ひとつを差配するぐらいはなんとかなるかもしれない。この町を、それなりに発展させられるかもしれない。人種間の諍いを抑えて、多民族都市を作れるのかも。

 それは、確かに、不可能な未来じゃないとは思う。

 でも――。

「勝手な希望だ。生き方を決めるのは、自らの意思だろう。お前が、これまでの多くの場面で俺に譲らなかったのと基本は同じだ」

 出来るから行う。誰かがそれをして欲しいと思っているから、そうする。それなら、俺が俺である必要なんて、なにもない。そんなのは、家畜と同じだ。

 何を選ぶのかは、自らが決めるべきだ。

 例えそれが、どんな選択であったとしても。どんな結末が待っていたとしても。

「私は、アーベルが間違った道を進むなら、それを正したい。止めたいって思う」

「バカか、お前は。……はは、いや、バカだったな、お前は」

 エレオノーレの覚悟の視線を向けられ……俺は、つい笑ってしまった。右手で目元を押さえ――、一頻り笑ってから、目を隠していた右手を外し、真顔でエレオノーレを見据える。

「人は、自ら進んで間違いを犯すんだろ? なら、それがその人間の本質だ。止めてどうする。最後には、息の根を止めることでしか止められなくなるぞ」

 お前は――、俺を殺せるのか? と、目で問う。

「私は、誰かが欠けてしまうなら、ここに残らない。アーベルについていく」

 強情を張るこの顔は……嫌いじゃないんだけどな。

 でも、いや、やはりと言うべきか、エレオノーレが俺の近くに居たいという気持ちは、俺が思っているものとは少し違うみたいだ。

「自分の意志で決めたんなら、俺は別にとやかく言うつもりは無い。まあ、もっとも、お前個人の才能があの王太子に気に入られるか、って問題はあるがな」

 溜息で話を追え、肩を竦めて歩き去ろうとしたが――。

 え、と、意外そうな声と顔が追い打ってきた。


 ……そうか、それについて言ってなかったか。

 少し気まずい部分もあったが、隠すことでもないので、開き直る気持ちで俺は宣言した。

「自分に足りないものを理解した。それを埋めるのは、お前やこの場所じゃない。王太子の元で学び、俺は更に強くなる」

 ぽかん、とした顔で話を聞き終えたエレオノーレは、一拍後……喜んでいるような怒っているような変な顔をした後で、俺に対す時とは別種の不機嫌そうな顔になった。

「……私は、あの人は、あまり、好きになれない」

 善意だけが理由じゃないとはいえ、根無し草だったコイツ等に拠点を与えた恩人に対して、随分な言い草だ。

 まあ、エレオノーレの場合、単に軍を見せ付けられたことに対する拒絶反応なのかもしれないが。これまで、色々合ったしな。

「あの人は、アーベルよりももっと深い部分に、もっと怖い魔物を飼ってる、そんな、気がする」

「そうか」

 ムスッとしたままで言うエレオノーレが可笑しくて、ふふん、と、鼻で笑ってしまい――。

「じゃあ、俺もまだまだなんだな。皆の元で精進しなくては」

 エレオノーレはと、俺が口にしたことに驚き、そして、一層不機嫌な顔になった。

「今度は、私がアーベルの元に行く」

 今度? と、ちょっと首を傾げてしまったが、多分、初めて会った夜のことだと思う。確証はないが。

 妙な言い方をするものだ。あの日、俺は、エレオノーレを探してあの村を襲ったわけじゃないのに。

「期待してない。ようやく見つけた居場所を蔑ろにするな。『無理な約束をするな。過ぎたるを望まずに達者で暮らし……。お前はお前でいろ』」

 言いたいことだけ言って、正面で道を塞ぐようにしていたエレオノーレの横を通り過ぎ、柱廊を抜ける。

 無駄だと分かっているのか、それ以上の言葉を思い付かなかったからなのかは分からないが、エレオノーレはなにも言わず、追いかけてきてもいないようだった。

 最後に、もう一度だけ俺は苦笑いを浮べる。

 が、振り返りはしなかった。


 冬――雨季――の終わりを告げるような、渇いた強い西風が、作りかけの町並みをなぞるように流れ、エレオノーレが柱廊に落とした花々を舞い上げ、空へと吹き抜けていった。

 もう、すぐそこまで春が来ていた。

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