夜の始まりー5ー
川の深さは……いや、一概に深いとも浅いとも言えそうに無かった。海が近いせいか、山の方から流れていた堆積物で深さは均一じゃない。川幅も広い――大型船二隻分程度――し、もっとずっと遠い未来には、三角州が出来ているかもしれない。
岩場を――飛び移る、とは行かないか。浅いところでも膝程度までは水だ。無理に突っ切りたくなるが、水深を見極めて次にかける足場を慎重に選ぶ。
水練にはまだ早い。
今年は冬の終わりが早いとはいえ、目の前の小山の山頂は雪が残っているし、雪解け水の流れる川は、骨に滲みるような温度だった。
だが、別に、渡河出来ないわけじゃない。
ラケルデモンの冬は――ここよりも暖かいが、少年隊の訓練や試験は、もっと厳しい状況で行われていた。
この程度の寒さは、逆に、懐かしさを思い起こさせる程度だ。
対岸まで渡りきってから、一度だけ川を振り返って、道を記憶する。
おそらく、帰りは夜になる。
夜目が利かないわけじゃないが、暗がりで水底まで見通せる保障はない。それに、膝程度なら踏ん張れるが、腰まで浸かれば、流されないとは言い切れない。
夕日が川面に照り返していた。
陽は西に傾き、空は橙に染まっている。
焔のようなこんな色の空は、嫌いじゃない。
「ふぅ」
足を布で拭き、川を渡る際に脱いでいたサンダルや腰当を着け直す。
布は水を吸うと、身体にまとわり付いて動きを制限するから、町を出て川岸に着いた時に外して頭の上に乗せていた。
まあ、冬の川に素足で入るのは、勇気がいることなのかもしれないが――いや、だからこそ丁度良いか、今の俺には。
服と装備を整え、日が傾いてきているのを確認し、外套を羽織る。
山際を確認すれば――、落葉樹が多いな。
新芽はそれほど育っていないので、道が通されていない山肌がはっきりと確認出来る。人が手入れしている森には見えないが、生えているのは栗や……このゴツゴツした木はオークか? ああ、そうだ、楢の方だな。常緑の樫の木じゃない。
サンダルで地面を引っ掻くと、朽ちかけた栗のイガや、虫食いのドングリが見えた。そして――。
焚き火の跡がある。
炭の感じから言って、最近じゃないのはすぐに分かった。今年……いや去年、もっと古いかもしれない。割れて捨てられた土器の欠片に、小動物の骨。
……成程。都市を建造するに当たっては――、少なくとも街道を整備するまでは食料の問題もあるしな。しかし、一般的な食事である大麦を支給しなかったことを考えると、やはり基礎工事は奴隷や無産階級市民を使ったんだろう。
ま、その程度のことは、どこでもやっていることで、解放した連中の話を聞く限り、アテーナイヱではもっと劣悪な環境で奴隷を酷使するようだし、むしろ、食料なんかの問題を考えた上での労働は良心的な方と言えるかもな。
周囲を更に探っても、墓なんかは見つからなかった。町に墓所も造られていないようなので、建造は突貫ではなく慎重に……おそらく、一年以上前から始まっていたと考えられる。
俺達に合わせた、というよりは、この町の完成の時期に確保できたのが俺達というわけか。
この国の王太子は、いつ俺達を知り、この同化作戦を思いついたのか。
この国に着いた瞬間から? 市場で、マケドニコーバシオ産の原料皮を買ったことで、余計な厄を呼んだか? そんな短期間で、対応できるのか?
……それほど優秀なのだろうか、王太子とやらは。
疑問が敵を必要以上に大きくし始める前に、俺は山を登り始めた。
陽は完全に地平線下に落ちたが、もう少し周囲を調べるつもりだった。なにかあった際に地形の把握は重要だ。それに――、マケドニコーバシオがここに都市を作ろうとした理由を知りたい。
俺は、もっと学ばなくてはならない。
強くなる、と、決めたのは自分自身だ。
諦めるわけにはいかない、命ある限り。
知恵も、技術も盗み取る。
なにもかもをかっぱらう。
ふふん、と、自然と笑みがこぼれた。
かっぱらう、なんて、ラケルデモンで学ぶ初歩の初歩だからな。俺は、やはり、そういう存在なんだろう。幹部連中と、金勘定や祭事の取り決めなんかをするのは、俺の本来の姿じゃない。
黄昏に合わせるように町を抜け出したのは、自力での処理を命じたのにひっきりなしに俺に相談に来る連中から逃げたかっただけじゃない。
張り出した木の根を踏みつけ、払われていない草や低木をナタで落としながら更に進む。
都市を作るために必要なもの――。
まずは水。農業をするだけじゃない、水運のためだけでもない。飲み水が無ければ人は生きられない。
だが、この町が、上流にあるという村と港であるテッサロニケーとを往来するための宿場としてつくられたというのはしっくりこない。水なら川からいくらでも汲めるし、放牧の村なら移動のための牛馬にも事欠かないはずだ。筏や荷馬車を使えば、おそらくは一日で都市間を移動できるはずだ。でなければ、もっと早い段階で中継の町が出来ている。
水に次いで都市建造で重要になってくるのは、建材、木材や石材。
木材はこの山が供給源となるし、石材も同様――もっとも、山で切り出した石を川を使って運んだり、逆にテッサロニケー近海の石材を筏に乗せて引いてこれる利便性はある。
城壁があれば、盗賊や狼を恐れずに、安心して人が休める。
まあ、この理由は当てはまるな。
そして、人。
外国へも開かれた港であるテッサロニケーと、マケドニコーバシオの山の村、その間の文化的緩衝地帯としてのこの町。
だが、それだけなのか?
切れ者らしいこの国の王太子が、ここに目を付けたのは――。
商業の活性化のため、難民の隔離のため、新しい統制方法の実験都市。仮説は色々と出てくるが、それは、これまでの俺でも考え付くことだ。今の俺にしか見えない、なにかを見つけたい。でなければ、負けた理由が見当たらない。
尾根とまではいかないが、大昔に隆起したのか、山の中腹のこぶのようになっている場所へと登りついた。これ以上は雪の中の行軍になる。無理は禁物、か。
見上げれば、星が空に満ちていた。
この国由来のヘーラクレースが十二の冒険の最初で戦い、天球へと召し上げられた獅子座が東の空にうっすらと輝いている。
獅子座で最も輝き、旅の目印ともなる星――バシリスコス。
獅子の心臓とも呼ばれる……王の星。
ふ、と、軽く笑ってしまった。
掌を見る。
かつては、俺を照らすはずだったのに、今は遥か遠くにある。
ここはラケルデモンじゃない。
そう分かっているはずなのにな。
なんだか、王太子と会うのだけは、どこかすっきりしない部分がある。
羨ましい? ……と、思う気持ちは否定しきれない。が、それだけじゃない、と、思う。
眼下を見下ろせば、篝火の中で都市造成の作業をする人の動きが見えた。
俺にこれだけの事が出来るか?
これだけ人を動かせるのか?
たかだか数百人の商隊さえ管理し切れなかったのに。
……未熟、か。
負けを認めた、そこから学ぶ。つもりではあるが、煩悶してしまう自分から抜け出すには、まだ時間が必要みたいだ。
そして、そんな自分を誰の目にも晒したくはなかった。
「この国の軍人として、か」
その響きに魅力が無いわけじゃない。
だが、上手く言えないが、正直、しっくりこなかった。
これまで俺が拾い集めてきた連中と一緒にいた時と、同じ感覚だ。
ここじゃない、という感覚が抜けない。
腕は、買われているらしい。どこまで本当か分からないが、少なくともあの指揮官――プトレマイオスには。
……当ても無く国に戻るのが正解なのか。目指すべき場所でなくとも、ここで軍人としての技術と知識を学ぶべきなのか。
「『王太子が戻るまでは時間がある』じゃねぇよ、ったくよぉ」
頭を掻き毟る。
数日なんて、決心に至るには短過ぎる。
再び変なしがらみに絡め取られるよりは、ひとりになりたい。
異国で燻るよりは、祖国で一花咲かせたい。
今は、まだ、その考えを変えるほどではない、と、思う。
山まで登って、出した答えがそんなものとはお笑い種かもしれないがな。
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