Canopusー3ー

 ドクシアディスを心の中で一頻りバカにしてから、正面から吹き付けてくる海風を受けていると、エレオノーレが、クソチビを連れて背後を取った。

「……なんだ?」

 黙っているのはいいが、背中を押さえられ――しかも俺が居るのは舳先だ。退路も断たれている――戦闘状況としては不利な位置取りなのが気に入らなくて、俺はこれみよがしに溜息をついて訊いてやった。

 エレオノーレは、及び腰のチビをなだめながら、苦笑いのような笑みを――なぜそんな顔をしながら頼みごとをするのか理解に苦しむが――お願いしてきた。

「船の事はドクシアディスさん達や、商売や道案内はキルクスさん達に任せてるし、時間あるかな、と、思って」

「無い」

 即答する、だが、エレオノーレは素直に引き下がらなかった。

「勉強会を、して欲しい」

 ソレにもか? と、チビを顎でしゃくると、エレオノーレが頷く。

 ……ああ、まあ、確かに、今回は素行を見てつれてくるアテーナイヱ人を選んだので、チビと同じ位の歳のヤツはほとんどいない、か。

 しかし、それでも俺がコイツ等と遊んでやる理由にはならないが。

「おい、ドクシアディス」

 帆柱の側でなにかしているドクシアディスに声を掛けるが、本題に入る前にことわられた。

「操船で手一杯だ!」

 見れば分かると言い返したかったが、忙しいんだから声も掛けないでくれと返されるのは予想できたので、俺は努めて怒らないように続けた。

「お前じゃなく、手頃なのはいないかって意味で聞いたんだがな」

「大将でいいだろ」

 ……やはり、こういう話を怒らずに進めるわけには行かないらしい。

「『で』だと? 『大将で』? お前は口の利き方も知らないのか?」

 ドクシアディスの言い草が気に入らなかったので、立ち上がって睨みつけ、脅しとしてだが剣の柄に手を掛ける。

「そういう所も含めてだよ。他の連中が間違ったら怒るだろ、大将が。自分でやってくれよ」

 なさけない声を上げたドクシアディスだったが、漕ぎ手のいる船室への指示や穂の位置取り張り具合なんかの作業の手を止めていないので、これ以上はやめた。本当に手も離せないくらい忙しいようだ。

 ……まったく、これだから冬の船旅は。


 どこか期待するエレオノーレと、懐疑的な態度のチビを一瞥して、俺は溜息をついた。

「じゃあ、今日は数学について話すか」

 チビも居る手前、舐められないように難しい話をしてやろうとしたところ、露骨に二人の顔が曇った。……いや、エレオノーレの反応の理由はこれまでの経験上、なんとなく分かるが、チビは勉強会をなんだと思ってたんだ?

「簡単な足し算引き算、掛け算割り算は覚えたよな?」

「う、ん……大丈夫。ダイジョウブ」

 エレオノーレの反応はかなり怪しいが、たまに調理班の手伝いもしているので、料理の均等な割り振りや、一日分の食料量の計算なんかで体得している、と、思うことにする。

 いや、コイツの場合、数学という言葉に拒絶反応があるだけで、例えば十二個のパンを四人で分けるとか、そういう状況の判断なら出来るんだろうな。難しいというイメージに自ら嵌まっているだけだろう。

 次いで、チビに向かい――。

「アテーナイヱは、数学ではどちらかといえば先進国だったな?」

 と、確認する。

 それは、これまでの船旅で分かったことだが、ラケルデモンのように農地や税の策定のための測量技術、建築学に基づく図形の関係以外にも、アテーナイヱでは哲学的とでも言うような数学的証明――代数を利用した理論による数学――が発達しているようだった。

 俺が覚えた知識が間違っていないかを確認する意味でも、その話をしようと思ったんだが……。

「う、うん。そう、……です。はい」

 誕生会関連での脅しが利き過ぎたのか、チビは挙動不審だった。口の利き方も――、いや、そっちは、いつまでもお姫様気分ではいけないと誰かが強制させたのかもしれないが、前とは違っている。いや、しかし、ソレを差し引いても、態度がおかしい。

 ……ああ、誕生会の計画はエレオノーレには秘密って事になっているので、ソレを気にしてか? 推理する俺に、チビが恐る恐ると言った様子で口を開いた。

「あ、あの、勉強、そんなには……出来ない」

「は?」

 一応、こいつはアテーナイヱの知識層の人間じゃないんだろうか? それとも、アテーナイヱでは女に勉学をさせない風習でもあるんだろうか?

 あんまりな申告に目を丸くして訊き返すと、チビはエレオノーレをチラチラと見ながら続けた。

「そういうのも含めて、全部、そういうの考えるのが好きな人以外は、奴隷がする。それが、当たり前だったんだもん! これまでは!」

 ハン、と、思わず鼻で笑ってしまった。

 最後に逆上したからではなく、コイツ等の国のシステムが理解不能過ぎて。腕っ節で押さえつけるわけでもなく、知識を独占しているわけでもないって、よく奴隷労働力での国家運営が出来るな。

「そうか、じゃあ、聞きたくないなら、下がってろよ」

 どちらかといえば、怠け癖が抜けていないであろうチビに配慮して、右手を目の前で振って言い放つと、チビは捨てられた子供のような顔をして――。

「アーベル! そういうことを言っちゃダメだよ!」

 なんでか、エレオノーレに怒られた。

 ……なんだ、このめんどくさい連中。

 フン、と、鼻で笑ってこれ以上こじれるよりはいいか、と、話を始めてやることにした。


「じゃあ、三平方の定理について解説するぞ」

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