Naosー3ー

 トゥン、と、竪琴の音が響いた。


 いつの間にか足を踏み入れていたのは、大通りから離れた一角で、日干し煉瓦を使った建物もちらほらと見える無産階級の居住区だった。みすぼらしい一枚布の服を着ている民衆の中、井戸の側に座った多少は身なりのいい男が語っている。

「戦勝に浮かれるアテーナイヱの指導者は、歴史からなにも学ばなかった」

 男にしては少し高い声が朗々と響く。中性的、と言うほどではないが、戦士としての体型では間違いなく無い。手や指に、農作業の痕も無い。根っからの――、家業として生まれついてからずっと吟遊詩人をやっている男らしいな。

 どうするかな、と、エレオノーレの方を向く。エレオノーレは、どうやら吟遊詩人の話す内容を聞きたいようだった。視線が釘付けになっている。

 もっとも、単に、ラケルデモンには存在しない吟遊詩人が珍しいだけかもしれないが……。

「アヱギーナのアクロポリスで大腕を振って略奪の限りを尽くしていたアテーナイヱ兵が、奪ったワインで眠りこけていたその時に、運命の糸は巻き取られていた。――その糸の終わりには、破滅が括られていたというのに、それを告げる宣託はおりなかったのだ」

 トゥン、トオン、と今度は二つ弦を弾いた吟遊詩人。

 いさおしを語っているわけでもあるまいに、随分と演技過剰だ。アイツは、まだ駆け出しか下級かのどちらかだろうな。声と音に語りが負けている。


 ……いや、本職は別で、どこかの密偵ということか?

 国を渡り歩くのが自然な連中だし、生まれ付いての吟遊詩人なら、どこかに抱えられていたとしても不思議は無い。


「冬の朝靄を衝いて現れたるは、陸の覇者ラケルデモンの船団」

 やっぱりな、と、俺は思う。

 ただ、隣にいるエレオノーレの表情が変わった。

 色を失ったわけでも、色めきだって怒りを表したわけでもない。ただ、存在が薄くなるような、どこか呆然としたような表情だ。

 言葉以上には、事態を飲み込めていないのかもしれない。

「海戦では負け知らずとなったアテーナイヱは、その油断により自らの戦場を留守にした。浜に降り立つラケルデモン重装歩兵。突き出された白銀の穂先」

 ああ、成程な。

 確かにウチは、国土の大半が内陸部だし、海戦ではそんなでもない。戦船の数も多くは無いはずだ。だから、ラケルデモンを防ぎたいなら、海で船を沈めるのが効果的となる。そういう意味では、アヱギーナは島国で防衛線のための好条件は揃っていただろうに。

 あの戦争に加担し――、どこか子供同士の喧嘩のようにしか見えなかった二つの軍隊の諍いを思い起こす。もしそれらがラケルデモンの正規軍と対峙したらどうなるのか、容易に想像できた。共同で当たっていたとしても、多分、半日も持たなかっただろう。

「目先の小さな勝利に奢ったアテーナイヱ兵は、哀れひともみで血錆と消えた」

 語り終えたのか、最後にまた適当に竪琴を鳴らした吟遊詩人。

 ピン、と、アテーナイヱ銀貨を親指ではじいて放る。

 視線が、俺達に集まった。

「詳しいな」

「ええ、アヱギーナから逃げてきましたので」

 どこか余裕のある顔で話す吟遊詩人。場慣れしている? やはり、単なる民間人とは思えないな。かといって、あの二つの商業国の知識層にしては衣服が実用的過ぎる。問題は、どこの国に属しているか、だが、服装や言葉遣いからはこれ以上探れそうも無い。

 ただ、この国の関係者ではなさそうだ。この国に抱えられている間者なら、貧民街をうろつく理由が無い。

「アテーナイヱ本国の方は?」

「残念ながら……そちらに関してはなにも。噂ではもう落ちただの、篭城戦をやっているだのと流れておりますが、わたくしは目で見たことしか詠えませんので。ただ、ラケルデモンは公的にはアヱギーナ島全体の併呑を宣言しておりますよ。この都市にも、ラケエルデモンの船が来ておりますし」

 と、そこで俺の顔を見た吟遊詩人の表情が変わった。気付かない内に、眉間に皺が寄ってしまっていたのかもしれない。

「港ではそれらしいのは見なかったが」

 とってつけたような台詞だったが、無言よりはましだったと思う。

「いえ、数隻のガレーですから。どうも、糧秣の買い付けのようですが……随分と勇ましい御様子です」

 そうか……、と、短く答えた後「小銭以外に望むものは?」と、訊ねてみる。

 首を横に振った吟遊詩人。

 多分、俺達のことも多少なりとも把握している様子ではあったが、合流を申し出ないことから察するに、やはりアテーナイヱもしくはアヱギーナ関係者というわけではないのだろう。多分、今現時点では関わり合いの無い第三国の所属だな。

 まあ、調べるまでも無い弱小勢力としてこちらが認識されているだけかもしれないが。


 俺と吟遊詩人が話し終えてもエレオノーレは戸惑ったままでいたたが、行くぞと促すと素直についてきた。矢継ぎ早に起こる事件に、変化の激しい戦況についていけていないんだろう。エレオノーレにとっての世界は、数か月前まではラケルデモンの中の更に一地域だけだったのだから。

 しかし、生憎と俺は人を慰める言葉を知らない。

 ……いや、そういうのは、船の女衆に任せればいいか。確か、前も仲の良い連中がいるみたいなことを言っていたし、俺があれこれ気を回すよりもそちらの方が確実だろう。


 空を見上げる。

 薄い雲が覆ってはいるが、太陽はどうも中天を過ぎているらしい。語りを訊いている内に、短くない時間が過ぎてしまったようだ。昼食の鉦を聞き逃していたようだ。

 腹になにか入れたい気もしたが……。

 時間的に見て、第一陣がもう船着場へと戻っている――これまでの流れ的に、昼は全体で取るのが習慣になっている――はずだったので、呆けているエレオノーレの手を引き、船までの道を急いだ。

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