夜の始まりー6ー
船室から――おそらく本人は忍び足のつもりで――這い出てきたのは、さっきドクシアディスから報告のあった、あのクソチビだった。
きょろきょろと左右を見渡し、ひょい、と、扉から甲板に身を躍らせる。キルクスそっくりの肩までの癖毛が、ふわりと一瞬浮かんで、キルクスよりは若干柔らかそうに再び肩に毛先が乗った。
こそこそしているが、誰かに危害を与える様子はない。服のふくらみなんかを注意して探るが、得物を持っている気配も無かった。まあ、刃物を持っていたとして、あの細腕で人を殺せるかって訊かれりゃ、無理だろうと答えるが、な。
興も削がれたので、無造作に立ち上がって声を掛ける。
「チビ、不審者として拘束されたくなかったら、寝てろ」
露骨に肩をビクつかせ、ゆっくりと振り返ったチビは、俺の顔を見るなりなんだか急に元気になった。
「はぁ⁉ わたしがどこでなにしようが、自由でしょ?」
コイツ、しょげて縮こまってんじゃなかったのかよ……。ったく。
腹立たしいのとめんどくさいのを隠さずに、頭を掻きながら俺はまず否定した。
「いや、違う」
チビの顔が険しくなる。それを完全に無視して俺は話し続けた。
「敵だと判断されたらお前は殺されるんだ、理解してるか? 周囲にお前の味方はどれだけいる?」
意図していつもよりも酷薄な笑みを浮かべる。警戒はまだ緩めない。コイツ自体がなんらかの密命を帯びて潜入している可能性も無いわけではないから。
チビはギリリと歯軋りし、夜中にも拘らず大声を上げた。
「裏切り者!」
下に視線を向けた見張りに、手を振って大丈夫だ、と、応える。見張りもチビの姿を見たからか、すんなりと海上へと視線を戻した様子だった。
「お互い様だろ」
なにを以って裏切り者と叫んでいるのか、いまいち判断しかねたが、そもそも信頼関係を結んだ覚えも無かったので、俺は悪びれもせずに言い返す。
「アンタ達が、大人しくしてたら、上手くわたしの部下としてやっていけたのに……」
はん、と、鼻を鳴らす。
なんでそんな偉そうなんだか。なんの力も実績も無いガキのくせに。
「見解の相違だな。利用し合っただけで、下についたつもりは無い」
「貴族に抱えられるのよ⁉ 名誉なことじゃない!」
ラケルデモンには貴族はいないが、座学の話から単なる我侭な金持ちという印象しかないので、どこが名誉なんだか分からないな。金の無いヤツや奴隷が、大人しく飼われることを正当化するための方便か?
バカバカしい。
「無能な上役は嫌いでね」
ふー、ふー、と、荒い息で肩を上下させたチビは、少し呼吸を落ち着けてから、今度は湿度のやけに高いジト目で俺を見た。
「わたしが、したことは、意味なんて、無かったの?」
お前程度がなにをした? と、目で問えば、噛み付いてきそうな顔を再び向けられたので、肩を竦めて視線を外す。
一拍後に、ああ、警告をしにきたことか、と、ようやく理解出来たが、そもそもアレは行き当たりばったりの行動じゃないのか? と、余計に話が分からなくなった。
周到に練られた計画でもないのに、そこに意味があるのか?
……もしかしなくても、アテーナイヱ人が乗っていて、少なくともソイツ等は自分の味方をするはずだと思っていたのかもな。あわよくば、そのまま船を乗っている人間ごと自分のものに出来るとも。
返事の内容を少し考えてみるが、言い繕えるものでもなかったし、俺は客観的な事実に基づいて答えた。
「ああ、そうだ。俺達は自分の身は自分で守れるし、そもそも、あの時点でそれを告げられても手遅れだった。中途半端に戦場を見たのは逆効果だったな。自分なら上手く立ち回れる、なんて根拠の無い自信は捨てろ。『汝自信を知れ』『過剰の中の無』『制約と破滅は紙一重』その基本を忘れるなよ、貴族と言い張るならな」
「アンタだって同じじゃない!」
「違うさ。殺した人数が天と地ほどもな。だから、出来ることと出来ないことを、きっちりと弁えている。危険を回避するために、可能性は徹底的に潰せる。手に負えなくなる前に、いかようにでも処理する」
チビの肩から明らかに力が抜け――、張っていた気も抜けたのか、しょんぼりと背中を丸め目を潤ませながら鼻声で訊ねてきた。
「……なんでエレオノーレ御姉様は、わたしよりアヱギーナ人を選んだの?」
完全に意表を衝かれ、目を瞬かせてしまった。
そう来たか。
軽い眩暈を感じる。
結局、どう振舞ってもアイツは騒動の中心にいるようだな。本人の意思がどこにあるかは別としても。
慕われたいとは思わないが、騒動の中心は自分自身だと思っていたんだが、な。
いつの間にか、妙な役割が板についてしまったもんだ、と、皮肉を軽く口の端に乗せて答える。
「アイツにそういうつもりは無いさ。困ってたから助けた。そんな単純なヤツなんだ」
「……じゃあ、なんで御姉様は、今、私を助けないの?」
「お前がアヱギーナ人を助けなかったからだろ」
隠すほどの事でもなかったので、あっさりと俺が答えるとチビは、声こそ上げなかったもののボロボロと泣き出しあがった。
「バカ。アンタ達なんか嫌い。死んじゃえ」
ふん、と、鼻で笑って他人に期待するばっかりで、自分自身を顧みないガキを笑う。
もう言いたいことは無いようなので、チビから視線を外してぼんやりと夜空を見上げるが――。
チビは、いつまでも泣き止まず、下の寝床へも降りていかなかった。
声を上げない分にはいいかと思っていたんだが、どうにもうっとおしい。構って欲しそうって言うか、親の関心を引きたくてぐずる子供みたいで、虫唾が走る。
甘えたいなら相手を選べ。自立したいなら強くなれ。
どうしようもなく弱くて、……ずっと弱いままなら、いっそ死ねばいい。
「話がこじれてきたな」
溜息混じりに告げた俺に、え? と、チビが短く声を上げてぴたりと泣き止んだ。嘘泣きだったから、とかいうわけじゃない。多分。単に、泣けるだけの余裕をもてなくさせてやっただけだ。
殺気を放つことで。
「問題になりそうな事は、芽のうちに摘んどくか」
ぞる、と、背中の長剣を抜く。砥いでいるとはいえ、先の戦争でかなりの血脂の染み付いた白い刃は、月明かりで濡れたように鈍く光っていた。
チビの口からは、どんな声も出てこなくなった。
そう、人はそういう風に出来ている。
本当の危機の前で、泣き叫ぶことは少ない。まず最初に全身が硬直するからだ。だから、静かに盗みに入る場合は、目が合った一瞬で殺せば他の家人に気付かれることは少ない。これまで何十何百と殺してきた俺には分かる。
刃の近くの柄を持ち、突きを放つ前のように腰を屈める。
ひゅ、と、チビが大きく息を吸い込む音が聞こえ――ふん、と、自嘲するように笑って俺は構えを解き、剣を鞘に収めた。
とっとと戻れ、と、顎でしゃくる。
「覚えてなさいよ」
芸の無い捨て台詞に、今度は苦笑いで俺は返した。
「ほう? 覚えていていいのか? 次は本当に殺すぞ?」
チビはもう言い返してはこなかった。無言で、走って階段を降りていった。
しまったな。
調子に乗ってからかいが過ぎ、身投げする気だったのかどうか確認し忘れた。
まあ、いいか。怒ってればしばらくは食欲も増すだろうし、死のうとも思わんだろ。どうせここに置いておくのも後数日だ。
どうでもいいヤツのことなので、深くは考えずに俺も船縁に背中を預け顔を上げる。水平線に漁火なんかは見えない。
危険は無いと判断し、ぼんやりと澄んだ夜空を眺めていた。
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