夜の始まりー4ー

 船旅が始まって七日目。

 飯を終えたが、まだ陽が水平線に掛かったままの夕刻。黄昏時。

「大将」

 深刻な顔をしたドクシアディスに呼び止められた。

「あ?」

 階段に足を掛けたまま肩越しに振り返り――。

「少し拙い」

 その言葉までを聞き、少しならどうでもいいか、と、そのまま甲板へと上がった。

 戦時中はそれほどでもなかったのに、昨日からもうすっかり秋の冷え込みになり始めていた。北上しているせいもあるだろうが、書類仕事をしていた六日間で景色も随分と変わっている。水平線に雲も増えてきているし、近日中には秋になるな。その二十日程度後には、短い秋も終わり、本格的な冬――雨季が到来するだろう。その前に、適切な港に拠点作りをしないといけない。いや、その前にもうひと商売しないと来年が不安だ。

 空を見上げたまま、思い出したようにドクシアディスに訊き返す。

「飯がか? 我慢しろ船旅の最中だ。俺だって温かい物を腹に入れたいんだ」

 真水の節約に海水を混ぜて溶きふやかした調理用のパンなんぞ飽き飽きしてんだ、と、冗談半分に返すが、実際は冗談ともいえない問題だったりする。

 そう、船を拠点にして気付いたが、木造船は燃え移るから火が使えない。きちんとしたものを食うなら、港へ入るか適当な浜に上陸して作るかだが、変な場所で野営して野盗に絡まれると厄介だし、調理後は手早く沖へ出て投錨して夜を明かすようにしている。だから、手間を嫌って、船内で適当な食事を取ることの方が多かった。

 まあ、俺達自身が海賊みたいなものでもあるし、多少絡まれる程度なら相手を殺して臨時収入に出来なくもないが、こっちは非戦闘員の方が多いからな。用心するに越したことはない。


 しかし、というか、案の定、ドクシアディスは少し怒ったような顔で俺のからかいを否定してきた。

「全然違う。あのアテーナイエ人の……イオの事だ」

 やや風向きが変わった。茶化して遊べる状況ではない。

 続きを話せ、と、顎をしゃくると、頷いてドクシアディスはどこか困ったような顔で語り始めた。

「戦争の事もあって、ウチの女衆と仲良くなれない。だけど、アンタのにょうぼ――」

 本気で睨みつけると、う、と、言葉を詰まらせたドクシアディスは慌てて言い直してきた。

「エレオノーレの姉御とも、なんだか、今は距離があるみたいで、端っこで塞ぎこんでる」

 ……ッチ。これだからガキは。手前で勝手に乗り込んできたくせしあがって、もう拗ねてんのかよ。エレオノーレは甘いんだから、良い子にしてればそこそこ可愛がってもらえるだろうに。

「……テレスアリアの主要港までは、あとどのくらいだ?」

 アテーナイヱとこれ以上諍いを起こすのは利口じゃない。だから、あのガキは無事にアテーナイヱの領事館に引き渡す必要がある。全面対決は避けたいし、あの国の商売圏が広い以上、こちらの商取引にも影響を出したくないからだ。

 すでに一発やっちまってるが、人的被害も皆無だし、戦争直後の今はそこまで俺達を目くじら立てて追ってはいないだろう。だが、チビに死なれるとその限りでもなくなる。キルクスがどう出るかも分からんしな。

「二日ってとこかね、明後日の朝には着くはずだ」

 天候もまだ安定していると読んでいるのか、ドクシアディスははっきりと言い切った。

「じゃあ飯を食わなくても死にはしないだろ。身投げしないように注意しつつ、ほっとけ」

 ぶっきらぼうに告げる俺。ドクシアディスから非難するような目を向けられるが……。

 じゃあ、どうしろってんだよ? まさか、俺にあのチビの話し相手にでもなれってのか?

 ……無理だろ。ついカッとなって殺しかねないぞ?

「悪ぃが、俺は女のガキの育て方なんてしらねえよ」

 人の心の機微には疎いんだな、なんて、分不相応のボヤキが聞こえたが、無視して帆柱に背を預けて甲板に座る。そもそも、他人の顔色を窺うのは、弱い人間の仕事だろ。

 日が落ちて冷え始めた潮風は、心地良い。

 一応、船尾に採光や風通しの良い船長室なんてちっとはましな部屋を貰ってはいるが、仕事が無い限り、ここでこうしている方が俺は好きだった。あのクソな書類作業をなんとか終えた昨日から、部屋には戻っていない。

 それに、敵襲には一番に反応出来るって利点もある。

「姉御に言うのは?」

 日が沈んだばかりの紫の水平線を眺めている俺に、尚もドクシアディスが食い下がってきた。

 放っておけと言っているのに、少しくどい。気分が害されるな。

「無理だろうな。あの戦争の最後の一件が尾を引いてんだ、エレオノーレだって平気ってわけじゃねえよ」

 アイツが略奪にさらされた村を放っておけなかったあの場面にいたドクシアディスにも、俺の言っていることは充分に伝わったようで、結局はムスッとした顔で押し黙ってしまった。

 あの甘さを認めつつも、手放しには喜べないってことなんだろう。

 まあ、それには完全に俺も同意見だが。

「非情になれっつっても聞きやしねえんだ」

 ぼやくように俺が言うと、短くはない間が空き……。


「だからアンタは憎まれ役を演じてるのか?」

 スッと胸の奥にナイフを突きたてられたような気がして、ドクシアディスの顔を正面から見つめる。

 ドクシアディスは、真面目ぶった顔をしていた。裏や含みはありそうにない。

 額に手を当てる。答えに少し困った。

 気付かれてるのは意外だったが、正解は半分しかない。俺は俺らしく振舞っていて、それが結果的に、エレオノーレの善良さを際立たせ、俺の非情さを際立たせているだけだ。特別に意識した行動ってわけではない。が、周囲――今の場合は、流浪となったアヱギーナ人集団という単位で見る時、優しさと厳しさの使い分けは重要だった。俺とエレオノーレが二人でひとつの首脳で……、両方が必要だと思われるために。

「余計なことは――」

「口にしてない」

 実直そのものな返答に、俺は再び口を閉ざした。

 それなら、構わない。コイツがどう思おうと、俺とエレオノーレの害にならない限りは自由だ。

 口を噤んで海を見る俺。

 ドクシアディスは、返事があるとでも思っていたのか、しばらくそのままの姿勢で待っていたが、おもむろに口を開き「大将は、姉御に向ける優しさの一割ぐらいは他の人に向けた方が良いのでは?」なんて、ほざきあがった。

「ァア?」

 いい加減、喧しくなってきたので睨みつけてみる。

「なんでもねーよ。ったく」

 そういったドクシアディスは、グチグチと文句を言いながらも船室の方へと降りて行った。

 アテーナイヱから充分に離れている今は、夜は休ませ昼に移動するようにしている。

 一瞬だけ、目的地へ急がせようかとも思ったが、ドクシアディス達にしろ村から移って来た連中にしろ、戦禍でボロボロになってようやく持ち直してきているところだ。こうした夜の団欒も貴重なものなんだろう。

 俺には、なにをそんなに喋ることがあるのか――意味の無い会話をしてなにが楽しいのか、と、疑問しか浮かばないが、アイツ等にとっては意味があるって言うならそれで良い。

 ……それにエレオノーレも、良い感じで馴染んで楽しんでいるようだしな。あんなチビ一匹のことで、邪魔をすることも無い。


 完全に空が暗くなるまで一眠りしよう。

 そう決めて足を投げ出すと、意識はすぐに真っ黒に塗りつぶされていった。

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