Auriga

夜の始まりー1ー

「セア!」

 俺が放った裏拳を、エレオノーレが両腕で防ぐ。

 一呼吸の間が入り――。

「はい!」

 エレオノーレの中段蹴りを左足を持ち上げ、太股の筋肉に力を入れて防ぐ。

 ようやく暑さの和らいできた、夏の終わりの朝の時間。

 アゴラ――神殿の前にある、屋根の無い扇形の公共広場――の片隅で、エレオノーレ相手に簡単な組み手を行っている。広場には他の都市市民の姿も多く見られるが、ラケルデモン以外の国では女が運動をするのはあまり一般的ではないのか、そのほとんどが男だった。なので、エレオノーレの提案で、目立たないように隅で組み手をしていたのだが……。

「おおっ……」

「見ロ、アノ、足先。伸ビ切ッテ、鋭イ」

 俺達に合わせるようにして、アゴラの端っこに野次馬の人垣が形成されてしまっていた。

「ハァッツ!」

 エレオノーレが体勢を戻してたのを確認してから、少し強めの上段蹴りを放つ。エレオノーレは、両腕で十字にクロスされて防御したものの、圧力負けしてよろけた。

 俺が病み上がりなので、大して気を入れた組み手じゃないんだが……。常在戦場のラケルデモンと比べれば、他国の運動はお遊びみたいなものだよな。

 この公共市場都市は、一応、ラケルデモンの保護都市ではあるが、それは、アクロポリス――都市国家の首都――からの距離によるところが大きい。そもそも鎖国に近い状態であるラケルデモンの市民は、このような外国との窓口の都市には、止むを得ない事情――治安維持や外交・貿易などの公務――がある人間しか住むことが出来ないからだ。

 なので、住民の大多数は、他国からの貿易商人と、彼等の財布を当てにして歓楽街を形成した浮民達によって占められている。とはいえ、その少数のラケルデモン兵でここの住人の全部を圧倒出来るので、これまで問題は全くといって良いほど起きてはいなかったが。

「ここまでにしておこう」

 エレオノーレが再び構えようとするのを遮って、構えを解く俺。

「うん」

 エレオノーレは少しだけ上がった息で返事をしてきて――。

 周囲からの拍手喝采を、二人で浴びた。

 フン、と、鼻で笑って右手を上げる俺と比べれば、エレオノーレはまだどこかおどおどとしている。こういう場に慣れていないんだろう。

 ふ、と、戸惑って顔を赤くするエレオノーレを肩越しに見て口元を緩めてから、視線を周囲に外す。

 竪琴の弦を弾くのに合わせて、ダンスをしているのか型稽古しているのかいまいち判然としない連中が中央にいて、周囲には腕立てをする者や、木刀で素振りをする者、石の錘を持ち上げたり降ろしたりする者等、多くの市民が様々な形で汗を流している。

 自由市民にとって、労働は奴隷の仕事であり、自らは働かずに運動や学問に精を出すのが普通だからだ。

 と、ちょうどその時、鉄の板を叩く音が飲食店街の方から響いた。

 正午よりは若干早い、昼食の準備――といっても、今の俺たちは店を選ぶだけだが――を始めるのを知らす鉦だ。

「昼はどうする?」

 夏の終わりとはいえ、身体を動かすとすぐに汗が噴出してくる。額にふつふつと汗の粒を浮べたエレオノーレが、俺の真横に――多分、周囲の視線から逃げたかったんだろうが、必要以上にくっついてから訊ねてきた。

「いつものとこで良いだろ。医家に寄ってから俺も行く」

 この町に着いてからよく利用している宿の近くの飯屋の昼飯は、悪くない。平焼きのパンに果物一品、後はその日適当に仕入れた魚介類の焼き物が出て、値段も手頃だ。

 エレオノーレも、分かっていて修辞的に聞いてきただけだったのか、すぐに頷いた。

「うん。……私も付いて行こうか?」

 付け加えられた一言に、思わず苦笑いが込み上げてきた。

「子供か俺は」

 肩を竦めて見せれば、どこか真面目そうというか不思議そうというか、自力でものを考えない子供がしそうな顔をしたエレオノーレが訊いてきた。

「でも、アーベルってそういうとこ神経質だよね。もう痛くないんでしょ?」

 肩と腕には傷跡が残っているものの、動く上での違和感はないし、痛みも当然無い。しかし、完治を判断するのは医家だ。素人判断はよくない。特に、こうした体調を万全に出来る場所にいるのであれば、しっかりと診てもらうにこしたことはない。

 この女は、未だにどこか判断がぬるいのがいただけない。有事のため、平時に備えられる全てを備える、という感覚に乏しい。

 それに――。

 臆病な小心者と言っているようにも聞こえるエレオノーレの発言が微妙に気に障ったので、耳を抓って引っ張り上げた。

「い、いたいいたい!」

 最初と比べれば随分と横柄になったエレオノーレの耳を引っ張って叱りつける。

「口は災いの元だ。言わなくて良い余計な一言は飲み込んでおけ」

 全く学習しない女だと嘆息してやると、耳を離した途端へたり込んだエレオノーレが、非難するように俺を見上げた。

「乱暴者」

「元からだ」

「都市でそれなりの生活をしてるんだから、改めて欲しい」

「お前が口の利き方を覚えたらな」

 投げ掛けられる不平不満の言葉を、上から押さえつけるように言い返すと、口をへの字にしてエレオノーレは立ち上がり……。

「すぐに来てよ」

 と、言い残し、尻尾――もとい頭の後ろでまとめた髪を揺らして駆けていった。

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