夜の終わりー1ー
潮風が吹いていた。
道の外にある青々と伸びた夏草が揺れている。
坂を上りきると水平線が目の前に広がった。山が多いラケルデモンの国の外を――、知識としてではなく、初めて自分自身の目で見て、溜息が出た。
青く、どこまでも海が広がっている。
エレオノーレも同じように感動しているらしく、長く息を吐く音が隣から聞こえていた。
公共市場都市は、もう目と鼻の先にある。山の多いラケルデモンの土地にしては珍しく海へと突き出した大きな町だ。桟橋に大型船が停泊しているのが、この小高い丘からはよく見渡せる。
関所での大騒ぎの影響なのか、道には俺達しかいなかった。
空へと吹き上げた潮風が、最後の一言の後押しをした。
「じゃあな」
もう後は緩やかな下り坂しかない道を見下ろし、エレオノーレに素っ気無く告げる。
「本当に貴方は来ないのか?」
坂に掛かった頃から、ここを登りきれば別れるという気持ちは同じだったのか、特に動揺もなく、どこか用意していた台詞のような声色でエレオノーレが聞き返してきた。
「行く理由が無い」
左腕は布で吊っていたから、無事な右手を上げて答える。
しかし、継いで発せられた質問には、即答出来なかった。
「これからどうする?」
訊かれるだろうなという予想はあったのだが、上手い切り返しは結局今まで思いつけないでいた。
レオは、模範的で忠実な軍人だ。今回の一件を恩義に感じている可能性はあるが、完全に味方とも言えないんだよな、今は。
かといって、元々所属していた少年隊に復帰できるわけも無い。
しばらくはどこかに身を潜め、適当に盗賊でもしながら味方を増やしていくか、と、行き当たりばったりではあるが、まあ、自分の力量ならなんとかなりそうな手段を考えていると、俺より先にエレオノーレが口を開いた。
「私と――、最後に勝負をしないか?」
意外な台詞に、目を瞬かせてしまう。
エレオノーレは、気の強そうな顔で――そう、始まりの夜に美しいと思ったあの瞳で真っ直ぐに俺を見て――軽やかに微笑んだ。
ふ、と、顔の力を抜く。
「勝機に聡いな、お前は。まあ、最初からそうだったか」
意図はいまいちつかめなかったが、どうせさっきの戦いでほとんど終わったような命ではあったので、最悪の場合でも悔いはないか、と、荷物を投げ捨てて剣を取る。
近過ぎる間合いを離れ、エレオノーレの正面五歩の距離で向かい合う。
エレオノーレが最も得意とする間合いだ。
エレオノーレが剣を抜いた。真っ直ぐに切っ先を俺に突きつけている。なんの迷いも気負いも無い、凛々しい顔だった。
鞘を銜えて、剣を抜き放つ。一撃に、なにもかもを込めるつもりだった。加減はしない。これは賭けだ。エレオノーレがこれから強く生きていけるかどうかの。
オリュンポスに住まう神々よ、どうかご覧じろ。この最後の戦いと結末を。
背筋を伸ばして深く息を吸う。伸びの頂点で息を止め、深く屈んで剣を構えた。
俺とエレオノーレの間の五歩を、強く風が吹きぬけた。
くるか? と、考えたのは一瞬。待ち構える体勢のエレオノーレを見止め、こちらから攻めた。
重心を前に傾け、倒れこむか否かの瞬間、爪先で深く地面を蹴る。
これまでの長かった道程が、刹那の間に詰まった。
必殺の間合いに入り、強く踏み込み、突き上げた正にその時、エレオノーレは優しく微笑んで――剣を棄てた。拙い、勢いが止まらない。このままだと!
ッチ。舌打ちをして、無理に足首を捻る。左に傾いだ身体が、受身を取る間も無く硬い地面に打ち付けられた。剣はもう手放している。
身体が地面を擦る音が耳に響いた。
クソ、このバカ!
すぐには、立ち上がれなかった。それも当然だろう。これまで戦い通しで、傷も癒えない中の最後の全力の一撃だったんだ。余力のあるはずも無い。
地に着いた耳が、近付いてくる足音を強く聞いていた。
「真剣勝負で手を抜くな」
右目だけで天を仰ぎ毒づく。
「貴方も、な」
俺を仰向けに転がし、いつかの逆になるように馬乗りになったエレオノーレ。逆光の中でその表情が見えない。
眩しさに目を細めていると、声は真上から降ってきた。
「一緒に来てくれるだろう?」
カチャ、と、軽い音を立てたナイフを喉に突き付けられる。太陽がエレオノーレの頭の影に隠れた。なんというか、すごく、凄みのある、愛憎入り混じるといった複雑な笑顔だった。
ふ、と、あながち冗談だけでもなさそうなその顔に微笑みかけ、傲岸不遜を具現するかのような顔で言い放つ俺。
「ふん、まあ、仕方ないか。オデュッセイアは十年もの漂流の後に、故国の不正を正しているからな」
しかし、折角かっこつけたというのに、どうもヒロインは役どころを分かってはくれなかったようだ。
「なんの話だ?」
不思議そうな顔に、今度は本気で小バカにしたような顔を向ける。
「お前は教養がないな。イーリアスとオデュッセイアは、常識のレベルだ。知らないと、どこへ行っても笑われるぞ」
拗ねたような顔になったエレオノーレは、ほんの少し躊躇した後、鼻に掛かった声で悲しそうに続けた。
「しかた、ないじゃないか、奴隷だったんだから」
しょげた顔をしたエレオノーレの背中に手を回して引き寄せる。
流石にあの時程には無防備になれない。こんな白日の下では。お互いの身体は、少し硬くて、どこかぎこちなかった。
若干の照れを誤魔化すように俺は早口で言う。
「そうだな。完全に奴隷から解放されるには、文武を学ぶために優秀な監督官が必要だな。立候補してやってもいいぞ、ただし、安くはないがな」
エレオノーレは、真っ赤な耳で聞いていた。
でも、微かに笑い声がした後には、軽く頬と頬をくっつけられた。
「まったく――」
そのままぎゅっと強く抱きしめられ、でも、次の瞬間には胸を押されて距離をとられてしまう。
「素直じゃない男だ」
そう言って立ち上がり、俺の上体を引き起こしたエレオノーレ。
顔は真っ赤だったが、笑みは無邪気で……可愛らしかった。
「行こう」
伸ばされたエレオノーレの手に、自分の手を重ねる。
そうして、古い楔から解き放たれた俺は――。
元奴隷のエレオノーレとの長い旅へと再び出発した。
――Celestial sphere第一部【Gemini】 了――
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