Wasatー4ー

 額に右手を当てた後、顔を拭うように顎まで撫でてから、力を抜いてだらりと下げる。

 思考が、エレオノーレを殺さなければいけないと判断していた。

 もう、賭けだのなんだの四の五の言っている場合ではない。もし、今、エレオノーレと戦えば負けるのが目に見えている。あの女は嫌いではない。だが、味方であるはずもない。あの女が俺を必要とするのは、この国を抜ける力を持っているという部分にあるはずだ。

 なら、今の俺は……ただの、そう、あの夜にエレオノーレに殺された二人のような。アイツにとって、殺しやすい弱い敵のひとりでしかないじゃないか。

 俺は戦いを楽しむ。死力を尽くした戦いなら、負けて死ぬのも本望だ。

 しかし! こんなところで、怪我の隙を衝かれて命をとられるのは我慢ならない。それも奴隷風情に。本当に殺したい相手に辿り着く前にこんな所で終わるなら、なんのために今日まで手を汚し続けて生き延びてきた?

 負け犬に、言い訳をする権利は無い。例えそれがなんであれ、どういった理由であれ、怪我は負った人間が悪い。不注意の責任も、自分自身にある。

 それも分かってる!

 この怪我も自己責任だと、普段の俺は言うだろう。

 万全な時に敵が来てくれるとは限らない、とも。

 ……だが、逆に言えば、それがどんな隙であれ衝いていいとするなら、夜通し走り一戦を終えて眠っている隙を衝かれたとしても、ソイツが悪いってことだ。

 あの女が、俺を味方だと誤解しているなら、それも含めて!

 手持ちの刃物で使えそうなのは、ナタだけだった。エレオノーレには、あの鋭くリーチの長い突きがある。先に気付かれれば、間違いなく死ぬのは俺だな。

 平時の俺とは違い、突きにナタを合わせて剣を叩き折ることも、かわしてすれ違いざまに腹を割いたり首を飛ばすのも、今は出来ない。

「……はは」

 いつかと逆になったな、と、ナタを手に足音と気配を消す。

 エレオノーレは、目を閉じ寝ているように見えた。

 四つん這いになり、風下からとてもゆっくりと進む。足音と衣擦れの音を完全に殺し、殺気も完全に胸の中に押し込み、ただの作業として心を構える。

 右手、左膝、右足そして右手。

 そろりそろりと近付く。

 閉じていても、切れ長の目は……いや、そうだな、元々エレオノーレは整った顔をしていた。本当に今更なにを考えているんだか、俺は。

 一足飛びに詰められる間合い。 

 この細い首を掻き切れば、俺は少なくともこの窮地を――。

 ナタを握る右手に力を入れる。

 エレオノーレの細い喉が微かに動いた。胸がゆっくりと上下している。規則正しい息の音。瞼がごく僅かに震えた。

 ……なのに、エレオノーレは全く戦いの空気を纏いはしなかった。

 押し殺していた殺気を全て吐き出す。戦いの気配は返ってはこなかった。ただ、優しい気配だけに包まれた。

 それは……殺されてもいいとか、そんな投げ遣りな気配ではなく、信じ切っているというような他人任せの気配でもなく、上手く言えないが深い慈愛のような、そんな気配だった。

 自分の身体中から、なにかが剥がれ落ちていく気がした。

 もう無理だ。限界だった。戦える状態じゃない。そもそも俺自身の心が定まっていない。殺そうという選択も、混乱した思考の中で安易ないつも通りの解決方法を消去法で選んだだけだったのだし。

「やめだ」

 自分が酷く矮小で惨めに思えて、普通の声色でそう告げ、ナタをエレオノーレの足元に放って地面に突き刺す。

「俺を殺したきゃ好きにしろ」

 足音も高らかに茂みへと向かい、別の寝床を探す俺。

 背後からは、微かに微笑む気配がした。


「だ……、うぶ、だよ」

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