DIVE_29 ゲストルーム

「はあ……はあ……」


 横には高いブロック塀、目の前には大きな業務用ゴミ箱、後ろには倒れた自転車。


 亮司は迎えがくる喫茶店の裏、勝手口近くに身を潜めていた。


 あれから亮司はメジャーの帯を伝って下り、帯が途切れたところで飛び降りた。手に持っていた枕は着地時の衝撃を和らげるためのもの。花壇に着地した亮司は枕を捨てて、裸足のまま駐輪場で自転車に乗り、足がちぎれるのではないかという速度でどうにかここまでやってきたのだ。


「……痛っ」


 息の荒い亮司は顔を歪ませて右腕を触った。骨折はしていないようだが大きな青アザができていた。着地は完全に成功していなかったらしい。


 亮司は荒い息を徐々に整えていき、いつも通りの呼吸に戻ると、迎えがきていないか確認するために喫茶店の駐車場を見にいった。


 あの時、迎えにきてもらう場所を変更したのは、こういう事態になることを想定していたからなのだろう。


 建物から少しだけ顔を出して亮司は駐車場を確認した。


 駐車場には何台か車が停まっていた。だが、そのどれがラジエイト社のものなのか亮司には分からなかった。そもそもまだ来ていない可能性もあった。


「……どんな車か聞いておけば良かった……」


 亮司は顔を引っ込めて、ぽつりと後悔を漏らした。


「……でも」


 このままじっとしているわけにもいかず亮司は覚悟を決めて駐車場に向かった。


 亮司はあくまで自然に早歩きをして、一台一台車を見ていった。全てを見終わると、そのまま元の場所に戻った。


「……ふう」


 緊張から解放されたように息を吐いて亮司はその場に座り込んだ。


 停めてあった車は全て空車だった。おそらく客と従業員のものだろう。


 それからしばらく亮司が辺りを警戒しながら待っていると、一台の車が駐車場に入ってきた。その音は亮司の耳に届いた。


 亮司は四つん這いで動き、建物から少しだけ顔を出した。


 新しくやってきた車は黒い車で、中から数人の男が出てきた。その男たちは喫茶店の入り口ではなく、真っ直ぐ亮司のほうへ向かってきた。


 亮司はハッとして立ち上がり、急いで自転車に乗ってその場から逃げようとした。


「待ちなさい」


 だがしかし二人の男が立ち塞がり、亮司は足を止めた。後ろからは三人の男がやってきた。逃げ道はもうない。


「…………」


 亮司はまだ諦めていなかった。逃げ道がないならば自分で作ろうと考えていた。


 前方の男たちは亮司のほうに向かってくる。亮司はタイミングを見計らい、上半身を揺らしてペダルを踏む足に力を入れた。その時だった。


「ぐ! 何をする!」


 突然、知らない男が前方の男一人に飛びついた。


「早く奥へ!」


 見知らぬその男は叫んだ。


 言われて亮司がその男の後方に目をやると、ラジエイト社のマークが描かれた青い車があった。後部座席のドアが開いている。


 亮司は自転車のペダルを踏んでその車へと向かった。だが途中で、もう一人の男に腕を掴まれて自転車から引きずりおろされた。


「逃がさないぞ」


 男は鋭い目つきで、亮司の腕を掴む手により一層の力をこめた。


「離せ!」


 亮司は食い千切る覚悟で男の指に噛みついた。


「ぐう!」


 男は痛みに顔を歪ませて手の力を緩めた。その瞬間、亮司は思い切り振り払って走り、青い車の後部座席に飛び込んだ。


 青い車は自動で後部座席のドアを閉めて急発進した。


 走りだした車の中、後部座席で仰向けになった亮司は、


「……助かったー……」


 言葉とともに安堵の息を漏らした。


 その後、亮司は上半身をゆっくり起こして運転手席のほうを見た。


 運転手席には人がおらず、ハンドルが独りでに動いていた。助手席には誰かが乗っていたのか、帽子とカバンと何かの資料が置いてあった。


「……あ」


 そこで亮司は気づいた。さきほど助けてくれた男がこの車の運転手だということに。


 亮司は振り返った。あの現場からはだいぶ離れており、彼がどうなったかは分からない。


「…………」


 亮司は助けてくれた彼の無事を祈り、心の中で感謝をした。


「あーあーてすてす。霧谷亮司さんはそこにいますか?」


 車内のしんみりとした空気を一蹴するかのように、車載スピーカーから誰かが声をかけてきた。


「……どちら様ですか?」


 亮司がそう問うと、


「私です。良川です。良かったー。無事みたいですね」


 男はそう名乗り、ほっとした声で言った。


「良川さん! この車の運転手が俺を助けるために……!」


 相手が良川だと分かり、亮司は身を乗りだして声を上げた。


「知っています。今現場に部下を向かわせていますから、安心してください」


 良川の返事を聞き、亮司は一安心した。


「そうだ、鈴森のほうはどうなっていますか!」


 一安心も束の間。亮司は鈴森のことを思いだし、大声で聞いた。


「大丈夫ですよ。彼女は何事もなく送迎車に乗り、我が社に向かっています」

「……良かった……」


 亮司は背もたれにもたれて胸を撫で下ろした。記憶は消えても、鈴森を思う心は残っているのかもしれない。


「到着したら、急ぎ正面玄関のほうから中に入って受付までいってください。それと、盗難防止のために車内の荷物を持ってきてもらえると助かります」

「分かりました」


 亮司は指示を把握して、助手席の荷物を腕に抱えた。あとは到着するのを待つだけだ。


 それからいくつもの信号を越えて、やっと日本ラジエイト社が見えてきた。

 世界的な大企業のせいか警備は厳しく、駐車場はとんでもなく広かった。

 亮司の乗る青い車は正面玄関に近い空いたスペースに停まり、最後の仕事としてドアロックを解除した。

 亮司は社内の荷物をしっかりと持って外に出ると、急ぎ足で正面玄関に向かった。


「……おお」


 日本ラジエイト社の正面玄関から中に入った亮司は思わず感嘆の声を漏らした。


 ロビーは吹き抜けで風を感じるほどに清々しく、圧迫感を全く感じない広さ。地面は磨き上げられた大理石で、全体的なデザインは実にファッショナブルだった。


 亮司は人々が忙しなく行きかうそのロビーを歩いて受付まで行った。


 受付にはすでに鈴森が来ていた。丁度今、亮司の姿に気づいたようだ。


「あ、亮司!」


 鈴森は声を上げて亮司の目の前までやってきた。やってくるなり、


「体は大丈夫? 痛いところはない?」


 ぼろぼろになった亮司の体を触って心配した。


「大丈夫。ちょっとあちこち走ったから汚れただけ」


 余計な心配をかけるのは面倒だと亮司は右腕のことは言わなかった。


「……そう。良かった」


 鈴森は心の底から安心したような表情を浮かべた。その表情を見た亮司は本当に彼女と恋人関係にあったのだと実感した。


「そうだ。すっかり忘れてたけど、そこの受付嬢さんが私たちを部屋まで案内してくれるらしいわよ」


 思いだしたように眉を上げて鈴森は受付奥の女性社員を見た。


「はい。ゲストルームまでご案内します」


 受付嬢は社交辞令的な笑顔で返事をしたあと受付カウンターから出てきた。


「それでは参りましょうか」


 受付嬢は進行方向に右手を添えてから歩き始めた。亮司は手ぶらで、鈴森は自分のキャリーバッグを引いて、彼女についていった。


 ゲストルームは別の棟にあり、亮司たちは連絡通路を通っていった。エレベーターに乗り、いくつかの扉を通過していく。

進むにつれてだんだん人通りが少なくなっていき、受付嬢はとある扉の前で立ち止まった。その扉はカードキーで開く扉だった。


「私がご案内できるのはここまでとなります。カードキーを挿入して扉の先へ行くと、通路の左右にお部屋があります。お好きな部屋をお選びください」


 受付嬢は説明をして、亮司と鈴森にカードキーを渡した。


「何かありましたら、カードキー裏の番号にご連絡ください。それでは失礼いたします」


 受付嬢は丁寧に一礼してその場から去っていった。


 鈴森は受け取ったカードキーをさっそく使った。スライド式の扉は自動で開いた。


「行きましょ」


 鈴森は亮司の手を引いて扉の先に行った。二人を通したその扉は自動で閉まった。


 扉の先は受付嬢の言う通りだった。真っ直ぐな通路が奥まで続いていて、左右に一定間隔で部屋の扉があった。扉の横には部屋番号とベッド数、親切にカードキーの使い方まで書かれていた。


「どの部屋にする?」


 鈴森は振り向いて聞いた。


「俺はここにする。どうせ内装はどこも同じだろうし」


 亮司は目の前の部屋を指さした。ベッド数は一。つまり一人用の部屋だ。


「じゃあ私はこの部屋にする」


 そう言って鈴森が指さしたのは、亮司が選んだ部屋の真向かいだった。こちらも同じく一人用の部屋だ。


「本当は亮司と同室が良かったけど、やめておくわ。しばらくはここから仕事に通うことになりそうだから荷物が増えそうだし」


 残念そうに口をへの字にした鈴森は選んだ部屋の扉にカードキーを挿入してロックを解除した。


「まあ、荷物を置いたらすぐそっちに遊びに行くわ」


 鈴森は扉を開けて部屋の中に入っていった。


 亮司も扉にカードキーを挿入してロックを解除し、部屋の中に入っていった。


 部屋は十五畳ほどの広さで、キッチンや寝室、バスルームやトイレもしっかり備わっており、基本的な家具も揃っていた。


 天下のラジエイト社ということで、高級ホテルのスイートルーム並みを期待していた亮司だったが、現実はそれよりも一ランク下だった。



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