DIVE_24 消えた赤い糸

 次に亮司が目覚めた時、そこは自室の布団の上だった。


「…………」


 亮司は上半身を起こして周りをきょろきょろと見回した。部屋はよく知るいつも通りの状態で、カーテンからは淡い朝の光が漏れている。


「俺はいったい……」


 不思議そうな顏で亮司が枕元に目をやると、そこに携帯電話が置いてあった。


 亮司は携帯電話を手に取り、電子カレンダーで日付と時刻を確認した。


「……な、嘘だろ。まずい。早く電話しないと」


 なぜか亮司は慌てて電話帳から鈴森に電話をかけた。数秒間の着信音のあとで繋がった。


「こんな朝から突然どうしたの? 今ご飯中なんだけど」


 鈴森は器に盛った牛乳入りのコーンフレークを食べながら電話に出た。


「約束破ってごめん! 寝過ごした! この分の埋め合わせは今度絶対にするから!」

「え? どういうこと?」


 亮司の言葉に、鈴森は当たり前とも言える反応をした。


「だから昨日、買い物の約束してただろ? それに行けなくてごめんってことだよ。言い訳がましいかもしれないけど、気づいたらもう今日になっててさ……」

「……ちょっと待って。何を言ってるかさっぱり分からないわ」


 亮司の説明に、鈴森はさらに混乱する。


「さっぱり分からないって……。ちゃんと約束したじゃないか」


 亮司はどうして覚えていないんだと思いながら脱力した。


「約束も何も昨日ちゃんと来てくれたじゃない。そして……色々あったじゃない!」

「……俺が、昨日、ちゃんと行った……?」


 亮司は目を見開いた。それから昨日のことを思いだそうとしたが、


「……痛い」


 頭に釘で刺されたかのような痛みが走って中断させられた。


「ねえ、亮司。まさかとは思うけど……忘れたの?」

「…………」


 亮司は答えない。いや、全く覚えていないから答えようがないのだ。


「お願い、冗談ならやめて。私こういう悪戯はすごく嫌いよ」


 焦りと不安の入り混じった声で鈴森は強く言った。携帯電話を持つその手は小刻みに震えている。


「……約束した日までのことは覚えてる。でもそれよりあとは……」


 亮司は電話の向こうの鈴森に向かって呟くように伝えた。そうすると、鈴森は唐突に通話を切った。


 突然のことに亮司は驚いて自分の携帯電話を見つめた。


 通話を切った鈴森は携帯電話をテーブルに置き、スプーンから手を離し、脱力した様子で椅子の背もたれに身を預けた。


「いったいどうしてなのよ……」


 天井を見上げながら鈴森は呟く。


「なんで覚えてないのよ……」


 鈴森は悔しげに唇を噛み、双眸から涙を零した。その涙は頬を伝い、首筋を伝い、胸元を濡らした。


「……切られたのか」


 亮司は不具合のせいで通話が終了したのではないと気づいた。


「前にもこんなことがあったな……」


 亮司はやはり自分のほうがおかしいのだと思い至った。


 しかしながら亮司は鈴森がなぜ忘れたことに対してあそこまで取り乱したのか、なぜ通話を切ったのか、分からなかった。


「何かあったのか……?」


 亮司は昨日よほど大事な出来事があったのではないかと考えた。


 でも今の亮司にそれを聞く勇気はない。途中で通話を切るという行為はそれ以上話したくない聞きたくないという意思表示であるからだ。


「……よし」


 とりあえず亮司はこんな時頼りになる檜山に電話をかけた。まだ休暇中なのでそんなに忙しくはないだろう。


「はい、もしもし」

「あ、檜山さんですか? 亮司ですけど」

「ああ、やっぱり亮司君だったか。それで突然どうしたんだい?」

「ちょっと話したいことがあって。今、時間あります?」

「たっぷりあるよ。なんていったって休暇中だからね」


 そう言う檜山は現在ビジネスホテルの自室のソファでくつろいでいた。さきほど朝風呂に入ったのか、白いバスローブ姿だ。


「……どうもまた記憶のほうがおかしくなったみたいで……」


「また記憶が……?」

「はい。昨日と一昨日の記憶が思いだせなくて」


 亮司がそう伝えると、


「昨日なら、僕は君に会ったよ。大型ショッピングモールで、鈴森さんと一緒に買い物をしていたね。とても仲が良さそうで、恋人同士みたいだったよ」


 檜山は昨日二人に出会ったことを話した。


「も、もっと詳しく覚えてないですか? その日、何か大事な出来事があったと思うんです。そうでないと、あいつがあんな風になった理由が説明できないし……」

「…………」


 亮司の話を聞いた檜山はなぜか辛そうに息を漏らした。


「……残念だけど、僕が君たちに会ったのは少しだけだからそれ以上は知らないんだ。ごめんよ」

「そう、ですか……」


 檜山の返答に亮司はがっかりして頭を垂れた。


「でも……、予想なら教えることができるよ。その大事な出来事についての」


 檜山が歯切れ悪く言うと、亮司はバッと顔を上げた。


「予想でもいいです! 聞かせてください!」

「……分かった。もう一度言うけど、あくまで予想だから保証はできないよ」


 亮司の食いつきに驚きつつ檜山は覚悟を決めた顔になった。そして、


「僕はその日、二人が恋人同士になったのではないかと思っている。……前にも言ったように、買い物中の君たちはとても仲が良さそうで、すでに恋人同士のようだった。鈴森さんは恋人同士になったことを忘れられて、すごいショックを受けているんだよ、きっと」


 檜山はやけに現実味のある自分の予想を丁寧に語った。


「俺と、あいつが恋人……?」


 亮司はありえないと可能性を否定しようとしたが、心がそうはさせなかった。


「ありえないと思うかい?」

「いや、どうしてか分からないけど、そうだったような気が……。忘れちゃいけないことだったような気が……」


 亮司は何かを思いだしそうになる。それにつれて心臓の鼓動が速くなっていき、同時に頭も痛みだした。


「……ぐ、痛い……」


 亮司は左手で頭を押さえ、苦しそうな表情を浮かべる。その苦痛の声は電話の向こうにも届いた。


「亮司君。今すぐ考えるのをやめるんだ」


 檜山は強い口調で言った。亮司はそれに従い、考えるのをやめた。そうすると少しずつ痛みが引いていった。


「体調はどうだい? もう大丈夫かい?」

「……ふう。もう大丈夫です」


 亮司は心配する檜山にそう答えた。


「でもなんで頭痛の治し方を檜山さんが……」

「前に思いだそうとすると頭が痛くなるって言っていたからね。もしかしたらと思ったんだ」

「……なるほど。おかげで助かりました」


 亮司は納得し、礼を述べた。


「とりあえずしばらくは横になったほうがいい。何も考えずゆっくりとね」

「そうですね。あいつのことは横になってから考えます。それじゃあ、切りますね。本当にありがとうございました」

「いえいえ。何かあったらいつでも気軽にどうぞ」


 亮司は「はい」と言って通話を切った。


「ちょっと横になるか」


 亮司は携帯電話を枕元に置き、もう一度布団に潜り込んだ。その布団は洗った覚えも干した覚えもないのに、非常にふかふかとしていた。


 すでに目が覚めて眠たいと感じない亮司だったが、目を瞑って少しすると睡魔が迎えにやってきた。




「…………。……結構寝たな」


 午後一時前。亮司、起床。二度目の睡眠は約五時間ほどだった。


「……そうだ。メールしておくか」


 寝覚めが良さそうな顔で亮司は枕元の携帯電話を手に取り、鈴森にメールを送った。内容は「少し思いだした。大事なことも。電話かメール待ってる」というものだった。


「これでよし、と。あとは電話かメール待ちだな」


 亮司は携帯電話を枕元に置いて立ち上がり、今度はソファに寝転がった。昨日と同様、今日も仕事はないので焦る様子はない。


 やることがなく、眠気もなく、TRUE WORLDにログインする気力もないため、亮司は天井を見上げたままじっとしている。


「……何やってんだろうな、俺」


 亮司は何気なくぽつりと呟いた。その直後、体の奥底から昔のような荒々しい気持ちが湧きあがってきた。


「どうしてあいつのために俺がここまで……」


 なぜか無性に苛立ってくる。だけれど心がそれを抑える。そのせめぎ合いで亮司はだんだん気持ちをコントロールできなくなってきた。


 亮司は上半身を起こし、両手で頭を抱える。ギリギリと歯ぎしりを始め、両足で貧乏ゆすりも始めた。


「なんでこんなにイライラするんだ」


 今にも動きだしそうな体を何とか制御する亮司だが、苛立ちは止まらない。


「ああもう! こんなの俺じゃない!」


 亮司は拳でソファを殴りつけた。そして立ち上がり、ソファのクッションを壁に思いっきり叩きつけた。


「なんでもいい。なんでもいいから」


 亮司はぶつぶつと呟きながらテーブルの上に置いてあるコップを手に取り、再び壁に投げつけた。ガラスのコップは鮮やかな破裂音を立てて砕け散った。


 それで完全にスイッチが入ったのか、それから亮司は次から次へと手当たり次第に部屋の物を投げていった。


 亮司のその様は情緒不安定という範囲を完全に超えていた。


 やがて投げる物がなくなり、亮司が未だ昂るこの気持ちをどこへ向けようかと考えていたその時、脳内で誰かが「カードを使え」と囁いた。


「……誰だよ」


 亮司は辺りを見回した。そこには投げた物が様々な形で散らばっている。


「俺の中にいるのは誰なんだよ! 出ていけよ!」


 亮司は叫びながら部屋中を歩いた。途中、ガラスの破片を踏んでも気に留める様子はなかった。


「…………」


 散々感情をぶつけ暴れ回った亮司はとうとう疲れ果ててソファに腰を下ろした。


 物の散乱した床。大きく破けたカーテン。倒れた家具。所々穴の開いた壁。亮司の部屋は酷い有り様となっていた。


 そんな部屋の片隅で、無事だった携帯電話が鳴った。メールではなく電話だ。画面には鈴森皐月と表示されている。


「…………」


 しかし亮司は電話に出ようとしなかった。虚ろな目で項垂れて、ただただソファに座っているだけだ。


 携帯電話の着信音は三分ほどでぱったり止んだ。


 それから一時間おきに携帯電話が鳴ったのだが、一度として亮司は出なかった。


 石化したように動かない亮司が再び動きだしたのは、次の日を迎えたあとだった。


 亮司はソファからのっそり立ち上がり、床に血の跡を残しながらDIVEへと向かった。


 時刻は午前一時。モリリンとヒーナはすでにログアウトしている頃だろう。


 DIVEの中へ入った亮司はリクライニングチェアに座りヘッドセットを装着して、TRUE WORLDへとログインした。頭はもう痛まなかった。


 到着後、亮司はまずフレンドリストを確認した。やはりモリリンとヒーナはログインしていなかった。


 亮司はポケットから漆黒に塗り潰されたカードを取りだした。そしてそのままゆらりゆらりとどこかへ向かっていった。その足取りは、亮司自身が望んだものではない雰囲気を漂わせていた。



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