DIVE_23 愛し糸引く思い

 亮司は仕方がないと靴を脱いで鈴森宅に上がった。


「少し散らかってるけど、気にしないで」


 鈴森宅の間取りは1LDKで、一人で住むには少々広かった。テーブルやソファなどの基本的な家具はもちろんのこと、リビングの隅には青いDIVEもあった。壁際には木製棚が多く並び、小物や雑貨、ぬいぐるみなどが置かれていた。


「そこに座ってて。コーヒー入れてくるから」


 鈴森はソファを指さし、キッチンのほうへ歩いていった。


 亮司はソファにゆっくり腰を下ろした。自宅の物よりも数倍心地良い弾力で、体によくフィットした。値段も数倍はするだろう。


 何気なく亮司は横に目をやった。そこには脱ぎ散らかした服や下着があった。


 色気もへったくれもないその光景に亮司は小さくため息をついた。


「はい、どうぞ。ミルクとシロップはお好みで」


 キッチンから戻ってきた鈴森はソファ前のガラステーブルにコーヒーを置いた。続いてその隣にミニスプーン一本、ミニカップのミルクとシロップを一個ずつ置いた。


「ありがとう」


 亮司はお礼を言って、出されたミニカップのミルクとシロップをコーヒーに投入し、ミニスプーンでかき混ぜた。


「それで、話したいことって何?」


 亮司はコーヒーを一口飲んでから聞いた。


「前に一つだけ何でも言うことを聞くって言ったわよね」


 鈴森は言いながら亮司の隣に座った。


「うん。確かに言ったよ」

「それじゃあ、今ここで使わせてもらうわ」


 鈴森は体ごと亮司のほうへ寄せて、


「私と付き合って」


 耳元でそう囁いた。


 亮司はその言葉に思わず体を震わせた。


「え、俺と、お前が? じょ、冗談だろ?」

「二度目は絶対に言わないわ。さあ、答えて」


 鈴森は言葉の逃げ道を閉ざした。


「……俺の知ってるお前はそんなことを……いや、現実なんだよな。そもそもそんな素振り今まで一度も見せたことなかったじゃないか」


 未だ鈴森の変わり様に頭がついていかず、亮司は混乱していた。


 すると鈴森は亮司の頬に手を当てて、


「…………」


 唇を重ねた。例えようのない柔らかさと温かさが唇を通して亮司に伝わる。


 そうして時計の秒針が一周した頃、鈴森はようやく唇を離した。透明な唾液が糸を引いて二人の唇を物足りなそうに繋いでいる。


「これで本気だと分かったかしら」


 鈴森は亮司の目を見て言った。


「もうヒーナのことは忘れなさい。あの人は男、それが現実。もしもあなたがそれでも好きだと言うのなら……素直に身を引くけど」

「……俺は」


 亮司はまだ彼女への思いを完全に断ち切れてはいない。


 しかし鈴森の言う通り、ヒーナは男である。両性愛者でも同性愛者でもない亮司にとって檜山自身を心から好きになるのは無理な話だ。


「女だと言えなくて胸が苦しくて。あなたとヒーナが仲良くしてるのを見るたびに無性に腹が立って。あなたがヒーナのことばかり見てるのがとても辛くて。気が狂いそうだったわ。いえ、狂っていたのよ」


 鈴森は目を伏せて真情を吐露した。そして、


「どんな答えでも受け入れるわ。だからちゃんと本当の気持ちを聞かせて」


 再び亮司の目を見て言った。


「一つだけ、聞かせてくれ。お前……いや、鈴森が好きになったのは今ここにいる俺なんだよな?」

「何言ってるの。当たり前じゃない」


 どうしてそんな質問をするのかという顔の鈴森。


「……カードの持ち主が言ったんだ。目的は俺が俺らしくなることだと。なら今の俺は本当の俺じゃないってことになる」


 亮司がそう話すと、鈴森は何かを思いだすように視線を上げた。


「似たような話を聞いたことがあるような気がするけど、それっていつの話?」

「二日前かな。カードの持ち主、ミツルって言うんだけど、また会って話したんだ」


 亮司はここで初めて持ち主の名前と再び出会った日を明かした。それを聞いた鈴森は渋い表情になり、両手で亮司の顔を挟んだ。


「……カードの持ち主がどうしてそんなことを言ったのか分からないけど、他人が決めつける『らしさ』なんて気にする必要はないわ。人は少しずつだけど、日々変わっていくもの。それを自分の好きな場所で止めようなんておこがましいわ」


 少し怒ったようにも聞こえる口調で鈴森は言った。だが内容は到って冷静なものだ。


「そんな変化を含めて私はあなたが好き。……もうこれ以上は待たせないで」


 鈴森のその言葉を聞いた亮司はついに覚悟を決めた。


 亮司は体ごとグッと鈴森に寄せて、キスをするように顔を近づけた。鈴森も覚悟を決めたのか目を閉じた。


 接近する亮司の顏は、鈴森のおでこに当たったところで止まった。そして、


「俺と付き合ってくれ」


 亮司は言った。


 予想していた受け身の返答ではなかったせいか、鈴森は少し驚いた素振りを見せる。けれどもすぐに、


「はい」と言葉を返した。

「ずっと受け身だと男が廃るからな。自分から言わせてもらった」

「……そういうことね。てっきりキスされるのかと思った。でもまあ、これはこれでいいものね」


 鈴森はゆっくりと目を開けて微笑んだ。


「したほうが良かったのか?」

「いえ、今はいいわ。楽しみはとっておきたいもの」


 鈴森はおでこをそっと離した。


「分かった。……それじゃあ名残惜しいけどそろそろ家に帰るよ」


 亮司は頷いてソファから立ち上がった。結局コーヒーはほとんど飲んでいない。


「もう帰るの? せっかくだし泊まっていかない?」

「ごめん。とりあえず今日は帰るよ。色んな感情が混ざり合って混乱してるから、気持ちを整理したくてさ」

「……そう。残念だけど仕方ないわね」


 言葉通り残念そうな顔をする鈴森。一応納得はしたようだった。


 玄関に行く亮司に鈴森は見送りのためついていった。


「じゃあ、また明日。皐月」


 亮司が下の名前を呼んで別れの挨拶をすると、


「また明日。亮司」


 鈴森も同じように返した。


 そうして亮司は鈴森宅をあとにした。


 亮司がマンションから出るとすでに辺りは暗くなっていた。しかし人通りの多い住宅地のせいか街灯が異様に多く、暗さはかなり緩和されていた。


 亮司は胸元をぎゅっと握って空を見上げた。曇り一つない夜空なのに、周りが明るいせいで星々はほとんど見えない。


 亮司は今までにない感覚に戸惑っていた。自分が自分でなくなるような、何かが目覚めるような、いや懐かしさもある。そんな例えようのない未知の感覚。


 その感覚の正体を考えながら亮司は帰り道を歩き始めた。まずは待ち合わせをした喫茶店まで戻るようだ。


 火照った頭と体を夜風に冷やしてもらい、亮司の疲れた頭は回転数を増していった。


「……もしかして」


 亮司はふとミツルの言葉を思いだした。君が君らしくなることが目的という言葉だ。


「……そうか。そういうことか」


 亮司はこの未知の感覚が本当の自分になった証ではないかと解釈した。


「カードなんか使わなくてもなれたじゃないか」


 薄ら笑みを浮かべて嬉しそうに言う亮司。導きだしたその答えが本当に合っているのかどうかは不明だが、亮司自身は完全にこれが答えだと確信しているようだった。


 それから亮司は足取り軽く待ち合わせをした喫茶店まで戻り、停めておいた自転車で自宅に帰った。


「ただいまー」


 玄関扉を開けて家に上がり、亮司が部屋の電灯を点けようとしたその時、


「……!」


 何者かによって突然目隠しと口封じをされた。驚く間もなくうつ伏せに組み伏せられて腕に何かを刺された。


 亮司は必死に抵抗するが、動けない体勢にされていてなおかつあまりにも力の差がありすぎて無意味に終わる。


 だがこれで諦める亮司ではない。封じられていない耳を澄ませて、相手の正体を少しでも掴もうとした。


「…………」


 そうするとわずかに聞き取れる音量で相手側の会話が聞こえてきた。内容は飛び飛びで理解できないが、どうやら相手は三人以上で、そのうちのほとんどが男であることが分かった。


 亮司はこのままもっと情報を仕入れようと、より聞きやすい場所にゆっくり耳を動かした。のだが、突如として強烈な眠気に襲われた。


 その眠気のせいで聞くことに全然集中できなくなり、亮司はやがて何も考えられなくなった。


 そして意識が闇に落ちる寸前、亮司は声を聞いた。その声はどこかで聞いたことがある声だった。



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