DIVE_17 初めての顔合わせ
そうしてついにやってきた五日後の日曜日。
「やばい。急がないと」
亮司は慌てていた。
時刻は十一時三十五分。約束の時間まで残り二十五分である。
亮司は寝坊してしまったのだ。
「急げ。急げ。急げ」
歯を磨きながら外行き用の服に着替える器用な亮司。
実は十時にセットした目覚まし時計がうるさいほど鳴ったのだが、亮司はそれを止めて再び眠りに入ってしまった。そして次に目を覚ましたのが十一時半だったのである。
「よし」
身支度を整えた亮司は朝食を食べずに家から飛びだした。駆け足でエレベーター前まで向かい、エレベーターで下まで降り、駐輪場で自分の自転車に乗って集合場所へと急いだ。
この日、モリリンは徒歩で、ヒーナはリニアモーターカーと車で、集合場所へやってくる予定だ。モリリンは意外にも集合場所近くに住んでいた。ヒーナは少し遠くて、二つ県を跨いだ先に住んでいた。
集合場所に近い、それも提案者が最後に到着などあってはならないと亮司は必死に自転車のペダルをこいだ。
十五分後。亮司は集合場所の喫茶店に到着した。
「間に合った……」
約束の時間まで残り五分。もしも五分遅く起きていたら完全に遅刻だっただろう。
亮司は深呼吸をして息切れをなおしてから、
「……よし、行くぞ」
気合を入れて店内に入った。出会ってから四年、現実世界で二人に会うのはこれが初めてなのだ。緊張もするだろう。
店内は和風モダンな雰囲気で、古木の何とも言えない匂いがした。こだわりの感じられる家具や絵画、場所によって光量が微妙に違う少し暗めの暖色照明など、内装は非常に凝っていた。
亮司は驚いた。本当にあのモリリンが指定した店なのかと。
店内の客は見るからにお洒落さんばかりで、亮司の姿は完全に浮いていた。
「あ、あの。予約した霧谷亮司ですけど」
亮司はおどおどとカウンターにいる男性店員に話しかけた。
「……はい。予約された方ですね。こちらへどうぞ」
男性店員は手元の携帯端末で予約者リストを確認したあと、亮司を個室へと案内した。
この喫茶店は席のほとんどが個室で、カウンター席やテーブル席は少なかった。
亮司は男性店員の背中を目で追いながら、意外と広い店内の廊下を歩いていった。
「こちらになります」
男性店員はとある個室の前で立ち止まり、右手を扉のほうへやった。
「ではごゆっくりどうぞ」
男性店員はそう言って軽く一礼し、持ち場に戻っていった。
「…………」
亮司は扉の前でごくりと唾を飲んだ。
この扉を開けたら、ついにご対面だ。何らかのトラブルで遅刻していない限り、まず間違いなく二人は現実世界の姿で中にいるだろう。
「……よし」
亮司はもう一度深呼吸をしてから、扉をゆっくり開いた。
室内には予想通り二人いた。一人は男。もう一人は女。
男のほうは爽やかな短髪で、優しそうな雰囲気を醸しだし、聡明な顔立ちをしていた。年齢も身長も亮司よりは少し上だろう。体を結構鍛えていてそれは服の上からも見て取れた。
女のほうは艶々の長い黒髪が特徴的で、凛とした端整な顔立ちをしており、美人と呼ばれる部類だ。年齢も身長も亮司よりは少し下だろう。小顔で体のラインは細く、足はすらっとしていて長かった。モデル体型と言ったほうが分かりやすいかもしれない。
「えーと、こんにちは」
亮司は部屋を間違えてないかなと思いつつ男の隣に座った。
「これで三人揃ったね。まずは自己紹介から始めようか」
男は物腰柔らかく言った。
「あ、じゃあ俺からいくよ。あっちの世界では」
「言わなくても分かるわよ」
女は亮司の自己紹介に被せるようにして言った。
「そ、そう……」
自己紹介を中断させられた亮司は大人しく引き下がり、軽く首を傾げた。
亮司は何かがおかしいと違和感を覚えていた。その違和感の答えは、亮司が考えるよりもずっと早くやってきた。
「次は私ね。私の名前は
「え……」
亮司は耳を疑った。本当に今の自己紹介を女が言ったのかと頭の中でもう一度再生した。やはり自己紹介は女の口から出てきた。
「私がモリリンじゃおかしいの?」
鈴森は不満そうに足を組んで言った。
「お、お前がモリリン? 本当に?」
指を差しながら亮司が言うと、
「ええ、そうよ」
鈴森はにっこり笑って答えた。
「…………。じゃあ」
亮司は隣に座っている男のほうを見た。そうすると、
「騙すつもりはなかったんですが……」
男は申し訳なさそうに俯いた。その瞬間、今まで大切に育まれてきた亮司の淡い恋心が粉々に砕け散った。
「あーらら」
鈴森は抜け殻のようになった亮司を見て呟いた。その顔はどこか嬉しそうに見える。
「もうすでにお分かりかと思いますが、あっちの世界ではヒーナと名乗っていました。本名は
男は礼儀正しくそう名乗った。
「でも正直、ヒーナが男だったなんて驚いたわ。あまりに自然だったもの」
「そうかい? そう言ってもらえると嬉しいな」
檜山は感心する鈴森に笑顔を向けた。その笑顔を見た鈴森は、
「……もしかして、ゲイだったりするの?」と聞いた。
「ははは。違うよ。僕は今も昔も女の子一筋だ」
檜山はそう答えた。この時代、同性愛は一般的で特別不思議というわけではない。
「じゃあどうしてあんな風に?」
「質問に質問で返すのは良くないけど、鈴森さんはTRUE WORLDのキャッチコピーを知っているかい?」
檜山は鈴森の質問に答えず、逆に質問をした。
「うーん……。確か『0%の世界にしがみつくのをやめて、1%の世界に行ってみませんか』ってやつだったかな」
「その通り。せっかく不可能を可能にできる世界に来たのに、そのままやっても面白くないと思ってね。アバターを女性にすることにしたんだ。今でこそ誰にも気づかれないほど自然になったけど、最初はこの声この口調だったんだよ」
「男声男口調のヒーナって……」
鈴森は男声男口調のヒーナを想像してしまい、鳥肌を立てて身震いした。
「女性アバターを使っていくうちに、声も口調も仕草も雰囲気も現実世界の僕からどんどん離れていった。そしていつしかヒーナと言う一人の女性になっていたんだ」
「離れていったって……声も口調も仕草も雰囲気も変えたのはあなた自身でしょ?」
檜山の話に鈴森は鋭い突っ込みを入れた。
「それはそうなんだけど、変えるのは無意識なんだよ。変えようと思って変えたことは今まで一度もない。あの世界にログインした瞬間から、僕はヒーナという別の人間になっているんだ。自分が自分でない、不思議な感覚なんだ。……二重人格みたいなものかもしれないね」
檜山は自分とヒーナのことについて丁寧に話した。
「二重人格か……。よく分からない世界ね。でもなんとなくは理解できるわ」
「それは鈴森さんも違う性別のアバターを使っていたから?」
檜山はある程度の理解を示した鈴森に対し、そんな問いを投げかけた。
「たぶんそうかな。でも私が男性アバターにしたのは、とにかく色々と楽だからって理由だけどね。私って結構人気があるからさ」
鈴森は自慢を交えて答えた。檜山は「なるほど」と頷いた。
「それで、これから私はどうすればいいの?」
「ん、というと……?」
檜山は唐突かつ漠然とした鈴森の質問に困った顔をした。
「ヒーナのことよ。場合によっては接し方も変えないといけないし」
鈴森はさきほどよりは具体的に言った。檜山はそれで鈴森が何を言いたいか理解したようだった。
「ああ、そういうことなら心配はいらないよ。これまで通りだから。こっちとあっちの僕は別人みたいなものだからね。第一、変えたくても変えられないよ」
「じゃあこれからもいつも通りヒーナに接すればいいのね。良かったわ」
檜山の返答を聞いた鈴森はほっと胸を撫で下ろした。
要するに鈴森が聞きたかったのは、これからヒーナを男として接すればいいのか、それともこれまで通り女として接すればいいのか、ということだった。
「鈴森さんのほうはどうなの? 僕と一緒?」
檜山は鈴森に質問を返した。
「あー……。正直、男の振りをするのも疲れたから、二人の前では本当の私になることにする。いい機会だしね。接し方はいつも通りでいいから」
鈴森は魂の抜けた亮司の体を突っつきながら答えた。
「分かった。じゃあ改めてよろしくね」
檜山は鈴森に握手を求めた。鈴森はそれに応じた。
「亮司君もよろしく」
檜山は亮司にも握手を求めるが、
「…………」
まだ魂が抜けているのか反応がない。そうすると、
「ほら、あなたもいい加減目を覚ましなさい」
向かいの鈴森が亮司の鼻と口をつまんだ。
「……俺はいったい……」
数十秒後。亮司は鈴森の手を振り払って息を吸い、我に返った。
「やっと戻ってきた。ほら、檜山が待ってるわよ」
鈴森に言われて亮司が隣を見ると、檜山が爽やかな笑顔で右手を差しだしていた。
「ああ、握手」
亮司はすぐに理解して差しだされた右手を握った。
「これからもよろしく」
「ああ、はい」
消し去ることができない恋心を抱えたまま亮司は返事をした。失恋から立ち直るにはしばらくかかりそうである。
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