第21話 雲の街に住む少女

 夜明け間もない空には霧雨が舞っていた。

 辺りは薄暗く、人々はまだ眠りについている。

 俺は宿の裏庭の軒下に身を寄せ、煙草を吸いながら辺りを眺めていた。

 細かな雨の粒に覆われた裏庭の景色は朧気で花も草も木もしっとりと濡れている。

 あの黄色いのはキンシバイ、あの桃色はムクゲ、あの白いのはクチナシ、あのつんつんしているのはノアザミなどと勝手に花に名を宛てがっては煙を吸って、また吐いた。

 実のところ、この裏庭は宿の所有地ではなかった。宿を含めた四軒の建物の間にできた空き地だった。

 けれど誰かによって美しく手入れされていた。


 宿で暮らすようになって五日が過ぎていた。その間、大したことは何もしていない。旅芸人としての仕事もせず、ただハンザが出す料理をクツアが食べるのを眺めたり、街をぶらぶら歩いたり、こうやって、裏庭で煙草を吸ったりしていたら時間が過ぎていた。


 時間は勝手に過ぎていく。世界中の時計を破壊してもそれは変わらない。


 五日間、この宿で寝泊まりする中で気が付いたことがある。それはここがUFOの中じゃないってことだ。全く何でUFOの中だと思ったのか。疲れていたんだ。許して欲しい。

 ここはクツアの言う通り雲の上にできた街で暮らしているのも宇宙人じゃないし、クツアの頭にもチップは埋め込まれていない。


 煙草をフィルター近くまで吸い終えても辺りは寝ぼけたような明るさだった。時間の問題じゃない。雲の上なのに見上げると雲があって陽の光を遮っている。


 そうやって空ばかり眺めているといつの間にか隣に緋色の髪の少女が立っていた。


「元気か?」


 とりあえず俺は挨拶した。挨拶さえしておけば誰だって聖人と思われる。


「元気だよ。とてもね」


 少女は答えた。

 肌は白く瞳は紅い。顔立ちは整っているが髪はボサボサで毛束が首のところでクルクルしていた。

 何より印象的だったのは表情だった。

 暗い、固い、恐い――百年ぐらい笑わずに独りでじめじめとしたキノコを食べて生きてきたような陰気さだった。服装は少女というより少年のようだった。白いシャツと紺のズボン。


「元気じゃないだろう。肉を食べて日光浴して、時々は笑え」

「肉は嫌いだ。まぁ、日光浴と笑うのは好きだけどね」

「だったら旅芸人にならないか?」

「旅芸人?」


 疑問形。イントネーションこそ変わっていたが表情は何一つ変わっていなかった。


「人を幸せにする。ハッピーな仕事だ」

「人は嫌いだよ」

「人は嫌いなのにどうして笑うのは好きなんだ?」

「独りでも笑えることなんて幾らでもある。まぁ、全ての人が嫌いなわけじゃないよ。ごくまれになら好ましい人もいる」

「どんな奴だ?」


 紅い瞳でじっとこちらを見てそれから霧雨に濡れた裏庭を見てようやく口を開いた。


「彼は絵描きだった。二十歳で死んだ。その頃、僕はまだ猫の王ケット・シーだった。こう見えて僕はね、生まれも育ちも猫なんだ。想像できるかい?」

「できないな」


 少女は沈黙してしまった。

 霧雨で俺も少女も肌が少し濡れていた。


「話はそれで終わりなのか?」


「いや、もう少し続けよう。彼はウイスキーの蒸留所で働いていた」


「絵描きだったんじゃないのか?」


「絵では食えなかった。才能がなかったんだな。それでも……、彼が何者か誰かに話すのなら彼は絵描きだった、と僕は言うね。彼は絵を描くことを愛していたから。ウイスキーよりもずっとね」


「俺は絵よりもウイスキーの方が好きだ」


「僕もだ。でも彼は違った。他の何よりも絵を描くことを愛していた。僕は猫の王ケット・シーとして蒸留所いるウイスキーキャットの話を聞きに行くことがあってね。まぁ、奴らの話なんて今日はネズミを何匹捕まえたとか、あいつは捕獲数をごまかしているとか、くだらない話なんだけど王様はそういった猫たちの話を聞いて市井の状況を肌間で理解するということが結構重要だったりするんだよ。話が逸れたな」


 また沈黙。

 どうにも話し方に独特の間があった。

 普段、会話していない奴はすぐに息切れするから呼吸を整えているのかもしれない。


「まぁ、彼と会ったのはそうやって僕が蒸留所に足を運んでいたからっていうことだ。何にだって原因はある。僕と彼の出会いだってそうだ。蒸留所にはネズミが出て、ネズミを捕まえる猫が必要で、僕は猫の王ケット・シーで、彼はウイスキーをそれほど愛していなかったがウイスキーの蒸留所で働いていた」


 なぜ、この少女は俺にそんな話をするのだろかと疑問に思った。

 しかし、話を聞くのを止める気にもなれなかった。

 降り続ける雨を黙って眺めるのと同じ感覚だった。


「名前はなんて言うんだ?」

「彼の名前?」

「いや君の」

「あぁ、そう言えば名乗っていなかったね。僕はタウザー。あんたは?」

「マサユキだ」


 タウザーね、と俺は呟いた。そうしないと名前を忘れてしまう気がしたからだ。


「彼は蒸留所近くの川辺でよく絵を描いていた。風景だったり、猫だったり、少年だったり、少女だったり、色々、描いていたな。僕がモデルになったこともある。暑い日も、寒い日も独りで絵を描き続ける彼に僕は少しだけ興味を持つようになった。なぜそこまで熱心に絵を描き続けられるのかなってね。僕は気まぐれで飽きっぽい性格だから彼のことが奇妙だったし、羨ましくもあった。少しだけね。だから声をかけた」


 斜め向かいの家の窓が空いて老婆が顔を覗かせた。

 ゆっくりと街が起き出し始めていた。


「彼は驚いていた。僕が猫の姿のまま声をかけたのだから仕方がない。けれど僕の素性を話しても彼は僕を恐がって話ができなかった。偉大な猫の王ケット・シーが人なんて喰うものか。まぁ、でも、桃魔の中には人を喰う奴もいたからね。僕は人間に姿を変えてやることにした。それが今の姿さ。この姿になって彼はようやく僕と会話してくれる気になったらしい。見た目に惑わせれるなんて愚かな男さ。まぁ、でも僕は彼に尋ねたんだ。『どうして毎日毎日、絵なんて描き続けているのか』ってね」


「なんて答えたんだ?」


「好きだから。それだけさ。それを聞いたい時、何だか拍子抜けしたよ。そして、意地悪もしたくなった。僕は翌日、キャンバスとイーゼルを持って彼の前で絵を描いてみせた。魔法を使って彼が何週間もかけて描こうとしたものを僕は一瞬で描いてみせた。当然、彼は悔しがるだろうと僕は思った。けど彼は『上手いもんだな』と言っただけでちっとも悔しがりはしない。普段と変わらぬ様子で絵を描き続ける。悔しい気持ちになったのは僕の方で『あんたよりずっと上手い絵を一瞬で描いてみせたのだぞ。悔しくないのか?』って口に出していた」


 その時、始めてタウザーの表情が少しだけ変化した。

 ロボットではなかったらしい。


「強がっていただけだろう。才能のない奴は才能のある奴を妬む」


「どうかな。本心は分からない。でも彼は僕の絵を見て言うんだ。『これは神様が描いた絵と同じだ』って。『上手いとは思う。でも、面白みはない。足りない奴がそれを補おうとする工夫がこの絵にはない。だからつまらないんだ。上手くて綺麗なだけの絵だ』って」


「神様が描いた絵なら見てみたいがね」


「そうだね。でも彼が求めたのは不完全な人間の絵だった。僕は彼を黙らせるために自分の手で絵を描いた。馬鹿馬鹿しいことだと思いながらね。それはもう下手くそな絵だったよ。それでも彼は僕の絵を見て楽しそうに笑ってくれた。いつしか僕は彼と一緒に絵を描くようになっていた。絵を描くのも悪くないと思った。絵を描くことが好きになったんだと僕は思っていた。でも違った。僕が好きだったのは絵を見て楽しんでくれる彼だった。彼が死んで始めてそれに気付いた」


 いつのまにか霧雨が止んでいた。

 空には雲がかかったままだった。


「その話はどこに辿り着くんだ?」


「話はもう終わりさ。彼が死んで僕は人間として生きようと思った。そうしていれば彼みたいな奴にまた会えるかもしれないって考えたんだ。そして人間になる際、二度と変化の魔法を使えないように大量の魔素を放出した。口からモクモクと雲を吐き出してね。それが今僕らが立っている場所さ」


 そう言って少女はカンカンと地面を足で踏んで見せた。


「まぁ、ここから本題だ。実はあんたに相談がある。僕の寿命がそろそろ尽きそうでね。僕が死ぬとこの雲も消えてしまう。それは不味いよな。やっぱり」と少女は言った。

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狂って いない いない ばぁ 山田 @user_ice

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