さなぎ

きり

第1話

思えば、私の世界は物心ついた頃からすでにくすんでいたように思う。


決して家庭環境に恵まれなかっただとか、誰かに虐げられたことがトラウマになってしまったとかではない。


こう表わしてしまえば多少の反感を得てしまうかもしれないが、あえて口にするならばむしろ周囲の家庭よりも裕福だったし、一人っ子だった私はなおさら愛されていた。

両親は愛情をこれでもかと私に与えた。


きっとたくさんの顰蹙を買ってしまうから、決して口になどしなかったが。


だがしかし、私の世界は相変わらずくすんでいた。

セピア色とも、しらけているとも、なんともいえない色彩があらゆる世界を塗りつぶしていた。


初めて見る景色、初めて訪れる場所。

優しく生き物を愛する心を育みたかったのだろう。両親の趣味もあり、私はよく幼い頃は動物園やら水族館やらに連れていってもらうことが多かった。知識や教養を身に付けてもらいたかったのだろう、植物園や博物館、美術館へだって頻繁に足を運んだものだった。


周りの同世代の子供たちが動物たちの穏やかな寝顔やそれとは裏腹な威厳のある風格に歓声を上げ、はたまた、標本の木枠の中に貼り付けにされた昆虫の艶やかな色彩に魅了されいつまでたっても張り付いている────それが『普通』だった。


だが、私にはそれがまるで理解できなかった。

あらゆる全ての色彩、果てには情景と生命の神秘────それらにまるで感動を感じ得ることができなかったのだ。


あらゆる刺激に対して私は一切の感情を揺るがされることはなかったのだ。


おそらく、私の感情は歪んでいた。

あまりにも醜くて、うっかり焦したフライパンにこびりついた黒いそれのように、くすぶった匂いすらしていたかもしれない。


それに気が付いたのは私が小学校に上がった頃で、理科の授業にて虫の体の仕組みを理解しようという趣旨で行われた、チョウの幼虫をいくつかのクラス内の班で成虫になるまで育てようといった数週間から数ヶ月にわたるそこそこ大掛かりな実験だった。


クラスメイト数人で構成されたグループには私を含めて四人程度。教師の指導のもと、本来ならば餌やり、ケース内の観察と記録などと分担があるはずだった。

しかし、運が悪かった。もちろん私ではなくアゲハ蝶の幼虫が、だ。

アゲハ蝶は成虫の姿こそ見目麗しい艶やかな羽を羽ばたかせるが幼虫ともなるとずんぐりもったりした芋虫らしい風貌をしていて、お世辞にも可愛らしい姿をしていない。


「気持ち悪い」。それを、グループの女子児童たちは心底嫌がり、あろうことか幼虫を前にしても可もなく不可もなくといった私の反応を見て全て世話を任せるといってきたのだ。


翌日、すでに私の役目は幼虫の世話係となっていた。


1週間、2週間と時間が経つうちにもとより単純な作業だけの世話の手際は良くなっていき、その幼虫はやがてサナギとなった。親指サイズにまでパンパンに育った幼虫は数日もすれば翅をひろげて今窓の外に見える広くくすんだ世界へと羽ばたいていくのだ。

この小さな命のため葉っぱを変えてやることなくなるのだなとどこか他人事のように、年に見合わぬ物思いにふけていたときだった。


────さなぎの中身は、いったいどうなっているのか。


ふとそんなことを思いたち教科書を開くものの、手元にあった教科書を開くも、そこには成長の過程に幼虫、さなぎ、成虫といった簡素な過程と数行の補足が載っているだけ。知りたかったことの本質は存在していなかった。

当たり前だ、当時は小学生だったのだから。


だからこそ、こんな考えが過ぎったのかもしれない。


子供は恐ろしい。今だからこそ断言できる。


「中身を、見てみたい」


そんなことが脳裏にかすった瞬間、経験したこともない底知れぬ、なんとも言えない気持ちになり────私は筆箱から桜色のまだ真新しいハサミを取り出していた。


翌日、教室の空気はいつもより少し濁っているように見えた。その原因は言わずもがなで、私自身も自覚があったが────教室に入るなりやはり、と確信を得た。

教室の窓辺に人だかりがあり、その中心には見慣れたプラスチックのケース。その中身は────空だった。ケースの周りに散らばる新緑色の破片を残して。


「ねぇ、私たちのアゲハ知らない?」


不安げな瞳が揺れる。

私の濁りきった瞳とは大違いだった。

クラス内とは本当に小さい世界である。生き物を誰が世話していたかなんて全員が知っている。だから、彼らは私を見たのだ。そして、その問いかけはほとんど確信に近かった。


「なんのこと?」

「朝来たらもういなくって。窓がちょっとだけ空いてたの」


私はカバンを置いて同じグループの女子の隣に立つ。少女が私を見る。


「きっと、自分の行きたいところに行ったんじゃないかな」



────結論から言うと、私はあのアゲハを殺した。

あのハサミを手にしてから夕暮れが教室を侵すまでに時間はそうかからなかった気がする。私の手に握られた桜色のハサミの刃の鈍い光がとても印象的だったから。

ケースに触れ、その天井だった蓋を外す手は少し震えていた。この短期間で何度も何度も取り替えた葉っぱで育ったその身は、思いの外重量が存在しなかった。

まだ震える手が、さなぎがすがりつく葉を少し震わせる。新緑を思わせる艶やかな色のそれは人の手では生まれない絶妙な曲線を描いていて、一つの命を封じ込め、今か今かと巣立ちを待っているのだ。


そして、私はその命を、真っ二つに裁断した。

知りたかった、それだけ。己の知識欲のために。


まるで肉厚で鮮度の高い果肉をナイフで両断するような、柔らかいとも硬いとも言えない感触に全身が総毛立つ。断面はすでに原型を留めておらず、ドロリとしたナニカがこちらを見据えていた。それはとても鮮やかで美しかった。


美しい蝶を、私が殺した。


これから外の世界に飛び立とうとしていた一つの命を。まさか、こんな形で命を奪われることなど、アゲハは想定すらしていなかっただろう。出会うはずだった外の世界を待ちわびていたろうに。それを思うと今まで味わったことのない背徳感とそれを凌駕する高揚感が襲い―――世界は色づいた。


「ねぇ、なんで────」


それを思うと、湧き上がる高揚感が抑えられなくなりそうで。刃を伝ってきた不気味な感触、初めて目にした、くすみのない色彩。そしてなにより、息を呑むほど美しいそれを殺したことに、私はすでにこの時点で魅了されていたのかも知れない。


「そんなに綺麗に笑うの?」


まるで人間じゃないものをみるような目つき。その眼孔に収まる無垢な虹彩が私におびえていた。私はそこで初めて、自分の本質に気が付いたのだ。


また、胸が高鳴る。


「歪んでるからだよ」



――――――孵化














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さなぎ きり @kiri0405

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