第4話「さぎょういのおとこ」

「うるせぇ!ばばあ!殺すぞ!」

若い男の怒鳴り声と同時に大きな音を立てて、ドアが乱暴に閉められた音がする。

「あなた、浩一が」

「放っておけ」

男―佐藤健作は、妻の典江の非難と悲嘆の入り混じった様な声を聞き、苦々しくそう言った。

―いい加減何とかしないとな。

健作は、50歳、典江は48歳で夫婦で工務店を経営している。

自宅の1階の表が工務店になっており、その奥と2階が自宅になっている。

2階に夫婦の寝室が有り、22歳になる息子の浩一の部屋も2階に有った。

息子の浩一は、いわゆる「引きこもり」だった。

大学受験に失敗し、それ以来、部屋から出てこない。

トイレや風呂は夜中に夫婦が寝ている間や、顔を合わさない様にタイミングを伺って行っている。

食事は妻の典江が部屋の前に置き、中に声を掛ける。

先程の怒鳴り声は、典江が一緒に食事を摂ろうと声を掛けた結果だった。

浩一の部屋には防音が施してあり、中から音や大きな声を上げても聞こえない。

浩一が中学に上がる頃に、音楽を聴く為に部屋の壁に防音仕様の緩衝材を入れたのだ。

だから浩一が怒鳴る時は人の気配が消えるのを待って、わざわざドアを開けてから怒鳴る。

そうしなければ聞こえないからだ。

健作は、怒鳴る為にわざわざドアを開ける息子の精神構造が一体どうなっているのかと思う度に気が重くなった。

幸い隣家は離れているので、浩一の怒鳴り声が近所に聞こえる心配はほとんどない。

2年前位までは妻の典江に対する暴力もあった。

息子の暴力は何の前触れもなく始まり、何の前触れもなく終わった。

家庭内の問題をよそに、工務店の仕事は、そこそこ順調だった。

元々父の代からやっていて、地元の戸建ての殆どの家を手掛けている。

改築や増築も手掛けているので、幸い仕事に困る事は無い。

問題は息子の事だけだと言えた。

もし、自分が死んだらこの小さな工務店は潰れてしまうだろう。

妻は、経理を手伝っているがその他の事は全て健作がやっている。

営業などは競合する相手が地元に居ない為、勝手に仕事が舞い込んでくるが、

職人の手配や、見積もりなどは健作にしか出来ない。

保険金などは、生活の支えにしばらくはなるかもしれないが、

妻と息子の一生を約束するものではない。

そういう健作の心配を、妻の典江は考え過ぎだと言う。

二人に健康上の問題はなく、このまま元気に働けば良いのだと。

その内に息子の浩一も部屋から出て、社会にも出てゆく様になると。

だが、そんな典江の願いは無残に打ち砕かれる事になる。

典江自身の死によって。

買い物に車で出かけた帰り道だった。

対向車線を越えて来たトラックに正面衝突されたのだ。

典江は己の死の間際に、とぼんやりと思った。

「あなた、あの子を頼むわね」

典江は薄れゆく意識の中で、はっきりと口に出してそう言った。

だが誰もその言葉を聞くものは無かった。

警察の監察医によれば即死との報告を健作は受けていた。

健作は、警察の言葉を聞きながらもどこかで信じていなかった。

妻は生きている。

死んでなどいない。

奇跡的に顔だけは無傷の妻の遺体が余計にそう思わせた。

しかし、体はぐちゃぐちゃになっていて、体を覆う布を一枚めくれば凄惨な状況に目を背けざるを得ない。

どこか意識が自分の外に有る様な状態では有ったが、親戚など然るべき所への連絡や葬儀の手配などは健作自らの手で行った。

息子の浩一には、典江が亡くなった当日にドアの外から声を掛けた。

「おい、聞こえるか?母さんが死んだぞ」

中からの返事は無かった。

「明日が通夜で、その次の日が葬式だ。か、母さんにお別れをちゃんとしろ」

健作は言いながら泣いた。

それでも、中からの返事は無いままだった。

妻を失った喪失感が、息子への苛立ちを軽減させた。

更に何かを言おうとしたが、言葉が出てこなかった。

そのまま通夜を迎え葬式も行ったが、遂に浩一は姿を見せなかった。

健作の両親は既に他界していたが、典江の両親は健在で、健作は葬式の場で責められた。

元々、結婚には反対されていた。

やはり嫁にやるべきでは無かった。

孫の浩一が引きこもっているのも、健作が父親としての責任を果たしていないからだとも言われた。

腹が立ったが言い返す気力も沸いてこなかった。

やり場のない怒りと悲しみだけが、腹の底に沈んでいく。

事故を起こした相手の運転手も運転中に心臓発作で亡くなっていて、怒りをぶつける相手が居なかった。

典江の葬式が終わってから数日後、家に宅急便が届いた。

宛先は息子の浩一宛だった。

時々、同じ様にして息子宛の荷物が届く。

亡くなった妻の典江がクレジットカードを作り、家族カードとして浩一の分まで作ったのだ。

そのカードで、浩一はネットで買い物をしていた。

中身は浩一が好きなアニメのキャラクターのフィギュアだ。

これは一体なんだ、甘やかすなと、段ボールの中身を開けて見た事が有った。

典江は趣味を持つ事くらい良いではないかとその度に健作を諫めた。

―カードを止めるべきだった。

典江が亡くなってから、やるべきことの一つだったが完全に失念していた。

実の母で、唯一の庇護者だった人間が亡くなったというのに、アニメのフィギュアなぞ買うのか。

健作の腹の底に沈んでいたいた怒りが、蛇が鎌首をもたげる様に上がってきた。

その怒りはどんどんと、腹の中で増幅された。

気が付くと、玄関に有ったゴルフクラブを握りしめていた。

そのゴルフクラブを持って、二階の浩一の部屋に向かう。

「おい、浩一。いつまで部屋の中に閉じこもっている気だ。もう世話を焼いてくれる母さんは居ないんだぞ。いい加減に出て来い!」

健作は怒鳴った。

ガチャ。

思いがけずにドアが開いた。

一瞬誰だか分らなかったが、青白い顔をした息子が居た。

「母さんが死んだってのに、お前は部屋に籠ってアニメのフィギュアなんぞ買っていい身分だな」

浩一の顔色が変わった。

「ふざけんな。そんなもん買ってねえよ!」

「じゃあ、あれはなんだ!」

健作は階段の下に有る段ボール箱をゴルフクラブで指した。

「うるせえな。なんでもいいだろ」

浩一が部屋を出て、段ボール箱を取りに行く様な仕草を見せた。

それを健作が止めた。

「部屋に戻れ!」

揉み合いになった。

部屋の中に二人共が倒れ込んだ。

倒れた拍子に、棚に飾ってあったフィギュアが落ちてきた。

それが、健作の眼に入り怒りを更に増幅し爆発させた。

「お前という奴は!」

気が付くと、馬乗りになって浩一の首を絞めていた。

下から浩一が抗ってくる。

青白い顔が赤黒くなったかと思うと、急に抗う力が弱くなった。

気が付くとなんの抵抗も示さなくなった。

―あなた止めて!

妻の典江の声が聞こえた気がした。

はっと我に返り、

「おい。浩一。おい」

健作は呼び掛けたが、何の反応も示さない。

尻もちをついた様な状態で健作は後ずさり、部屋を出た。

階段をよろよろと降りるが、足元がおぼつかなかった。

何段か降りた所でバランスを崩して階段を落ちてしまった。

落ちた先に、浩一宛に届いた段ボール箱が有った。

勢いがついていたせいで、段ボール箱の蓋を突き破り右上半身が段ボール箱に突っ込む形になった。

緩衝材として入っていた新聞紙の感触を感じながら、健作の手に固い物が触れた。

健作は手に触れたそれを段ボール箱から取り出した。

それは一冊の本だった。

表紙には、「一級建築士問題集」とある。

「あっ」

健作は小さく声を上げた。

自分の勘違いに気が付いた。

浩一は、アニメのフィギュアを購入したのではなかったのだ。

自分の会社の跡を継ぐ為の教材を購入していたのだ。

浩一なりに何かを変えようとしていたのだった。

健作は急いで、階段を駆け上がった。

部屋に飛び込むと、ぐったりしている浩一の胸に耳を押し付けた。

―動いていない。

健作はすぐに両手を重ねて浩一の心臓の辺りに手を置き、心臓マッサージと、人工呼吸を始めた。

健作は懸命に何度も何度も、「帰ってこい。帰ってこい」と泣きながら蘇生を試みた。

汗だくになりながら20分程繰り返すうちに、

ボキッという音がした。

力を籠めすぎて、浩一の胸骨が折れてしまったのだ。

「すまない・・すまない・・こういち」

嗚咽を漏らしがら、健作は何度も何度も動かない亡骸に向かって謝った。


浩一を殺してしまってから1カ月程が過ぎた。

健作は電車に揺られながら、うたた寝をしていた。

浩一の死体は、そのまま部屋に有る。

最早、何をどうしたらよいのか分らなくなっていた。

だが取り敢えず、仕事には行っていた。

こんな状況下でも他人に迷惑を掛けたくないという意識が働いていたのだ。

今日も現場に行ってその帰り道だった。

疲れが健作を蝕んでいた。

電車に揺られ、うたた寝をしていると夢を見た。

まだ浩一が小さかった頃の記憶だ。

それは自転車が乗れる様に手伝ってやったり、公園でサッカーやキャッチボールを一緒にやったりした頃の事だった。

「こういち」

知らぬ間にそう呟いた。

健作は自分のその声で、眼を覚ました。

うっすらと涙が出ているのが分かる。

丁度電車が止まり、男が乗って来た。

黒ずくめで、ゴルフバックを持った無精ひげだらけの男は何か歌を歌っている様だった。

男は、席に着くとゴルフバックから鈍い光を放つ斧を取りした。

健作が見る間に、女子高生と着物の老女を殺害した。

そのまま男は、健作に向かってくる。

「ひッ」

健作は小さく悲鳴をあげた。

立ち上がり逃げようとした瞬間に男と目が合った。

―こういち・・悪かった

健作の眼に映る男の顔は息子の浩一だった。

「・・・・た」

健作の呟きで男に聞こえたのは、それだけだった。

男はお構いなしに、袈裟切りに斧を振り下ろした。

ゴシャッと何かが潰れる様な音を健作は耳にした。

そのまま、仰向けに倒れる。

薄れゆく意識の中で、誰かが覗き込んでいるのが分かる。

それは、妻の典江と息子の浩一だった。


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煉獄 十六夜 @16-izayoi-16

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