第3話「きもののおんな」

女は夫との結婚生活に幸せを感じた事が無かった。

結婚は女が26歳、夫が31歳の時だった。

35年の結婚生活に於いて夫に抱いた感情は、憎悪や嫌悪といった負の感情のみだった。

夫の宇津井浩一は医師だった。

元々は、県立の病院で内科医をしていたが、独立して開業医になった。

自宅を兼ねた医院は、過疎化が進む田舎町の唯一の医者だった。

独立のきっかけも、元々この町に有った勤めていた県立病院が、患者数の減少から廃院になる事になり、当時の町長と地元の農協の支店長からの熱心な開業の勧めに乗った形で開業をした。

だが、町長は改選を控えていて町が無医町になるのを避ける事が出来たのは、自分の実績だとアピールする為に独立を勧めただけであった。

農の支店長は単純にローンの実績が欲しいだけだったが、元々開業医を目指していた浩一はすぐにこの話に飛びついた。

ローンの金利を特別に下げてくれるという話も、背中を大きく後押しした。

女が浩一と結婚するきっかけになったのも、浩一が開業医になったためだった。

女は看護師で、浩一が勤めていた県立病院に勤めていた。

廃院に伴い次の勤務先を探そうとしていた折に、浩一の開業の話がまとまり、看護師を探しているがどうか?との話が来た。町長が院内中の看護師に声を掛けて回り、たまたま次の勤め先が決まっていない女にお鉢が回ってきた。

特に当てもなかったので女は了承した。浩一に対しては特に何の感情も抱いておらず、院内でも通常の医師と看護師の関係以上のものではなかった。

開業して勤め始めてからすぐに、女は浩一に半ば犯される様にして肉体関係になった。

すぐに辞めようと思い、その事を浩一に告げると意外にも結婚を申し出てきた。

男性と付き合ったことも性の経験もなく、穢れてしまっては他の男の元には嫁ぐ事はかなわない。女はそう思い責任を取って欲しい気持ちも手伝って、結婚を受諾した。

医者の妻になる。多少の打算も働いた。

夫は無口で最初から夫婦に会話は無かった。また、気に入らない事が有れば何かにつけて殴られた。目立たない場所を選んで、肩や、腹を殴ったり、時には蹴られたりした。

暴力を振るわれるときは、常に医院の終わった後か、休みの日で、ひとしきり暴力を振るった後は常に犯された。逃げたいと思い何度か実行したが、連れ戻されその度に酷い暴力を振るわれ、いつしか女は諦めた。代わりに女の心にじわじわと黒い憎しみの沼が出来、後から後から黒い物がぼこぼこと吹き出してくる様になった。

だが、夫には少しもそんな素振りを見せない様に振舞っていた。

開業してからの数年は生活も苦しかった。低金利で組んだとはいえ、ローンの返済が有ったからだった。患者も定期検診で決まった家を車で回る位で、後は風邪や下痢等の放っておいても治るようなものに、適当に薬を出すだけで有った。

医院には一応オペ室も備えていたが、使われる事は一度も無かった。

緊急時には、救急車も隣町の病院に搬送させた。

医院に転機が訪れたのは開業して数年後だった。夫の両親が他界してかなりの額の保険金と遺産が入ったからで有った。

その金で、開業資金として借りた金とローンを一括で返済した。

夫婦には子が無くまた田舎の為、野菜や米など食材が安く、生活に金がかからない上にローンが消えた事で、生活に余裕が出る様になった。

すると程なくして夫、浩一の女遊びが始まった。

医院は木曜と日曜を休みにしていたが、その前日の診療が終わると電車で都内に出て、女の元へ出掛けて行く様になった。

夫が次の日に帰ると妻で有る女に向かって、その前日にどんな女と会って、どんなセックスをしたかを事細かに話し、話し終わると最後に妻である女を犯した。

東京の女は、商売女の場合も有れば、そうでない場合もあるようであった。

夫はその時だけは饒舌だった。

女は耐えた。何十年と。

耐えた年月の間中ずっと、黒い感情が心の中に染み出していたが、女は一切表に出さず過ごしてきた。暴力も、犯されることにも抗わずに、少しずつ、少しずつ憎悪だけを溜めていった。

夫の浩一が60歳を超えた頃、浩一の痴呆が始まった。

最初は軽い物忘れでそれと気付かなかった。

進行も緩やかで、生活に支障が有る程では無かった。

痴呆が始まって3年目に転機が訪れた。

車で出掛けた夫が道を逆走し、警察から迎えの電話が入ったからだった。

警察に女が迎えに行くと、警察官が憐れみの目で女を見た。

―ボケた旦那を抱えて大変ですね。

そう言っているのが聴こえる様だった。

女は珍しく感情が動きかけたが、何も言わずに事務的な手続きを終えて夫を連れて帰った。それからは急激に痴呆が進んだ。自分が何をしたのかしていないのか分からずに、今まで以上に女を怒鳴りつけ暴力を振るった。

夫が65歳になったのを機に医者も廃業し、車で徘徊されては困るので車も売った。

ある日夫が寝室のベッドの上で、

「おい」と女を呼んだ。

「はい。何でしょう?」女は答えた

「何でしょう?何が何でしょうだ。脱げ。もたもたせずに早く脱げ。」

夫の浩一は、今まで見たこともない位、とてつもなく下卑た目と口調でそう言った。

「いつもの様にするんだ。さちこ」

女は何かに弾かれる様にびくっとした。

―私の名は「かずえ」

夫の浩一が口にした名前は、かずえの妹の名前だった。

今まで夫の口から妹の名が出た事や、話題になった事は一度も無い。

東京の実家に結婚の挨拶に行き顔を会わせた程度だ。

かずえの知る限りでは。

今まで漠然とした不安は有った。

それが何なのかは、かずえには分らなかった。

それが、愛してもいない夫への嫉妬なのか、それとも別の何かなのか。

夫の話す女は全て、妹のさちこの事だったのか?

断片的な記憶と、情報が、さちこであると囁く。

不安の正体は、夫がさちこと通じている事に対する物だったのか。

かずえの中で染み出し続けていた、黒い何かが急速に心の中で凝縮され、鋼鉄の様に固まっていくのをかずえは感じていた。

「先にお手洗いに行かせてください。」

かずえは返事を聞かずに部屋を出た。そして、そのまま医院のオペ室に直行し、麻酔薬と注射を手に隠し部屋に戻った。

「遅いじゃないか」

にやにやしながら夫は言った。

「すみません。」

かずえは、一度も夫に見せた事のない妖艶な笑顔を見せて言った。

そして言いざまに、隠し持っていた注射器を夫の腕に突き立てた。

「うっ」呻く声を無視して、注射器の薬液を押し込む。

少しすると夫は静かになり、動かなくなった。

かずえは脈を取り、死んでいないのを確かめると、またオペ室にとって返しストレッチャーを押してきた。ベッドの上に横たわる夫をストレッチャーに乗せ換え、そのままオペ室に運んだ。オペ室に運ぶとストレッチャーからオペ台に移し、ベルトをきつく締め身動き出来ない様にした。かずえは、夫が眠っているのを確認し居間に向かった。

かずえは、夫が目を覚ますまでそこでお茶をすすりながら待った。

麻酔の量から考えて、2時間程で目を覚ますはずだった。

かずえは冷静にどうするかを考えた。夫の処遇は既に決まっている。

殺すのだ。それ以外にはない。

問題は「どうやって殺すか?」だった。

その後の事もかずえにとってはどうでもよい様に思えた。

じっくり、じわじわといたぶり、夫の浩一が泣いて殺してくれと懇願するのが望ましい。

夫を愛していた事など一度もない。

だが、妹と二人でずっと嘲笑っていたのかと思うと、心の内の黒い物が一気に膨れ上がった。

かずえは立ち上がり白衣に着替えオペ室に向かった。

何処かで、ブザーの音が聞こえた。

―時間だ。

―夫のオペをしなければならない。

かずえはオペ室に入ると、一度も使われた事のないメスを手に夫に近づいた。

手入れだけは廃業した後も、欠かさずにかずえが行っていた。

夫は既に目を覚ましていたが、状況が呑み込めていない様だった。

かずえを目に留めると、

「おい、一体これはどういうことだ?」と言った。

普段の物言いだった事に、かずえは喜びを覚えた。

ボケた状態ではいたぶり甲斐がない。

「これからオペを始めます」かずえはそう宣言し、

素早く夫に近づき、夫の右の足首を持ち上げてその下にメスを走らせた。

夫は最初何をされたか理解出来無かった。

だが、すぐに激痛に襲われ訳のわからない叫び声を上げた。

暴れるが、ベルトのせいで少し身じろぎ出来る程度だった。

かずえは、続けて左の足首も同じ目に遭わせた。

両足のアキレス腱を切断すると、すぐにかずえは止血の作業に入った。

見事なスピードと腕前で包帯が巻かれていく。

自身の看護師としての力量に満足しながら、かずえは上半身に近づき、

両手首にメスを深く入れた。

出血死しないように素早く止血する。

これでもう逃げられない。続けて両手の腱も切断した。

これで物を持つ事も出来ない。

夫はずっと叫び続けていたが、かずえは気にしなかった。

今の夫はボケているのか?それとも正気なのか?

それが気になるだけだった。防音で出来た壁で叫び声を聞かれる心配もない。

もっとも、一番近い隣の家からでも100メートル以上離れているので、例え防音でなくとも聞こえないかもしれなかった。

気付くと、夫は静かになっていた。かずえが慌てて脈を採る。

簡単に死なれては困る。どうやら気絶している様だった。

「根性無し。」かずえは吐き捨てる様に言った。

一度も使われた事の無いオペ室は、本来の主である浩一が初の患者になり、その妻が初めての執刀医になり、主の血で床一面を真っ赤に染めていた。

かずえは点滴の用意をした。

気絶している夫の腕に点滴の針を刺す。

衰弱死や、餓死などをさせるつもりはない。

いたぶる為に介抱する。

そう思うと、自然と笑みがこぼれた。

―バカバカしい。

自分でそう思ったが、止めるつもりはさらさらなかった。

夫の両手足の腱を切って、気持ちが少しでも晴れるかと思ったが、次にどうやっていたぶるのかに考えがシフトしただけで、全く気が晴れたりはしなかった。

ぐう。

かずえの腹が鳴った。

「ふふ」思わず笑ってしまった。

こんな事をしていても腹が減るのだと思うと、無性に可笑しかった。

血塗れの白衣のまま、かずえはキッチンに向かった。

冷蔵庫からマグロの刺身を出し、茶碗に飯をよそった。

夕方に買った刺身からは、ドリップが少し出ていて刺身のつまを赤く染めていた。

かずえは、少し血の味のする刺身を食べながら、早く夫が目を覚まさないかしらとぼんやり考えていた。

ふと、テーブルに目をやると、薬の袋が目に入った。

二つの薬の袋が有り、その内の一つが表になっていて、服用者名が見えた。

―宇津井 浩一。夫の認知症の薬だ。

もう一つの薬が何なのか、かずえは思い出せなかった。

かずえは、夫の薬を手に取り寝室に向かった。

夫の不倫相手が、妹のさちこであるならば、さちこにも制裁を加えなければ気が済まない。

夫の携帯電話に証拠が有るはずだ。

かずえはそう思った。

寝室の脇に小さなテーブルが有り、そこに夫の携帯が置かれている。

寝室に着くとすぐにかずえは夫の携帯を手に取り、メールを調べた。

だが、どこにも履歴は無かった。

消してしまったのかと思ったが、送受信共に履歴はゼロで、そもそもメールの機能そのものを使っていない様だった。

かずえは、この携帯からさちこに電話を掛け、直接問いただしてやろうと思った。

携帯電話のアドレス帳を探る。

―やっぱり。

さ行から簡単に電話番号が見つかった。

携帯電話のボタンを押す。

ツ、ツ、ツと呼び出しの間が有り相手の電話を呼び出すコール音が聞こえた。

するとほぼ同時に、何処かからリーン、リーンと電話の鳴る音が聞こえた。

かずえは、こんな大事な時に誰からだろうと思った。

電話はキッチンの方から聞こえてくる様に思えた。

夫の携帯からは、変わらずコール音が鳴っている。

かずえは、薬袋と携帯を手にキッチンに戻った。

キッチンに戻ると、薬袋をテーブルに置いた。

同じテーブルの上に有るかずえの携帯が鳴っていた。

鳴り止む気配は無く、また、何となくその電話に出なければならない気がした。

夫の方の携帯は変わらずさちこの携帯を呼び出し続けている。

かずえは夫の携帯を切らずにテーブルに置き、自分の携帯を取った。

すぐに、忙しいと言って切るつもりだった。

自分の携帯の通話ボタンを押して左耳に当てる。

「もしもし。」自分の携帯からは何も聞こえなかった。

だが、テーブルに置いた夫の携帯からは音が聞こえた。

「もしもし」もう一度繰り返す。

また、夫の携帯から女の声らしきものが聞こえた。

かずえは、自分の携帯を左耳に当てたまま、夫の携帯を右耳に当てた。

「もしもし」「もしもし」

話すと同時に右耳に当てた、夫の携帯から声が聞こえた。

かずえが黙ると、夫の携帯も沈黙した。

かずえはごくりと息を飲んだ。

「もしもし」キーンというハウリング音がし、夫の携帯から声が「もしもし」という声が聞こえる。

「もしもし!」「もしもし!」「もしもし!」「もしもし!」

「なんでなの?!」かずえは叫び、夫の携帯から一層大きなキーンというハウリング音と共に同じ声が響く。

「嫌ァ」かずえは、夫の携帯をテーブルに投げ捨てた。

投げた先に二つの薬袋が有り、両方に当たって落ちた。

かずえは、ノロノロとした動作で落ちた薬袋を拾おうとし身を屈めた。

すると、薬袋の服用者名が見えた。

―宇津井 さちこ

そう記されていた。落ちた二つの袋を拾い上げ、夫の薬袋の中身をテーブルに出す。

そして、さちこの名の入った袋の中身も出した。

全く同じ認知症の薬が出てきた。

「かずえ」いや、「さちこ」は薬を見て薬が食後の服用である事を思い出した。

水を用意して、決められた数を飲んだ。認知症の薬は劇的に効くものではない。

認知症の進行を緩和するのが主な役目だ。

さちこは、夫の薬を貰いに行ったついでに、「もしや自分も」と思い診断を受けて、認知症の診断を下されたのを思い出した。

さちこは、オペ室に向かった。頭が混乱したままだったが、取り敢えずは夫の様子を見に行こうと思った。

オペ室の扉を開けると、ムッとする様な臭気が立ち込めていた。

構わずに奥に進み、手術台に近寄る。

夫の胸の辺りを見ると動いていない様な気がした。

夫の胸に耳を当てたが、鼓動は聞こえなかった。

念のため脈を採ったが無反応だった。

ぼそり、とさちこは呟いた。

「仕方ないわね。」

さちこは血塗れの白衣を床に脱ぎ捨てて、オペ室を後にした。

さちこは死体の後始末については無頓着だった。

家を訪ねて来る者はいないし、オペ室は扉さえ閉じていれば密閉されているので、臭いが外に漏れる心配も無かった。

何より死体の処理は煩わしい。

死んでまで何故自分の手を煩わせるのか。

さちこはそう思った。


さちこは、自由な時間が増えた為に趣味を持つ事にした。

電車で数駅の所に日舞の教室が有り、そこに通う様になった。

日舞を始めてからすぐに、さちこは今までの夫に縛られた屈辱的な日々から解放され、新しい人生が始まったかの様に感じていた。


その日も習い事の日舞の帰りに、駅前のスーパーマーケットに寄り買い物をして自宅に帰る電車に乗っていた。


電車が止まり、何気なく電車の開いたドアに目をやるとゴルフバッグを担いだ男が乗って来た。

何か、独り言を言っている。

―気味が悪い。

さちこはそう思って無視した。

男は誰も気にした風もなく空いている席に腰を掛け、

ゴルフバッグから鈍く光る斧を取り出した。


さちこは目を瞠った。

―なんだこの男は。

男はすぐに立ち上がり、女子高生の頭に斧を突き立てた。

すいかが潰れる様な音がした。

何が起きているのか?

さちこは、事態がすぐには呑み込めなった。

ゴトン。

手にしたスーパーの袋から、トマトが落ちた。

そのまま男の足元にトマトが転がっていく。

トマトが男の足元に着いた。

男がさちこの方を向き、トマトを踏み潰しながらさちこの方に向かってきた。

さちこは男の顔を見た。

男は夫の顔をしていた。

―ああ、わたしは貴方から逃げられないのね。

さちこはぼんやりそう思った。

「そんな簡単に逃げられる訳がなかろう」

そう言って夫の顔をした男がニヤリと笑った気がした。

夫の顔をした男は、斧を真横にフルスイングして、

さちこの首を胴体から切り離した。



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