第17話 怒涛の展開


 逆に、藤堂さんはこんな時でも堂々としている。

「楓と離婚する気はない。吉川側には何度も通告したし、説明した。俺はアンタとは一緒にならないし、楓とも離婚しない」

「頭おかしいんじゃないの? 私は吉川物流の娘よ。貴方はこんながさつな、油まみれの女が良いっていうの? 生まれも育ちもつりあっていないじゃないの」

 その言葉に、後にいたメカニックマンたちの雰囲気が変わった。そりゃぁ、お嬢様に油まみれとか言われちゃぁねぇ。

「俺が手放すわけないだろう、最愛の女を。何年かけて口説いたと思ってるんだ? 俺たちが出会ったのはピットだよ。指先も顔も真っ黒にして丁寧にタイヤを洗っていた楓を、がさつだとは思わない」

 今度は藤堂さんとバカ女の言い争いになる。これ、収拾付かないやつじゃん。


「わぁかった。こうしよう。文句なしで決着つけようよ」

 藤堂さんとの間に入ったのは、小林さんだった。


「貴女が勝てば、離婚届を藤堂に渡すわ。その後、藤堂は自由にしたら良い」

「本当に?」

 彼女はそれだけで目をキラキラさせている。

「ただし、勝負方法は私が決めさせてもらうし、私との離婚後、藤堂があなたを選ぶかどうかは藤堂の自由よ」

「良いわ。その勝負受けたわ」

 ほんの少しだけ、小林さんの口角が上がった。


「あ、これ、勝算があるな」

 倉本さんが隣でつぶやく。

「勝負方法はそこの双子の町田兄弟とのレース。時間がないから10周。10周回って、ゴールした時に双子ちゃんのどちらかが私よりも先にゴールしたらあなたの勝ち。逆に私がゴールしたらあなたの負け。わかりやすいでしょ?」

 双子が、焦ったような顔をした。

「私が勝ったら、今後一切、藤堂からも椿からも手を引いてもらう。それから、吉川物流が引き取った町田レーシングの土地家屋とスタッフ全部ひっくるめて私にちょうだい。逆に2千万払うわ」

「ハァ?おかしくない?やっぱりあなた変よ。貴方が勝ったら普通全部持っていくのが筋じゃないの?」

「いやぁ、町田レーシングはオプションだからね。いや、貴方が良いなら払わないけど」

「良いわ、貴方が勝ったら、ね」

「ただし、銀行はもうやっていないから、明日の朝いちばんに吉川物流の会社の口座に支払うわ」

「わかった。恨みっこなしよ」

 吉川あかりがそう言った。


「本気かよ…」

 色めき立ったのは、ピットにいるスタッフの方だった。一人のスタッフがすすっとお奥に行って、パソコンの前に座った。


「というわけで双子兄弟。私と勝負してね」

「アンタ…素人だろう?」

「さぁね」


 小林さんがにやりと笑ったから、本気具合を知った。

 仕事の時だって時々そういう笑い方をする。大丈夫という自信があるときの笑い。本気で勝負をかけるときのあいつの癖だと井上本部長は口にするけれど。


 私は、車のことは詳しくないし、車の性能も良くわからない。

 けれど、隣の倉本さんはワクワクしているし、ピットのメカニックマンたちはいきり立っている。

 三枝さんと数人のスタッフと、町田兄弟と小林さんがレースの手順を確認している。その中に、小林さんのチェックを受けた書類が交わされて、吉川さんもそれにサインした。契約書だそうだ。さっきのメカニックマンがあっという間に作ったという訳か。


「倉本さん、これって、どっちが有利とか、どっちが不利とかあるんですか?」

「あー、うん、一般的にいって、GTRが有利だよね。そもそも、車の作りが違うから。GTRはオンロード、舗装された道路を走ることを前提に設計されてあるし、ランエボは逆にラリー車として開発された車なんだ」

「じゃぁ、小林さん不利ですよね」

「ココのコースは直線よりもカーブが多いテクニカルコースだから、単純比較はできないよ。まぁ、勝てると踏んだから勝負に出たとは思うけどね」

「あの人、頭の中クリームで出来てるのかな? 自分がレースしないから引き受けたってことなのかな」

 ふとこぼして、はっとして口をつぐんだ。私の脳内が漏れた。


「私もそう思いますよ」

 こっそりそう言ってくれたのは、寮に入っていた時に顔を見たことがあるメカニックマンだった。

 隣で、倉本さんが悶絶しながら笑いをこらえていた。


 スタッフと話が済んだのか、小林モータースのピットスタッフたちがまだ残っている人たちがいる他のピットに挨拶に向かう。

 藤堂さんはスタッフたちの邪魔にならないピットの角位置で、仁王立ちして車の点検をする小林さんを見守っていた。


 小林さんはいろいろなことを優先していて、着替えたいのに着替えられないらしく、ツナギを手にしたままだ。

 チームカラーは「ブルー」なのだという。レーサーはコバルトブルーのツナギ、ピットにいる人たちのうち、司令側の責任者はパウダーブルーのツナギ、普通のメカニックマンたちはスカイブルーのツナギを着ている。まぁ、基本、洗ってばかりなので見分けがつかないことが多いが。

 それでも、小林さんのツナギはスカイブルーのツナギを洗いざらしたものというのがわかる。ところどころに落ちない油じみが付いた、本当の作業着だ。

 戻って来た楓さんはピットの衝立で仕切られた休憩スペースで、あっという間に着替えて、すぐに戻って来た。


 その時にはもう、三枝さんを中心にしてピットスタッフたちが落ち着いて最終ミーティングしていた。

「三枝さん、皆さん、本当に申し訳ありません」

 現れた楓さんはそう言って一礼した。

「絶対に勝ってくださいよ。町田兄弟がウチに加わったら、選手層に厚みが出る」

 三枝さんはそう言って笑っている。

「で、良いんですか? 勝ったら2千万ですよ」

 三枝が呆れたようにそう言った。

「お前、払えるの?」

 藤堂さんはもうビジネスの顔でそう言っている。横で笑っているのは公平さんだ。

「町田レーシングが持っている土地家屋だけで一千万、もっとオイシイのはあの双子のバックアップをしている若いメカニックマンよ。独自開発したブレーキパットとエンジンシリンダーも手に入るかもしれない」

「ちょっと、それ、極秘情報ですよ?」

 小声ながら楓さんがもたらした情報には、三枝が顔色を変えた。ブレーキパットの情報は流れているが、エンジンシリンダーの話はまだ尻尾がつかめていない情報だという。

「資金がなくて身売りしたものの、研究は続けているそうだから利益は出そうだと思わない?」

 メカニックマンたちがぶるりとふるえた。


「意味のない勝負はしないわよ。私を怒らせたらどうなるか、骨の髄までわからせるんだから。あんな馬鹿女にはきちんとケツを拭いてもらいます。だーれが総一郎さんを渡すっていうのよ、モノじゃないんだからね」

 三枝さんが、笑いをこらえていた。メカニックマンでさえ、ニヤニヤ笑っている。

 ケツ拭いて、って、小林さん、良いんですか、その言葉遣い。


「三枝さん、笑うところじゃないでしょうに」

「いや、貴女がそんなにブリブリ怒るとは意外過ぎて。いつもクールで絶対に感情なんて出さなかったのに」

「ホント、そうだな。おっつけ、修平も来るだろうから心配ない。いつものように、頼むよ、みんな」

 公平さんは柔らかにそう言ってスタッフみんなを励ました。


 ピットの雰囲気は柔らかで、緊張感はバリバリにあるがギスギスした雰囲気がない。それだけで良かったのだが、ピットの外では町田兄弟がピリピリしていて、それ以上にあかりさんがピリピリしていた。

 おそらく、バックアップについていた車十何台のドライバーなのだろう、町田レーシングのチームメンバーたちもそろっていた。


「うわぁ、何その恰好。油だらけじゃないの」

「洗濯しているから綺麗だし、イベントでもないのにスーツ着てレース場走るほど恥知らずじゃない」


 文字通り、きーっと言いたげに、きつい目で睨みつける。

「町田雄二君に丈二君だっけ?」

「どうして俺たちの名前を…」

「私が勝ったら、貴方達の飼い主は私になる。ちゃんと覚えていてね」

「当たり前でしょ、あなたもちゃんと二千万払ってよ。貧乏サラリーマンにそれだけ払えるかどうか知らないけど」

「払うわよ、払えるだけ持ってるから心配ない」

 あかりさんはプンスカ怒っている。


「最初にタイヤを温めるために1週、スタートラインに直線で並んで10周、並び順は先ほどじゃんけんした通りだ」

 立ち合いを務めてくれるのだろう、全然見たことのない色のツナギを着た男性がそう言った。

「じゃぁ、準備を」

 その声で、町田レーシングのスタッフに励まされながら二人は車に向かう。


「かえで」

「はい?」

 藤堂さんは振り返った小林さんの腕をつかむと、抱き寄せてキスをした。

 うわっと思ったら、そのまま後頭部に手を回してホールドする徹底ぶりだ。

「んまぁ、離れなさいよ」

 あかりさんがぎゃんぎゃん喚くが、藤堂さんはキスを続けて、リップ音を残して離れた。

「勝負なんてどうでもいい。無事に帰ってこい」

「当たり前でしょ。バカ女なんてメじゃないわよ」

 藤堂さんの腕の中でそう返した小林さんは、今度は自分からちゅ、と小さなキスを返して車に乗った。

「若いって良いなぁ」

 三枝さんの一言に、スタッフたちがニマニマしている。

「チーフだって、ねぇ」

 そのからかいに、どっと沸いた。

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