第14話 ほんとうに、ですか
「まぁ、簡単に言うとね、トップリードに婿養子に来るつもりで藤堂はこの会社に入ったんだけど、社長の娘は別人と駆け落ちしてだね、藤堂はこの会社に残ることになったわけだ」
「普通、藤堂に帰りませんか?」
それが私の疑問だ。
「北河常務が一緒にやらないかと口説いてね。まぁ、あの人は自分が大学卒業と同時に海外のマーケットの勉強に行ったから実際に口説いていたのは本部長なんだけどさ。一緒にやることが楽しかったから、藤堂はここに残った、そして私と出会ったってこと」
「…椿に戻らないんですか? 藤堂さんは。小林さんもレースには?」
「戻らない。彼女も言ったでしょう? 事故で子供が産めなくなったって」
「え?」
「まぁ、引退した後で事故があって子供が産めなくなったわけなんだけど、レースには戻らない。戻れないのよ。子供のことは藤堂も承知しているし、もっと言えば彼女の妊娠はあり得ないの。こっちも調べたんだけど、藤堂が1か月ほどアメリカに出張してた時に関係がないと計算が合わないのよ」
あ、と声を出したのは小坂さんと長野さんだった。それは私が来る前の話だから。
「彼女の渡航歴はなし。しかも北河常務も一緒で、ほとんど視察を重ねている状態だから彼女が入り込む余地がない」
「だからあの時、冷静だったんだ」
「本当に子供が欲しければ、最初から私を選んではいないよ。プライベートで付き合うことになった男性には最初からそれを告げてあるもの」
それを乗り越えての結婚なんだ、と思った。
「そういう話だから。プライベートと仕事をごちゃまぜにしてくるのはルール違反なので井上が仕事の立場できっちり報復して、私と藤堂はきっちりプライベートで報復したの。まぁ、効果は一緒なんだけどね。この年でメイプル小林なんて名乗る方が恥ずかしいわ」
小坂さんがくつくつと笑っている。
「でも、名前に負けずカワイイグラビアでしたよ。本当にアイドルでした。こんなに柔らかく笑う人があんなコーナリングするなんてびっくりしたし」
「え?」
「無料動画サイトにレースの動画、出てますよ。ファンサイトには雑誌のグラビアのショットとか載っていたりして」
「嘘でしょ、それ。私の人生の汚点だわ」
うわぁ、と悶絶している。
「うわぁ、ほんとうに、勘弁してよ。ほんとうに動画サイトにあるの?ほんとうに、ですか?」
小林さんはそう言って一人悶絶していた。
今度探してみよう、と決意した。
お昼くらい、丁度半数の人達が昼休憩に出たくらいに、北河常務がやって来た。
「やってくれたな」
「何の話ですか?」
本部長が弁当をつつきながらそう言った。今日のお弁当はお手製のもの。びっくりしたのは、本部長が弁当男子だったこと。御夫婦二人で朝から仲良く弁当を作っているんだとは青山さんの弁。
「吉川物流、トラックドライバーがストライキやったんだと。まぁ、いろいろ聞いていたから不思議じゃなかったが、な。メイプル小林」
視線が小林さんに向かう。が。
当の小林さんはのほほん、とアイデア帳に何か書きつけながらおにぎりをほおばっている。
「そんなことより常務、早く県外事業部を独立させてくださいよ。あとは上層部の合意なんですからね。吉崎だってまだ転属できないでいるし」
「まだ時期尚早だ。深山が開店して一年だぞ?成果を見てから考えても遅くはない」
「組織が硬直して良い循環が生まれない」
常務の反対に、小林さんが一刀両断して今度は常務が黙った。
ということは、常務は組織の問題点を自覚しているということか。
「組織を巨大化すればよいってものじゃない、って言ったの、貴方ですよ。私、貴方に惚れたからトップリードに残ったのに」
その言葉に、かぁぁぁっと常務の頬が染まった。
「おまっ、いま、それを言う?」
「いやぁ、あの居酒屋演説は私の同期全員が惚れぬいたね。男も女も惚れたね。惚れたから、他業種異業種に転職したっていろんな情報を落としてくれるんですよ」
「え?今なんて言った?」
心底驚いたような、常務の顔。本当にびっくりしている顔だ。
「そりゃぁ、本人に直接は言いませんよ。大事な大事な情報ですからね。それでも、ことあるごとく楽しい情報を落としてくれるんですよ、頼もしい元同期たちは。それに触発されて、ウチの同期たちも奮起して貴方について行っているんです。吉川物流ごときの横波にどうしてあなたが揺れちゃうんですか」
反論できなくて、口をパクパクさせている常務。
「もっと言うと、常務自身の元同期と名乗る人がチョー強力にバックアップしてるんだ。おかげでこっちの損害はないし、ダメージもない。むしろ、横っ腹に穴が開いて仕事がやりやすいくらいだ。グダグダ言ってる暇があったら、とっとと仕事しろよ、ボンボン」
「あー、井上さん、それは追い打ちだよ」
「ふん、ボンボンとはお前と同じでガキの頃から知ってる。妙なところで弱気になる癖、未だに治ってない」
え、そうだったの?本当に?
「確かに、小林はナイフだよ。切り込みすぎるきらいがある。だからこそ、小林はストッパーとして自分の周りにNOと言える人材を配置している。青山、岩根、倉本、小池、宇城、これから育っていくのが小坂、長野、そして寺岡だ。俺が定年退職すりゃぁそいつらが小林の手綱を引くだろう。それがわかっててあの二人は県外事業部を選んだ。もたもたしてると俺が乗っ取るぞ、クソガキ」
常務があー、もう、と言いながら髪をかきむしる。
「本当にっ。わかった、仕事に戻る」
「はい。きちんとバックアップはします。横波ぶっかかるような真似はしません。チャプチャプ温泉くらいです」
「わかった。そっちは頼む」
「了解」
小林さんと短い会話を交わすが、当の本人はノートに視線を落としたままだ。
「常務」
「あん?」
「時々イメチェンされた方が女性受けしますよ」
これには、井上さんがぶぶっと笑った。確かに、オールバックにして迫力ある方が常務という役職らしいが、今の乱れた髪型の方が年相応にも見えて良い男かもしれない。
「そうだな、時々はそうしよう」
いつもの冷静な常務の声に戻って、それから部屋を出て行った。
「あー怖かった」
小林さんがそう言って顔を上げた。怖かったって、怖かったって…。
「れ?」
小林さんの付けまつげが片方、半分取れかかっていた。
井上さんがそれに気が付いて腹を抱えて笑い始める。
「何だよ、お前、そっちかよ」
「あ、ひどいなぁ」
小林さんがメイクポーチを片手に、とりあえず奥のミーティングルームに飛び込んでいった。
ナナメウエの人というか、面白い人というか。楽しい人だった。
そして、翌日、私は自分のアパートに帰ることができた。
本当は夜に帰っても良かったんだけれど、何故か寮長以下、寮の人達が男女問わずちょっとしたお疲れさん会をしてくれた。
寮にいた時間は短かったけれど、名前も覚えていない人たちがいっぱいだったけれど、楽しかった。
国立大学卒業したんだけど、メカニックマンになった人とか。
トラックドライバーが長じて外車のセールスマンになった人とか。
異色なのは弁護士だった人が今は整備士の資格を取るために見習いで雑用から仕事を覚えているとか。
もちろん、普通に就職してくる人もいるし、転職してきた人たちもいる。単身赴任だからと寮に入っている人も。
共通しているのは、車が好きで、会社が好きな人。チームで仕事をしているんだという自覚があって、できるだけみんなと意思疎通をはかろうとしていること。
元引きこもりの人もいたけれど、全然そんなことは分からないくらい。
楽しい楽しい時間だった。
そのおかげで、アパートに帰って来たのは夜だった。
それは同時に、吉川物流の経営陣が入れ替わったことと、吉川あかりさんと社長だった父親が威力業務妨害で事情聴取されたことを意味していた。
叔父の家のリフォーム具合を見るためと、近況報告のために叔父と落ち合い、自然と足を向けたのは『カメリア桜町店・桜カフェ』と定着した、かつての我が家だった。
昔の商店街は、今や古い街並みを残す観光街として全国に知られるようになり、桜をシンボルとした通りは春は特ににぎわうが、それ以外の季節も色とりどりの花に囲まれる通りとして知られている。
その通りからエントランスを介して一歩中に入ると、喧騒から離れた静かな空間が広がる古民家が建っている。ほんの5メートルくらいのエントランスだというのに。
以前は土間だった部分をフラットでシックなタイル張りに改修し、バリアフリーの部分をつくりながら椅子席をいくつか、昔ながらのかまどや水屋の風情を残しながらカウンターが作られ、そこでバリスタがコーヒーを入れていた。
土間の向こう側は座敷席になっていて、座敷からは中庭が見えるようになっている。その座敷席は8席ほどの椅子席で、今は紅葉が良く見える位置にある。夏に来たときは池と青竹が良く見える配置にしていたから、季節ごとに変えているらしい。
改修しているから昔の面影がある部分と、まるっきり変わった部分とがあるが、小さな中庭は、あの頃のままだった。
その中庭を中心に、ほぼ満席、スロージャズが流れる空間は、癒しの空間だった。
「ほう、すてきだな。こういう見せ方になるのは意外だ」
カウンター席で、若い男女が話をしていた。
その席から、目を離せない。
「どうして…?」
驚いたことに、男性バリスタと話をしていたのは倉本さんで、倉本さんの隣には何故か小林さんがいた。
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