第9話 ここ、どこですか

 仕事が終わって、荷物を積み込んだのはどういうわけか藤堂さんの車だった。

「いらっしゃい」

「え?藤堂課長、これじゃぁ帰れないですよね?」

「帰れなくて良いの。あの人にも姿を消してもらうから」

 あっさり小林さんはそういうと、藤堂さんの車の後部座席に荷物と私を乗せて車を出した。


 向かったのは会社から30分ほど離れた、幹線道路沿いの小林モータースの本社だった。

「はい?」

 もちろん、正面からは入っていない。裏口、というか、通用口から入ったが、何台もの外車や国産車が並び、しかも乗用車からトラックなどの商用車まで多岐にわたる。これらは「お客様」の車や試乗車だろうが。

 こちらの車を見かけると、飛び出してきたのは真新しいツナギを着た男性で、ほかにも複数の作業着姿の男女と、スーツ姿の男性が飛び出してきた。


「お帰りなさいませ」

「ただいま帰りました。ありがとう、忙しいのに」

「話はノブさんから聞いています」

「彼女が寺岡道子さん、ほんの数日だと思うけど、よろしくね。寺岡さん」


 そう言って押し出されたものの、びっくりしすぎて声が出ない。わらわらわら、と寄ってくると真新しいツナギを着た男性が小林さんから鍵を受け取り、私の荷物は女性二人に持ち出されていた。てきぱき過ぎる。目が点になる。

「てらおかさん」

「あ、はい、すみません」

「ごめんね、ここは車の受け渡し場だから。彼女は三枝由香さん、女子寮の寮長さんでウチのメカニックセンターの主任」

「三枝です。荷物は先に運んでおきますね。彼女は三好さん、業務事務担当で、あなたのお部屋の隣に住む人なの。何かわからないことがあったら、彼女に聞けばよいから。荷物はこれだけですか?」

「はい」

「では先に荷物を運んでおきます」

「お願いします。話が終わったら寮まで連れて行きますからお構いなく」

「了解です」

 残ったのは報告を受けて伝票に書いている作業着姿の男と、年配のスーツ姿の男だった。

「ではお車をお預かりします」

「よろしくね」

 伝票を小林さんに渡すと、彼は作業に戻っていった。車はもうない。作業場になっている建物の方に移動していた。

「ノブさんがお待ちです。大変お怒りですが」

「あー、怒るわな、私も怒る。うん、ありがとう、吉野さん」


 吉野さんと三人で目の前の建物、五階建ての本社に入る。

 エレベーターで4階に降りると、そのまま奥の部屋に行く。

 何も書かれてはいないが、わが社の重役室と会議室によく似ていて、実際、そうだった。


 待っていたのは、小林さんによく似た男性だった。

 その人は小林信平さん、通称ノブさんと呼ばれている、小林さんの一番上のお兄さんであり、この会社の副社長で、社長の敬さんはとても素敵な女性だった。

 お互いにあいさつを交わし、今度は「寮」に足を踏み入れた。


 厳重なセキュリティを抜けたら、そこは1階は保育園、2階は保育園スタッフの部屋と食堂や調理場があり、3階に寮長夫婦が門番のごとく住む玄関があって、3階と4階は男性用の部屋が並び、5階にランドリーエリアと女性寮の一部が並び、6階が女性用の部屋が並んでいた。

「大きいですねぇ」

「食事は食堂で男女混合になるけれど、カードキーがなければエリアには入れない仕組みになっているの。共同なのは食堂とランドリールーム。お風呂やトイレは部屋に備え付けだから。食事は朝は7時、昼は交代だから11時から午後2時の間で自由に、夜は18時から20時までの間に」

 三枝さんはそう言って二階の食堂に案内してくれた。

 驚くべきことに、廊下のあちこちに社内の歴史をたどる写真が飾られていて、小さな少女のころの小林さんがトロフィーを持って笑っている写真とか、ドライバーとして優勝した時の写真とか、信じられないお宝があった。もちろん、今のトップドライバーだという人の写真も。

「小林さん、ここで育ったんですか?」

「信じられないって目をしない」

「だって信じられない」

 三枝さんは笑っている。

「…大丈夫そうですね、この調子なら」

「この子は、身体的に接客は無理かもしれないけれど、精神的には普通に接客業務できる子だよ。そういう意味ではどこに出したって順応してゆける子だから心配ない。まぁ、最初はおっかなびっくりだろうけどね」

 励ましなのか何なのかわからない言葉をかけてもらって、食堂に入った。


 楽しいざわめきが、一瞬にして静かになった。

「あー、食事中にご免。彼女は寺岡道子さん、楓さんの会社の同僚さんです。事情があって、身の安全のために女子寮に避難してきました。一週間くらいだと思うんだけど、よろしくお願いします」

 三枝さんの紹介に、小林さんは頭を下げて、私も一緒に頭を下げた。


 途端に、がらがらがらっと椅子を引く音がして、ほぼ全員が立ち上がって一礼してくれていた。

 恐るべき統率力。

 ここ、どこですか。



 とは思ったものの、この寮生活はマジで快適だった。

 食事の時間の他に、朝8時から、一週間ごとのローテーションで割り当てられた場所を掃除するという決まり、部屋の掃除や洗濯は朝の6時から夜の10時までが許可されている。男性部屋や女性部屋に立ち入れるのは同性のみ、というルールはあったけれど、その他は常識的に暮らしましょうという簡単なものだった。

 部屋は何もかも一通りそろっている。キッチンはないけれど、一人用の小型冷蔵庫と電子レンジ、電気ポットが備え付けられていて、「火を使わなければ調理OK」という謎のルールがあるのでちょっと小腹がすいたときに便利だという。とはいうけれど、食堂のご飯は3食美味しいし、結構ボリュームもある。

 吉野さんがあれこれ教えてくれて、自分の同僚を紹介してくれたので男女関係なく友達ができたので、昼食も夕食も、吉野さんがいなくても一人で食べることはなかったし、食堂付近に飾られた小林さんのドライバーとしての歴史は、本当にびっくりした。

「レーサーだったっていうのが信じられない」

「そうですか? あの会社で働いていることがいまだに信じられませんよ」


 私のつぶやきにこたえてくれたのは三枝さんの夫で、テクニカルセンター長の三枝純さんだった。会った時にはびっくりしたんだけれど、御年54歳、奥様の由香さんとは10歳以上の年の差婚だという。


「車が好きで、レースが好きなのに、すっぱり断ち切ってしまわれて、私としてはあの走りを知っているだけに残念でたまりません」

「そんなに、すごかったんですか?」

「そりゃ、もう。地方ではトップクラス、全国では文句なしに十指に入る実力だった。ほれぼれするくらい、シャープな攻め方をするコーナリングラインを取るんですよ。時々、仲間たちと峠道を走っていますが、腕は落ちてはいないなぁと思うこともしばしばです」

「峠、ですか?峠道を走るんですか?」

 三枝さんは笑いながらうなずいた。

「月に二度のペースで真夜中にドライブしてますよ。ああ、あなたみたいなお嬢さんにはお勧めしません。集まってくる連中は普通の走り屋ばかりじゃないので」

「そうですか」

「今日は、会社に行かれると聞いていますが」

「はい、同僚の倉本さんが迎えに来ることになっているので。もうすぐ来ると思います」

「ああ、倉本君ですか。彼も車が好きですよね」

 そう言って三枝さんは倉本さんが迎えに来るまで、私と一緒に玄関で待ってくれていた。


 三日ぶりに出社した営業統括本部は変わらずのあわただしさで、私の業務にも全く支障はなかったけれど、びっくりしたのは小林さんが妙に落ち着き払っていることだった。こんな雰囲気は珍しい。

「ごめんね、びっくりしたでしょう?」

「自動車販売の会社だった。整備工場もあって、男子寮も女子寮もあってびっくりしました」

「そもそも、お客様の車を預かるからセキュリティが厳重なのは分かるけど、住居エリアの方はそれ以上ですよね。僕もびっくりしたことがあります」

 倉本さんはそう言った。

「そりゃぁ、あそこでレーシングマシンのなんちゃらをやっているんだもの。部外者の出入りは厳しいわよ。ゾーニングも厳しいけどね。だから安心」

 なるほど、と納得した。

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