第肆拾漆話 揺れる心と震える世界

 ここまでか。そう思い目を瞑る。


 だが来るべき衝撃は来なかった。

 その代わりに何者かに襟首を掴まれ、引っ張り上げられていた。

 何事が起きたのかと目を開ければ、いつの間にか泥繰でくから離れた場所に座り込んでいる。

 そして俺の前に立ち繭里まゆりを抱き抱えているこれは、恋路れんじか。


「……結界の作用で立ち上がる事も出来ないと思っていましたが」


「うるせぇ、確かに満身創痍まんしんそういでぶっ倒れそうだよ。だがそれは後回しだ」


 純士の言葉に悪態混じりで答える恋路。恐らく咄嗟とっさの判断で結界の負荷を《設定》で後回しにしたのだろう。

 繭里は意識がないのか恋路の腕の中で動く様子はない。御館様おやかたさまはどうしたのかと見回すと、御館様を担いで立つ蛇乃目じゃのめが見えた。

 蛇乃目と視線が合う。だがこの状況下でその笑みは何だ。一体俺に何を期待しているんだ。


「舐めてかかってたな。ご先祖様が倒せたんなら俺らにも出来るだろうって思ってたんだが、こいつは予想してなかったぜ」


「恋路、まだ戦えるか」


「いいや、悪いがちとつれぇわ。お前さん助ける時に肺に一発もらっちまってさ、《設定》で後回しにゃしたんだが、長くはもたねぇよ」


「……くそ」


 泥繰は何に阻まれる事もなく本殿へと向かっていく。最後の守りである本殿の結界が解かれた今、奴を阻むものは何もない。

 ソラは状況が飲み込めていないのか、ただ目の前で起きている出来事を見ているだけだった。頼みの吾郷あずまも今は意識がない。

 いや、もし意識があったとしても、泥繰とガランが相手ではどう考えても力不足だ。


「お父さんもガランも、どうしたの。クオン、何が起きてるの?」


「ソラ、逃げろ!」


「逃げるって、何から? 何処へ?」


 駄目だ、この状況を理解してない。

 そもそも純士は何を企んでいる。御館様の言う通り、あの泥繰やガランの力は確かに強大だが、それは個体として俺達異能使いと比べた場合の話だ。


 例えどれだけ強かろうと、たった二体強い個体がいるだけでは本家の異能使い達全てを倒すなど不可能だ。数の差の前にいずれ必ず敗北を喫する。

 今俺達を皆殺しにしたとして、奴らにそこから先はない。

 何か策があるのか、後先考えていないただの自暴自棄なのか。


 純士はソラの腕を掴むと本殿の入口まで引っ張り、無造作に突き飛ばした。

 本殿への階段を上がる泥繰と入れ違うように、階段の下へ倒れ込むソラ。


「空、よく聞きなさい」


「お父さん?」


 周囲の逼迫ひっぱくした空気など何処どこ吹く風、まるで他人事のように両手を広げ微笑む純士。

 だがその笑顔はどこまでも空虚で、ソラを見ているようで全く別のものを見ていた。ソラの中に見える面影か、それとも己の中の深く黒い感情をか。

 その背後に立つ骸骨武者泥繰の姿も相まって、生きていながらまるで屍人のようだ。


「お前はね、何処にも行けやしないよ。この地に永遠に縛られ続け、やがては母さんのように無意味な死を迎える事になる。それは定めされた事だ。それに抗ったとして、誰もお前を救えない。誰もお前の心を癒せやしない。誰もお前を此処ここから――」


 純士の背後に立った泥繰が無造作に槍を振るい、純士の首がねられた。

 笑みを浮かべたままの首が宙を舞い、血飛沫が上がる。

 それをソラはずっと見ていた。階段から落ち足元に転がった父親の首を、もう何も映さないその瞳をずっと見つめ返していた。

 叫びもせず、ただただじっと。


「……お父さん?」


 自身の父親の返り血を浴びて立ち尽くすソラへ叫ぶ。


「ソラ、今すぐそこから離れろ! その鬼は危険だ、だから逃げるんだ!」


「お父さんの首、取れちゃった。くっつけなきゃ、くっつけないと」


 だが今のソラに俺の言葉は届いていないようだった。

 おかしい。いつもなら呼びかければ必ず返事を返す筈だ。

 転がった父親の首を拾い付け直そうとするソラの姿は、狂気そのものだ。見ているこちらが正気を失いそうになる。


「くっつけて、くっついて、お父さん」


 ソラの異能によって分かたれた首と胴が繋がる。だがそんな事をしても純士が再び起き上がる筈もない。最期の虚ろな笑みを浮かべたまま、死体は横たわっている。


「お父さん、起きて、起きて。ねぇ、お父さん?」


 何度も何度も死体を揺する。そのソラの声も手も、震えていた。

 ――震えている?

 ソラの様子がおかしい。返事も返さず、身を震わせ、それはまるで。

 まるで悲しみのあまり正気を失いかけている人間のようじゃないか。


「クオン、お父さん、起きないの。死? 死んだの? 死んじゃった、私の前から消えちゃった、いなくなっちゃった、もう動かない、死んだ、死んだ、死ん、死……」


 息を呑む。

 死んだ純士を見るソラの目から、止めど無く流れるものがあった。

 涙だ。ソラが泣いている。ソラの頬を何度も涙が伝い、震える指がやがて頬を、髪をきむしる。


「あ、あああ、あああああ」


 目の前で起きた父の死と、その父の死に際の言葉。

 ソラに何かが起きている。ソラ自身の内側から溢れ出んとするものが、変わらざるを得なくさせている。


「ああ、あ、ああああ。やだ、いなくなっちゃった、いない、お母さん達みたいに」


 ここにいても分かる。無くしてしまった筈のソラの心に、心のあった筈の場所に、止めどない感情の渦が吹き上がるのが。

 そしてソラは、今まで聞いた事もない絞り出すような叫びを上げた。


「おいていかないで――!!」


 その瞬間、世界が軋む音を聞いた。

 まるで硝子がらすを踏み砕くような異様な音と共に、空にまたたく星明かりが消え失せる。

 全ての光を飲み込むかのように、夜闇よりなお黒い闇が空に広がっていく。

 いや、闇ではない。まるで深淵を覗き込んでいるのかと錯覚するほどの、深い深い穴が空に穿たれていた。


「穴が……空に穴が空いている……」


 まるで同じだ。十年前、ここで起きた事を再現しているかのように。

 あの大穴は、まさかソラが空けたというのか。

 《接続》の異能は、そんな事さえ可能だというのか。


 その穴から、何かが落ちてくるのが見えた。

 花だ。紅い紅い、鮮やかな花弁が空に穿たれた穴から舞い落ちてきた。

 色は違えど見間違える筈もない。この花は間違いなく彼方花おちばなだ。

 それが何故あの穴から。


「おお咒童じゅどう、様御覧下さいませ! あの深き夜空、この赤き、間違いありますい! あれこそ我等が故郷、永遠の夜の世界! 永夜とこよへの回廊が再び開きまして御座いますぞ!」


 泥繰の歓喜の叫びさえ耳に届かないほど、頭上に広がる光景は凄まじいものだった。空に穴が空いて、その向こうにもう一つの世界が見えるなど、想像した事もなかった。

 ソラの叫びに応じるように、世界もまた叫びをあげる。

 叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。世界が叫ぶ。

 穿たれた穴から舞い落ちる赤い花弁は、さながら世界が流す血のようだ。


「あれは、何だ。いったい何が起きているんだ」


「……ありゃ道だ。かつて鬼共はあれを通って異界、奴らがいうところの永夜からこちらへとやってきた。彼方花もまた、鬼と共に道を通りこの地へと根付いたものなんだと。つまりあの穴は間違いなく繋がってんのさ、鬼共の巣食う異界にな。当時の御八家によって閉じられたって聞いていたが、まさかそいつを再び開いちまうとはな」


「あの穴が開いたら、いったい何が起きる」


「言わなくても分かんだろ。あの道の向こうは鬼共の世界だ。このままじゃまた鬼が降りてきちまう。飢えて狂った連中とは比べ物にならねぇ、本物の鬼が何十、いや何百何千とな」


 あの泥繰やガラン以上の鬼が、あの穴から大群となって降りてくるというのか。

 とんでもない事を為出かしてくれた。

 純士はソラの心を元に戻せなかったと言っていたがそうではない。元に戻すつもりなど最初からなかったという事か。

 全てはこの時の為、ソラを復讐の道具とする為に。

 自分の死を以てソラの心を再び砕くことで、最悪の結末を引き寄せたのだ。


「ソラ、やめろ! 異能の力を抑え込め! このままじゃ大変な事になる!」


「クオン、クオン? どこ? おとうさんも、おかあさんも、クオンも、ガランも、どこ? くどうくん、どこにいるの? みんなどこ?」


 必死に呼びかけるものの、俺の声が届いているのかどうか。

 ソラの涙には血が混じり始めていた。自身の限界を超えて異能を行使しているからだろう。体に掛かる負担は凄まじいものの筈だ。

 このままではソラも、夢で見たソラの母親のように血に沈む事になってしまう。

 胸が爆ぜ、血飛沫を上げて絶命するソラ。そんなものは見たくない。そんなものが見たくて此処に来た訳じゃない。


「くそ、ソラ、ソラ! 俺を見ろ! 見てくれ!」


 ソラの元へ駆けつけようとするも、その行く手を巨躯が阻んだ。

 泥繰ではない。ガランだ。


「どけガラン! 俺をソラの元に行かせろ!」


 ガランは俺の声には答えず、空間そのものを震わせるような咆哮を上げると腕を振り上げた。叩き潰すつもりの動きだ。

 荒々しくはなったがその動きは俺の知っているガランの動き。一度でも当たれば俺の体は四散するだろうが、戦いの術など知らない我武者羅に腕を振るうだけならばなんとかなる。


 満身創痍でなければ。


 掠めただけで体が吹き飛ばされそうになる。体が蹌踉よろめき倒れこみそうになる。

 だがそうはならない、なっている時間はない。その腕を間一髪で掻い潜り、ガランの眼前まで迫った。鋭い目つきと牙が俺に向けられる。

 その顔目掛けて――。


「起きろ、この木偶でくぼう!」


 俺は、渾身の力で拳を振り抜いた。

 案の定鋼鉄並の硬さの前に拳が砕け、ガランは蹌踉よろめきさえしない。

 俺の殴打程度斯程さほどに効いていないんだろう。

 それがどうした。だからなんだ!


「ガラン、いい加減に起きろ! いつまで操られているつもりだ!」


「――」


 射抜くような鋭い目が俺を睨む。

 その荒れ狂うような獣性は間違いなく悪鬼そのものだ。俺の知るガランではない。

 ガランは即座に俺を取り押さえると、血を流す腕へと食らいついた。鋭い歯が腕に食い込み、そのまま噛み千切られそうになる。

 だがそれでも俺は叫んだ。


「見ろ、ソラが泣いているんだぞ! それなのに何やってんだお前! お前は人喰いの鬼なんかじゃない! お前は、そんな化物なんかじゃ! 例え人ではなかったとしても、お前は――!」


「―――――」


「お前は、どんな時だって俺やソラに笑って手を差し伸べてくれる、そんな奴だったろうが……!」


「…………」


「答えろガラン!」


 ガランは答えない。その代わりというように。

 

 ガランの体から、炎が揺らめいた。

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