第参拾弐話 あの子にしてやれる事
異変はその夜から始まった。
いや、もう異変は既に起きていたのかもしれない。
彼女からの忠告もある、夜出歩くのは止しておこう。
それにソラ達の様子も気になる。
石階段を登り本殿の方を見ると、扉が開け放たれ物音が外に響いていた。
ガランめ、無用心な奴だなと思いながら近づき声を掛ける。
「おい、ガラン。何をやってるんだ?」
声を掛けるも返事はない。どうしたのかと中を覗き見ると、そこにいたのはガランではなかった。
「おや、クオン君帰ってきていたのですね。お帰りなさい」
本殿の中にいたのはソラの父親、
しまった、今のなと内心で頭を抱えるも、純士は特に聞き返してこない。物音で運良く聞こえてなかったのか。
しかし何故純士が
ガランを見ていないかと聞こうとして思い留まる。
彼はガランの存在は知らないし感知も出来ない。知っている筈がない。
素知らぬ顔で挨拶を返すことにした。
「純士さんか。ただいま帰りました、そこで一体何を?」
「いえ、本殿の片付けをと思いまして。先日見た時に少し散らかっていたのが気になっていたものでして」
ガランがこの中で数日寝泊りしているし、土足で上がり込んでいるから中は確かに汚れていただろう。
話を聞きながら本殿の中を覗き見るが、そこにはガランの姿はない。
もしかして帰ってきていない、などという事はないだろうな。
「あの、ソラは?」
「
身体にも衣服にも
ガランが上手く誤魔化したのか。
ソラが帰ってきているなら抱えて降りた筈のガランも一緒の筈。
何処に行ったんだあいつは。
「そういえば、今日は何処に行っていたんですか」
「ああ、ええと、子供の頃にソラと遊んでいた遊び場が、森の中にあるんですよ」
「森の中……ああ、もしかしてあの廃神社の近くの広場でしょうか」
「知っていたんですか。というか、廃神社?」
「あそこより奥に古い神社がある筈ですよ。ずっと昔に廃れてしまったところなので、最早建物も残ってはいないかもしれませんが。広場に
気付かなかった。
だがよく考えてみれば、森に隠れ潜んでいたという
もしかしたらその廃神社で野営していたのかもしれない。
「……話は変わるのですが、クオン君。君に、聞いておきたい事があるんです」
急に改まった様子で話し出す純士。
何か重要な話かと思い、身構える。
「こんな事を聞くのも何なのですが……その、クオン君は、空の事を好いているのでしょうか」
「……。それは、その……」
思わず口篭る。
確かに重要そうな話だが、予想していたものとは方向性が大きく違った。
ここでの純士の言う好いているかとは、人として好きかという意味ではないだろう。
異性として、ソラを好いているのか。
口に出すのも気恥ずかしいものではあるし、正直なところソラへの想いは複雑で、好いてもいるが怖れてもいて、単純に言葉で言い表す事は難しい。
でも、それでもここははっきりと言っておくべきだろう。
「好いては、います。もっと長く、傍にいたいと思う」
「――そうですか、それなら良かった。きっとソラもそれを聞いたら喜ぶでしょう」
純士は気づいているのだろうか。ソラの心の事を。
知らない筈がない。誰よりもソラの傍に居たはずなのだから。
傍に居れば居る程に、その異常さを突き付けられる。どうやっても気づいてしまうだろうから。
「純士さん、ソラは……それを理解出来ないんじゃないか」
意を決して言ったその言葉に、純士は驚いたように顔を上げた。
その驚きの顔は、その事実を知らなかったという顔ではなく、俺がそれを指摘した事に対するものだろう。
「ソラは壊れている。いや、ソラには……心がない」
「――ええ、知っています」
さも当然の事のように純士は即答した。
やはり知っていたのか。
それなら、それならば。
「どうして何もしないんだ。ソラは、俺がこの村で最後に会ったあの日から何も変わっていない」
ソラの前から逃げた日の事を思い出す。
あの時見たソラは、まるで人形ようだった。
何も感じていない、何もしようとしない、言われるままに動く心のない人形。
今のソラは笑い、話し、家事や勉学を行っているが、俺には分かった。
ソラの本質はまるで変わっていないのだと。
「何をしても駄目だったからですよ。私には空の心を元通りにする事が出来なかった」
出来なかった、だと。純士は出来ないではなく、出来なかったと断言した。
「諦めてしまったのか」
「方法がなかったからです。今の空は、確かにおかしい。それは分かっています。ですが私にはどうしようもなかったんです。私に出来た事は、精々があの子に人間らしく振舞う術を教え込むくらいの事でした。それは上手くいったようで、この村の誰もソラがおかしい事など気づいていません」
純士が笑う。
それは、ひどく
「とても、人間らしく振る舞えるようになったと思っていたんですが、クオン君にはお見通しでしたか」
「……ああ、ああ。ソラは、随分と人間らしい振る舞いができるようになっていた。御八家の人間という事も相まって、村人連中は必要以上に寄り付かないし見もしない。だから気付く事もないんだろうさ、あいつらは。だが」
自然と拳を握り力が込もる。純士への、村人達への怒りでだ。
真っ先に逃げ出した自分の事を棚に上げて怒りに駆られている。
それを自覚していながら抑える事ができなかった。
「だがそれがどういう事か分かっているのか。ソラの事を本当に理解している者がこの村にはひと握りしかいない。本当のソラを知っていて、そのうえで傍にいようとする人間が、俺やあんた以外誰もいないんだぞ」
「……私に力があればよかった。そうしたら、あの子に何かしてやれたのかもしれません。ですが、私には異能も何も、持ち合わせていません。私からあの子にしてやれる事なんて、もう限られていますよ」
やる事はやりきった、そう言いたいのか。
それなら俺は、こう言い返すだけだ。
「もう一度改めて言います、純士さん。俺は、それでもソラが好きだ。だからソラの為に、俺は何だってする。あんたが諦めたとしても、俺は諦めない」
長い沈黙が支配する。
純士は俺の言葉を反芻するように目を閉じ、やがてその口元がゆるりと笑みの形を作った。
「……君は、優して強いですね。ありがとう、クオン君。やっぱり君が来てくれて良かった。空の事、これからも好いていて下さい。あの子の為に」
そう言って安堵した笑みを浮かべる純士は、本当に嬉しそうな様子だった。
力がないと嘆いていても、彼は彼なりにソラの幸せを考えているのだろう。
純士の気持ちも考えずに、俺は
もうそれ以上は何も語らず、俺は純士を残し神社を離れた。
***
家へと向かうと、純士が言っていた通りソラは縁側にいた。まるで胎児のように体を丸め眠りについている。
服装は山へ登った時のものから変わり、血痕も綺麗に拭い去られていた。ガランがやったのだろうか。
寝息も静かなもので穏やかな寝顔だった。うなされていたり、苦しんでいたりする様子もない。
ソラは以前、夢を見ないのだと言っていた。こうして今眠っている間も、彼女は夢など見ていないのだろう。
それは彼女の心の有り様が原因なのだろうか。
眠るソラの傍に座り、何気なくその白髪を撫でる。老人のものとは違う、艶やかな白髪。触れた指の間から水のように零れ落ちていく。
眠っている時のソラに触れたのはこれが初めてだ。触れるたび感じていたあの震えが走るような虚無感も、眠っている時であれば感じないようだ。
「なぁソラ、お前に夢はあるか」
眠っている間に見る夢ではなく、いつかそうなればいい、そうなりたいという願い。それもソラにはないのだろうか。
「夢があるなら教えてくれ。お前の為に、俺に何が出来るのか」
結局、夕飯時になってもガランは戻って来なかった。
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