第弐拾捌話 鬼が出るか蛇が出るか
夢から覚め、俺は飛び起きた。
夢の内容故にではない。確かに奇怪な夢だったが、それよりも気にすべき点があった。
今、誰かが傍にいた気がするのだ。
それも寝ている俺の体に、小動物のように頭を擦り付けてきていたような。
その証拠に微かにだが甘やかな香りが鼻孔をくすぐる。この香りはソラのものではない。
それに胸元に髪が一本残されていた。やや茶色がかった髪は俺のものでもソラのものでもない。それ以外の何者かの物だ。
この周辺に誰かいるのか。
意識を研ぎ澄ませる。
まだ遠くには行っていない筈だ。近くの木陰か何処かに隠れているに違いない。
そう思っていたのだが。
「――なんだこれは」
不可思議なものを見つけてしまった。
何も感じない空間があったのだ。大きさとしては人一人分くらいだろうか。そこだけ切り取られたかのように何の気配も感じない。
明らかに不自然だ。
「おい」
声を掛けるが返事はない。
だが俺はこの時点で、その何も感じない空間に何者かかが隠れ潜んでいる事を確信していた。
気配の一切を遮断する異能、思い当たるものは一つしかない。
その空間へ触れようとすると不意に目の前の風景がぶれ、
土下座姿で。
「す、すぃやせんすぃやせん、そういうつもりじゃなかったんです本当ですぅ」
「誰だ、お前は」
明らかに怯えた様子でしきりに頭を下げる少女。
ぎょろりとした目にぼさぼさの髪、それにまるで忍者のような装束。
見覚えのない顔だが、異能とこの村にいる御八家の人間を消去法で考えれば自ずと素性は見えてくる。
「あの。その。これはですね。あ、えっとあてくし
「ああ、分かってる。簾縣家の者だろう」
《遮断》の異能を操る御八家の一角だ。その異能はあらゆるものを遮断する力だと聞いていたが、こうして目の当たりにすると少々
姿や呼吸音を遮断し気配を消せる事は確かに目を見張る異能だが、何もない事がはっきり分かってしまうようでは意味がない。
「村からずっと俺達を監視していたのか」
「ち、違いますぅ。貴方達があてくしのいる場所に来たんですぅ」
恐らく違うだろうとは思っていたが案の定だった。
この村に来てからの数日、今のような何も感じない空間など見た覚えもないし、こいつの気配も感じた事がないからだ。
「しかし何故簾縣の者がこんな場所にいる。村では全く姿を見ていなかったが」
「うぇえっと、今は訳ありで
「……内緒に出来ていないようだが」
「やぁー、ひーさびさに人とあえたもんだからつい嬉しくなって、うぇへへ」
どうやら口に戸を立てられない性分らしい。
だがそれはこちらにとって好都合だ。
御館様とも接触しておらず、こちらへの警戒も薄い。何か有益な情報を聞き出せるかもしれない。
「俺はクオンだ。四日ほど前にこの村へと来たばかりだから、知らないのも無理はないか」
「ふぇ、四日前? それは有り得ないでしょよ」
「有り得ない、とはどういう事だ」
「五日以上前からあてくしの《遮断》でこの村は外界と途絶してるです。鳥みたいに空を飛んででもしない限りは入ってくる事なんてむーりですよぉ」
それはおかしい。村へと入っていく時、特に何の障害もなかった。
《遮断》の異能が働いていたのであれば、弾き飛ばされるか入口を見つける事さえ出来なかった筈だ。
俺が入る瞬間だけ《遮断》が解かれたのかとも思ったが、異能を使った当人がそれを否定している。
そもそも俺が村に来る事を
「あ、解除した覚えはないんすけど、ちょと変な感覚はあったかもかも。無理矢理こじ開けられる感じじゃなくって、すぃーって
「あかんで簾縣、少し口が軽すぎるんと違うか」
穏やかでいて冷ややかさを含む声。まるで心臓に刃物を差し込まれたような
もしくは、いつの間にか懐に潜り込んでいた蛇か。
「
声の主、蛇乃目の方を見る。
俺達が最初に通ってきた道、その方向に普段と変わらない様子の蛇乃目がいた。
ただし、その手には長大な太刀、所謂野太刀が抜き身で握られていたが。
どう控えめに見ても穏やかな雰囲気ではない。
「それはうちの台詞やて。はよ離れや簾縣。そいつはあんた殺す為にこの森入ってきたんかも知れへんのやから」
「ひょえっ」
途端に簾縣の顔が青ざめたかと思うと俺から距離をとった。その動きは手馴れたもので、一瞬で手の届かない距離を開けられた。
間の抜けた少女だと思っていたが、代継から外されたとはいえ簾縣家で一、二を争う異能の使い手なのだ。相応の訓練は積んでいるだろう。
これで前後を挟まれた形となる。逃げるのは困難か。
「違う、誤解だ。俺がこの森に来たのはそんな理由では」
「信じられないわ」
弁解の機会を求めるも、それは新たに姿を現した人物に遮られた。
蛇乃目の背後の林から姿を現した彼女もまた、先日学校で見た苦無を携えていた。
「あんたが森に入っていったって言うからもしかしてって思って来てみたら、間一髪だったみたいね」
最悪の相手だった。俺に敵意を抱いている明華はこの場を収めようとはしてくれまい。
真偽の程など確かめる事もせず、むしろ好機とばかりに俺の命を狙ってくるだろう。
「大抵の人間なら簾縣を見つけられんやろうけど、あんたならそうでもあらへんやろなって思うてたら案の定やったわ」
「あれだけあからさまに何も無ければ見つけるのは容易いだろう」
「そんなん分かるのあんたくらいなもんやで」
何やら
手に触れているならどんな体勢や状態だろうと関係ない。異能で最適解に切り替えてしまえる。
だが相手は二人、しかも片方は《制御》の明華だ。意識を操られてしまえば勝ち目はない。
戦わずとも話し合えばとも考えたが、明華は個人的な恨みから聞く耳を持たないだろうし、蛇乃目に関しては。
「どないしたん? はよ刀抜きや。そうでないと、真っ二つにしてしまうで?」
この女、今の状況を
普段から細い目をより一層細め、口角を釣り上げたその表情は笑顔と言うには些か
どのような意図があるのかは分からないが、この女はどうやら俺と一戦交えたいらしい。
切り抜けられるのか、一対三のこの状況を。
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