第参話 鬼の姿をした者(修正版)

 田園地帯を、民家の間を、雑木林の小道を、駆け抜けていく。

 日頃から鍛錬を積んでいるこの身には、この程度の距離を駆け抜けるなど造作もない。

 しかしソラはそうではなかったようで、鳥居の前に辿り着いた時にはソラの姿は見えなくなっていた。

 だがこれは仕方がない。

 ソラを待っていては手遅れになる可能性もある。


 鳥居から続く長い石階段を登り終えようかというところで、ひときわ大きな破砕音が響き、火炎が舞い上がるのが見えた。

 何かが爆発したのか。

 そう思えるような衝撃が大気を揺らす。

 いよいよ何かが起きていることに確信を持ち、階段を駆け上がった。


 そこに見えたものは、両手を伸ばしても足りないほどの巨大な樹だった。

 天を突かんとする程のその大樹は今、葉も枝もその太い幹にされた注連縄しめなわさえも、全てが轟々と燃え上がっていた。

 そしてその大樹の前に、鬼の面を被り黒い布を纏った者がいた。

 仮面で顔も見えないうえ、そのゆったりとした衣服の上からでは男か女かは判別できない。


 だが性別などどうでもいい。

 問題は、だ。


「答えろ。貴様ここで何をしている」


 鬼の面を被った怪人は答えない。

 仮面の上から表情をうかがい知ることはできないが、かすかに聞こえた声、傾げた首を見て、そいつが笑った気がした。

 それを直感した瞬間、目の前のそいつを敵だと確信した。


 神経を研ぎ澄ます。

 体のすみずみにまで流れる血に意識を傾け、心の臓が打ち鳴らす鼓動を聞く。

 その心臓を体の中心、核と認識する。

 三、四回であれば大丈夫なはずだ。

 そう自分に言い聞かせ。


 異能を発動した。


 異能いのう

 この世に存在する、世界の摂理を捻じ曲げ超常を操る力。

 全ての人間が持ち合わせているわけではなく、同じく全ての人間がその存在を知っているわけでもない。

 ごく限られた者しか持たぬ力、ゆえに異能と呼ばれるのだ。


 御剣の家は代々異能を宿す特殊な家系の一つであり、受け継いだ異能は《切替きりかえ》、その能力は自身の状態の切り替えだ。

 その瞬間に存在し得る別の可能性の自分と、今の自分を切り替える事が出来る。


 たとえば今俺が刀を振り抜いたなら、抜刀せずにいた俺もそこに同時に存在する。

 たとえば俺が右手側に跳んだなら、左手側に跳んだ俺も存在する。

 その俺と今の俺を切り替える。

 振り抜いたはずの刀は瞬時に鞘に戻り、再びの抜刀を可能とする。

 右手側に跳び致命傷を受けても、左手側に跳んでいた俺となればその致命傷も消え去る。


 対人において最強。

 そう自負できるほどの異能。

 父上いわく、かつて一族の祖先はこの力をもって鬼をも倒したという。

 鬼が実在するかはともかくとして、この異能の力は絶大だ。

 一族の中でも能力が弱いと言われた俺でさえ、並の人間相手に遅れをとるような無様は晒さない。


 眼前の光景がぶれる。自身の肉体が揺らぎ、幾重いくえにも重なる。

 その中から今最適の状態の俺へ、筋肉に疲労の蓄積した俺から、万全の肉体の俺へと切り替える。

 まず一回目。そしてその直後に駆けた。


 先程の長距離を走るような動きではない。

 蛇が地面を這うように、身を低くして地を滑るように疾駆する。

 その加速を利用して右拳を怪人の仮面目掛けて打ち出す。

 殴りかかった腕を掴もうと怪人が手を伸ばした。

 予想通りだ。

 そこで、再び己を切り替えた。

 拳を振り抜いた状態から即座に拳を引き戻した状態へ。

 これで二回目。


 一撃目はただの囮。掴むはずだった腕が消え失せ、怪人の腕が宙を切る。

 そこへ仮面目掛けて蹴りを放った。蹴りはすんでのところでかわされ、怪人の右肩を蹴り上げ仰け反らせるに留まった。

 だが問題はない。

 体勢を崩したところで蹴り上げた状態から、地面を踏みしめた状態へ切り替え距離を詰める。

 三回目。


 反撃の隙など与えるつもりはない。一気に畳み掛ける。

 怪人の動きについに焦りが見えた。

 だがもう遅い。怪人の首目掛けて手刀を放つ。

 怪人は一矢報いんとしてか手刀を無視し掴みかかってきた。

 無駄なあがきだ。

 その手をはえでも払い落とすつもりで切り替えを発動した。

 はずだった。


 異能は、発動しなかった。


「馬鹿なっ」


 まずい。

 勝利を目前に集中力が途切れたか、それとももう限界が来たのか。

 理由はともかく、異能の不発に動揺し、無様に狼狽うろたえてしまった。

 その隙を逃さず怪人は体勢を立て直し、俺の首を掴み上げた。

 掴まれた瞬間、首に万力のごとき力が掛かる。


 恐るべき腕力だ。

 筋力がある分平均よりも重い俺の身体を難なく片腕で持ち上げたうえ、そのまま首を絞めるなどとは。

 このままでは窒息するよりも首が捩じ切られる方が早い。

 意識を失えば異能も使えない。

 そうなればいかに最強の異能を持つとは言えど、まな板の上のこいだ。


 だがしかし、いくら意識を集中しても切り替えができない。

 このままでは死ぬ。

 死んでしまう。

 何もできない、残せないままに。


 意識が飛びかけたその時、轟音が響いた。

 何かが爆発したかのような音だった。

 首を締め上げていた力が緩む。

 何事が起きたのかと視線をさまよわせると、怪人は俺を見ておらずある一点を凝視していた。

 怪人の視線の先、そこには未だ燃え盛る御神木があった。

 一体何が、そう思った瞬間、再び耳をつんざく轟音が響いた。


 違う。これは咆哮だ。


 明らかに獣のそれではなく、雷鳴の如き叫び。

 その咆哮は揺らめく炎の中から発されていた。

 まるで産声をあげるかのように。

 そしてその炎の中に、蠢く姿を確かに見た。


 有り得ない。

 だが現実にそれは燃え上がる御神木の中から現れ出た。


 何かを求めるように虚空をさまよう一本の腕。

 丸太のように太い腕に続いて出てくる肩、胴、そして頭を見てそれが武者鎧を身に纏っているのだと気付く。

 燃え上がる炎よりなお深い真紅を纏う鎧武者。

 頭部の角飾りと人とは思えぬ歯牙を剥き出しにした形相、その顔は鬼面のような作り物とは違う、それはまるで、まるで。

 本物の鬼のようだった。


 再び咆哮を上げる鬼のごとき鎧武者。

 その出現に鬼面の怪人も面食らったようだった。

 掴んでいた手を離すやいなや、その姿が掻き消えた。

 いや違う、頭上に向かって跳躍ちょうやくしたのだ。


 それを呼び止めようとするも、直前まで首を締められていた事もあり咳込み、うまく声が出せない。

 そうしている間に、怪人は人間離れした跳躍を何度か繰り返し、森林の中へと姿を消してしまった。

 残されたのは俺と鎧武者。


 この状況はまずい。

 まだ怪人相手ならば問題はなかった。

 不意を突かれはしたが相手は人間、どうにかすれば勝てる相手だ。

 だが今度の鎧武者はどうだ、こいつは果たして人間か。

 その姿も様子も、人間とは言い難い雰囲気を放っている。

 こいつはまるで人とは異なる者、人外の類ではないか。


 唐突に咆哮が止む。

 まるで音を断ち切られたかのように、ぱったりと止まったのだ。

 何事かといぶかしみ鎧武者の様子を見ると、その視線はこちらを向いていなかった。

 もっと遠く、こちらの背後を見ている。

 何だ、何を見ている。

 そう思ったときだった。


「クオン、足早いね」


「……は」


 その声を、その声音を聞いた瞬間ぞっとした。

 慌てて振り返ると、そこにはようやく追いついたソラが佇んでいたのだ。

 息があがった様子もないところを見ると、普段通りに歩いてここまできたのだろう。

 まさかこんな状況の中、急ぎも何の警戒もせずにそばに寄ってくるとは。


「ソラ、逃げろ!」


「どうして?」


 強がりや警戒心が薄いわけではない。ソラは本当に今この状況を見て危機感を感じていないのだ。

 予想して然るべきだった。ソラがこの状況下でどういう行動に出るかを。


 鎧武者は間違いなくソラを見ている。

 《切替》の異能は使い手本人にしか作用しない。他者を守るには適していない力だ。

 もしこのまま戦いになれば、ソラを守り通せる自信はない。

 そうなればソラがどうなるか分からない。

 それはまずい。

 どうにか最善を講じようと思考を巡らす。

 異能を使わずソラを抱き抱えて逃げるか、それとも――。


 やがて鎧武者は動き始めた。

 一歩、また一歩とソラの方へと。

 だがその歩みに先程の荒々しさはない。まるで赤子か、ともすれば死期の近い老人のようだった。

 鎧武者が手を伸ばす。

 掴みかかろうという風ではない。まるで手を差し伸べて、相手を求めているように見えた。


「うつ――、い―、助けて――、待って――」


 唐突に鎧武者が何かを言った。

 うわごとのような言葉の中で、ソラの名、うつほという名が聞こえた気がした。

 とっさにソラと鎧武者の間に割って入る。

 いったい何者かは分からないが、それ以上ソラに近づける訳にはいかない。


「待て、それ以上ソラに近寄るな!」


 伸ばされたその腕を掴み上げんとする。

 意外にも抵抗されず、たやすくその腕へと触れることができた。

 だが異変が起きたのは触れた瞬間だった。

 電撃が走ったかのような錯覚を覚えた。

 そして脳裏に見覚えのない光景が走り抜ける。


 猛り狂う鬼とそれへ立ち向かう武装した者達。

 死体の転がる荒野を駆け抜け、武者鎧を纏った鬼共を斬り捨てていく。

 暗転。

 かたわらで微笑む、どこかで見た覚えのある顔立ちの巫女装束の女。

 暗転。

 刀で貫かれた巫女装束の女と、その女に瓜二つな顔をした、だが鬼のような形相でわらう女。

 暗転。

 閉じていく世界。

 何も見えない。

 何も聞こえない。

 何も感じない。

 闇の中でたださまよう。


 弾かれたように鎧武者から飛び退くのと、鎧武者が膝をつくのは同時だった。

 鎧武者は糸の切れた人形のように、そのまま前のめりに大地へと倒れ伏した。


 なんだ、今の光景は。

 断片的で、不鮮明ではあったが、決して幻覚などではない生々しさがあった。

 見えた光景は今よりももっと古い時代のものに思えたが、忘れていた記憶を思い出したかのような、幻夢げんむでも見ている気分だった。


 考えても仕方がないと思考を中断し、鎧武者の方を見やる。

 倒れ伏した鎧武者は微動だにせず、起き上がる様子はない。

 ひとまずの危機は去ったと見ていいだろう。


 燃え上がった御神木、鬼面の怪人、炎の中から現れた鎧武者。

 それに今しがた見た奇妙な光景。

 不可解なことだらけだ。

 村に来たばかりだというのに、厄介なことになったものだ。

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