第弐話 旧き記憶との再会(修正版)

 目を覚ます。

 直前まで見ていた夢の情景は急速に薄れ輪郭を失っていく。

 だが胸にはあの不快感がまだ残っているような気がした。


 上下の揺れと機械の規則正しい駆動音。そこで自分が車に乗っていた事を思い出した。

 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。


 乗った時とは違い、揺れが不規則で大きくなっている。

 車窓から外を見れば日はやや傾き、茜色に変わりつつあった。

 外の風景は何処を見渡しても山と川ばかり。

 この揺れの理由は未舗装の道路を走っていたからか。


「ぐっすりとお眠りでしたよ。随分とお疲れだったようですね、久遠くどう様」


 運転席から穏やかで心地の良い女の声が聞こえた。俺の守人もりびとである女、名をひみこという。六つの頃から身の回りの世話をしてくれていた従者だ。


「ああ、少し疲れていたらしい。今はどの辺りだ」


「もう間もなくすれば到着致しますよ。予定していたよりも早く着きそうですね」


 その言葉通り、しばらく進んだところで車はある場所に辿り着いた。

 断崖にぽっかりと空いた、車一台がやっと通れるかというような大きさの穴。

 それが今から向かう目的地への唯一の道だ。


「ひみこ、ここまでで大丈夫だ。村の入口で迎えが待っている筈だから、あとは歩いていく」


 鞄を手に車を降りる。

 荷物は最小限のものしかない。

 元より私物は少なく、その多くは家に置いてきた。

 これから先に必要な物ではないし、もう持っていても意味がない。


「ありがとう、すまない。もはや御剣の跡取りでもない俺の願いを聞いてくれて」


「そんな事を言わないで下さい、久遠様。私にとって貴方は、今でも仕えるべき御方に変わりありませんから」


「……今まで世話になった。あの家では苦労するだろうが、達者でな」


「いえ、久遠様こそ、お達者で」


 深々と頭を下げるひみこ。

 下げる一瞬、その頬に涙が見えた。

 その姿にいたたまれなくなり、背を向けた。

 心から悲しみ、別れの際に泣いてくれたのは彼女くらいなものだ。

 同じ血を分けた家族や血縁の者ですら、誰ひとりとして涙を流すことも別れの言葉を掛けることもしてくれなかった。


『失敗作か』


 嘆き悲しむでも吐き捨てる風でもなく、ただ淡々と告げられた父上の言葉。

 あの父上らしいと言えばそうだが、今生の別れの言葉がそれとはあまりにも薄情ではないか。

 いや、もう関係のないことか。

 気持ちを切り替えると洞穴どうけつの中を進んでいく。

 穴は長く暗く、まるでこの世とあの世を隔てる比良坂のようだ。


 しばらく歩いた後、ようやく終点へと辿り付く。

 そこから一望出来る光景に息を吐いた。

 日暮子村かくれごむら

 見渡せば青い空と木々の緑が大半で、周囲を険しい岸壁と山、海に囲まれている以外は特筆すべき点もないような、小さな民家がぽつぽつと点在する程度の村。


 自分が先日まで住んでいた場所とはまるで違う。

 街灯もなければ商店もない。道路は舗装されていないしそもそも車が見当たらない。建っている家はどれもこれも木造の物ばかりで、煉瓦れんが造りの建物など一つも見当たらない。

 所狭しと建物が並び人々の喧騒に満ちていた街と、まるで過去の世界に迷い込んだかのような錯覚を覚えるこの村。

 その二つが地続きに存在している場所だとはとても思えなかった。

 

 ふと足元に咲く花に目が止まる。

 先程特筆すべき点はないと言ったが、この花があるのだった。

 名はたしか、彼方花おちばなと言ったか。

 一族の家紋にもなっているこの白い花は、この村以外では見た覚えがない。輪生状に並ぶ八つの花弁が特徴的なその花は、村のそこかしこに群生している。


 そんな光景を見渡しながら、一つ深呼吸をした。

 空気が澄んでいる。

 街に住んでいたときには、どこに居ても鼻につく蒸気の臭いに辟易へきえきしていたが、ここにはそれがない。

 おぼろげな記憶ながらかつて来たとき、十年前と何ら変わっていないように思える。

 田舎も田舎、外界から隔絶かくぜつされた辺境だ。

 ここまで来ると異界と形容してもいいかもしれない。


 自分にはここで果たすべき役目がある。

 誰に命令された訳でもない、己が生涯を賭して果たすべきと決めた役目だ。

 しかしここで困ったことが一つある。

 名前だ。


 御剣久遠みつるぎくどう

 御剣家の長子たる者の名。


 今や当主である父上から勘当され御剣の家名を名乗る資格もなく、家名に縛られるつもりもない。

 これから果たすべき事のためにも、名乗るのであれば別の名前がいい。

 そう、例えばかつて彼女から名付けられた愛称であるクオ――。


「クオン」


 不意に声がした。

 同時に視界に飛び込んできた眩い光が、陽の光を浴びて輝く白い髪であると理解したとき、体が凍りつくような錯覚に襲われた。


 そこに、一人の少女が居た。

 最後に会ってから十年近くの年月が経過していても、それが彼女だとわかった。

 足元に咲く彼方花より白い髪、それを見ればなおさらだ。

 年相応に綺麗になった。幼い頃の面影もわずかながらある。


 だがそうではない、それだけでわかったわけではない。

 わからないはずがない。

 彼女を前にして感じる、この空気の感触。遠くで鳴いていたひぐらしの声がはるか遠くへ消えていく。

 肌を焦がすような太陽の暑さも忘れ、いやむしろ、冷やりとした肌寒さを感じる。

 思い出す。十年前の出来事を。そのときに見た彼女を。


 櫃木空ひつぎうつほ。通称結女ゆいめ様。


 俺は彼女をソラと呼んでいた。

 容姿は変わっても、その中身、本質は今も変わっていない。

 その吸い込まれてしまいそうな黒い瞳を見れば、言いようのない確信があった。

 もっと覚悟を決めてから会うつもりだったのに、こんなところで遭うことになるとは。


 ソラとの再会を後回しにしたくて、わざわざ彼女の父親に迎えに来てもらうよう頼んでいたというのに。

 そんな心中を知ってか知らずか、ソラは笑みを絶やさずにこちらを見ている。

 いや、知るも何も、ソラにはそれを理解できまい。

 できるはずがない。

 つい先ほど改めた決意が途端に揺らぎそうになるも、己を叱咤し心を奮い立たせた。


「……。……結女様、お元気そうで、何よりです」


 掛けるべき言葉が浮かばず、社交辞令じみた挨拶をしてしまった。

 事前に練習していた挨拶は、この邂逅で頭から吹き飛んでいた。


「ソラでいいよ、昔みたいにそう呼んで。喋り方も普通でいいから」


 その容姿通りの、朗らかな笑みと態度。


「……ああ。では、ソラ。久しぶり、だな」


 俺は知っている。

 その笑顔の意味を。


 昔の話だ。かれこれ十年近く前になる。

 かつて、俺はこの少女に恋をした。

 少女の容姿や心根に惹かれ幼いながらも恋に胸を焦がした。


 だがそれはすぐに恐れへと変わり彼女の前から逃げた。

 その心の有り様に気づかず近づき過ぎた。

 彼女の性質を理解した瞬間、抱いていた想い全てが真逆のものとなってしまった。

 だから逃げ出したのだ。


「どうしてクオンがここにいるの」


「ああ、その……この村でどうしても済ましておかなくてはいけない用があるんだ。それを果たす為にきた」


 どうやら父親から俺が村に来る事は聞かされていないようだ。

 できる限り平静を装いながら会話を続ける。


「そうなんだ。いつまでいるの。もしよかったらうちにも遊びに来てよ。お父さん、きっと喜ぶから」


「ああ、だがまずは御館様おやかたさまへ挨拶をしにいかないといけないから、その後だ」


 遊びに行くも何も、これからしばらく厄介になるのだが。

 何気ない会話を心がけながらソラの家、櫃木神社へと向かう。


「見た様子だと元気そうで何よりだ。村も、あまり変わってはいないようだな」


「少しは変わっているけど、この村は大きく変化しないよ」


「そういうものか。……そうだ、昔遊んでいた広場はまだ残っているのか?」


「最近は行ってないから分からないよ。でも昔のままだと思う」


「そ、そうか。それならまた今度行ってみないか、久しぶりに」


「うん、いいよ。一緒に行こう」


 一つ一つの会話に思わず身構えてしまう。

 平静を装っているつもりだが、果たしてどこまでちゃんとできているやら。

 気を抜けば手が震え、逃げ出してしまいそうになる。

 だがそれでは駄目だ。

 ここで逃げてしまえば、何のためにこの村へと来たというのか。


 まずは手を握ろう。

 そうすれば何か感じ取れるかもしれない。

 昔そうして思わず逃げてしまった時のように。


 そう決意して横を歩くソラの手を握ろうとしたときだった。

 一瞬、空が白く光った。

 そう思った次の瞬間、轟音が鳴り響いた。

 鼓膜こまくどころか地面さえも揺るがすほどの音に、とっさに身構える。

 落雷か、地震か、それとも何かの事故でも起こったのか。


「燃えてる」


「なに」


「神社が燃えてる」


 その言葉に耳を疑い、ソラの見ていた方へ視線を向けるとソラの生家、櫃木神社が在る筈の場所で赤い色が揺らめくのが見えた。

 見間違えよう筈もない、あれは炎だ。

 それもかなり大きい。

 何か大きな構造物が燃えているようだった。


「ソラ、消防に連絡を」


「どうやって」


 言われて辺りを見渡してみると周りには山と畑しかなく、公衆電話も見当たらない。

 自分達と同じように火事に気づいて慌てふためく老人達はいるが、彼らの家に果たして電話があるのかどうか。

 そもそもここには電話線が通っているのだろうか。

 いや、もしかしたら消防さえもないということもありえる。


「ともかく、急いで神社に行こう。何か出来るはずだ」


「何って、何をするの」


「現場を確認してから考える。ソラ、先に行っているぞ」


 言うが早いか、神社へ向けて走り出していた。

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