ランドリーより愛をこめて(一気読み版)
三村小稲
第1話ランドリーより愛をこめて(全編)
その時、岡崎陽子の内部にはドス黒くどろどろしたものが渦巻いていて、油田から沸くガスのようなあぶくがぼこんぼこんと弾けていた。
無論、彼女の性質が元からそうだったというわけではない。彼女もほんの一カ月ほど前までは善良さと平凡さを持つ普通の女にすぎなかった。ようするに、大学を卒業してからずっと規模は小さいが古風な洋館のホテルでばりばり仕事をこなし、三十五歳という年齢になって社内でもそれなりの地位につき、特別美人というわけではないが適度に外見に気を配って見苦しくない程度に自身を保っている。貯金もこつこつするタイプで、同時に恋愛もこつこつ真面目に積み重ねる性質。それが先月までの岡崎陽子の姿だったということである。
が、その岡崎陽子の内部がドス黒いもので塗り潰されてしまったのは、先月、陽子の部屋の全自動洗濯機が壊れたと同時に、約束していた結婚話しまでもが「壊れた」せいだった。
「約束」とはほとんど秒読みの日取りも決まった婚約関係で、両親への挨拶は勿論のこと式場もほぼ決まりつつあったのだが、婚約者である小野哲司から「破棄」の申し入れを受けた時はまさに青天の霹靂、寝耳に水で最初は冗談かと思い笑って、次に本気と分かると狼狽し、泣いたり怒ったり縋ったり、なんだかんだと愁嘆を演じるはめになった。
こういった一方的な婚約破棄は当人同士も両家親族も巻き込んでの大騒ぎになるのが常だし、友人知人にはいらぬ心配と嘲笑を招くと決まっている。それは陽子がどんなに奔走しても避けられぬことだ。唯一の救いは式及び披露宴の招待をまだどこにも出していなかったぐらいなことで、面倒で屈辱的な知らせ一切を招待客全員に送らなければならないという事務作業を避けられたことだった。しかし、それを除けば申し入れから別れの瞬間までの猛烈な日々と後の始末に至るまで、陽子には一点の救いもなかった。
そもそもなんだってこんなことになったのか、陽子にはまるで理解できなかった。哲司との恋愛は五年の歳月をかけ育み、プロポーズも哲司から手順を踏んで行われたにも関わらず、手のひらを返すように「僕らのことだけど……。あれ、やっぱりやめたいんだ……」と言われた時、陽子にはなにをやめたいのかさっぱり分からなくて、きょとんとしてしまった。
「あれってなに」
「……ごめん。俺、陽子と結婚できない」
陽子はその言葉を聞いた瞬間、髪がそそりたち内臓ごとひゅうっと浮き上がるような急転直下、奈落の底へ突き落される感覚に眩暈がした。それは遊園地のアトラクションのフリーフォールのようだった。
あまりに唐突な申し出だったので陽子は訳が分からなくて哲司に理由を問い質したが、哲司は最後の最後まで「もう少し考えたい」だの「やっぱり自信がない」と言い、明確な答えは何一つ言わなかった。
もう少しなにを考える必要があったのか、果たして自信というものがなんの自信なのか、陽子にはどうしても分からなかった。それでも本人がそう言うなら少し待ってもいいかとも思ったが、次第に聞いていくうちに「考えたい」という言葉の先にはようするに陽子と「別れたい」という要望があることが分かった。
陽子の心はその一点によりずたずたに引き裂かれた。
それは婚約破棄という屈辱よりも、単純に哲司がもう自分を好きではないのだという事実を突き付けられたことによって受けた傷で、それでは一体なぜ哲司はほんの半年ほど前に陽子に求婚したのだろうか陽子は混乱の渦に落ち込んだ。
言い争うことも理由や原因を追及することもひたすら精神を消耗するだけで、陽子は立ち上がることもできないほどの喪失感で毎日泣き暮らした。
といっても、社会人としての陽子になにもかもを放り出して本当に涙にくれるだけの生活をすることなどできるわけもなく、別れ話が決着するまで毎日朝起きて化粧をして電車に乗って職場へ行き、自分よりいくつも若い部下を叱咤しながら平然とした顔で仕事をしなければならなかった。それはインドの修行僧の極端に肉体を酷使する苦行のように耐えがたい苦痛だった。
平然としているのはプライドではなかった。平然としていなければ到底自分を保つことができないからそうしているだけで、陽子の精神は空気をぱんぱんに孕んだ風船のように今にも弾けてしまいそうに危うかった。弾けてしまってはもう元に戻すことはできない。その危機感と理性だけが陽子の支えだった。
いかなる場合であっても恋を失うのは手痛い。陽子は愛されなくなった自分の存在というものがまったくの無価値で、人格そのものを否定されたような気がしていた。元婚約者となった哲司の所有物を部屋から一斉処分した夜、その痛烈な嘆きの中で、それでも生活というルーティンな雑務から逃れることはできず、のろのろと無気力なままに洗濯機をまわそうとしたらどういうわけか洗濯機が動かなくなった。
洗濯機の中にはシャツと下着、タオルなどが投げ込まれ、すでに水を張って洗剤の清潔な泡と匂いに満たされていた。
陽子は突如として動かなくなった洗濯機を前に、スイッチを切ってみたり、入れてみたり、電源を確かめたりしたが、どこをどうしても洗濯機が動く気配はなく、次第に腹立たしくなってきて乱暴に蓋をばたんと閉じたり、本体を叩いたり蹴ったりした。
そうしているうちにじわじわと自己憐憫の涙が湧きあがってきて、「もう、なんでよ!」とか「なんなのよ!」とかを連発し、その場に崩れ落ちてわあわあと一人で泣きだしてしまった。
世界中のなにもかもから見放されてしまったような気持ちだった。陽子は哲司を本当に好きだったし、自分の理解者だと思っていた。陽子には陽子なりの夢や憧れがあり、例えそれが少女漫画じみていたとしても結婚生活に対する希望みたいなものがあった。二人の朝だとか休日だとか、生活を共にすることへの美しいイメージ。手まめな陽子は毎年梅酒を漬けて二人の年月のビンテージを作ろうとまで考えていた。外に出ればいっぱしの出来る女の顔をしていても哲司の前では普通の恋する女だったし、それは今後も変わらないと思っていた。
それなのに哲司との五年は部屋に置かれた揃いのカップと陽子を残して、ネクタイ一本靴下一足も残さず消え去ってしまった。そこへもってきて洗濯機の故障。陽子のみじめさは絶頂に達していた。
陽子は泣きながら水の中から重い洗濯物をひきあげ、風呂場に投げ込んだ。びしゃりという鈍い音。飛び降り自殺でもしたらこんな感じに体がひしゃげるのではないかと思いつつ、洗濯物を手で洗った。
洗剤のぬめりが手の上を滑っていく。シャツをぎりぎりと絞るも固く絞りきることはできず、ベランダに干すとしたたる滴が雨のようにコンクリにシミをつけた。
洗濯機を買わなければ。そうと分かっていても陽子にはそんな買い物は到底できそうになかった。無論それは金銭的な意味合いではなく洗濯機のような大きなものを買う勢いとでも言おうか、気概みたいなものがまるでなくて厭世的な気持ちでいっぱいで、いっそこのまま壊れた洗濯機と共に自身も壊れてしまえばいいとさえ思った。だから新しい洗濯機を買う算段も陽子には永遠にできないような気がした。
そういったわけで陽子の生活から哲司と洗濯機が消え去り、陽子は週末や時間のある時に近所のコインランドリーに通うはめになったのだった。
陽子はコインランドリーに通うのは、実は初めてのことだった。それまでずっと洗濯機は学生の時から小さいながらも自分の部屋にあったし、これからもずっと洗濯機を所有し続けるだろうと思っていた。だから、いざ洗濯機を失ってみるとこんなにも生活に影響があるのかと驚いていた。
たかが洗濯、されど洗濯である。いかに失恋したとはいえ岡崎陽子も女であり、社会人である。いくらなんでも洗いもしない衣服で世間へ出て行くわけにはいかない。いや、それ以前に洗わない衣類など自分が一番気持ち悪い。当たり前に思っていたことが実は重要なことであったかと陽子は深く感じ入った。
第一、陽子は洗濯機が壊れるまで近所のどこにコインランドリーがあるかも知らずにいた。人間とは自分にとって興味のないものや関係のないものは視界にさえ入らないものである。陽子にとってコインランドリーがそれだった。
陽子はテレビと冷蔵庫と洗濯機が三種の神器となる時代の生まれではない。それらはすべて標準装備だと思っていたので、どこにコインランドリーなどというものがあるのか想像もできなかったし、果たして存在し得るのかどうかも分からなかった。
この時点で「早く洗濯機を買おう」と思えなかったのが陽子が打ちのめされていた証拠で、哲司に去られてからの陽子からは正常な判断力が抜け落ちてしまっていた。
とにかく陽子はコインランドリーを探した。検索してみるとコインランドリーが案外点在しているのには驚いたが、もっと驚いたのは自分の住むマンションの真裏に一軒あったことだった。
陽子が今のマンションに引っ越してきたのは大学を卒業してからである。その間にマンションの裏手の道を通らなかったというわけでもなく、ただ単に気付かなかったのか、眼中になかったのか、その存在を忘れていたのか、とにかく陽子は自分のすぐそばにあるコインランドリーをまったく知らなかった。
なんだ、こんなところにあったのか。陽子はその新たな発見に妙な安心感を覚えた。洗濯機が壊れてどうしようかと考えあぐねていたところへ自分の住まいから一分の場所にコインランドリーがあるなんて、捨てる神あれば拾う神ありである。そうと知っていれば洗濯機など初めからなくてもよかったし、これからだって特に買う必要もないではないか。陽子はそう結論づけた。
以前の陽子なら思いつきもしないことなのだが、この時はそれが最良の解決に思えた。どうせいつかは壊れるんだしというヤケクソのような気持ちがあったのも否めないが、わざわざ洗濯に来なければならないという面倒さよりも厭世的な気分が上回っていた。
マンションはゆるい坂の途中にあり、周囲も似たような建物の並ぶ住宅地である。細い道に街燈がぽつぽつと坂の上まで街路樹の如く整列し、静かで、闇の色が濃い。坂の下を見下ろせばそこには線路が町を分断し、繁華街の灯りがさまざまな色のビーズをぶちまけたように光っている。そんな光と影の極端なコントラストの中にコインランドリーはひっそりと佇んでいた。
陽子はマンションの出入り口から角をまがって裏手に出た瞬間すぐに「あ、これだ」と思い、それからなんだか例えようもなく懐かしく温かな光を見たような気がしてしばし立ち尽くした。
コインランドリーは決して明るくもなければ清潔でもなく、古びたコンクリート剥き出しの小さなもので、入口は田舎の家のアルミサッシのようなどこか貧乏ったらしいガラスの引き戸になっていて、中に入ると真ん中に普通の洗濯機が六台、縦一列に並び、片側の壁に乾燥機がこれは上下に三台ずつ据えられていた。
陽子は独特の湿っぽい空気と奇妙な静けさに、一瞬自分がどこにいるのか分からなくなるほどしんとした気持ちになった。
正面の壁際にはその辺のバス停にあるようなベンチと自動販売機が置かれていて、BGMがあるでなし、スタンド付きの灰皿にも使われた痕跡はなく、まるで世界が滅び去ったような錯覚さえうけるほど荒涼とした風景だった。
照明は青白い蛍光灯。昼間はどうだか知らないが、通りに面したガラス戸は夜を吸いこんで鏡となって、陽子の姿を映している。
気色の悪い場所である。が、陽子はこの時あくまでも普通の状態ではなかったから、その不気味さも静けさもひたひたと自分に沁み入ってきて、絶えず出血を続ける精神を優しく包みこむように感じた。
彼女が受けた傷を、痛みを、誰もが気の毒に思うだろう。けれど、実際にそれを肩代わりすることなどできないし、ましてや誰にも「気持ちは分かるよ」などとは言われたくなかった。分かるはずなどないのだから。
陽子と哲司の恋愛が二人だけのものであったようにその別れも二人のものだし、陽子は自分の気持ちを言葉に表すことなどできないほど落ち込んでいたから、誰にも自分の気持ちを代弁して欲しくなかった。慰めさえ必要とはしていなかった。そうされればされるほど陽子は真実から遠のいていくのを感じ、そのことが陽子を置き去りにして世界が動き続けるのだという孤独の中に取り残す。
コインランドリーはそんな陽子を一枚のフィルターをかけるように隔離した。それはほとんど安らぎといっても過言ではない、静かな場所だった。
孤独にされるのと望んで孤独になるのは違う。陽子はこの時疲弊した心を休める場所を本能的に求めていた。それがコインランドリーだったのである。
こんなところにあったのね。陽子は小さく呟いた。
陽子は再び部屋へ戻って洗濯物を籠に詰めて持って来ると、誰もいないコインランドリーで洗濯を始めた。
小銭を投入する音、洗濯機の始動音。じゃばじゃばと貯水が始まり、ごうんごうんと音をたてて回り始める。それは陽子とコインランドリーの生活の始まりの音だった。
陽子は出勤してから一日中イベントの企画書作りや担当であるバンケットの会場の手配、厨房との打ち合わせからその他こまごまとした雑務、時々はコンシェルジュの如き仕事までこなし、帰宅は九時や十時になるのもザラだった。
日常の買い物などは休日にまとめてするのだが、陽子は洗濯物を貯めるというのが苦手で、どうにも気分が悪かった。洗い替えなら一週間や十日はやりくりできるから休日にまとめて洗濯するというのも一つの方法である。しかし、陽子は洗濯機健在の折にも洗濯物を一週間も貯めこむようなことはしたことがない。せいぜい二日か三日。貯めたところで誰に咎められるわけでなし、自分の身から出た汚れであるわけだからそう嫌わなくてもいいとは思うのだが、陽子は脱衣籠に盛りあがっていく汚れた衣類にくたびれた人生の垢のようなものを感じ、日常が汚れに浸食されていくような気がしていた。
だから帰宅してこまごまとした用事をしたり、片づけものをしたりしてから、また部屋を出てコインランドリーに行かなくてはいけないという面倒さが陽子の新しい生活だった。
洗濯機が回っている間の待ち時間。世界は陽子と洗濯機の二人きりになる。
ベンチに腰掛けぼんやりしながら、時々疲れのあまり寝てしまいそうにもなりつつ洗濯機をまわす。遠くで救急車のサイレンが鳴っているのが聞こえる。陽子はこうやってコインランドリーで一人座りながら、幾度も繰り返し思う。なぜ別れてしまったのだろうか、と。
哲司は結婚に対して突然懐疑的になったのか知らないが、とにかく結婚できないと言い張っていたけれど、陽子の方では婚約破棄だか延期だかになったとしても別れるつもりなど毛頭なかった。考えたこともなかったし、自分のなにがいけなくて別れることになったのか、この期に及んでまだ理解できなかった。
二人の間には決定的な価値観の相違も、すれ違いもなかった。式の日取りも式場も、二人で話し合って決めたことで、その経過でさえも意見の食い違うことなどなかった。
いや、それよりもっとさかのぼれば、二人はお互いに大人になってから恋愛を始めたから自己中心的な嫉妬もくだらない痴話喧嘩もせずにきた。恋愛というものがとにかく優しく、甘く、多忙を極めるそれぞれにとっての癒しのようでさえあったのだ。だからこそ結婚へ進む過程はスムーズであったし、そこにはひたすら穏やかな時間が流れていると信じていた。
それでも哲司が婚約破棄を申し出て別れたいと言い出したのは事実だから、陽子にしてみれば、それではこの恋愛が幸福なものであると信じていたのは自分だけだったのかと愕然としてしまった。
陽子はこういった別れ話の常として哲司にその理由を問い質したし、無論、もう自分のことを好きじゃないのかとも尋ねたが、哲司はそれについては一貫して「そうではない」と答えた。「嫌いになったわけじゃない」と。
ならば、なぜ。と、陽子は思った。今も、思う。嫌いじゃなければ別れなくてもいいではないか。もう少し時間をおいて冷静に考えれば思い直すこともできたかもしれないし、陽子はその執行猶予の中で今一度二人の恋が全盛期の盛り上がりを見せていた頃を思い出させようと考えてもいた。
しかしそういった陽子の懇願が受け入れられることはなく、非情ともとれる頑なさで哲司は陽子との早急な別れを要求した。
洗濯機が脱水に入った。暴力的な振動と騒音が陽子に向かって押し寄せてくる。その間陽子は自分の両親のことを考えて泣きそうになった。
父親の激怒、母親の涙。それらがいかに正当な感情であるかも分かっているのに、哲司をかばった自分のあのみじめさ。自分が傷つく以上に家族を傷つけたと思うとやりきれなかった。
哲司は「嫌いになったわけじゃない」と言ったが、あれは方便だったのだろう。言いかえれば陽子を「好きじゃなくなって」しまったのだろう。
もし哲司がそう正直に言っていたなら、陽子は泣くだけ泣いて、尚且つ哲司を罵り、その後にすべてを水に流せたように思える。けれど、哲司の優しさが仇となり、陽子はなにもかもを持て余しこうしてコインランドリーで洗濯をするより他なかった。
洗濯終了を告げる電子音が控えめに鳴る。陽子は洗濯機の中から絡まりあった洗濯物をひきずりだし、籠の中でほぐしてから乾燥機に入れた。
ここの乾燥機は洗濯機の小ささに反してやたらに大きい。昔、アメリカ映画で見たような巨大なドラム式乾燥機。子供が這入りこんでいたずらする場面、あれはなんの映画だったか。布団がまるごと入ってしまうほど大きな乾燥機は陽子一人の数日の洗濯物などいとも簡単に乾かしてしまう。それも、大きいだけあってふんわりと。
陽子は乾燥機からほかほかに温まり乾いた洗濯物を取り出すと、ようやくほっとしてそれまでのネガティブで悲しい物思いから解放され、清潔な衣類と共に自分のうちへと帰っていけるのだった。
そんな仕事とコインランドリーの往復も一カ月。陽子は物思いに耽って半泣きになるのを避ける為に待ち時間に本を読んだり、ヘッドフォンで音楽を聴きながら持参の缶ビールを飲んだりするまでに進歩していた。
その日は同僚と軽く飲んで帰り、幾分酔っていたのだが洗濯物が溜まり始めていたこともあり、部屋でスーツを脱ぎ棄ててジーンズとTシャツという格好になるとすぐに籠に洗濯物と缶ビールと文庫本を投げ込んでコインランドリーへと向かった。
コインランドリーはその日も静かに陽子を迎えいれた。
陽子の帰宅が遅いせいなのか、タイミングなのか、陽子は一カ月たってもまだ一度も同じくコインランドリーを利用する客を見たことがなかった。
洗濯物を洗濯機に入れ、コインを投入すると自動的にスイッチが入る。陽子は貯水が始まると洗剤をいれる。洗濯槽に降り注ぐ水のおかげで洗剤がもくもくと泡立っていき、陽子のシャツもタオルもすべて覆い隠す。
陽子はいつも通りベンチに腰掛けると、ビールのプルトップを引き抜いた。
桜もとうに終わり、新緑の季節。こんな殺風景な場所でもビールが美味しく感じられ、疲れた体に気持ち良く沁みていく。
バンケットの仕事は歓送迎会やどこかの企業の記念行事の他に、ワインや日本酒の試飲会、有閑婦人たちのシャンソンのリサイタルなど様々だが、なんといっても一番多いのは結婚披露宴だった。
仕事の八割はウエディングプランナーとの間に立って、実際的に披露宴を動かす役目で、プランナーからの申し入れを受けてサービス動線や必要物の手配確認などをする。プランナーが「演出家」なら、陽子はいわば披露宴の「現場監督」みたいなものだった。
陽子は裏方として披露宴を実行する自分を、こんな立場になって初めて虚しく思っていた。
それまではどんな種類の宴会によらず、ほんの数時間の刹那的な楽しみを完璧なものにすることに使命感を覚えていたし、同期でもあるプランナーの宮本千夏とは長年一緒に仕事をしてきただけあってツーカーの仲で、二人で手掛けたパーティーや披露宴はいつも好評だった。
陽子はプランナーから提示される演出や要望を的確な判断で実行してきた。そのことは誇りでもあったし、この仕事を愛しているということでもあった。
パーティーは一瞬の煌めきで、打ち上げ花火のようなものである。大きな花火のインパクトと美しさと、それを見ている人の歓声と感動。人の心に残る瞬間。陽子はそれを実際に作るのではなく、それを作りだす為の環境を整えることこそが本当に必要な準備であり、プランニングだと思っていたし、感動の屋台骨を支えていると自負していた。
その表舞台に裏方である自分が登場するのは自身の結婚の時だと思っていたが、その機会は失われてしまった。ようするに陽子の恋愛そのものが打ち上げ花火のようにどかんと夜空に散っていったわけで、美しさの後には灰が残るだけなのだという気持ちにさせられた。
まるでやる気がでない。陽子は酔いと眠気でぼやける目をこすり、すでに飲み干したビールの缶を握り潰した。
陽子は婚約破棄になったことを、今日初めて宮本千夏に告白した。
ロッカールームで打ち明けた時、千夏はぎょっとして、それから陽子をまじまじと見つめ、「本当に……?」と怪訝な顔をした。
陽子は頷きながら「残念ながら……」と苦笑いしてみせた。
哲司と千夏の三人で食事に行ったり飲みに行ったりしたことが何度もあっただけに、陽子は報告が遅れたことを千夏に詫びた。
「ごめん。言いにくかったの」
「……それで……?」
「……一応、事態は収束したよ」
千夏は制服であるベージュのスーツをロッカーにしまってから、
「……大丈夫なの?」
と、なぜか小声で言った。
しかしその言葉に陽子は答えなかった。大丈夫って、一体なにが大丈夫なのだろう。そして、なにが大丈夫じゃないのだろうか。
陽子は曖昧に微笑むと、同じように着換えている同僚や後輩に聞こえるようにわざと大きな声で言った。
「実は先月、洗濯機が壊れてさー」
「えー、本当ですか?」
後輩達が少し離れたところからこちらを振り向いた。
「それじゃあ洗濯どうしてるんですか」
「コインランドリー」
「うわ、めんどくさー」
「洗濯機って、ちょっとイタイですよねえ」
「最近の洗濯機っていくらぐらいすんのかな」
「洗濯機と冷蔵庫は値段下がらないですよね」
「だよねえ」
「あ、あと、電化製品って連続して壊れません?」
「あー、あるある。なぜか一つ壊れると続々と壊れていくのね。今んとこ大丈夫そうだけど……。大物家電は勘弁してほしいわ」
連鎖的に壊れて行くのは家電だけではないのよ。陽子は笑いながら心の中で呟いた。
そんな陽子を千夏はじっと見守っていたが、「今度ゆっくり話し聞く。いい?」とロッカーの扉を閉めた。
「……うん」
陽子が頷くと千夏も大きな声にスイッチを切り替えた。
「陽子、おつかれー」
「おつかれー」
大丈夫なのか、どうなのか。陽子は自分でも聞きたいと思った。一体、自分は大丈夫なのだろうか。そして、大丈夫じゃなければどうなっていくのだろうか。
洗濯機から洗濯終了の電子音が鳴り、陽子ははっと我に返った。
立ち上がり、洗濯機の蓋を開ける。いつも通り洗濯物を引き摺りだし、一旦ほぐしてから乾燥機に放り込んだ。それから、なにを思ったのだろう。陽子は乾燥機に小銭を投入しながら呟いた。
「なんとかしてよ……」
「なんとか」とはなんなのか。それは陽子にも分からなかった。ただ、突然口をついて出た言葉だった。
喪失感と脱力感に塗り潰され、無気力で、そのくせ哲司への恨みつらみがどうしても燻っている自分への言葉だったのか。アルコールのせいか、呟いた途端陽子の目に涙がじわりと滲んできた。
その時だった。足元からどん!という衝撃があり、次いで激しい揺れに立っていられなくて体ごと投げ出されるようにへたりこんでしまった。
地震! 陽子は揺さぶられながら乾燥機に縋って、持ちこたえようとした。
コインランドリー内の電気がちらちらっと明滅しかたと思うと真っ暗になり、洗濯機やベンチががたがたと音を立てた。
停電したのはほんの一瞬だったが、その数秒の間に陽子は思わず小さく悲鳴をあげた。揺れはコインランドリーなど灰塵に帰すかと思うほどひどく長く感じられたが、実際はほんのわずか。陽子は揺れが収まると恐怖と緊張に固まった指を乾燥機からえいやとばかりに引きはがした。
震える足で入口に駆け寄りランドリーの外へ飛び出したが、そこには静かな住宅街が暗闇の中にぽかりと浮かびあがっているだけで、地震による被害などはなさそうだった。
弱った心がちょっとの揺れも大きく感じさせたのだろうか。周辺にはなんの変化も見られない。陽子は拍子抜けしてしまい、しかし胸を撫で下ろして再びコインランドリーの中へ戻った。
停電のせいか乾燥機が止まってしまっている。陽子は乾燥機の前まで歩いて行くと、扉に手をかけようとした。
が、手をかける寸前、いきなり乾燥機ががたがたがたっと異常な音を立てた。
陽子は驚いて「ひゃっ」と声をあげた。まさか乾燥機が爆発などするまいが、振動を伴ういかにも機械が壊れる時の音らしく、陽子は固唾を飲んで乾燥機を見守った。
異常音がやんだ。それでも陽子はすぐには乾燥機に触れる勇気が出なかった。
私が壊したわけじゃない。地震のせいよ……。陽子は誰にともなく胸の中で言い訳をした。そして再び乾燥機に手をかけようとした。
しかし、その必要はなかった。陽子が手を伸ばすより早く、乾燥機の扉がぱかっと勝手に開き、信じがたいことにその中からにょっきりと人間の足が突き出てきて、次いで腕が、肩が、洗濯物を引きずり出すようにずるずると現れた。
「ひゃあああ!」
陽子は叫びながら洗濯機の向こう側へ飛んで逃げた。
洗濯機の影に隠れるようにして身を潜めたが、歯の根も合わぬほどがたがたと震え、陽子は恐怖のあまりどうしていいか分からなかった。信じられない気持で胸が潰れそうで、心臓が早鐘を打ち息苦しいほどだった。
酔っているのだろうか。それとも寝とぼけてしまって夢でも見ているのだろうか。それなら早く醒めなくては。陽子は自分の頬を思い切りつねった。
「ちょっと、あんた」
痛い。夢じゃない。陽子はほとんど失神寸前だった。
乾燥機から出てきたのは背の高い若い男だった。
「ちょっと、ちょっと」
陽子は絶体絶命を感じ逃げようとしたが、腰が抜けて立ち上がることができなかった。
コインランドリーの中央に配置された洗濯機をぐるりとまわって、男は腰を抜かしている陽子の前にやってきた。
「大丈夫?」
男は陽子を見下ろして言った。ジーンズにTシャツといった当たり前の格好だが、その頭部は見事と言っていいほどの立派なアフロヘアだった。
「もしかして腰抜けてんの? まあ、そらびっくりするわな。ごめんなあ。心配せんでもなんもせえへんから。ほら、立ちいな」
アフロはそう言って陽子に手を差し伸べた。
乾燥機から出てきたアフロが関西弁を喋っている……。陽子はますます訳が分からなくて、もしかして自分は頭がおかしくなってしまったのかと泣きそうになった。失恋による神経症とでもいうのか。自分はそんな所にお世話になることなどないと思っていたのに、とうとう心療内科受診デビューを飾る日がきたのか。
陽子は乾燥機から巨大なアフロが出てくることよりも自分の頭の中身の方がよほど怖くて、情けなくてたまらなかった。
「ほら」
手を述べていたアフロが陽子の腕を掴んだ。陽子にはもう叫ぶ気力もなかった。
アフロは陽子を支えるようにしてベンチに座らせると、
「しっかりしいな」
と言った。
「……」
「大丈夫か? どっか怪我でもしたんか?」
千夏も陽子に大丈夫かと尋ねたが、今ならはっきり言える。大丈夫じゃない、と。
「とりあえず、まず自己紹介っていうか、説明させてもらうわな」
「……」
「理由はさておき、今、色々なことのタイミングが合うてなあ。なんて言うたらええんかな……。あんたの心と運命と、自然と、その他いろんなことのタイミングがばちっと合うてな」
「……」
「俺、あんたの願いごと叶えに来てんわ」
アフロの説明を聞きながら、陽子は腹の底から沸々と笑いが湧きだしてくるのを感じていた。
なんてよくできた、訳の分からない幻覚と幻聴を見ているのだろう。一体、いつの間に自分はこんなにも精神的に追い詰められていたのだろう。陽子はそう思うと湧きだした笑いを留めておくことができなくて、結んだ唇の端から「ふふふふふ……」と低く絶望を伴って漏れ出てしまい、ついには「ははははは」と声を出して笑いだしてしまった。
「なにがおかしいねん」
「どこから来たって?」
「んー、まー、所謂、魔界?」
「ってことは、あんたは……」
「そう、悪魔」
「ぎゃはははは!」
陽子はますます大笑いした。腹を抱え、足をバタつかせ、目尻に涙が滲むほど笑った。
その様子をアフロは困惑顔で見守っていたが、文字通り「狂ったように」ひとしきり笑うと陽子はすっくと立ち上がった。
陽子もそう背が低い方ではないのだが、アフロの顔は断然見上げる位置にあった。
「……帰ろ」
陽子は呟いて、洗濯籠を取り上げるとアフロの脇をすり抜けようとした。
「ちょ、ちょっとちょっと!」
「……」
「帰ってもうたら困るねん。まあ、もうちょっとちゃんと聞いてえな。まだ洗濯物も乾いてえへんやろ?」
アフロは入口の前に立ちはだかると、自分が出てきた乾燥機に駆け寄りスイッチを押した。
それまで停止していた乾燥機は、その中がどうなっているのか定かではないが、いつものようにごんごんと回り始めた。
確かに洗濯物を放っていくわけにはいかないのだが、ずいぶん親切な幻覚である。陽子はしぶしぶとベンチに戻って腰をおろした。
アフロは幾分ほっとしたように洗濯機の上に腰かけた。
「あんた、知らんかもしれんけどな。満月と大きなエネルギーと、一人の人間の想念と、その他いろんな物が組み合わさると悪魔を召喚することがあるねん。いや、それはもちろん普通やったら黒魔術っちゅーやつやで。生贄を与えて、願い叶えさすっていうやつ。せやけど、あんたみたいに偶然呼んでしまういう人も百年にいっぺんぐらいおるねん。ちょっとしたラッキーやな。宝くじに当たるみたいなもんや。それがあんたいうわけや」
「……私、悪魔を呼ぶ理由ないし、必要もない」
「だからあ。さっきから言うてるやん。偶然って。意図せず呼んでまう人もおるねんって。けど、理由はどうでも呼んでしもたら、もうどうにもできんねん」
「だって、願いを叶えるっていっても生贄がいるんでしょ? で、それって命と引き換えとか、大事なもの持って行くとか、誰かを不幸にするとかなんでしょ? やだよ。そんなの。安いけど使い物にならないとか通販の商品と現物が違うみたいな、買い物失敗みたいじゃない」
陽子はもう幻覚だろうと妄想だろうと、なにも怖くはなかった。頭がおかしくなったのだから恐れるものなどない。ずけずけと言い放たれるのをアフロも黙って聞いていた。
「それにね、私には悪魔に頼みたいような願いごとなんてなんにもないの」
それは本当のことだった。仮にそれが悪魔ではなく神様であったとしても、陽子には……少なくとも今の陽子には……なんの願いも思いつかなかった。
願いというのはある種の希望だ。でも陽子の中にあった希望はすでに失われてしまった。幸福のさなか、希望に満ちていると思われた未来のすべて。それがあんなにも簡単に崩壊するとは考えもしなかったし、失望の分だけ虚しく思えた。もしもこんな状況でなければ叶えたい願いの一つもあったかもしれないが、今はそれさえも思い出せない。
悪魔はジーンズのポケットからおもむろに煙草を取り出した。
「吸ってもええかな」
「どうぞ」
律義な悪魔である。
アフロは百円ライターで火をつけると、深く吸いつけ、長々と煙を吐き出した。
「無欲な人間なんておらんもんやねんけどな」
「別に無欲ってわけじゃないわ。欲はあるわよ」
「ほんなら、それ、言うてえな」
「だって新しい鞄欲しいとか、もうちょっと長く休みとって旅行に行きたいとかって、命と引き換えにするような願いじゃないもん」
「……いや、そういうんやなくて。なんかないのん?」
「ない」
陽子はきっぱりと言った。
アフロは眉間に皺を寄せ、実に困ったように腕を組み、唸った。なんと言われても、ないものはないのだ。
アフロが唇に咥えた煙草の先から紫煙が漂い、白く細く空気の中を流れて行く。陽子はさっきまでの酔いがはっきりと醒めているのを感じていた。
「そんでも、俺はあんたの願いを叶えんとあかんねん。なんか考えてえな」
「ないって言ってるでしょ。私、もう帰るわ。洗濯物、乾いたみたいだし。明日も仕事だから」
今度こそ陽子は立ち上がり、乾燥機の中からほかほかになった洗濯物を取り出した。乾燥機の中は、なんの変哲もないただの乾燥機だった。
「待ってえな!」
「しつこいなあ。願い事なら他あたってよ」
「そういうわけにはいかんねん!」
「じゃあね」
陽子は洗濯物をいれた籠を手にランドリーを出て、ぴしゃりと出入り口の引き戸を閉めた。
アフロが追ってこようとしたのを感じたが、振り返ることはしなかった。アフロとのやりとりはもう怖くはなかったが、今は振りかえることの方が怖い気がした。振り返れば確実に狂った自分を認めることになる。きっとそこには誰もいないだろうから。
部屋に戻った陽子は洗濯物を畳むと、シャワーを浴びて思い切り乱暴に髪を洗った。シャンプーの泡を盛大に撥ね散らかし、わしゃわしゃと頭皮を指で力強く。それはあたかも苦悩に頭を抱えるような、掻き毟るような痛ましい力だった。
翌日、陽子は昨夜の出来事……というか、一夜明けてみると昨夜の自分自身が怖くて、出勤するとすぐに千夏のいるブライダルデスクまで出向いて行った。
ブライダルデスクはもちろんこれから結婚しようというカップルが見学だの相談だのにやってくる場所で、いつもそこはかとなく甘酸っぱいような幸福な気配に満ちている。
当初、陽子はその空気が気恥ずかしかったが、だんだん仕事に慣れていくうちに今度は微笑ましく感じるようになり、自身の婚約が決まってからは同胞のような親しみを感じ、そして破談になった今では近づきたくない場所になっていた。
仕事の用事なら内線電話ですむし、いや、もちろんどんな用件であれ内線電話や携帯電話を鳴らしてもかまわないわけだが、陽子はどうしても千夏の顔を見て話したかった。
同期入社だが千夏の方が陽子より二歳ほど若い。陽子は大卒だが千夏は短大卒だ。社内での評価は陽子の方がしっかり者で通っているが、プライベートとなると千夏の方が物慣れていて、こと恋愛については経験豊富で、だから陽子はこれまでにも哲司との交際について相談をかけたこともあった。
それに、なにより千夏とは元々ウマが合うとでもいうのか、てきぱきした仕事ぶりもあっさりとした気性もどこか似たところがあり、他の同期の中でもとりわけ仲がよいから、恋愛でなくとも仕事の相談や愚痴だって互いに言い合う仲だった。
陽子はふかふかした絨毯のフロアをまっすぐに歩いてブライダルデスクのあるサロンに入って行った。
大きなガラスの扉には繊細な模様が描かれ、中はアイボリーを基調とした静かで清潔な空間になっており、どっしりと重厚なデスクにお客様用のソファ、中央のコーヒーテーブルにはカサブランカが活けられていていかにも「ブライダル」を意識した飾り付けになっていた。
陽子は微笑みながら受付に座っていた後輩に、
「宮本さんは?」
と尋ねた。
「宮本さんは今お客様をチャペルにご案内中で……」
「ああ、そう。それじゃ出直すわ」
「ご伝言なら聞いておきますけど」
「それじゃあ、来週のバンケット、午前中の装花の手配は変更なしってことで伝えておいて貰える?」
「はい」
陽子はさっとサロンの中に視線を走らせた。お客様は二組。それぞれデスクでプランナーと話しをしている。どれも幸せそうな顔ばかり。陽子はため息が出そうになるのをこらえてサロンを後にした。そしてその足でまっすぐにチャペルへ向かった。
ホテルのチャペルは中庭に面した小さなもので、つるバラを這わせたアーチが可愛らしく人気がある。陽子は千夏がオンシーズンは特にチャペル内での挙式よりも中庭に椅子と祭壇を持ち出して行う屋外での挙式をお勧めする傾向にあるのを知っていた。
而して、中庭に千夏はいた。若いカップルを案内して、身ぶり手ぶりで屋外挙式の様子を説明しているのが分かる。動くたびに制服のジャケットの金ボタンが太陽に反射してきらりきらりと光っていた。
千夏は陽子の姿を認めると、一瞬驚いたような顔をしたが、陽子が目配せすると小さく頷き、お客様をチャペルの方へ向かわせてから小走りに駆けてきた。
「ごめん、接客中に」
「どうしたの」
「あの、ちょっと、今日いいかな」
「今日?」
「うん。今日、定時でしょ」
「そうだけど……」
「……都合悪かったらいいんだけど……」
陽子が言い淀むと千夏は「あ」という顔になり、すぐに察して、
「いいよ。大丈夫」
と頷いた。
「じゃあ、また後で」
陽子はまた急いでチャペルへ走って行く千夏を見送ってから、ゆっくりと中庭の中央まで足を進めた。
一度空を見上げ、それから、あたりを見渡す。テラコッタのタイルを埋めこんだプロムナード。芝生の緑が濃い。つるバラはまだ咲いていないが、膨らんだ蕾の淡いピンクが可憐だった。
植え込みのマーガレットや桜草がホテルの中庭という場所の豪華さを優しい雰囲気に変えている。陽子はそれらを順に見てまわり、虫がついていないかどうかや、植物の育ち具合などを確認した。
桜草のシーズンが終わったらここにはゼラニウムを植えよう。赤いゼラニウム。夏に映える美しい赤。あの花には除虫の効果があると教えてくれたのは、哲司だった。
陽子はポケットから手帳を取り出し、土の消毒と植え替え時期についてメモした。
夕方、退社時刻になると陽子はロッカーで着換えて千夏と晩ごはんを食べに出かけた。
千夏は制服のかっちりしたスーツから柔らかなシフォンのチュニックに着替え、軽快で明るかった。
二人はかつて哲司も含めた三人でよく出かけたイタリア料理屋へ行き、ブルスケッタや生ハムを食べながらワインを飲んだ。
「それで、どうしたって?」
千夏はフォークの先でアンチョビ詰めのオリーブを突き刺しながら尋ねた。
陽子はいざ自分が誘っておきながら、一体なにをどこから話していいか分からず「うん……」とか「いや、ちょっと……」とか切れ切れに言葉を継ぐことしかできなかった。
実際、なにから話すべきなのか見当もつかないほど事態は複雑な気がした。
言葉にすれば単純なことだったかもしれない。自分は哲司と婚約したがそれが破棄になり、だいぶん落ち込んで、昨夜は乾燥機からアフロの男が出てくる幻覚を見た。それが今日までの経過。しかし、それを説明するにはどんな言葉を尽くせばいいのかがまるで分からなかった。
「……なんか色々ありすぎて……」
陽子はやむをえず、力なくそう呟いた。
「……うん」
千夏が頷いた。
「まさかこんなことになるなんてね……」
とも。
「哲司くんはなんて……?」
「なんだろう……。ほんと、急だったから。まだ結婚する自信ないとか、もうちょっと時間欲しいとか言ってたけど……。自信ないって言ってもプロポーズしてきたのは向こうだし……」
陽子は白ワインを啜った。
この店は裏通りに面しているが、オープンカフェの様相を呈していて、中折れ式の扉が今は半分ほど開けてあり爽やかな風と夕方特有のくたびれてどこか埃っぽい空気が流れこんでいた。
店内は適度に混み合って賑やかで、陽子はこの気の置けないカジュアルな乱雑さに少しほっとしていた。どうしたってシリアスな話ししかできないのだ。せめて周囲は明るい方がいい。
「話し、進んでたんでしょ。揉めたんじゃないの?」
「揉めたよ。うちでもあるじゃない? キャンセル。それに、見学に来て意見が合わなくてその場で大喧嘩になって、ほんとに別れちゃうとか……。あれ見ていつも大変だなって思ってたけど、実際は私らが見てる百倍ぐらい大変」
「親はどうしたの?」
「それも大変。泣くし、怒るし。哲司の親も来て、そりゃもう大騒ぎ。哲司はなに聞かれても、ごめんなさいの一点張りでろくに理由も説明しないし……。まあ、時間が欲しいとか自信がないっていうのが理由じゃあ誰も納得しないしね。マリッジブルーって男もなるんだっけ?」
「……どうだろう……」
「ようするに、結局、私を好きじゃなくなったってことなんだけどさ……」
「そう言われたの?」
「ううん。そうは言わなかった。でも、そういうことでしょ」
千夏もワインを啜って、せつなそうに眉根を寄せた。
「だからってわけじゃないんだけど……。なんか、私、ちょっとおかしいっていうかさ……」
「なによ、おかしいって」
「あの、これ言ったらどん引きかもしれないんだけど……」
「なに? なんかあったの?」
陽子はためらいつつ、尚も続けようとした。
が、続けようとしてふと視線を開け放された扉の外へ向けて、ぎょっとして言葉を失ってしまった。
「どうしたの?」
愕然として硬直している陽子に、千夏が焦れたように先を促した。しかし陽子は通りの一点を見つめるだけで声も出なかった。
信じられないことに陽子の視線の先には昨夜のアフロが映っていた。
アフロは通りの向こう側に立って陽子を見ている。昨夜も思ったが、本当に巨大だ。たぶん180センチ以上あるだろう。けれど、アフロの膨張で優に190センチは超えている。
陽子は涙ぐみながら言った。
「私、頭おかしくなった……」
「やだ、なに言ってるの?」
「だって……」
鼻の奥がつんとする。声はすでに泣き声だ。千夏は慌てたように陽子の手に自分の手のひらを重ねた。
「しっかりしてよ」
「……」
「……ねえ、陽子。あれ誰……? 知り合い?」
「え?」
視線をあげるとアフロが笑いながら手を振っている。
千夏は陽子の手を握ったまま不審そうに顔を歪めてもう一度言った。
「でかいアフロね」
「千夏、見えるの?!」
陽子は思わず頓狂な声をあげた。
「そんなに目は悪くないわよ」
そう答えた千夏はまるでその言葉を裏打ちするように、あろうことかアフロに愛想笑いをしながら軽く手を振り返した。
「まさかナンパじゃないよねえ?」
「……」
信じられない。乾燥機から出てきたアフロが今度は街の雑踏に現れるなんて。
陽子はワインの入ったグラスを掴むと一息に呷った。そうでもしなければ正気を保っていられなくて。しかも、そうしている間にもアフロはこちらへやって来るではないか。平然として長い足でアスファルトを踏みしめながら。
「ちぃーっす」
アフロは二人のテーブルまで辿りつくと、今時の若者同様に首をひょいとすくめるような挨拶をした。しかし陽子はその姿を間近に見るのが怖くて、顔をそらしたまま黙っていた。
一体、自分は頭がおかしくなったのか。それとも何者かに騙されているのだろうか。所謂「ドッキリ」みたいなものに。
「ちょっと、無視せんとってくださいよ」
「……」
「なに怒ってるんすか」
アフロがなんの邪気もなく朗らかに陽子の顔を覗き込んでも、陽子は頑なに唇を噛みしめて黙っていた。
陽子のそういう態度にアフロは苦笑いしながら、連れである千夏に向かって、
「すみませんね。お邪魔して。あ、ここ、座っていいっすか」
「あ、はい。どうぞ」
千夏は咄嗟に空いた椅子を勧めた。
「ちょー、ほんま、無視すんのんやめましょーよ。人の話しちゃんと聞いてよ」
あろうことかアフロは片手をあげて店員を呼び、ビールを注文した。
「お友達ですか?」
「あ、私は同期で……」
「へえ、同僚なんや。でも、えらい若くみえますやん」
「年は私の方が下だから」
「あー、どうりで」
アフロは異様な人懐こさで千夏に話しかけ、千夏も戸惑いながらもそれに答えている。
それは自分の預かり知らぬとところで世界が変質し取り残されていく孤独の味を思わせる。
陽子はとうとうたまらなくなって、
「あんた一体なんなのよ! あつかましいわね! なんでいきなり現れんのよ?!」
と怒鳴った。
驚いたのは千夏だった。失恋直後の、友人でもある同僚がめずらしく真剣に、切実な顔で誘いにきて半泣きの顔をしていたのに、そこへ明らかに年下であろう若い男が現れて馴れ馴れしく話しかけると思ったら、いきなり怒りを爆発させるなんてどういうことなのだろう。
千夏はテーブルを叩いて今にも立ち上がりそうな陽子を「まあまあ」と制した。
「えーと、あなた達どういう関係なの? 友達?」
「ちがうよ!」
「そうっす」
陽子とアフロが同時に答える。
ビールが運ばれてくるとアフロはグラスを手にして、女二人に言った。
「ま、とりあえず飲みましょうよ。おつかれさまでーす」
グラスの中で金色のビールが細かい泡を立てて弾けている。悪びれもせずグラスを掲げるから、千夏は思わず自分のワイングラスを取り上げると反射的にアフロと乾杯をした。
「えーと……」
千夏は陽子をちらと見た。けれど陽子は何も言わない。ただ憮然とした表情で黙っている。千夏は内心、陽子のこういう融通の利かない頑なさが前々から恋愛向きではないと思っていた。
恋愛向きなんて性質があるのかというと、どうとは言えないのだけれど、少なくとも男に愛されやすい性質はある。陽子の真面目さはそのまま硬質な印象で、男を怖気づかせる。頭がよくて、冷静であろうとする性格はいつだって正論を言おうとする。それもきちきちの正論で、言いわけ一つ許すゆとりもないほどに。
可愛げがないのよね、ようするに。千夏は心の中で苦く笑う。アフロは気持ちのいい飲みっぷりで、咽喉をのけぞらせてビールを流し込んだ。
その美しい、妙に健全な佇まいと隆起する咽喉仏を見ながら、千夏ははっとして再び陽子に視線を投げた。
陽子の話しはこれか……? 失恋直後の友人が、自分の頭がおかしくなったと半泣きで言う。それはこの男のことなのか? 確かに陽子の相手にしては若いし、まさか学生でもないだろうけれど、何をしているのか分からないとんでもないアフロのことを言いたいのだろうか。
千夏はアフロを見つめながら、外見はさておき、そう悪い人間でもなさそうだと仕事の時にお客の好みや恋愛遍歴、財布の中身まで推し量るように観察眼を働かせた。千夏は充分にアフロを検分すると、訳知り顔で微笑んだ。
「陽子、大丈夫よ。心配しなくても別におかしくないよ」
「えっ」
びっくりしたのは陽子だった。千夏は妙に穏やかに、すべてを知ったような調子でうんうんと頷いてみせるけれど、陽子にはなにが大丈夫なのかやっぱり分からなかった。
「待ち合わせてたんならそう言ってよ。ていうか、紹介してよ」
「しょ、紹介? 誰を?」
「彼、でしょ?」
「ええっ」
千夏の言葉の意味が初めて分かった陽子は椅子から転げ落ちそうなほどのけぞった。
「ち、違う違う違う!」
陽子は両手をぶんぶん振って、全力で否定した。
乾燥機から出てきたアフロを新しい恋人にするなんて冗談じゃない。第一、当分恋愛なんてしたくもないと思っているのに。陽子の頭の中に「食傷」という言葉が浮かぶ。
しかし、またはっと気づく。そういう問題ではない、と。
アフロが自分の何かなんてどうだっていいのだ。問題はアフロの姿が千夏は勿論のこと、店の店員にだって見えているということだ。自称悪魔という男の姿が……!
「ぜんっぜんそういう関係じゃないから! むしろ無関係なのよ! いや、そうじゃなくて、千夏、本当に本当に見えてるの?」
「なに言ってるのよ?」
千夏はきょとんとして陽子を見返した。
「別にいいじゃない。世間体とかそういうの気にすることないわよ。次の恋愛に早いも遅いもないわ。むしろ、早い方がいいぐらいよ。立ち直っていける証拠じゃない?」
と、まるで諭すように言った。
そしてさらに、
「よかったじゃない」
とまで付け加えた。
陽子はそれを聞いていたアフロがにやりと笑うのを感じ、キッと睨みつけた。
「ね、ずいぶん若いみたいだけどどこで知り合ったの?」
「……こ、コインランドリー……」
陽子が観念したようにぼそりと答えると、アフロが椅子の背に背中を預けてぶっと吹きだした。
「ちょっと運命的な出会い方してもうたからな」
「へえ、運命的?」
「やめてよ!」
「テレんでもええやん」
「やめてったら!」
ムキになる陽子とからかうように笑うアフロの男。千夏はそれを見比べて、肩をすくめた。
誰だって自分のしていることが本当に正しいのか分からなくて不安に陥り、確かめたくなるものだ。千夏は陽子が自分を正当化したくて今日誘ってきたのだと納得した。
それにしても、哲司と比べてあまりにも違う相手なのが千夏には少しひっかかっていた。
哲司は造園会社で設計の仕事をする、当たり前のサラリーマンだった。背が高くて細面、細いフレームの眼鏡をかけているのがいかにも朴訥で善良そうに見え、実際真面目な男だった。それなのに哲司のようなサラリーマンとはまるで違う若い男を次の相手に選ぶとは、確かに意外というより乱心のようでもある。
食事の間中、千夏の目が探るように陽子とアフロを見つめるが、陽子は無口になりワインばかりをひたすら啜った。
そんな陽子をよそに千夏とアフロは、
「仕事、なにしてるの?」
「便利屋みたいなこと、かな」
「へえ? あ、引っ越し手伝ったり、犬の散歩代行したりっていうのあるよね。そういうの?」
「ま、そんなとこ」
「そういう仕事でその髪型ってありなの?」
「別に駄目ってことはないねん。もっとすごい奴とかおるし」
「ふうん。自由なのねえ」
といった具合に、普通の、初対面らしい会話を交わしている。
こういう時の千夏を陽子は大人だなと思う。何が起きても動じないで、臨機応変に対応しようとする。それもにこやかに、美しい笑顔を崩さないで。
それに比べて自分はどうだろう。慌てるばかりで、今だって子供が拗ねて不貞腐れるように黙ってワインを飲んでいるだけだ。
食事が終盤に差し掛かっても陽子はほとんど喋らなかった。千夏はそんな陽子を「照れて」いるのだと思い、幾度もくすくすと忍び笑いをした。笑うたびに片頬に笑窪が浮かぶ。
アフロは旺盛な食欲を見せて、ピッツァやミラノ風カツレツを追加注文し、綺麗にたいらげていった。
実に奇妙な晩餐だった。それぞれが腹の中を探り合い、誰も真実など知らず、何も信じるものがない状態。空腹が満たされても、まるで釈然としない空気が漂う。
陽子は当初の目的を見失い、今はワインを飲み過ぎたせいで視界がぼんやりとするのをどうにか正気を保っていた。
千夏が腕にはめた華奢なブレスレット型の時計を見た。
「あら、もうこんな時間?」
「二軒目、行きます?」
アフロが言った。
なぜこのアフロはこんなにもしゃあしゃあとしているのだろう。陽子はもうアフロを睨むよりは頭を抱えてその場に突っ伏したくなった。
「うーん、悪いんだけど私は明日早いから……」
「あー、そうなんすか」
「陽子は明日休みだっけ?」
「え? 私?」
「陽子、今日はやけに飲んだわね。顔が赤いよ」
「う、うん……」
「私、しばらく忙しいのよ。資料まとめたりとか、デスクの仕事で」
言いながらすでに千夏は帰り仕度になっていた。
陽子もそれに促されるように身支度をし、鞄から財布を取り出した。そして今になって初めて、自分が話しを聞いて欲しくて、いや、もう、正確には泣きつきたくて千夏を誘い、それなのにろくに話しもしなかったことを思い出した。
「今日は私が誘ったから」
陽子は同じく財布を出しかけていた千夏を制して、さっと手をあげて店員を呼んだ。
「えー、いいよ、そんなの」
「ううん。いいの。なんか、一方的な感じになっちゃったし……。本当はもっと色々聞いて欲しいことあったんだけど、それはまた改めて」
店員がテーブルに勘定書きを持って来ると、陽子はカードで支払いをした。
「あんまり気を使わなくていいんだよ」
「でも、私、今日いっぱい飲んだしさ」
「それじゃ、今度、私がなんか奢るわ。……私も聞いて欲しいことあるし……」
「うん」
「……それにしても、元気みたいでよかったわ」
女二人のやりとりをアフロは黙って聞いていた。
店を出て千夏が帰ってしまうと、陽子はその背中を見送りながら、結局事態はなにも変わっていないことに気がついた。
頭がおかしくなったのではないとしても、アフロはここにいるということ。この事実を一体どう受け止めればいいのだろう。
「さー、あんたの願いごと、ひとつ言うてみ」
陽子はアフロを見上げた。やはり、アフロはその髪の分だけより大きいと思った。
陽子は二軒目の店にいつも利用する路地裏のバーを選んだ。壁には映画のワンシーンを大きく引き伸ばした額がかけられていて、お酒の種類がやたらに豊富で、適度なざわめきと静けさがあり、かつて哲司ともよく訪れた店だった。
哲司が去って一人残っても陽子はその店を好きで変わらず立ち寄り、マスターと世間話をしたりする。いつもはカウンターに座るところを今日は敢えてテーブルの方に陣取ったのは、突然若いアフロの男を伴って不審な顔をされたくなかったからだった。
世間体を気にするのが自分が大人であることの証明のような気もするが、それはある種のプライドでもある。自分で自分を愚かしいと思うのはよくても、他人からそう思われるのは屈辱で許し難いことだ。
ちゃんと働いて、仕事を任されるようになり、後輩を指導し、化粧して、適度に流行の衣服を身につけ何が起きても「世はすべてこともなし」という顔をしておかなくては陽子は自分のアイデンティティを証明できないような気がしていた。ようするに知的で取り澄ましたクールな姿を維持しないと自分の心弱さを露呈してしまう。それが怖くて陽子は仕事や化粧で自身を鎧っていた。
陽子がジントニックを注文するとアフロも同じものを頼み、店内を見回しながら、
「よく来るん?」
と尋ねた。
「別に、よくってことはないけど……」
「一人で来るん?」
「基本的にはね」
「なんや、基本って」
「一人じゃない時もあるってことよ。現に今はあんたといるじゃない」
「あんた、理屈っぽいなあ」
「……」
陽子は余計なお世話だと言いたかったが、黙っていた。
理屈っぽいとは陽子が一番言われたくない言葉だった。女だからとか、女のくせにと言われたくなくてすべての事柄を明晰な言葉で伝えるようにし、理論立てて話すことにしていた。けれど理屈っぽさと女の可愛げは対極にある。しっかりしていて頭がいいなんて賛辞は時として女である陽子の足枷にも成り得るのだ。
ジントニックは新鮮で瑞々しいライムの香りがして、咽喉をスムーズに流れ落ちていった。
「煙草、ええかな」
「どうぞ」
アフロはジーンズの尻ポケットからひしゃげた煙草の箱を取り出し火を点けた。
陽子たちのテーブルの隣りにも四人ほどのグループが賑やかにカクテルやウィスキーを飲んでいて、その背景にシェリル・クロウが言葉を噛み砕くように、吐き捨てるように歌っていた。
アフロは煙草を吸いながら、言った。
「あんたの願いを叶える前に、注意することがあるねん」
「……」
「俺はあんたの願い事、どんなことでも一個だけ叶えるって言うたけど、どんなことでもっていうのは正確とちゃうねん」
「え」
「できへんこともある」
「……例えば?」
「まず、ありがちやけど願い事を叶え続けることを願うっちゅーのは反則やで」
「……ああ、そうでしょうね」
「分かってくれるか。あんた、飲みこみが早いわ」
アフロは妙に親しみのある顔でにっと歯を見せて笑い、灰皿に煙草の灰を落とした。見た目はまるきりその辺にいくらでもいる若いあんちゃんだ。陽子は困惑の中にも妙なおかしみを感じて、小さく笑った。
「次に、不老不死とか、そういう永遠系も駄目」
「なんで」
「永遠なんてもんはこの世界に存在せん。形あるものはいつか滅びる。命はもちろん、物質的にも、とにかく永久に時間や形態を留めておくことはできんのや。それは神も仏も悪魔も関係ない。宇宙の摂理や」
「科学的なのね」
非科学的な存在なのに。陽子はますますおかしくて笑う。
「それから、漠然としたイメージもあかん」
「イメージ? どういうこと?」
「例えば、幸せにしてくれとかはあかん」
「どうして? 幸せにって言ってるんだから、そうしてくれればいいじゃない」
「そんなら聞くけど、あんたにとっての幸せってなんや? 仮に、あんたを大金持ちにしたとしようや。けど、それが必ずしも幸せに繋がる保証はできへん。あんたの金を狙って、どんなトラブルが起きるかも分からへん。騙されることもあるやろ。なんぼ金があっても一人ぼっちでは幸せとは言えんやろ。金持ちになった途端になんや病気になって死ぬまで苦しみ続けることもあるかもな。それでは幸せとは言えんやろ」
「じゃあ、総合的に幸せになるようにしてくれればいいじゃない。適度なお金と健康と、友人や恋人や家族なんかとの円満な関係と、事故にあわない幸運と……」
「俺、最初になんて言うた? 願い事は一個だけやって言うたはずや」
「……ようするに、幸せにしてもらおうと思ったら必然的に複数の願い事をすることになるってわけね……」
「そうそう、あんたはほんまに頭ええわ。ついでに言うと、漠然としたイメージっていうのは世界平和とかもあかんで」
「なんでよ。それは複数の願い事にならないじゃない」
「あんたにとっての世界平和ってなんや?」
「え……。戦争がない世界とか……」
「ふん。この前、アメリカの大統領が言うてたあれやな。核のない世界やな」
「あ、そういうことも知ってるのね」
「ニュースぐらい見てるで」
悪魔なのに? 陽子は思わずまぜっかえしそうになったが、笑いを噛み殺すようにグラスに口をつけた。
あれほど自分は狂ってしまったのかと不安でたまらなかったのに、今は胸の中で好奇心のようなものがじりじりと刺激され、手足の先がうずうずする。走り出す直前の、緊張と高揚感を感じている。
アフロもグラスのジントニックを啜ると、言葉を継いだ。
「核のない世界。それは可能やで。でも、その言葉通りゼロにしてしもたら、たぶん世界はいずれエネルギー不足で崩壊するで。核を使わんつーのは、原発もなくすことやからな。原発だけ残して核兵器は作らんなんて願い事はできんで。言うとくけど」
「それも二つの願い事になるから?」
「そう。それに戦争のない世界っていうのを叶えると、滅びる人種や滅びる国が出てくるで」
「えっ、どうして?」
「戦争っていうんは結局勝ったもんが正義や。そしてどっちかが勝たへんと終わらん。今、この世界にどんだけの争い事があると思てるねん。全部を終わらすにはどっちかが死なんとあかん」
「そこを平和的に解決することはできないの。停戦とか和解とか」
「無理やな。平和なんて、都合のええもんやで。言うたやろ? 勝った方が正義なんやって。それぞれの理屈で戦争しとる。噛みあわへんから戦争や。片方にとっての平和が、敵にとっての平和とは限らんっちゅーこっちゃ。あんたの思う世界平和が全人類共通の価値観とも限らん。せやから、漠然としたイメージはあかんねん。そこまで徹底して厳密に、一個だけの願いで丸く収めるのはぶっちゃけ無理やで」
「……」
「あ、でも、方法がないこともないな……」
「なに?」
「あんたが世界の王様になるっていう願い事やな」
「は?」
「あんたが世界の支配者になるねん。そしたらあんたの手腕で世界を平和にしたらええやん」
「む、無理……」
「ま、無理やろな」
「あんたねえ!」
陽子が叫ぶとアフロははははと声を上げて笑いながら、カウンターの中で立ち働いているマスターに片手をあげて、いつの間にか空になったグラスを振ってみせた。
「あんたは?」
「あ、私もおかわり……」
アフロは頷いて指を二本立てた。
「まだあるで」
「まだあるの? なんだってそんなに制約が多いのよ」
「そらあ、やっぱりきっちり願い事聞こう思たらそんぐらいなお断りは先に言うとかんと。何でも叶えたるっていうのは便宜上や。物理的に無理なこともあるねんから」
「悪魔って万能じゃないのね……」
「すんませんな」
「まあ、いいわ。それから、なんだって?」
「超常現象、物理的に不可能なことはお断り」
「と、言うと?」
「タイムトラベル、超能力……透視やら空飛ぶやら、人の心読むやとかはあかん。仮面ライダーやサイボーグ009みたいになるのも、もちろんドラえもん連れてこいっていうのも不可」
「……なんで」
「そういう人、どこにおるねん?」
「え」
「この世に存在せんもんは実現できん。それはどんな力を使ってもな」
「ということは、魔法使いとかキューティーハニーも……」
「あかんな」
「サイボーグ009やドラえもんって人間の頭脳が科学の力で作り出したものって設定じゃない?」
「ふん」
「それじゃあ、そういうものを開発できる能力っていうのはどう? 天才。超天才。タイムマシンも発明しちゃうような天才。それはどう? できないの?」
「あんた一体なにになりたいねん」
「……」
「不可能ではないけどな」
「ほんと?!」
「けど、それ、あんた一人の力ではできへんやろ」
「というと?」
「あんたを超天才にして、タイムマシンを実現可能にしたとしよか。けど、あんたはそれをどこで作るねん? しつこいようやけど願い事は一個しか叶えへんねんで。タイムマシンの設計図ができても、それをほんまに作るには一体何十億ぐらいかかるやろうか? 場所は? 動力はどっからとる? この時代にそんな発明にスポンサーつくやろか? あんたな、スペースシャトルかって考えた人が自分一人で作ったわけやないやろ。自分で考えて自分でできる範囲言うたら……ペットボトル飛ばすとか、鳥人間コンテストぐらいが限界ちゃうか? バック・トゥ・ザ・フューチャーはあくまでもフィクションやからな」
「もういいよ!」
陽子は不意に強く言い放ち、足を投げ出すようにして椅子の背に深々ともたれた。
「なんでも叶えるっていって、そんなに制約あったらなんにもできないのと一緒じゃないの」
「怒らんでもええやんか。今の制約は全部常識の範囲やろ。そない難しく考えんでもええやん。金持ちになりたかったらそれもええし、ものごっつい別嬪さんになるんもええやん。出世もええし。あ、そうや、誰か芸能人と結婚するでもええんちゃう? 好きな俳優とかさあ。あんたにかってそういう夢ぐらいあるやろ?」
陽子はむくれたように腕組みをし、しばし思案に耽った。
確かにアフロの言うような夢や願い事がないわけではない。宝くじが当たればいいと思っているし、実際に毎回宝くじは買ってしまうし、仕事だって今よりもっと大きな、世界に冠たるようなホテルに引き抜かれでもしたらと思うとわくわくする。「ものごっつい別嬪」というのもなってみればまた違う人生があっていいかもしれない。ドラマチック。好きな俳優といえば妻夫木くんもいいけど、佐々木蔵之介もいい。
そこまで考えて陽子は胸の中に冷たい風がふっと吹き抜けるのを感じた。宝くじは当たってないが、今、陽子の口座には結婚の為に貯めた額がそのままある。大きなホテルからのスカウトはないけれど、今度のブライダルフェアの企画は陽子の案が採用され、ほぼ全面的に任されている。それが成功すれば社内での評価もあがるだろう。妻夫木くんは素敵だし結婚なんてしたら毎日有頂天に違いない。でも、陽子が結婚しようと思ったのは哲司一人だった。
陽子は願い事を考えることが侘しかった。自分は決して多くを望んだわけではないのに、なぜたった一つの大事な願いだけは粉々に砕けてしまったのだろう。むしろ自分は他になにも望まなかった。哲司との未来だけが自分の希望であり、夢だったのだ。
愛し合って結婚を決めたはずが無に帰した今となっては、陽子はもう何も信じられないような気がしていたし、同時に一つ一つ時間を、信頼を、恋を積み重ねることが虚しく思えて全身から力が抜けて行くようだった。
気力を失うとはまさにこのことである。
陽子は二杯目のジントニックを飲みほしてしまうと、くるりとカウンターを振り向いた。
「ケンさん、マティーニをロックでベルモット多め、オリーブ抜きにしてください」
マスターが陽子の注文を複唱した。マティーニをロックで飲むのは哲司の好みだった。
造園会社に勤めるだけあって植物に詳しくて、ベランダで葱や三つ葉を育てているようなどこか間抜けで憎めないところがあった。林檎の皮を剥くのが上手で、おおざっぱな陽子をよく笑った。声を荒げるタイプではなかったけれど、時々頑固で、こうと決めたら譲らないようなところもあった。だからだ。だから、別れの理由も話してはくれなかったし押しとどまる余地もなかった。
マティーニが運ばれてくると、おもむろに陽子はロックグラスの中の大ぶりな氷を指先でくるくるとまわした。
もしも私の願いが哲司とやり直すことだとしたら……。陽子はちらとアフロに視線を投げた。
「なんか思いついた?」
「願い事、聞いてくれるのは分かった。でも、そのかわり……っていう取引条件についてはまだ聞いてない」
「あ、それ。うん。そうやな。いや、それは全然難しいこととちゃうで。なーんも怖いこともない。あんたの願い事一個だけ叶える、その代わりに、あんたの寿命から一年分をくれたらええねん」
「一年分?」
「そう。たったの一年やで。な? なんてことないやろ? こんなお得な取引ないで。現代における人間の寿命なんか、えらいこと長なってるやないか。しかも女の人の方が長生きや。その命からほんの一年分引くぐらい、どうってことないと思わへん? 100が99になっても、別にええんとちゃう?」
「それはまあ……」
「よっしゃ。納得してもらえたみたいやな。ほんならあんたの願い事、言うてえな」
グラスの氷に触れていた指がきんきんに冷えて痛かった。陽子はその指を唇に当てて、またしばらく難しい顔をした。
哲司と別れていなければ、今ここでアフロ相手にしょうもないファンタジーについて話し合うこともなかったし、あのまま話しが進んでいれば今頃結婚式の打ち合わせに忙しくしていたはずだった。
仕事で行う数々の披露宴の打ち合わせ。参考になるようでならない雑誌の切り抜き。お客が持ち込む夢の数々。プランナーからまわってくる進行表を見ながら陽子の心は他人の甘い夢に押し潰されてしまう。あれらはすべてご都合主義的な恋愛ドラマだ。そんなものに一体なんの意味があるのだろう。ほんの一瞬の出来事に過ぎないのに情熱をかける理由が分からない。甘言も時が過ぎれば戯言に変わる。すべては虚しいだけのものだ。
「……ないわ」
「え?」
「やっぱり、私、特に願い事ないわ」
「そ、そんな! そんなん困るわ!」
「なんであんたが困るのよ」
「困るもんは困るねん。なあ、なんか願い事してえな。頼むわ」
「ないものはないんだからしょうがないじゃない」
「ないはずないやろう。見栄張らんでもええやんか。どんな願い事したって誰かに分かるわけやないし、恥ずかしいことなんかなんもないねんで。さ、正直に言うてみ」
「本当にないんだってば。悪いけど」
「あんたなあ、人間っていうんはどんな時でも欲望を持ってるもんやねんで。どんな些細なことでも望みのすべては欲望や。美味いもん食べたいと思うことも欲望やし、綺麗な服着たいのも欲望」
「……」
陽子はアフロの狼狽と必死の訴えに少し呆れていた。
アフロの言うことも、分かる。確かに人間なんて欲望の塊だ。睡眠でさえも欲望にカウントされるのだから。しかし今の陽子は眠ることも、食事も、なにも欲する気持ちになれないのもまた事実だった。
陽子はアフロにふと微笑みかけた。
「あのね」
「ん?」
「私の中の欲望はすべて死に絶えてしまったの。私はなにも欲しくないし、なんの願い事もないの。ごめんね」
「……」
そう言ってグラスに口をつけると、涼しい香りと甘い舌触り、咽喉を焼くアルコールが体に沁み渡っていった。
アフロはため息をつくと長い脚を組み、煙草に手を伸ばした。
悪魔と名乗る割に煙草の銘柄が「ラッキーストライク」なのが可笑しかった。
「俺、あんたの願い事叶えへんと帰られへんねん」
「……」
「せやから、どうしてもあんたになんか願い事してもらうで」
口をつけていたグラスのマティーニが少しずつ減っていくと共に陽子の目は酔いと眠気で赤く濁っていった。
「あんたのことなんか知ったことじゃないわ」
「まあ、そない言わんと」
「帰れないなら帰らなきゃいいじゃない」
「そんな」
「だいたいねえ、私はあんたを信用してるわけじゃないんだから」
「信用?」
アフロはきょとんとした顔をして煙草を灰皿に押しつけた。
「信用ってなんやねん」
「突然乾燥機から出てきた男の言うことなんて信じられないし、信じる気もない。今までの話しは面白かったから勘弁してあげるけど、もう二度と私の前に現れないでちょうだい。学生だかなんだか知らないけど、これ以上悪ふざけに付き合うほどヒマじゃないんだから」
陽子は酔っているという自覚があった。その証拠に頭の芯が揺れている。
それにしても、この会話。まるで痴話喧嘩のようではないか。哲司とさえこんな会話をしたことはない。
考えてみたら、二人は喧嘩らしき喧嘩をしたこともなかった。哲司はおっとりしていたし、陽子もそう感情的になる性質ではないから、何か意見の合わないことやむっとすることがあったとしても、怒りにまかせた物言いをすることはなかったし、陽子なりに先の先をシュミレーションして自分の訴えがただのわがままや醜いものにならないように努めていた。
そんなだから喧嘩になりようもなかったのだが、それが正しかったのかどうかは分からない。ただ言えるのは哲司が本当には何を考えていたのか、陽子には結局は分からなかったということである。
もっと生々しくぶつかりあっていたら。魂を削るような戦いを繰り広げていたら。そうすれば互いをもっと深く知ることができたのだろうか。
あの時哲司は時間が欲しいと言った。それが二人がもっと近づくための時間であったなら、陽子はまだ納得できただろう。そして引きとめる余地もあっただろう。
「それじゃ、帰るわ」
「……」
「洗濯もしなくちゃいけないしね」
陽子はすでに立ち上がり、上着の袖に手を通している。アフロは何か言葉を探しているようだった。
「ここの飲み代、あんたが払ってよね」
「えっ」
「私、さっきの店で払ったじゃない。あんたに奢る理由なんかないんだから」
「あんた、ほんまに厳しい人やなあ……」
「じゃあね。さよなら」
混み始めた店の中、誰も二人に注意を払う者はなく、陽子はカウンターの中で忙しく立ち働いているマスターにさっと手をあげた。
「ごちそうさまでした」
「あ、もう帰るの?」
「うん」
「明日はお休み?」
「うん、そう。またゆっくり来ますね」
扉に手をかけたところでアフロが渋々と立ち上がるのが視界をかすめた。
陽子は表へ出ると、いきなり通りへ向かって駆け出した。まるで何かから逃げるように、振り切るように。
ヒールの足先が痛かったけれど、陽子は夜の街を駆け抜けて駅前からタクシーを拾った。後ろを振り返ることはしなかった。でもアフロが追ってきている様子はなかった。
急に走ったのでますます頭の中がアルコールに侵され、世界がぐるんぐるん回り出すような錯覚を覚える。タクシーの後部座席でぐったりとシートに背中を預け、車窓から見える車の流れを見つめていると、陽子は泣きたいような笑いだしたいような不思議な気持ちになった。
自分はアフロのことなど信用できないと言ったけれど、果たして、それでは一体どこの誰なら信用できるというのだろう。あれほど信じた人さえも、信用できなくなってしまったというのに。
馬鹿馬鹿しいことを言ってしまった。陽子は一人、苦笑いを浮かべる。それでも今夜のお酒が美味しかったのはアフロのおかげだったかもしれない。雨が降っているわけでもないのに車窓から見える車のライトが滲んでいるのを、陽子はアルコールのせいだと自分に言い聞かせていた。
毎日はなんだかんだ言っても忙しく過ぎて行く。そのことに陽子は感謝していた。
自分の企画した仕事の準備が忙しく、それもオフィスで机の前に座りっぱなしやパソコンの画面を睨みっぱなしというものではなくて、厨房へ走り、業者に直接出向き、電話をかけまくり、打ち合わせの為に人に会っては手ばしかくぴしぴしと話しを進めて行く。これが薄ぼんやりしたデスクワークばかりだったならば、陽子は間違いなく発狂していただろう。
大袈裟だとは思うが、本当にそう感じていた。
それでも今回手掛けた企画がブライダルフェアだったというのは皮肉なことだった。
これまでに陽子が企画したのは宴会場でのシャンソンのリサイタル。元タカラジェンヌにオファーをし、相当数の動員を確保できた。それから子供向けマナー教室。小生意気なガキどもをまとめるのに苦労したものの、これもそれなりに成功を収めた。
そうして、ある意味満を持してのブライダルフェアの企画だったのだが、今の自分からはもっとも遠くせつない企画だと思った。
陽子は模擬挙式の段取りと進行表を作成し、関係部署へ回送し、引き出物のカタログのサンプルや配布見本の部数を後輩に指示すると、自分は午後から提携するヘアメイクサロンへ出かけた。
サロンはホテルからほど近いこぢんまりした雑貨屋やブティックの並ぶ界隈にあり、吹き抜けのガラス天井から差し込む光が眠気を誘うほど気持ちよかった。
近頃はホテルにヘアメイクが常駐することはなく、お客が直接サロンで当日までの打ち合わせをする。そして担当の美容師が挙式当日にホテルに出張してくるようになっていて、場合によっては二次会用にもメイクやセットを請負ってくれるのだ。
陽子はフェアの日にヘアメイクのデモンストレーションを盛り込んでいて、その打ち合わせにやって来たのだった。
所詮、カタログはカタログだ。ドレスだって現物を見ないと分からないというのに、ヘアメイクだって仕上がりを見たいと思うのが当然だろう。しかもこれは結婚という、一応、定義としては「一生に一度」のこと。だから取り入れた企画だった。
実際、それらは陽子が自身の披露宴の打ち合わせに向けてドレスや髪形を雑誌やネットから検討している時に感じたことでもあった。
どんな写真でも現物の質感やニュアンスが分からないし、アップにするにも巻き髪にするにもどのぐらい長さがあればいいのか、また、長さが必要ならば準備期間の間にどうやって伸ばし整えていくべきなのか。陽子はそういう具体的な準備についてもっと知りたいと思った。
本番に向けての準備の、さらに下準備のようなもの。当日を迎えるまでにしておくこと。本当に似合うかどうかのシュミレーション。出来上がっていく過程までももっと細部に渡って知ることができたなら。ほんのわずかな一日の出来事にすぎないのに、失敗の許されない一日のために。
陽子はこのフェアをぜひとも成功させたかった。その熱意は仕事への意欲ではなく、自分の結婚が破談になったことへの意地みたいなものかもしれないが、少なくとも自分が経験したような相手の心変わりを誘い出すような失敗を誰にとっても作らないようにできたらと思っていた。
サロンのオフィスでコーヒーを飲みながら、広報担当や実際にヘアメイクをしてくれる数人の美容師たちと打ち合わせをする。ポートフォリオの必要性について。素人モデルの手配について。髪形のアドバイスやカウンセリングを受けられるブース設置について。
話しを進めて行く中で、ふと陽子は思いついて美容師に尋ねた。
「あの、これは全然関係ないんですけど」
そう前置き、
「現実的にそうあるシチュエーションではないんですけど、例えば新郎新婦がすっごくファンキーな感じをご要望だった場合ですけど……」
「えっ、そんなことってあるんですか?」
「いえ、だから、ないと思うし、今まで私は経験ないんですけど」
驚く美容師の横で広報担当の女性が、
「でも、これからは全然ないとは言えないんじゃないですか? なんでも個性の時代ですもんね。自分らしさを追及したい人たち多いじゃないですか」
と笑った。
「でも、ファンキーってどんなんです?」
「……アフロとか」
「アフロ! 新郎がアフロ?」
「なんとなく思いついたんですけど……」
「うーん。その場合、新婦はどうしたらいいのかなあ」
「お揃いになるようにアフロのカツラにするとか?」
「ああ、まあ、アリっちゃあ、アリかなあ」
「そうねえ、色はピンクにしちゃうとかねえ」
なんでそんなことを聞いたのか、陽子自身も分からなかった。単なる興味だったとも言えるし、アフロがあれからどうしたのかが気になるせいでもあった。
どこの学生の悪戯だか知らないが、今考えてみると手が込んでいた。一体どうやって乾燥機に入っていたんだろう。不思議でしょうがない。
陽子の言葉に真面目にディスカッションするサロンのスタッフに陽子は、
「そういうこともできますよっていう提案だけでも用意しておくとお客様も聞いてて楽しいと思うんです」
「そうですね。デモは無理ですけど、トータルコーディネートの提案ぐらいできるように何か考えておきます」
「あの、なんか変なこと言ってごめんなさい。なんとなく、アフロの人が来たらどうしようなんて考えちゃって……」
「いえいえ、色んな人が来ますもんね。あとはモデルさんですねえ……。どうしましょう? うちのお客様からも募集かけますけど、そちらのスタッフからも動員できませんか?」
「ああ、そうですね。何人ぐらい必要ですかね……」
陽子は気を取り直して万年筆を握り、手帳を開いた。
「若い人がいいですよね。えーと……」
頭の中でホテル内の「適齢期」な女の子を思い浮かべる。
「岡崎さんはどうですか?」
「えっ? 私?」
「そう。まさかアフロとは言いませんけど」
「いやあ、当日、私は無理ですよー」
「ですかねー。でも、岡崎さんにもやってもらいたいなあ。ほら、岡崎さんっていつもこういうの裏方仕事でしょ」
「ありがとうございます。お気持ちだけで。っていうか、私じゃあちょっと年いきすぎだし、上からクレーム来ちゃう」
「まさか、そんな」
オフィスに笑い声が充満する。陽子も笑いながら、上司に言われた言葉を思い出した。
破談になったことを知る上司から今回の企画から陽子をはずそうかという打診を受けた時、陽子は怒りと屈辱のあまり卒倒しそうになった。
上司が陽子の気持ちを慮って(おもんぱかって)くれているのは分かっていた。それでも「君もつらいだろうから」などと言われるのは、余計につらいとなぜ気付かないのか。仮に陽子の気持ちが本当にそうであったとしても、自分の仕事を投げるつもりはなかったし、ましてや自分の企画を他の人に預けるつもりも毛頭なかった。
陽子は上司に胸を張り、澄ました顔で答えた。「大丈夫です」と。
依然として何が「大丈夫」なのか分からないことに変わりはなかったけれど、それ以外の言葉はないように感じた。いや、正確には「大丈夫じゃなければならない」のだ。そうでなければやっていけないし、その強迫観念だけが陽子を動かしていた。
陽子は打ち合わせを終えるとホテルへ戻る前にスターバックスに休憩に入った。
コーヒーとチョコレートバーを買って紙コップ片手に店内を見回す。ちょうど窓際の席が空いている。陽子はまっすぐにその席めがけて歩いて行った。そして椅子に腰かけるのとほとんど同時に、目の前の椅子が引かれ、
「お、偶然やな」
と、同じスターバックスの紙コップを手にしたアフロがすとんと腰をおろした。
「わっ!」
びっくりして陽子は思わず叫び、のけぞった。
「仕事中?」
アフロは当たり前のような顔で尋ねた。
窓の外は穏やかな日和で、通りを行く人々も車の流れもガラス越しなせいかどこかしら牧歌的に見えた。
「な、なに……」
陽子は自分を落ち着かせようと、深く息を吸い込んだ。
「なにやってんのよ……。まさか後を尾けてるとか言うんじゃないでしょうね」
「えらい言いようやな。そんなストーカーみたいなことせんでもあんたがどこにおるかは分かるねん」
「なんで分かるのよ」
「分かるから分かるねん」
「答えになってない」
「まあ、ええがな。そんなことより、願い事決まったんかいな」
「まだそんなこと言ってるの? あんた、どこの学生だかフリーターだか知らないけどね、悪ふざけもいい加減にしなさいよ」
陽子はチョコレートバーの包みを開きながら、なんだか自分はいかにも年上の女くさい説教をしているなと思った。そういうポジションは会社だけで充分だというのに。
陽子は社内でもすでに中堅の立場になりつつあり、新人教育を任されることもあるし、実際に後輩たちにも説教せざるを得ないことも多い。が、そのどれも、彼らから快く思われていないのを陽子自身が知っていた。即ち、口うるさいハイミスだと。
なにも陽子だって怒りたくて怒っているわけじゃない。注意しないと自分も当人も困ることになるから言うのであって、まさかプライベートに口出しするわけでなし、恨まれるのは甚だ心外だった。
だから陽子は哲司との破談を彼らに知られたくないと思っていた。口やかましい嫁き遅れだからフラれたなんて噂されるのはごめんだ。それが見栄だというなら、社会で働く女には見栄とは肌を健やかに保つ基礎化粧品なみに必要なものなのだ。
陽子は気を取り直すようにもう一度深呼吸し、今度はできるだけ優しく言った。
「私なんかにかまうより、他にするべきことあるでしょう?」
「な、なんや。気持ち悪いな……、急に優しい声だして」
「……」
「まあ、ええわ。俺もあれからちょっと考えてんわ」
「……なに」
アフロはコーヒーを啜ると陽子の手元のチョコレートバーに手を伸ばし、勝手にばきっと折って口に放り込んだ。つくづく遠慮のない奴だ。陽子はそう思ったが黙ってアフロがチョコレートを咀嚼するのを見つめていた。
「俺のこと、信用できへんって言うたなあ?」
「うん」
「あれはあれでもっともやなと思うねん。せやから、まずは俺の存在っていうもんを理解してもらわんならんと考えてん」
「はあ」
「ようするに、あれやな? 俺が悪魔やって言うのが信じられへんねんよな?」
「普通はそうでしょう」
「そしたらどないしたら信じてくれる?」
アフロはテーブルに肘をつき長い指を顔の前で組み合わせ、陽子の目をまっすぐに見ていた。
仕方がない。陽子はため息をついた。
「悪魔って一体なにができるの」
「空とか飛べるで」
「……とか言って、ひょいってジャンプして見せるのは駄目よ」
「……うーん……。あ、猫とかカラスとか呼べる」
「家で飼ってるとか言うんじゃないでしょうね」
「うーん」
「本当はなんにもできないんでしょう?」
「あ、その言い方、心外やなあ」
陽子は自分もチョコレートバーをひとかけ折りとって口にいれた。
甘い。この甘さだけが心をゆるやかにしてくれる。陽子はもう開き直ってこの状況を許容することに決めて、肩をすくめて見せた。若い男の冗談に付き合うのも女の度量かもしれないし、少なくともこうしている間は哲司のことを考えないですむ。
「とにかくね、あんたの力が証明されない限りは何を言っても駄目よ。願い事なんて考える気も起きやしない」
「……分かった。ちょー待ってや」
アフロはそう言うとおもむろにジーンズの尻ポケットから煙草を取り出した。それは例のラッキーストライクで、陽子はちょっと笑って椅子の背にもたれて両腕を組んだ。
アフロは煙草を一本抜き取ると、陽子に差し出した。
「これ、持ってて」
「なに? 手品?」
「ええから持ってて。てゆーか、咥えて」
陽子は煙草を吸わない。だからその仕草は中学生が初めて煙草を吸ってみるような奇妙に緊張した様子で、表情はいくぶん強張っていた。
唇に触れる煙草の感触。乾いた匂い。陽子は「?」と目で問いかけた。
「あんまり人前でこういうことするのんあかんねんけど……」
アフロは呟くと、テーブルを挟んで右手の人差指を真っ直ぐに伸ばし、視線を煙草の先に集中させた。
時間にしてものの数秒だろうか。陽子はその時確かにアフロの指先から炎が現れるのを見た。
それは青い炎だった。マッチやライターの黄色い火の色ではなく、本当に青い炎。怪談に出てくるような、人魂を思わせるほどの冷たい青。それがアフロの指から出たかと思うと煙草の先に近づいてきて、微かに紙の焼ける音がして、次いで細く白い煙が漂い出た。
陽子は唖然とし、口をぽかんと開いた。火の点いた煙草がテーブルにころんと落ちた。
「うそ……」
陽子は驚きの中に恐れとおののきを合わせて、アフロを凝視した。
「どうや、信じた?」
「本当に……悪魔なの?」
「だからそう言うてるやん」
アフロは得意げに煙草を拾い上げた。
陽子は悪魔というものが登場する小説や漫画や映画を思い出そうと記憶を巡らせた。悪魔と呼ばれし者はいつでもその邪悪な力で何でもできて、人心を掌握し、破滅をもたらす。概ね、悪魔が登場して幸福な結末に至ることなどないのが普通だ。
しかし、これまでに見たどんな絵画も実写も、悪魔がアフロであったことは一度もない。一体いつから悪魔にも個性が尊ばれるようになったのだろう。陽子は不意にさっきの打ち合わせのファンキーな新郎新婦が来たらという仕方話を思い出し、それではファンキーな悪魔が来たらばもっとどうするべきなのか比較にもならないようなことを考えていた。
陽子はアフロに悪魔的な牙がないか、耳はとがっていないかという証拠のようなものを探さずにはおけなかった。
「これで分かったやろ? なんでもできるねん」
アフロがそう言うと、グリーンのエプロンをかけた若い男がレジから飛び出し、陽子たちのテーブルめがけて走ってきた。
「すみません、お客様! 店内は禁煙です!」
アフロも陽子も煙草は吸っていなかった。そこにあるのは吸いつけずに火をつけた煙草。ライターやマッチを使わずに、もちろん木切れを擦り合せて火を起すような原始的な真似もしないで点火させたラッキーストライク。
アフロは「あ」と間抜けな声を漏らし、店員が大慌てで差し出した灰皿に煙草を押しつけた。店員はほっとしたように、
「申し訳ございません。お煙草は外のお席でお願いします」
「す、すんません……」
あたりは柔らかいけれど、きっぱりとした口調だった。
アフロはばつ悪そうな顔で陽子の顔色を窺っていた。今あるのは火の点いた煙草ではなく、消えた煙草が死んだようにつくねられた灰皿だけだった。
「……なんでもできるけど、スタバを喫煙にすることはできへんで……」
呟いたアフロは照れたように頭を掻いた。
信じられない。陽子は今見たものもまた違った意味で信じられないと思った。
「……私、仕事があるから戻らなくちゃ……」
陽子はどうにか声を絞り出した。隠しきれない動揺が言葉を重くする。アフロが本物の悪魔であることが怖いというよりも、これからどうしたらいいのかが分からなくて頭の中が大混乱だった。
そんな陽子の態度をよそに、アフロの言葉はさらなる衝撃を与えるものだった。
「じゃ、俺も行くわ」
「は?!」
陽子は思わず大きな声を上げた。店員も周囲の客も陽子たちを振り返った。けれど陽子にはそんなことは目に入らず、
「行くってどこに」
「あんたの行くとこどこでも行くがな」
「そんなの困る。だいたい、あんた、そんな非常識なこと……なに考えてんの?」
陽子はなじるようにアフロを責め立てた。
「いやいやいや、心配せんでも邪魔せえへんよ。それに、今は俺の姿他の人にも見えてるけど、これ、見えへんようにすることちゃんとできるし。とにかく俺はあんたに願い事してもらわんとあかんねん。あんたがなんか言うまで、俺はあんたから離れへんで」
「誰がそんなこと決めたのよ。勝手に決めないでよ」
「勝手もクソもあるかいな。運命やいうたやろ。ほんなら、それが神様が決めたことやいうたらあんたは納得するんか?」
「うち仏教だもん」
「またそういう理屈を……。とにかく、ついて行くからな」
アフロはそう言うと立ち上がり、紙コップを手にさっさと出口へ向かって行った。
戸惑う陽子を置いてアフロは通りに立ってこちらを振り返っている。あのスチールウールみたいに膨張した髪が眩しい光を受けて健やかに見える。まるで光合成する植物のように生きた力を感じる。
陽子は不意にヤケクソのような、もう、ほとんどやぶれかぶれな気持ちが胸に湧き上がってくるのを感じた。自分にだって今は生きた力などないのに、悪魔には生命力が宿っている。
陽子は食べかけのチョコレートバーを掴んで鞄に突っ込み、観念したようにすっくと立ち上がった。だったら。だったら見せて貰おうじゃないの。人間の果てのない欲望とやらを。心の中で呟く。
アフロに並んで歩道に立つと、陽子は挑戦的な眼差しでアフロを見据えた。
「あんたが本物なことは分かった」
「そうか、よかった」
「でも、私について来る以上こっちにも守って貰わないといけないルールがある」
「……ふん」
なんだってこんなに強い物言いができるのか、我ながら不思議だった。悪魔相手になんの引け目も怯えもなく、挑むように、ほとんど仁王立ちで向かい合う。アフロの背丈が哲司より高いことにふと気がつく。見上げる角度が懐かしい。
通りを行く人々は忙しげに二人の脇をすり抜けて行く。注意を払う者はいない。
「まず、あんたの姿は絶対に見られてはいけない」
「分かった」
「それから、私の尊厳は守ること」
「というと?」
「どこでもぴったりくっついて来て貰ったら困る。私にもプライバシーはある。トイレやお風呂は絶対禁止。もちろん、会社のロッカーも駄目」
「……分かった」
「姿を消して……なんていうのは言語道断だからね」
「それは心配ないで。俺は他の人から姿を隠すことできるけど、召喚者であるあんたから隠れることはできへんねん。まあ、言うなればお客さんとの間の信頼の為やな。俺が姿消せたら、あんた、俺を信用せんやろ」
「それなら大丈夫ね。おっと……もう行かなくちゃ」
陽子は腕時計を見た。釣られてアフロも陽子の時計を覗き込む。
「ほな、行きますか」
さっきまで午後の光が煌めいていたのが、今はすでに西日が濃い。世界がオレンジ色に染まりつつある。陽子はきっぱりと背筋を伸ばし歩き出した。
いつもの癖で大股で歩いて行く。靴の踵が高らかに鳴る。そのリズムに合わせるように、陽子は心の中で呟いた。「がんばれ、がんばれ」と自分自身に向けて。そうでもしなければ、今の自分ではとても悪魔に対抗できない気がしていた。
実際のところ、それまでは多少の不安もあったが、職場に戻ってみたらさらにアフロが「本物」であることが証明され、ますます陽子を驚かせた。
というのは、本人が言ったように本当に陽子以外の人間にアフロの姿は見えないらしく、ホテルに入ったところからもうこんなにでかいアフロがロビーを横切っても誰も見向きもせず、また、それを証明づけるかのようにアフロはわざとフロントのカウンターに腰かけてみせたり、廊下を走ってみたり、ペストリーブティックのショーケースに顔を貼り付けてみせたりした。
陽子はオフィスへ戻ると、早速各部署へ回送する文書を作り始めた。打ち合わせでも話していた、ブライダルフェアのモデル探しの文書を。
その間、アフロは物珍しげにオフィスの中を歩き回り、他のスタッフのデスクを覗いてみたり、空いた椅子に座ったりとまるで子供のように自由にしていた。
フェアには模擬挙式とドレスのランウェイ・ショー、ヘアメイクのデモンストレーションがある。ドレスは5点だから、モデルは5人としても、ヘアモデルには7~8人は欲しい。サロンでも探してくれるにしても、念のため待機させる要員もいるだろう。陽子は若くて可愛らしい感じの子と、できれば美人タイプの子と、大人の雰囲気の子とバラエティを揃えたかった。その方が色々なバリエーションを出せるし、より実際的だと思うから。
キーボードをかしゃかしゃと叩いていると、背後にアフロがやってきた。どうやら陽子の作成する文書を読んでいるらしく、しばらくすると不意に言った。
「あんたは駄目なん?」
「……」
突差に陽子は返事をしそうになり、かろうじて口元でこらえた。うっかり返事なんかしたら乱心かと思われてしまう。
「モデル、あんたはせえへんのん?」
アフロはもう一度尋ねた。
陽子は答えられなくて、代わりに「あー、うん、うん。ごほん」と妙な咳払いをした。
「そういうのん、女の人みんなしてみたいんちゃうん」
「……」
「しかし、まあ、色んな仕事があるねんなあ。忙しいねんな、あんた。そら、願い事考える間ないかもなあ」
「……」
「けど、だからもうええわっていうわけにもいかんねん。なんか考えて貰わんと」
「……」
「俺、なんか手伝おか?」
オフィスには陽子以外に上司と、後輩二人がデスクで書き物をしている。彼らにとっては今この室内は静寂に満たされているだろう。が、陽子だけはアフロの声に取り巻かれ、翻弄されてとても頭がまとまらなかった。
誰にも聞こえない声。陽子はその声が自分だけに聞こえていることが、まるで自分の心の中を表しているようだと思った。
陽子の嘆きものたうちまわりたくなるような苦しみも、陽子以外の誰にも分からない。泣き言は陽子の中でだけ幾度もこだまのように響く。それは陽子の声の、陽子への反射だ。
どうにか回送する文書が出来上がると各部署にメール送信し、陽子は後輩に声をかけた。
「斎藤さん、今度のフェアで配るデザートサービスのチケット手配はもう済んでるのかな」
「あ、今、原稿を……」
「今?」
陽子は後輩の答えにぴくっとして、椅子ごとぐるんと回転しそちらを振り向いた。
後輩は明らかにびくついている様子だった。当然である。フェアの当日に見学者に配るホテルのデザートサービスチケットはもうずいぶん前に、それこそ企画が通った時から頼んでいた仕事だったのだ。
後輩は叱られると思い、ほとんどデスクのパソコン画面に隠れるように身を縮めていた。陽子はそれを見てため息をついた。
怒られるの分かってるのに、どうしてそんなことするんだろう。なのに怒ると後で陰口きくんだから、陽子にしてみれば本当に割に合わない。
「もう時間ないから、急ぎ原稿仕上げてこっちに回してね」
「はい……すみません」
「池田くん、当日の見学申し込み、もう集計できてるんでしょ? 多少の上下は予測のうちだから、人数を厨房に申し送りしてくれる」
「あ、はい」
「……集計、できてるの?」
「えーと、だいたいは」
「だいたい? 確認はできてるんだよね?」
「……」
「それ、数が出ないと厨房が困るの分かるよね?」
「すみません……」
「今、分かる数字だけでも教えて。私から大島料理長に現状連絡申し送りするから」
「はい……」
陽子はきびきびとした言い回しの後、つきたくなくても出てしまうため息をつき、なにか途方もなく虚しい気持ちにさせられた。
仕事は好きだ。楽しいし、充実している。後輩が少々うっかりしていても、それだって仕方ないと思っている。自分だって最初はそうだったのだから。でも、今の自分は本当にかつて自分が成りたかった自分だろうか?
陽子が入社した当初も仕事に厳しい先輩はいた。泣くほど叱られたこともあるし、失敗も多かった。辞めようと思ったこともある。けれど乗り越えてここまで来た。来れたのは、厳しかった人たちのおかげだと、一山越えてみて分かった。そして思ったのだ。いつか自分もこれを誰かに返さなくてはいけないと。
今となってはただ尊敬できる先輩たちに教わったことを次の人に引き継いでいくことが自分の役割だと思うし、それこそが自分が成すべきことだと思う。……それは決して口うるさいだけの「お局」とは違うはずだった。
後輩たちが慌てて働き出すのを横目に陽子は引き出しからファイルを取り出し、捲り始めた。
すると背後のアフロがなにげに言い放った。
「こわー」
陽子はそれを聞いた途端、椅子を吹っ飛ばす勢いで立ちあがった。
びっくりしたのは周囲の後輩達で、陽子が怒りだすのかと身構えた。しかし陽子は誰に怒るでもなく、むしろ全員に向かってにっこり微笑みかけ、
「ちょっとチャペルに行ってきます」
と宣言した。
全員がびくびくしながら頷き、返事をし、陽子が出て行くのを待って……それからどっと緊張を解き放って一斉に大きく息を吐きだした。
陽子はそんなことは知らずオフィスを出ると、絨毯敷きのフロアを大股に突き進み、中庭に出て、これも一気に通り抜け、開け放されたチャペルの扉をくぐって誰もいない中へと入った。
そして背後をついて来ていたアフロをやおら振りかえると、
「あんた、うるさい!!」
と怒鳴りつけた。
びっくりしたのはアフロで、「おおぅ」とのけぞった。陽子は目を吊り上げてアフロに詰め寄った。
「あんたはヒマでも私は忙しいのよ。見てれば分かるでしょ? 後ろでごちゃごちゃ言わないでよ! つーか、空気読みなさいよ!」
静かなチャペルの吹き抜けに陽子の怒り声がきんきんと響いた。
祭壇の後ろにはシンプルなステンドグラスが嵌まっていて、虹のような色彩の光を透かしている。白色大理石の床は冷え冷えとしていたが硬質で無垢で、こんな陽子の怒りなどおよそ似つかわしくなかった。
アフロは黙ってベンチに腰掛けた。
「邪魔するんなら帰ってよ」
自分の怒りが理不尽で、単なるヒステリーみたいだというのは分かっていた。でも止まらなかった。
精神の荒廃を忙しさのせいにするのはいやだったし、この程度な忙しさで根をあげたりする自分ではないと思っている。後輩たちの仕事ぶりもいつもの事だし、そんなことで怒ったりはしない。けれど、どうしてだろう、このイラだちは。腹立たしくて奥歯をきつく噛みしめ、拳を握り、肩を怒らせずには立っていられない。
陽子はスムーズにいかないことが嫌いだ。だから段取りをきちんとして事にあたりたい性格なのだが、このところ哲司との破局も含めて何もかもがスムーズではなくなっている。そのストレスが陽子を蝕んでいるのかもしれない。が、陽子自身がそれを認めたくはなかった。
陽子の怒りを浴びせかけられていたアフロはしばし思案するように黙っていたかと思うと、ようやく口を開いた。
「なんでそんな怒るん?」
「……」
「そんな怒るようなことやったか? あんたが仕事できるんは見てれば分かることやけど、あんまりてきぱきしすぎて情味ないから怖いと思っただけやん。だいたい、あんたの同僚ら、あんたに怯えてるやん。今頃あんたの悪口言うてるわ。なんぼ仕事できても、他人のストレスの原因になるっていうのは、どうなん」
「……」
陽子は突差に言葉が出なかった。
「あんた、自分の正しさを証明しようとして必死やな。けど、正しいなんてことほんまにあるんかいな」
「……なんであんたにそんなことが分かるのよ」
「分かるなんて言うてへん。思たこと言うてるだけや。とにかく、まあ、ちょっと落ち着きいな。神さんとやらにでも告白したらええんちゃう? ここ、教会みたいやし」
そう言われて陽子ははっとした。悪魔がチャペルに入っているなんて前代未聞だろう。陽子は急に自分が大変な失策を犯したような気がして、慌てて、
「出ましょう」
と、急いで出入り口へ小走りに寄った。
十字架を怖がるのは吸血鬼だったが、悪魔は平気なのだろうか。アフロは出て行こうとする陽子を尻目に、座ったまま祭壇の後ろにある小さく控えめな十字架を見ている。
出入り口から見るアフロは長い手足を持て余すようにベンチから投げ出し、柔らかな光のチャペルの中で奇妙にその姿が溶け込んで一枚の絵のようだった。
そこにある種の神々しさを感じた陽子はアフロに向かって言った。
「私、行くから」
不意に泣きたくなるほどの胸苦しさが咽喉を塞いで、陽子の声はか細かった。
アフロの言ったことは本当だった。時々、やればやるほど空回りするのを陽子自身が手応えとして知っていた。無論、仕事はきちんとぬかりなくこなしているつもりだ。が、その度に周囲に微妙な溝ができていくようだった。憎まれるほどではないにしても、煙たがられるような感じ。悪気はないのだが、言葉尻に情がないと言われるならそれだって本当のことだろう。アフロに言われなくても陽子自身が後輩から怖い先輩だと思われているのを自覚していた。
「あんたと喧嘩してもしゃあない。また後で落ち着いて話そうやないか」
「……」
「ほな、仕事頑張って」
アフロはそう言うと立ち上がり陽子の脇をすり抜けて、来た時同様に中庭を通ってどこかへ行ってしまった。
また後でと言われてもこんな時どうすればいいのか陽子はまるで分からなかった。そもそもアフロが日頃どこで何をしているのか、想像もつかない。陽子を待っている間だって何をするつもりなのだろう。いや、それ以前に何を話し合えばいいのか。少なくとも陽子は自分のことをアフロに話す気にはなれなかった。
それにしても「今頃悪口を言っている」にはこたえた。自分でもそう思えるだけに言われるとこたえるのだ。陽子はオフィスに戻る気力が萎えて、アフロの去った後の中庭に立ち尽くしていた。
うちに帰った陽子は着換えてから洗濯物を持ってコインランドリーへ行った。
洗濯物を入れた籠には缶ビールが二本入っていた。昼間にアフロとしたやりとりはその後も陽子の中でぶすぶすと燻っていた。
オフィスに戻ると後輩たちは指示された仕事に精を出していて、ほとんど陽子の視線を避けるようにパソコンの画面を睨み、デスクで分厚い資料のファイルを一心不乱にめくっていた。
陽子はオフィスの隅に置かれたポットでコーヒーを入れ、ふと思いついて、後輩の分も入れてそれぞれの席へ配って歩いた。
驚いたのは後輩たちである。ぎょっとして何か化け物でも見るような目で陽子を凝視した。陽子は一言「分かんないことや、できないことがあったら声かけて」とコーヒーと共に言い置いて、自分の仕事に戻った。
罪滅ぼしのつもりもなければ、後ろめたさもなかった。そういう理由でしたのではない。もちろん悪口を言われるのを回避したくて人気取りの為にしたのでもない。ただ、そうしてみたかったのだ。それだけ。そうすることで自分の気持ちが軽くなるとかいうことでもなく、本当に思いついただけだった。
しかし、アフロに言われなければ思いつきもしなかったのも事実だった。
陽子は洗濯機を回し、ベンチに腰かけた。白ペンキの壁のところどころに汚れが目立つ。洗濯機の動作音が低い唸り声のように聞こえる。
陽子はガラス戸の向こうに広がる夜に視線をやり、もう世界には自分と洗濯機しか存在しないような気持ちになった。今、この宇宙で自分と分かりあえるのは洗濯機のみである、と。
失恋を泣きながら誰かに訴えたり愚痴をこぼしたりするには自分は見栄っ張りすぎる。千夏にもっと詳細に泣きごとを漏らせば彼女はちゃんと受け止めてくれるだろうけれど、そうしてしまうのも大人としてどうなんだろうとつい憚ってしまう。
いやそれよりも、哲司の突然の申し出は裏切りめいたものがあり、陽子をうちのめした。以来、陽子はなんだか何もかもが信じられないような気がして、こんなところで唐突に「人はみんな一人なんだ」というしょうもない真実を見出していた。そして陽子は今一人きりで洗濯機と向き合っていた。
洗濯が終わり、洗濯機の中から衣類を引きずりだして乾燥機に放り込むと、陽子は扉を閉めようとして今一度中身を改めた。
ここからアフロが出てきたのだ。何度見てもただの乾燥機だというのに。
一瞬自分の頭がどうかしたのかと思ったが、どうかしてるのは世間の方だ。陽子は再びそんなことを思った。
失恋の痛手はまだ胸をえぐった生々しい傷のままで、血が滲むのを感じている。その傷が疼く度に誰にも優しくする余裕を持たない自分に溺れていく。
一体なぜ別れたのだろう。どうしたら続けることができたのだろう。陽子は恥ずかしながら、恋が終わりつつあったことも、もしやとうに終わっていたかもしれないこともまるで気付かなかった。
哲司の決意はいつからだったのだろう。なにがそんなに決定的だったのだろう。まるで分からない。分からないから、納得できないから、別れた今も気持を整理できないでいる。
大人の恋愛は理性的だ。ふと陽子は思う。例えば学生の頃や、十代のあの未熟な果実のような頑なで鮮烈な恋愛とはまるで違う。色々なことを計算しているし、先を読もうとして言葉を選ぶ。行動も理性的で、自分にとって不利な状態にならないように、面倒を避けるようにする。その結果、恋愛の渦中は概ね平和だ。思いやりに満ちていて、落ち着いている。穏やかな春の日のようでさえある。
しかしそれは裏を返せば事なかれ主義で、偽善的で、単なる面倒くさがりで、平和さは自堕落を連れて来て、落ち着きは無気力に成り変わる。
哲司との恋愛で陽子は声を荒げる喧嘩も意見のぶつかりもしてこなかったことを悔いていた。変に見栄を張って大人ぶらなくてもよかった。もっと泣いたり喚いたりして、魂のすべてを揺さぶり曝け出してておけばよかった。
陽子はベンチの上で片膝を抱えて、乾燥機のまわる音を聞いていた。
するとコインランドリーの入り口の扉ががらりと開いて、のっそりとアフロが姿を現した。陽子は「あっ」と声をあげて、ぱっと立ちあがった。
「洗濯、終わった?」
アフロが尋ねた。
陽子はなんと言っていいのか迷い、口の中でごにょごにょと呟くだけで言葉が上手く出てこなかった。
アフロはそんなことはおかまいなしに洗濯機の端にもたれかかった。
「今日はごめん」
「え」
アフロはすんなりと素直に謝り、頭を下げた。
「言い過ぎた」
「……」
陽子はあまりの唐突さにぽかんと口を開けていた。
「俺、いらんこと言うたな。ごめんな。あんた冷たいんと違うくて、真面目に働いてるんやんな。俺、そういうのん分からへんから……。まだ怒ってんのん?」
陽子はおよそ悪魔らしからぬアフロの素直さにどう答えていいか分からなかった。こんな素直さの存在を陽子はずいぶん長いこと忘れていた。仕事も恋もミスを避け、言質をとられぬよう神経を配り、言葉を選び、だから力のない萎びた言葉を差しだして、そのくせ伝わらぬことに憤りを覚えてきた。それも自分の心を語らぬ故と知っていながら。
陽子はごめんとすぐさま言えることにほとんど感動していた。
「……どこ行ってたの?」
陽子は乾燥機の中を覗き込みながら尋ねた。自分も言い過ぎた、ごめん。とは、言えなかった。言えない自分が恥ずかしかった。
「ちょっと散歩。あのさ、俺、思てんけど」
「なに」
「やっぱり、一日中あんたにくっついてると仕事の邪魔やろ」
「……そりゃ、まあ……」
「けど、俺はあんたにくっついとかんとあかんねん。そこで、考えたんや。俺はあんたの視界から見えへんとこにおることにする」
「……それって……」
「ようするに、あんたの死角に入るっちゅーことや。だって、あんたから姿消すことはでけへんねんからな」
「……なんか、それ変質者みたいじゃない?」
「失敬やな! そんなしょうもないもんと一緒にせんといてんか」
「別にいつもいなくてもいいんじゃないの? あんたも用事とかあるでしょ?」
「悪魔の用事なんか知れとるわ」
「そうなの?」
一人のコインランドリーに、アフロの巨大なタワシみたいな頭とやけに派手なTシャツが極彩色を添えている。一度とはいえ悪魔の力を目の当たりにすると、陽子の中にさまざまな疑問が湧きあがってきた。一体アフロは誰の為に、なんの為に人の願いを叶えておいて命のいくばくかを奪っていくのだろう。その命はなにに使われるのだろう。それに、悪魔が嘘をつかない保証がどこにあるのだろう。
「ほら、これ」
陽子の疑問をよそにアフロはポケットからサンバホイッスルを取り出して寄越した。
「なにこれ」
手のひらに乗せられた銀色のホイッスルとアフロを陽子は交互に見た。
「俺に用事ある時はそれ吹いたら、すぐ来るから」
「これを吹くの?」
「そう」
「なんでサンバホイッスルなのよ」
「持ち歩けるし、手頃やん」
「あ、そういう理由なのね」
「俺、ラテンも結構好きやねん」
「……」
一瞬、陽子は吹いてみようかと思い口元まで持っていったが、思い直してそのままポケットにいれた。
「ラテンって、ラテン音楽? サルサとか?」
「そうそう」
「ふうん」
乾燥機が終了の合図を鳴らす。陽子はその電子音を聞くと扉を開けて、熱く乾いた衣類を取り出した。
このドラム式乾燥機の中から出てきたアフロの悪魔がラテン音楽を好きだという。この事実。陽子は笑いをこらえる為にわざと難しい顔をして眉間に皺を寄せていた。
洗濯用の籠に白いシャツや靴下やらを突っ込むと、アフロはそこから覗いていた陽子の紺色のブラや黒いパンツなどを目にとめ、
「あんた、地味な下着穿いてるねんな」
と言った。
陽子はアフロをじろりと睨んだ。
「地味じゃないわよ。上品って言ってよね」
「物は言いようやなあ」
ポケットに入れたサンバホイッスルが腿のあたりに硬く触れる。願い事はまだ浮かばない。けれど、あの泥沼に沈んだようだった心がほんのわずかに浮き上がったようで決して悪い気はしなかった。
陽子は洗濯籠にいれていた缶ビールをアフロに差しだした。
「これ」
「くれんの?」
「うん」
「ありがとう」
アフロはまたも素直にビールを受け取り、すぐにプルタブを抜いた。
「じゃあ」
洗濯を終えた陽子がコインランドリーから出て行くのをアフロはビールを飲みつつ、笑って見送っている。夜が深くて、濃い。陽子は静かだなと思った。静かだけれど、ちっとも寂しい感じではないな、とも。
部屋に戻り洗濯物を畳んで片づけている間も、陽子はアフロのことを考えずにはおけなかった。それは無論、怖いとか存在そのものが半信半疑だとかではなく、アフロは普段なにをしているのだろうとか、食事はどうするのだろうとか、ラテン音楽の他にはなにが好きなのだろうとかいう初めて会った人に対するのと同じ疑問と関心。奇しくもそれは哲司との恋愛当初と同じであったが、陽子自身はそんなことは完全に忘れて黙ってサンバホイッスルを眺めていた。
悪魔がいつでも自分を監視している。それは気持ちの良いことではないけれど、陽子はどうせ自分から見えないところにいるのだからゴキブリが潜んでいるようなものと割り切ることにして毎日仕事に出かけた。
そして以前と変わらない生活の中で、アフロとはコインランドリーで洗濯をするわずかな時間だけ姿を現してその日の事を話すようになっていた。
そうしてみるとますますはっきり分かるのは、アフロがやはり「悪魔」であることで、姿が見えないだけで確かに昼間も陽子の周辺にいて、ちゃんとその日の出来事を「知って」いることだった。
例えば、陽子がその日食べた食事の内容も上司とのやりとりも、打ち合わせも、後輩への叱責もアフロは見聞きしており、夜ともなるとそれらについて意見や感想を言う。
「あんた、酒もようけ飲むけどメシもけっこういくなあ」
とか、
「今日、打ち合わせに来てた男の人が美容師? 結婚式には女の美容師の方がええんちゃう?」
とか、
「いっつもあんたに怒られてる若い子、あれ、あかんで。やる気ないやん。どうせ続かへんわ。怒る値打ちもないで」
とか。
それらに陽子も、
「お昼は沢山食べないともたないのよ」
や、
「男の人に来てもらうのは、あれは新郎の為のデモンストレーションよ。実際はヘアメイクはみんな女性よ。でも、それも差別的よね」
や、
「怒られなくなったらおしまいよ。まだ今はその時じゃないわ。怒る側に根気がないなら、初めから注意なんてするべきじゃないわ」
といった具合に答える。コインランドリーで。
それまで一人で洗濯していたわけだが、こうして話し相手ができてみると陽子はランドリーに行く度にビールや缶チューハイ、小袋に入ったピスタチオなど二人分持参するようになった。
洗濯をして乾燥機にいれて、取り出すまでざっと40分。世間話をしながらビール一本飲むには適当な時間だ。
そして陽子が洗濯籠を持って引き上げる時、アフロは決まって陽子に尋ねる。
「で、願い事は?」
陽子は笑って手を振る。アフロは大袈裟にため息をついて肩を落とす。
陽子はアフロが言うところの「運命」というもので悪魔を呼び出してしまったことが申し訳ないような気がした。願い事はどうしても思いつかなかった。
その日も陽子は仕事を終え、コインランドリーへ向かうべく洗濯籠を取り上げたところだった。すると同時に電話が鳴り、受話器をとると実家の母親からだった。
「もしもし、陽子?」
「ああ、お母さん。どうしたの」
「どうって……。元気にしてるの?」
「元気だよ。最近けっこう忙しい」
「そう。いやね、この前、お隣の鈴木さんからすっごく沢山夏みかん貰ったんだけどね」
「ふん」
「それがものすごく酸っぱいのよ。鈴木さんの田舎で作ってるらしいんだけど。ちょっと食べられない酸っぱさなのよ」
「でも夏みかんってそういうもんでしょ」
「けど食べられないほどっていうのは、あんまりじゃない?」
「まあ、そう言われるとそうだけど」
「でしょう? でも、捨てられないじゃない? もったいなくて」
「でも食べないんでしょ?」
「食べないわよ。お父さんも食べないって言うし」
母親からの電話は、陽子の破談以来こうしてちょいちょいかかってくる。内容はいつもこんな調子で、母の世間話だ。
陽子は以前よりも頻繁に電話をかけてくるようになった母親の気持ちを思うと、それまで平気で「今、忙しいから」とか「また今度にしてよ」とろくに聞きもしないで無愛想に電話を切っていたことが申し訳なく、同時にせつなくなる。職場でばりばりやっている大人のポーズの陽子が子供の気持ちになる瞬間だった。
「だいたい、そんな食べられないような酸っぱいのをくれるってどういうことかしらね。普通そんなの人にあげないわよね」
「だって食べないと酸っぱいか甘いかは分からないじゃない」
「くれた本人は分かるはずじゃないの」
「じゃあ鈴木さんは自分がいらないものをうちにくれたってこと?」
「そんな人じゃないんだけどね」
「じゃあ、なんなのよ?」
陽子は笑いながら、洗濯洗剤の箱を指先でとんとんと叩く。母は陽子の洗濯機が壊れたことは知らない。
哲司が婚約破棄を申し出た時、陽子の母親は陽子の前で目を赤くして、
「あんたが謝りなさい」
と言った。
「なにがあったか知らないけど、あんたが謝らないと駄目。男の人は自分が悪くても謝れないんだから、女が折れないと」
陽子は謝るもなにも事態を説明するのにひどく骨を折った。
それは陽子にも訳が分からなかったせいもあるが、それより母が哲司と「別れてはいけない」と言い募るからだった。
母は哲司を結婚相手として気に入っていた。大学を出てきちんと働いて収入も安定していたし、背が高くて見た目もそう見苦しくなく整っていて、実家の両親も姉妹も善良な人々であったから、娘を嫁がせるには最適だと思ったのだろう。それに、母ぐらいの年代の人にはどうしたって男女同権の意識は根づいていない。母が陽子に喧嘩なら「謝れ」というのも無理からぬことだった。
しかしなんと言われても陽子には「別れない」という選択肢はなかった。いや、陽子になかったのでは、ない。哲司になかったのだ。陽子はこの別れ話において完全に「受け身」でしかなかった。
結局、陽子は母親に事の次第のすべてを告白するはめになり、それはみじめで情けなく、また自分の恋愛を母親に詳細に話さなければならないのが恥ずかしくて泣けて仕方なかった。
ようするに「哲司がもう自分を好きではない」のだということを説明するということ。それは陽子にとっても事実を自らの手で決定的にしていくような作業だった。
その後、哲司側から婚約破棄が正式に申し入れられるまでの間、陽子は自分よりも落胆する母親を見る方が何倍も辛かった。
哲司は陽子を傷つけたが、陽子は自分の母親を傷つけたと思う。そして陽子の傷が癒えないように母親のそれも癒えることはないのだろう。
「ねえ、夏みかん、いる? 送ろうか?」
「だって食べられないんでしょ?」
「困ったわあ」
「うーん。ああ、それじゃあ、ジャムにするわ。送ってよ」
「ほんと? 助かるわ」
「作ったら送り返してあげる」
「あんた、そういうの得意だもんね」
「まあね」
「ああ、それから」
「なに」
「夏休みはいつ頃とれそうなの」
「ええ? 夏休み? そんなのまだ分かんないよ。トップシーズンだもん。9月までは休めないと思うよ」
「あんた、体壊さないようにしなさいよ」
「分かってる」
「それじゃ、夏みかん送るからね」
「うん」
「じゃあね」
電話を切ると陽子はほうと一息ついた。
本当なら、夏には新居に引っ越していた。陽子は洗濯籠に手を伸ばしかけて、ためらい、またため息をついた。
一人暮らしの長い陽子は、一人なりの知恵で楽しく暮らしている。ジャムを煮ることだって楽しいと思えるほどに。そういう性格なのだ。アイロンがけは苦手だけれど、掃除や洗濯は苦にならない。料理だって得意な方だ。一人だからといって手を抜くこともない。一人で作って、一人で食べる。お酒も飲む。だから「二人」は想像できなかった。
一人では何もできないような女になりたくなかったし、そんな女ではないつもりだった。だから哲司との関係においても自分はきちんと自立していたかったし、依存する女にならないように、いつも哲司に対して背筋をぴんと伸ばしていた。が、そのことにどれほどの意味があったのかと、今、思う。自分が女である以上、相手は男であることに間違いはなく、そう張りつめなくても一人も二人も変わらないと、なぜ自然にすんなりと思えなかったのか。
頑なな心ばかりが水に浮かべた果実のようにたよりなくぷかぷかと揺らぐ。
陽子は立ち上がると財布をポケットにねじこみ、洗濯籠を置いて家を出た。
通りに人気のないのを確認すると、陽子は声を潜めて、
「ちょっと、いるんでしょ?」
と、ひっそりと猫を呼ぶように囁いた。
「ねえ」
夜の湿った空気がひやりと肌を刺す。道の片側に並ぶ民家の百日紅が花を咲かせ、毒々しいまでに濃いピンクが目を引く。
陽子はジーンズのポケットからそっとサンバホイッスルを取り出すと、ためらいつつひゅっと一吹きしてみた。
甲高い音がぴりっと空気を震わせるように鳴ると、陽子はどきどきしながらあたりを見回した。
「なんや、急に」
振り向くとそこにはアフロが立っていた。
「今日は洗濯せんでええのん?」
陽子は目の前に現れたアフロの姿にほっとしている自分に気がついた。悪魔を呼んだというのにこの奇妙な安心感はどうだ。
「ねえ」
陽子は呼びかけて、言った。
「……飲みに行かない?」
「は?」
「嫌ならいいんだけどさ」
「なんや、急に」
「どうする? 行く?」
「……行く」
アフロは陽子の申し出に怪訝な顔をしていたが、返事をすると並んで坂を下り始めた。
「あ、ちなみに言っとくけど、これ、願い事じゃないから」
「分かってるわ!」
今日のアフロはカーゴパンツにオレンジ色のTシャツを着ていて、よく似合っていた。
アフロはその個性的な髪形のせいか派手な色合いの服が似合うし、どうも好む傾向にあるらしく、登場する時はたいてい真夏の太陽とリゾートを連想させる開放的で自由な色合いの服を着ている。ラテン音楽が好きというのに相応しいほどに。
アフロは歩きながら快活に「酒はテキーラが一番好きだ」と喋っている。陽子は頷きながら、同じ速度で歩く。陽子は夜なのにアフロを見ているだけで眩しいような気持ちになった。
二人は街へ出ると前に来たのと同じバーへ入った。遅い時間なせいか店は空いていて、二人はカウンターに座った。
アフロは一番好きだというテキーラを頼み、陽子はハイボールを注文した。
一体、周囲から見るとアフロと陽子の二人はどのように見えているのだろう。やはり男女が二人で飲んでいれば恋人同士かと思うだろうか。実際、千夏だってそのように誤解していたし、それが自然なのだろう。
陽子は奇妙な秘密を抱えた自分に小さく笑った。こんな秘密、誰に言っても信じるわけもないのに、でも、やはり秘密は秘密なのだ。冗談にしかならないような、秘密。精神を病んでいるととられかねない、秘密。全部事実なのに、自分は今ファンタジーの世界にいる。
ハイボールは涼しい味で舌先を刺激し、滑らかに咽喉を落ちていく。グラスの中で氷が音を立てた。
「そういや、もうすぐやな」
「なにが」
「あんたの企画したブライダル・フェア」
「そうね。忙しくなるわね」
「今でも忙しいやん」
「ヒマよりいいわよ」
「まあな」
アフロもテキーラにレモンを絞ったのをぐいとあけた。
「ヒマなの?」
陽子は尋ねた。
「前も聞いたけど……、あんた、普段なにやってんの?」
「そうやな……。俺はあんたらと違う時間軸におるから、時間の概念を持たへんねんけど、強いて言うなら、昼は寝て、夜は召喚されたり、契約者との間の契約を実行したりやな」
「契約者って私だけじゃないんだ」
「こっちも仕事やからな。一人じゃどうにもならんで」
「で、そのお代っていうのは、その……みんな同じなのかな。ようするに、私が払うのとってことだけど」
「いや、色々やで」
「じゃあ高い安いもあるわけね」
「サービスもあるで」
「セールも?」
「今がセールみたいなもんや」
スピーカーから流れるアレサ・フランクリンが、低く、パンチのきいた声で静かに空間を埋めていく。陽子はアレサの声に聴き入るようにグラスの縁を指で小さく叩いて黙り込んだ。
そんな沈んだ様子にアフロは、
「どないしてん」
と、陽子の顔の覗き込んだ。陽子は俯いたまま、
「ねえ、私の他にも人の願い事叶えてるんでしょ? 今まで、どんな願い事叶えてきたの?」
と尋ねた。
「あ、そういうのってやっぱり秘密だったりする?」
「……いや。ええよ。……そやな……、初恋を成就させたいっていうのがあったな」
「へえ?」
「ええ年して、もう結婚もして、子供もおるおっさんがな」
アフロがふっと鼻先で笑うのが分かった。陽子はマスターにお代わりを頼むと、ちらりとアフロの顔を盗み見た。
「高校の時に好きな子がおってんて」
「うん」
「けど、大人になって別れてしもたんや。その時の恋愛を今からやり直したいって」
「……それって……」
「おっさん、家庭的にあんまりおもしろうなかったんや。嫁さん、ごっつい鬼嫁で、子供はグレて父親なんか屁とも思てえへん。ようするに、おっさんはやり直したかったんやろな。人生そのものを」
「でも過去にさかのぼることはできないんでしょ」
「そうやで」
「それじゃあ、どうしたの?」
「叶えたったよ」
「どうやって?」
「その、初恋の人と会わせたったよ。で、ちゃんとくっつけたった。どっちもええ年したおっさんとおばさんやけどな」
陽子はいつの間にかアフロの顔をしっかり見据え、アフロもまた陽子の顔を見返していた。
陽子にとって初恋と呼べるのは高校二年の時だ。相手は同じクラスの男の子だった。陽子から告白した。およそ高校生らしい恋愛のすべてを、ようするに「初めて」するようなことは全部、その男の子と経験した。しかし、大学受験をきっかけに別れてしまった。一丁前に「すれちがい」なんて言葉が出るような、でも、たぶんそれが真実で、受験勉強に忙殺されているうちに心は離れ、気がついたらもう恋は終息を迎えていた。
別れる時、陽子は悲しさとせつなさに泣いた。単純に恋を失うことへの悲しさだったが、それよりも陽子はそれまでの思い出の為に泣いた。美しい思い出の数々が、ただの「過去」になっていくことへの涙。
大人になった今、確かに陽子にとってもその頃の恋愛は美しいイメージとして存在するし、懐かしくもある。あの頃、純粋に男の子を好きだと思えたことはある種の奇跡とさえ思う。が、だからこそ。二度と繰り返せないと知っていた。
「私だったら、再会しても好きにはならないと思う。だって相手が昔のままとは限らないもん」
「さあ、普通はそうかもな。でも、おっさんがそれを望んだんやから」
「よっぽど奥さんと別れたかったのね」
「別れてへんで」
「えっ」
マスターがちらっと二人に視線を投げる。が、すぐに目を逸らして知らぬ顔に戻った。陽子は声を潜め、
「……どういうこと?」
と、眉を寄せた。
「離婚するかどうかは俺の知ったことやないもん」
「なにそれ……」
「だから。初恋は成就したやん。二人、再会して、また付き合うようになったやん」
「でも、それは……」
「まあ、所謂、不倫やなあ」
「成就って言ったじゃない」
「結婚が成就やなんて聞いてない」
「そんなの屁理屈じゃないの!」
また、陽子は大きな声を出してしまった。アフロは奇妙な怒りに駆られる陽子に、ついぞ見せたことのない真面目な顔で言った。
「結婚が恋愛の最終的な形なんか? フランス人は事実婚つーのも多いやろ。結婚がゴールなんて思てたら大間違いや。そんなん人生の過程、通過点に過ぎんやろ。おっさんの願い事は恋愛の成就やったから俺はそれを叶えた。おっさんはどんな形であれその恋愛を死ぬまで続ける。望み通りにな」
結婚だって一つのゴールだ。陽子は今度は口に出さないで、胸の内で呟いた。
もちろん人生のゴールじゃない。そんなことは分かっている。でも一つの区切りであることには違いないだろうし、言うなれば駅伝の一区間。タスキを繋ぐ中継点ではないだろうか。そこが繋がらなければ、次の区間にも走り出すことはできない。
陽子は辿りつけなかった通過ポイントについて考えずにはおけなかった。果たして、あの先には何があったのだろうか、と。
ふと砂漠の蜃気楼を思う。そこに見えているのに、辿りつけない場所。まさか、そんな。陽子は頭を振って、厭世的な思考を追い払おうとした。
「なんや、えらいこだわるな。まあ、ええやん。恋愛は人それぞれなんやから。あんたが考えたかてしゃあないで」
「……」
「願い事も人それぞれ。いろいろやで。でも、そうやな……。人は大抵の場合長生きとか金とか、病気治すとか、モテたいとか、片思いをどうにかするとか、出世とか……そういうことを願うな。パターンは決まってるねんな。俺、人間のそういうとこ、好きやわ。俺らみたいにあんまり長生きするとな。色んなことに関心なくなっていくねん。生きることも死ぬことも、金も名誉も、どうでもええように思えるねん。あんた、願い事ないって言うたやろ? たぶん、俺もないと思うわ」
「人を年寄りみたいに言わないでよ」
アフロが煙草に火を点けた。長々と吐き出される煙が視界にうっすらと靄をかける。こんな風に世界のすべてが曖昧に、薄いベールをかけたようになっていればよかったのに。そうしたら無知で幸福でいられた。しかし陽子はもう世界を明晰な瞳で凝視してしまった。嘘も裏切りも悪意も偽善もそこかしこに散乱している世界を。そしてそこで生きていく術を知ってしまったのだ。
「ねえ」
「ふん」
「もし私がなんにも願い事しなかったらどうなるの」
「それは……、まあ、色々と……」
「罰とかあるの」
「……あんたはそんなこと考えんでええ。それより、願い事の方考えてえな」
「だって今思いつかないんだもん」
「だいたいの人はな、自分のことを願うもんや」
「自分のこと、ねえ……」
「洗濯機欲しない?」
「そんな願い事しないわよ」
陽子は声を立てて笑った。洗濯機なんて、わざわざ悪魔に頼んでまで叶える願い事なわけがない。
空になったグラスを揚げて見せ、お代わりを頼むとアフロはにやっと笑って言った。
「あんた、今日初めて笑(わろ)た」
「え」
「あんた、普段からあんまり笑わん人みたいやけど」
「そんなこと……」
「まあ、ええわ。飲もうや。せっかく来たんやから」
新しく手元に置かれたハイボールと、アフロのテキーラのグラスがかちりと合わせられた。
陽子は洗濯機がないことの不便さは今も感じていたけれど、だからといって洗濯機を買う気は以前よりもなくなっている自分に気付いた。むしろ、買うつもりはないと思うほどに。
「ねえ、その人、その後どうなったの」
「さあ? 俺の仕事は終わったからな」
「恋してんのかな」
アフロはもう陽子の質問には答えず、煙草を指に挟んだまま、大袈裟な身ぶりでこれまでに出会った人々の奇癖や奇妙な願い事を話し始めた。陽子はそれを聞きながら笑いつつも、いつか自分もこの話しの中の一人になるのだろうかと埒もないことを考えていた。過ぎ去ったこと、つまりは哲司のように過去の人になっていくのだろうか、と。
翌朝の目覚めは最悪だった。
どうやって帰ったのかは覚えている。二人ともふらふらで、タクシーを降りてからほとんど互いに支え合うようにして階段を上り、なだれこむように部屋に入ったのだ。その時、玄関先の靴箱の上にあった置きっぱなしの郵便物や広告の束を三和土いっぱいにぶちまけてしまったのも覚えている。
そして陽子はベッドから半分落ちながら、アフロはその足元の床に転がって鼾をかいて寝ていた。
陽子は起き上がるとアフロを踏まないように注意しながらバスルームへ行き、熱いシャワーを浴びた。頭の芯がまだ酔ったままにふらついていた。アフロも昨晩はかなりの量を速いピッチで飲んでいたから、後半は呂(ろ)律(れつ)がまわっていなかった。
それにしても。陽子は滝行のように激しくシャワーを頭から打たせながら、思う。アフロがこんなに長く自分の前に姿を現しているのは初めてだし、ましてやいつもはどこからか見ているとは言うものの、陽子からも見えるところに転がっているのもまた新鮮だった。
ふと陽子は、自分が若い男を部屋に連れ込んだと思い、我ながらおかしくて微笑した。床で眠りこけているアフロの寝顔は悪魔とは思えないほどに無垢だった。まさに天真爛漫。口を半開きにして、ぐうぐう寝ている姿は若さの象徴に思えた。
シャワーを浴び終えると陽子はコーヒーを入れ、仕事に行く仕度を迷いなく始めた。その間もアフロは微動だにしないので、陽子はしまいには死んでいるのではと心配になり、そばによってそっと寝息を窺った。
陽子は単純に外見だけでアフロを若いと決めているし、そう形容せざるを得ないとも思うが、恐らく実際には若いとか年寄りだとかいう観念も存在しない世界から来ているだろう。陽子なんかが考えもつかないような世界から。
陽子は職業上、身嗜みを整えているが総合的に見れば年相応だ。決して若いわけではない。そしてアフロは何歳だか知らないけれど、どう見たって二十代前半ぐらいにしか見えない。でもそれがアフロにとって「どうでもいい」ことなのだろうと思うと少し羨ましくもあった。
出かける支度をすませた陽子は、一瞬迷ったがテーブルに鍵とメモを残して家を出た。
出勤した陽子は、メールをチェックし、スケジュールを確認した。アルコールのせいで低い声で喋る陽子を後輩たちは苦笑いしつつ「大丈夫ですか」と労(いたわ)ってくれた。
青い顔の陽子を見る視線に、「またか」と思う。大丈夫かどうか、それは陽子が知りたいことだった。そして、なぜ大丈夫じゃなければいけないのか、心の底で疑問を感じていた。
仕事は一日中めまぐるしいほどで、用事が次から次へと湧いてくる。陽子はそれお片づけては、また違う仕事に立ち向かい、昼食時も電話をかけたり他の部署との確認事項に奔走し、気付くと午後遅くまでお茶一杯飲むこともできずにいた。
ようやく一段落して食事に出ようとすると、携帯電話が鳴った。
知らない番号だった。陽子はオフィスの椅子に腰かけたまま、うんと伸びをしながら電話に出た。
「もしもし」
「もしもし? 俺やけど、今、ええかな」
「……なに、この番号……」
電話の声はアフロだった。
陽子は思わず携帯電話を耳から離して、まじまじとディスプレイを見つめた。
「もしもし? もしもーし」
「もしもし? 聞こえてるわよ」
「あんた、仕事行くんやったら起してくれたらよかったのに」
「だって、がーがー寝てるから」
「宅急便きたから受け取ってハンコ押しといたで」
「ハンコ、どこにあるか分かったの」
「あんた、シャチハタを玄関の小物入れに入れてあったやん」
「……」
「部屋の鍵、後で返すわ」
「うん……」
「ほな、仕事頑張ってえな」
電話を切って、陽子はもう一度電話の履歴を見た。アフロからの電話は「携帯電話」からかけたものだった。
最近の悪魔は携帯電話持ってるのか……。陽子は感心したように頭を振って立ち上がると鞄を、取り上げた。
「食事に行ってきます」
陽子は上司に向かって言った。
すると、後ろの席に座っていた後輩が陽子を振り返り、
「電話、彼氏ですか?」
「えっ」
陽子はびっくりして、その場に固まってしまった。見ると数人の後輩たちがみんな陽子に注目している。
「岡崎さん、彼氏年下でしょ」
「そんな感じですよね」
「もしかして一緒に住んでます?」
陽子は冷汗が出る思いだった。善良で無邪気な後輩たちは純粋な好奇心に目を輝かせ、陽子に視線を注いでいる。この子たちが本当のことを知ったらなんと思うだろう。
……本当のこと? それは陽子が彼氏と結婚寸前までいって別れたことか、それとも乾燥機から出てきたアフロの悪魔がいつも自分を見ているということか、そのどちらが彼らに答えるべき「本当」だろう。
「彼氏じゃないよ」
陽子は答えて言った。それも「本当」のことだった。陽子は急にそう言いたくなって、言葉を続けた。
「彼氏、別れたのよね」
「えっ」
部下の会話を聞きながら書類に目を通していた上司がはっとしてデスクから顔をあげた。
そんな事、言う予定はなかった。これから先もこれ以上他の誰かに知らしめることはないし、必要性もないのだから。けれど、今、どういうわけか言いたくなったのだ。それもすんなりと。
お昼ごはんに何を食べるかを話すようにあっさりとした告白だった。陽子は一同に向かってことさらに微笑んでみせた。
「だから、今は仕事一筋よ。私のことは仕事の鬼とでも思ってちょーだい」
はははははは。陽子の呵呵(かか)とした笑い声がオフィスの困惑まじりの静けさを突き抜けて行く。固く引きつめられていた秘密のタガが一つぱちんと外れた。陽子は笑いながら軽い足取りでオフィスを出て行った。
彼氏と別れた重い事実も、こうして口にするとただそれだけのことと思えば、思える。そりゃあ、婚約破談のことまで自ら吹聴するつもりはないけれど、言えばその分だけこんなに身軽になるのだと陽子は驚きと安堵のあわさった気持ちになった。
ホテルを出ると陽子はファストフードの店に入り、カウンターで一人ハンバーガーに齧りついた。
不健康でカロリーたっぷりな味が口中に広がる。紙コップのコーラをストローで啜る。世界はこんなにもぞんざいで、こんなにも平和だ。陽子はハンバーガーを咀嚼しながら思った。
あの時、自分は世界の果てへ来てしまったような気がしていたけれど、なんのことはない。どんなに苦しく、涙と鼻水にまみれて悶えようとも、地球は丸く、世界の果てなどあろうはずもなければ、この世の終わりでもなかったのだ。そして、仮にそうだったとしてもちっとも孤独なことではないのだ。その証拠に陽子の髪はいつの間にか伸びているし、ハンバーガーは確実に陽子を太らせる。生きているから。
ピークをとっくに過ぎているせいだろう。店内は空いていて、陽子は眼の端で思わずアフロの姿を探している自分に気がついた。
ブライダルフェア本番まであとわずか。それがすんだら陽子はちょっと本気で願い事を考えてみようと思った。
陽子は実家から届いた「酸っぱすぎて食べられない」夏みかんを箱から取り出すと、まずは試しに皮を剥いてみた。
剥いた途端にその匂いに口中が唾でいっぱいになる。確かにいかにも酸っぱそうだ。分かっているのに確かめずにはおけないというのは好奇心というより性質だろう。
緊密に締まった果肉を包む白い房を陽子は丹念に剥いて口に入れた。途端、頬が痛いほど窪み、思わず「ううっ」と唸りながら唇をすぼめた。
震えがくるほど酸っぱい。まだ熟さない果実の味ではなく、永遠に酸っぱいままの、ある種のできそこないのような味だった。確かにこれではそのまま食べることはできないだろう。
実家からの宅急便の中にはこの夏みかんの他に陽子の好きな地元のお菓子や、これもどういうわけだか母がよく送ってくる五穀米……白米に添加する、スティック状に小分けされたもの……や、何を思って同封するのかストッキングや手拭いが入っていた。
アフロはこの宅急便を受け取った日から姿を見せていない。が、どこかから陽子とこの箱の中身を見ていると思うと、奇妙な気持ちになった。
夏みかんが恐ろしく酸っぱいことや、地元の薄くて甘い固焼き煎餅について、陽子は一緒に見ているはずのアフロと感想だとか世間話だとかの雑談をできないことに違和感を覚えていた。普通そこにいれば話題を共有するものなのに。
そう思うと陽子はサンバホイッスルを吹きそうになる。しかし呼びつけて話すほどのことでもないと思い直し、一人で箱の中身を片づけた。
所詮は悪魔。いくら近くにいても遠い存在なのだ。陽子の微かな逡巡は感情と理性の間を揺れるようなものだった。
陽子は夏みかんの皮を全部剥き、果肉だけを取り出して、皮はわずかな量だけを薄く刻んで果肉と共に砂糖に漬けこんだ。こうして一晩置いて、翌日に煮てジャムにするのだ。
結講な量の夏みかんを剥いたおかげで部屋中がみかんの匂いに染まっている。陽子はその匂いを部屋に残してコインランドリーに行き洗濯をした。
忙しいのかもしれない。陽子は洗濯をしている間、すっかり恒例となった缶ビールを一人で飲んだ。洗濯籠の中にはアフロの分のビールも入っていた。
週末、いよいよ陽子の企画のブライダル・フェアの開催日がやってきた。
朝から忙しく、見学者を迎える準備に追われあちこちに最後の確認で顔を出し、手にしたファイルをめくって各所をチェックしてまわった。
陽子はまさに「現場監督」だった。後輩たちも指示通りにてきぱきと動き、段取りはスムーズだった。会場には見学者の相談デスクをいくつも用意し、持ち帰り自由のカタログ類も充分用意した。これまでのウエディングの写真もアルバムを用意し閲覧自由にした。
正面に設けたステージと短いランウェイ。控室ではすでにサロンから来たヘアメイクさん達が準備を始めている。
陽子は音響担当のところへ行き、タイムテーブルを確認すると、また会場へ戻ってきた。するとそこへブライダルデスクの若いプランナーが走ってきて、慌てた様子で陽子に、
「岡崎さん、すみません! いいですか?」
「うん、なに?」
トラブルだ。陽子は咄嗟に身構える。が、できるだけ落ち着いた様子で、
「どうかしたの」
と問い返した。
「今日のドレスのモデルなんですけど」
「うん」
「今、連絡入って」
「ドタキャン?」
「食中毒で運ばれたらしいんですよ!」
陽子は興奮して思わず声が大きくなる後輩に、静かに、しかしぴしりと一言、
「声、大きい」
と注意した。
二人は並んで会場の出入り口へ向かって歩きながら、詳細を聞いた。
「うちのデスクの知りあいに頼んでたんですけど……。昨日、オイスター食べたかなんかで……」
「だいぶ悪いの?」
「おうちの方からの電話だったんですけど、今、まだ病院だそうです」
「そう。牡蠣はあたるとキツイからね。手があいたらこっちからも電話いれるわ。お見舞いはそっちで手配できるわね?」
「はい」
「その人、身長は? 予定のドレスのサイズは?」
「えっと……」
「宮本は? 控室にいる?」
表面的には見せないが感情的に昂ぶっている時、陽子は無意識に早足になる。この時も陽子は後輩が小走りで追いかけてくるのを待つことも合わせることもなく、絨毯敷きのフロアを闊歩して控室へ突進した。
ノックしてから扉を押し開けると、控室の中はドレスや小物で華やかな色に満たされていたが、その分だけ戦場のように慌ただしく、鏡前にずらりと女の子が並んで腰かけ、担当の美容師から化粧を施されていた。
千夏も忙しそうにドレスの着付けを手伝っている。陽子はすぐにそちらへ行くと声をかけた。
「キャンセル出たって?」
「ああ、陽子!」
「サイズ出てるよね? 靴のサイズも。髪の長さは? スタイルも決めてあったでしょ」
「これ」
千夏は自分のファイルからメモを取り出すと陽子に差し出した。
「代役、誰かそっちいない?」
「そうねえ……」
女二人は腕組みをした。
予定のサイズは割合に細めだ。陽子はその場にいるスタッフ全員に視線を走らせる。今から外部に手配しているヒマはない。ここにいる誰かで間に合わせなければ。
と、その時、陽子にドタキャンを告げに走ってきた後輩が「あっ」と声をあげた。
「どうしたの」
陽子がそちらを見やると、彼女はさも名案が浮かんだように顔を輝かせて言った。
「宮本さん、これ、サイズ同じじゃないですか?」
「えっ、私?!」
「髪の長さも同じぐらい……」
「私は駄目よ!」
千夏は慌てて、ぶんぶん首を振った。
陽子はそんな千夏を頭のてっぺんから足の先までじっと見つめた。
「私は今日は会場で相談係だもの」
「いや、いいわ」
陽子は言った。
「千夏、ショー出て、その後から会場に戻って」
「ちょっと、陽子!」
千夏はほとんど非難するように叫んだ。が、陽子はそんなことは知らん顔で、千夏の肩を叩いて笑った。
「さ、用意してちょうだい。ショー・マスト・ゴー・オンよ」
「本気なの?」
「ショーの間は会場相談係は人数いなくても大丈夫。千夏はショーに出て、それから現場戻って。メイクの担当は? あ、古川さん? すいませーん、古川さん! モデル代役はうちのプランナーの宮本でいきます!」
「陽子ってば!」
「時間、押してますね。すみません、お願いします」
陽子は乱暴なまでの勢いで千夏を鏡前に押し出した。
トラブル処理の安堵より千夏の慌てぶりがおかしくて、陽子は笑いながら千夏に手を振り、控室を出ようとした。
美しく仕上がっていく、今日だけの花嫁たち。華麗なドレスの山。花と、煌めくティアラと、華奢なハイヒール。打ち上げ花火のような、ほんの束の間の輝き。陽子の胸は微かに疼いた。
人生もイベントも予定通りにはいかないのは陽子の結婚話しと同じだ。いや、だからこそ、せめて仕事ぐらいは上手くいかせたい。でなければ立ち直ることなどできはしない。
再びフロアを横切っていく陽子は、ことさらに背筋を伸ばしてまっすぐ前を見据えていた。
会場にはすでにお客が入りつつある。陽子はインカムを装着すると、ステージ袖に入った。そこには上司もいて、陽子は千夏をモデル代理に充てた旨を報告し、腕に嵌めた時計を見た。ほぼ時間通りだ。これで予定の客数が入れば、司会者に出てもらい今日のフェアの説明や見どころなどが話される。
先ほどのブライダルデスクの後輩が受け持ち箇所に戻ってきた。今日の担当はステージ脇での雑用諸々らしい。
「宮本さん、いい記念になりますよね」
後輩が無邪気らしく陽子に言った。
「だいぶ不本意そうだったけどね」
陽子はふふっと笑った。
が、次の後輩の言葉に陽子の笑いは凍りついた。
「でも、宮本さん、お式もなんにもされないんでしょ」
「……えっ?」
「自分がこういう仕事してると、式や披露はしたくないんだって言ってましたよ」
「……え……」
陽子は自分が今どんな顔をしているのか分からなかったが、後輩の不思議そうな、怪訝そうな表情からよほど強張って恐ろしい顔をしているのであろうことが推測できた。
陽子はほとんと喘ぐように息を吸い、平静を保とうとした。
「宮本、結婚するの?」
「岡崎さん、まだ聞いてないんですか?」
「……」
「あ、もしかしてサプライズでオフレコだったのかな。ごめんなさい。まずいこと言ったなー……。今の聞かなかったことにしてもらえません?」
後輩は拝み手になり、いたずらっぽく陽子を上目づかいに見た。
「お二人、仲がいいから、知ってると思ってたんですよー」
「あ、うん……。いや、知らなかったけど……」
「じゃ、やっぱりサプライズなんですよ。ひゃー、ほんとまずい。内緒にしてくださいよ?」
陽子は鷹揚に微笑んでみせながらも心の中に苦いものがじわりと広がるのを防ぎようもなかった。
千夏が結婚だって? それも自分にはサプライズのつもりで隠していた? いや、それは違う。陽子は唇を引き結び、すでに始まろうとしているステージをそっと覗いた。
言わなかったんじゃない。言えなかったのだ。もしも自分が同じ立場ならそうしただろう。破談になった友達にわざわざ嬉しげに結婚の報告なんてできるものか。
式も披露宴もしないというのも分かる気がする。サービス業に従事すると純粋にサービスに甘んじることができないものだ。少なくともホテルでやるような形式ばった式や披露宴はやらないだろう。
しかし友人だけを招いての小さなパーティーぐらいはしたっていいんじゃないだろうか。そのプランはまだ組んでいないのだろうか。それなら陽子は自分が先駆けて面倒みてもいいと思った。それは同情からくるみじめさを払拭する為の行動ではなく、単純に千夏への友情だった。
それにしても。一体、いつの間にそんな相手がいて、そんなところまで話しが進展していたんだろう。
ステージには司会者が出て、フェア最初のウエディングドレスのランウェイショーのアナウンスをしている。いったん音楽がやみ、ふっと静けさが舞い降りる。
「岡崎さん、宮本さんの彼氏どんな人か知らないんですか?」
「あの子、案外秘密主義なのよね」
陽子は肩をすくめて見せた。
ショーのオープニング曲が大きな音で鳴り始めた。
いよいよ始まりだ。陽子は真剣な目でステージを見つめる。見つめながらも、結婚はさておき千夏に彼氏がいたことも知らされていなかったのは諮らずも陽子を傷つけていた。
「あ、宮本さんの出番ですよ」
後輩が嬉しそうに声をあげた。
ランウェイを千夏が歩いて来る。ドレスの裾を優雅につまみ、美しく繊細なヒールを履いている。陽子はそれを眩しく眺めていた。
その後もショーは順調に進み、休憩をはさんでヘアメイクの実演、会場内での相談会と誰もが持ち場で忙しく働いた。
陽子も進行通りに進んでいるかを確認し、ブーケのアレンジのカタログをお客に配ったり、様々な質問に応えるべく何度も立ち止まり振りかえりしながら会場内を歩き回った。
ショーを終えた千夏は制服に着替えて自分の担当デスクに戻り、今はにこやかに見学者の対応をしている。
千夏のドレス姿はよく似合っていた。陽子は早く千夏が自分にサプライズで打ち明けてくれればいいと思った。そうしたら打ち上げも兼ねてまたいつもの店でワインを飲み、おめでとうを言いたい、と。そうできる自分でなければ。それこそ「大丈夫」でなければ。自分の為にも。陽子は背筋を伸ばして大股に会場を横切って行った。
怒涛のような一日が終わると、陽子はまだ緊張に張りつめ疲弊した神経を引きずりながら自分のデスクへ戻ってきた。
どうにか一通りの片づけが済み、ようやくほっと息をついて椅子にどっかりと腰をおろした。
「おつかれさん。好評だったみたいだな」
上司が声をかけた。
「ちょっとスケジュールが過密すぎましたねえ」
「いや、イベントなんだからあのぐらい盛り沢山にしないとそもそも集客できないだろ」
「うーん……」
「まあ、課題と反省についてはまた明日でいいよ」
「はい」
「今日はもうあがっていいよ」
「でもまだ……」
「後は岸本や高田がやるから」
上司は後輩の名前を言い、陽子のデスクの脇を通ってコーヒーを入れにサーバーの前へ行った。
陽子は慌てて「私、いれますよ」と立ち上がろうとしたが、疲れていたせいか足が思うように動かない。ヒールの踵が一瞬あやうくよろめいたのを、かろうじてデスクに手をつき立て直した。
「なあ、岡崎」
「はい」
「今日が無事にすんでよかったな」
「……はい」
上司はコーヒーを片手にくるりと振り向いた。
「大丈夫か?」
「え?」
「余計なお世話かもしれないけど……。もう、平気なのか? 婚約破棄になったら色々揉めることもあっただろ。そういうのは片がついてるのか?」
「ええ、まあ。揉めるって言っても、別れるしかないんですから、それ以上はなにもないですよ」
「まあ、岡崎のことだからそう泥試合にはならんのだろうが……」
「ええ。次は婚活パーティーでも企画しますよ」
陽子は今日のブライダル・フェアの担当から陽子を外そうとした上司を恨んでいたけれど、終わってしまった今は素直に気遣いをありがたいと思えた。
自分が着るはずだったと思うと確かにドレスは見るのも忌まわしい。幸せそうに胸をときめかせているカップルにもうんざりする。しかし、そんな陽子をみじめさから救ってくれるのも自分に与えられた仕事であるのも事実だった。
今日という一日のすべてが「模擬」的なもので、言うなればリハーサルのその前のさらにリハーサルにすぎない。陽子が直面した地獄も一つのリハーサルだったのかもしれない。人生の困難や修羅場におけるリハーサル。
そこまで話したところでオフィスの扉が開き、後輩達がどやどやと入ってきた。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
「今日のまとめは明日以降でいいからね。ほんと、疲れたでしょ。いろいろ、御苦労さまでした」
「岡崎さんも大変でしたね」
「ん。でも、今日で終わったし、ちょっとゆっくりするわ」
陽子は鞄を取り上げた。そして二、三の仕事の指示をすると、すでにデスクに戻った上司にも挨拶をしてロッカーへと向かった。
神経が高揚しすぎるとすぐにクールダウンすることは難しい。陽子は体はひどく疲れているのに奇妙に頭が冴えていて、まっすぐ帰宅する気分になれなかった。
ブライダルデスクの前を通りかかると、フェアの後のおかげでデスクには幾組ものカップルが続々と相談を持ちかけている。
ガラス越しに千夏の姿も見え、ショーで見せたヘアメイクの名残を幾分残して笑顔で応対している。
今こうして相談に来ているカップルの披露宴や挙式が成約すれば、陽子がその現場を「監督」することになるのだ。そう思うと自(おの)ずと身が引き締まった。
今夜はアフロと打ち上げでもするか。陽子はそう決めてロッカールームの扉に手をかけた。
グレイのオフィス用の重苦しいロッカーが幾列も迷路のように並んでいる室内は、色彩の暗さを補うかのように女たちのかしましいお喋りに満ちている。その扉を押し開けると、陽子は自分の名前が話されていることにぎくりとして立ち止まった。
女子スタッフが数人、帰り仕度をしながら雀のさえずりのように騒ぎ立てているのは、驚くべきことに陽子の婚約破棄のことだった。
「婚約まで行って破談って、かわいそー」
「いや、でも、ギリセーフじゃない? だって友達とかにも招待状出した後とかじゃあさあ……。一応、社内でも誰も知らなかったわけだし」
「まあねー」
「けどさ、岡崎さんも鉄の女だよねえ。ぜんぜんそんな素振り見せないんだもん。私だったら、仕事する気もおきないよ」
……。陽子はロッカーの影に潜むようにして苦く笑った。笑うより他なかった。誰も知らなかったって、今、あんた達は知ってるじゃないの。まったく、一体どこから漏れたんだろう。陽子は首を傾げた。
この事を知っているのは上司と千夏だけだ。まさか千夏が漏らすとは考えにくい。しかし秘密というのは隠せば隠すほど、どこからともなく漏れるものなんだな……。陽子はこのまま出て行くべきか、彼女たちの前に姿を見せるべきか迷った。おもしろおかしく噂されるぐらいなら、自らネタにした方がまだいいような気がした。
が、次の瞬間、彼女らの言葉を聞いて今度は完全に体が凍りついてしまった。
「しっかし、宮本さんも怖いよねえ」
「悪女だよねえ」
「岡崎さん、なんにも知らないの?」
「らしいよ。私、そんなの知らなくってさあ。今日、宮本さんが代役したじゃない? そん時に岡崎さんに結婚のこと喋っちゃったよー」
最後に相槌をうった声は、ブライダルデスクの後輩で、ちょうど今日千夏の結婚を教えてくれた子だった。
他の女の子が深刻そうな声音で、言った。
「宮本さん、このまま綺麗にドロンするつもりみたいよ」
「ねえ、本当に? 宮本さんの相手って岡崎さんの……?」
「だって。私の彼氏がその人と同じ会社でさあ」
「なんだっけ? 建築?」
「ううん。エクステリアとか、造園系。元々、三人とも合コンで知り合ったらしいよ。で、岡崎さんとその人が付き合ってたんだって」
「宮本さん、それ、盗ったんだ」
「怖すぎる……」
「えー、でもでもでも、その男の人も宮本さんのがよかったわけ?」
陽子は貧血のように目の前が真っ暗になるのを感じた。自分がどこにいるのかも分からないし、心臓が猛烈な早鐘を打っている。賑やかなお喋りが幻聴のように遠くに感じられるのに、言葉はダイレクトに脳に叩きこまれていく。その処理速度がまるで追いつかないから、陽子はパソコンがフリーズしてしまう時のように硬直し、瞬きさえ忘れていた。
「婚約までしといて、男も男だよねえ……」
「宮本さん、マジ、怖いわあ」
「つーか、岡崎さん可哀想すぎる」
「知らぬが仏ってまさにこれよね」
陽子はその時なにを思ったのかポケットからサンバホイッスルを取り出すと、いきなり思い切り強くホイッスルを鳴らした。
「ひゃあっ?!」
「な、なに?!」
女の子たちが驚いて声をあげ飛んでくるものの数秒の間に陽子は勢いよく外へ飛び出した。そして猛烈な勢いで階段を駆け降りると、今にも爆発しそうな胸を押えた。
膝に手をつき荒い息を吐きながら、混乱の渦の中、立っているのも精一杯だった。
今、立ち聞きした話。あれはなんなんのだ。自分の婚約破棄はさておき、千夏が結婚するのもさておき。その相手が……哲司だなんて……。しかも千夏が仕事を辞めるなんて、急転直下のアトラクションよりも強烈な衝撃だ。バンジージャンプだってここまでのインパクトはないに決まっている。
「おい」
階段の上で声がした。
「……おい、なにしてんねん」
落ち着け。落ち着くのだ。陽子はゆっくりと振り返った。
階段の上にはアフロが立っていて、段差の分だけいっそう巨大に見える体躯と膨張したアフロヘアで陽子を見下ろしている。
陽子は深く息を吸い込んだ。そして、吐き出すと共に言った。
「ねえ、ごはん食べに行かない? 私、奢るし」
「なんや、急に」
「打ち上げよ、打ち上げ。フェアも終わったしさ」
「……ええけど……。あんた、着替えんでええのん?」
「ちょっと待っててよ」
「……」
アフロはすべてを見ているはずなのに、何も言わず黙っている。それは奇妙に陽子を優しく包んだ。同情はみじめだ。が、アフロの沈黙からはそういったものは感じられず、言葉のないことに意味もなければ理由もなく、干渉するもしないも悪魔の領分を越えているからと思えた。陽子はこの無関心を、そのくせ訳知り顔で笑いもしなければ慰めもしないアフロに言葉以上の思いやりみたいなものを感じていた。
ゆっくりと階段を上り再びロッカールームへ行くと、女の子たちはもう姿を消していた。
陽子は手早く着替えると制服をハンガーに吊るし足早に外へ出た。千夏のロッカーの前を通る時、一度だけ拳でがんとロッカーを叩くと思いのほか硬質な音が響いた。
従業員通用口を出ると、アフロは言われた通りにちゃんと待っていて、二人並ぶと大股で歩き始めた。
「なに食べたい」
「なんでもええけど」
「じゃ、そこ」
「え?」
陽子はちょうど前を通りかかったいつも中高年層のサラリーマンでいっぱいの、賑やかで粗雑な店を指さした。
「俺はええけど、あんたはこんなとこでええのん?」
「いいのよ」
もはやいつものお気に入りのイタリアンでワインなどという気分は失せていた。
何も知らなかった。本当に何も。気づきもしなかった。頭ががんがんするほど激しく乱れる思考が陽子を世界の何もかもから遮断する。それはアイデンティティを見失うような、雑踏の中にいるほど孤独を感じるようなせつない瞬間だった。
あの子たちの噂が本当なら、一体いつからそうだったのだろう。プロポーズは哲司からだったのに、なぜそんなことになったのだろう。分からない。一体、自分の身に何が起きたのか。いや、それ以上に哲司と千夏が何をどうして、どうなったのかが分からなかった。
居酒屋に入ると二人は向かい合って座りビールを注文した。店内はいっぱいで、アルバイトの店員が忙しく店中を行き来していて、魚の焼ける匂いやモツ煮込みの濃厚な匂いに満ちていた。
テーブルとテーブルの間が狭く、陽子とアフロは周囲を中年サラリーマンに完全包囲されたような状態で、その誰もが赤い顔をして大きな声で談笑していた。普段なら喧騒の中では到底落ち着けないはずなのに、この時ばかりは誰からの注目を集めることもなければ、視線のすべてが素通りしていく気楽さに救われるような気持ちだった。
陽子とアフロは運ばれてきたビールのジョッキを持ち上げた。
「おつかれー」
「お疲れさま」
陽子は唐突ににっこりと微笑んだかと思うとアフロのジョッキに勢いよく自分のジョッキをぶつけ、あっけにとられている隙に一気にぐいぐいとビールを呷った。
疲れた体にビールが心地よく沁み渡って行く。咽喉が隆起するほどの勢いでジョッキをあっという間に半分ほどにすると、陽子はぷはっと息を吐きだし、手の甲で乱暴に唇を拭った。
「さ、なに食べる?」
「えらい勢いやな……」
「だって、今日、見てたでしょ?」
「え」
「忙しかったわあ。ほんと疲れた」
「……まあ、でも、終わって一安心やな」
「まあね」
開いたメニューの上を陽子の視線が彷徨う。アフロは一瞬困惑したような表情を見せたが、すぐに自分の食べたいものをいくつも指さした。
陽子は片手をあげて店員を呼ぶと、アフロが食べたいと言ったものだけでなく、自分の好きな物も思いつくままにがんがん注文し始めた。
たこの唐揚げ、焼き茄子、お造り盛り合わせ、ポテトサラダ、鶏レバーの生姜煮、次から次へと注文する。思わず店員が途中で「そんな食べ切れます?」と案じるほどに。陽子はそれに対して「もちろんよ」と答えて言った。
「それからビールお代わりも」
「はやっ」
アフロが驚いて見咎めた。陽子のジョッキがいつの間にやら空になっている。
「仕事の後のビールなんて水みたいなもんよ」
「あんた、おっさんやないねんから」
苦笑いするアフロを尻眼に、運ばれてきたビールをまた同じ調子でぐいぐいと流し込む。
この強烈な衝撃と怒りと絶望を再び味わうとは思いもしなかった。哲司が結婚するのをやめたいと言った時、そして別れたいと言った時、陽子の世界は死んだも同然だったのに、今度こそ完全に消滅するほどの打撃を加えられるとは。
陽子と哲司と千夏。三人は確かに合コンで知り合った。哲司と陽子が付き合うようになった時、千夏は別な人からのアプローチを受けていた。何度か二人で会ったりもしていた。結局付き合うまでにはいたらなかったけれど。
三人で食事をしたり、ごくまれには映画を見たりしたこともある。その場合、あくまでも千夏は陽子の友達として哲司に会い、そのように接していた。あやしいところは何もなかったし、なんの気振りもなかった。
哲司の方でも、そうだ。千夏は、自分のカノジョの友達であると共に同僚であり、それ以上でも以下でもなかった。
ああ、それでは、あのプロポーズは一体なんだったんだろう。
アフロと陽子は今日のフェアの感想を話しながら、次々と料理を片づけていく。けれど、陽子の心は銀河系よりも遥か彼方にあり、食べても食べても満ち足りることはなく、まるで腹の中にブラックホールができたように食べ物もお酒もごうごうと音を立てて吸いこまれていくだけだった。
プロポーズは陽子の好きだったフレンチレストランでだった。その日はいつもの休日と変わらない、なんの予感も予告もないデートで、食事の誘いに応じたにすぎず、なにを食べようかと聞くと哲司は「今日はもう決めてあるから」と言って、その店に陽子を連れて行った。
席はちゃんと予約されていたけれど、哲司の様子は普段と変わらなかった。料理もいつも通りで、特別なものはなかった。
ワインを飲み、鴨やウサギを食べた。哲司の嫌いな青カビのチーズを、陽子はラムレーズンと共に赤ワインを飲みながら食べた。
デザートにはバニラビーンズをたっぷり使ったババロアに苺のコンポートがかかったものを食べ、哲司はエスプレッソを、陽子はジャスミンティを飲んだ。
「今日はなんの日なの? わざわざ予約してるなんて」
「うん、ちょっと」
「なに?」
「今までは普通の日だったかもしれないけど、これからは今日が特別な日になるかなと思って」
「え? なにそれ?」
「これから先、今日がプロポーズした日になるから」
……それから「結婚してください」だ。そうだ。あの時、哲司は実にストレートにそう言った。真面目な顔で、照れもせずにはっきりと。プロポーズを受けた日。その記念日。二人はこれからは毎年その日にこの店で食事をしようと約束した。
こうして考えると笑いだしたくなる。約束は何一つ守られることなく終わった。
あの時も、哲司は実は千夏と繋がっていたのだろうか。陽子を涙ぐませた瞬間も、彼の背後に千夏の影はあったのだろうか。
陽子は哲司に対してひどく腹が立ち、体が震えてくるのを抑える為にジョッキを握る手に力をこめた。よくも、いけしゃあしゃあと。
そして次に浮かぶのは千夏だった。哲司との婚約破棄の話しを聞いた時の態度。心配そうな顔で、声で、陽子を労ろうとしたことの茶番。
泣いてすがりたい気持ちで千夏にした打ち明け話はどれほど滑稽だっただろう。次の恋愛に早いも遅いもない。むしろ、早い方がいいぐらい。立ち直っていける証拠だなんて、一体どの口が言うんだろう。信じられない。
そりゃあ立ち直っていけるだろう。いずれは。いつかは。が、こんな事が発覚しても尚、立ち直っていけるなんて本当に可能なのだろうか。陽子には自信がなかった。
「ああ、もう俺、腹いっぱいなってきたわ」
「……」
「あんた、まだ食べるつもりなんかいな。ちょっと食べすぎちゃうか」
ほとんどの皿を空にしてしまうとアフロは煙草に火をつけ、大きく息を吐いた。
焼酎の匂い、揚げ物の匂い、煙草と笑い声。陽子はアフロの目の中をじっと見つめた。悪魔でさえも自分を傷つけはしていないのに。そう思うと胸が潰れそうに苦しかった。
「もうお腹いっぱいなの? 案外小食ねえ」
「いや、もう、たいがい食べたやろ。今からどうする? 飲みに行く?」
「そうね」
陽子はトイレで化粧を直してから、勘定をすませてアフロと店を出た。夜気が気持ちよく、ほてった頬にひやりと触れる。
「どこ行く? いつもんとこ?」
アフロは歩きながら尋ねた。陽子はその時までそのつもりだった。いつもそうであるように、二軒目はおなじみの店で飲むのだが、飲み屋の客引きやナンパに勤しむ男の子、意味なくたむろする女の子たちのはびこる駅前の通りを進むうちに、カラオケボックスの前まで来て急に気が変わった。
「カラオケ、しない?」
「えっ? カラオケ? あんた、カラオケとかすんの?」
「するよ」
アフロは大袈裟に驚いて目を見開き、「へえ~」と妙な嘆声をあげた。
すると陽子はアフロがいいも悪いも言わないうちにさっさとカラオケボックスに入って行き、受付に並んだ。
アフロは陽子の行動にさらに驚いて、
「え、マジで?」
と慌てて後を追ってきた。
受付をすますとこれも陽子が先に立ってすたすたと指定された部屋へ向かった。せまい通路をガラスのはまったドアが並び、学生グループの賑やかな歌声やバカ騒ぎする声が漏れ聞こえている。ルームナンバーは402。陽子は投げ出すようにソファに鞄を放って、注文を取りに来たバイトの女の子にビールを頼んだ。
薄暗く狭い室内はモニターの灯りだけがてらてらと輝き、荒んだ色であたりを照らしていて、耳障りなヒットチャートが流れっぱなしでうっとうしかった。
ビールはすぐに運ばれてきて、アフロは煙草を吸いながら分厚い歌本を引き寄せた。
「いやー、しかし、あんたとカラオケっていうんは意外な感じやなあ。そういうの行かへんと思てた」
「……」
陽子は無言で巨大なリモコンのタッチパネルを操作している。
「なに歌うん? やっぱ、最近の流行りのやつとか歌うん? まさかAKB48とかではないわなあ?」
無言で操作を終えた陽子はリモコンをテーブルに戻すと、マイクを掴んだ。
室内のスピーカーから流れていた音楽が消える。一瞬の静寂。アフロは「おっ」と言いながらモニターに目を向けた。そして画面いっぱいにタイトルが現れると同時にアフロは「ええっ?!」と声をあげた。
陽子はふんと鼻を鳴らすとマイクを手に立ちあがった。
明日から仕事に行き、恐らくはすでに社内中に広まってしまったであろう噂を前にしてどうしていいのか想像もつかない。悲しい顔も、怒った顔も誰にも見せることはできないし、傷つくことさえ許されないような気がした。
それに、もう、千夏を前にして平静でいる自信がない。嘘だと思いたい。ただのゴシップで、仮に哲司に新しい相手がいるのだとしてもそれが千夏であるなんてのは根拠のない無責任な噂と誤解だと。そうしたら陽子は悩まないし、かしましい噂にも笑うことができると思った。
曲はブルーハーツの「リンダリンダ」だった。
陽子はしっかりマイクを握り、モニターの歌詞を睨みながら歌い始めた。
アフロは煙草を指にはさんだまま、灰が落ちるのも気づかぬほど呆然として陽子を見つめていた。
ゆるやかな歌いだしを過ぎて、あの叫びにも似たサビの部分を陽子は声を張り上げて歌った。それも、今にも飛び跳ねたり、テーブルに乗ったりしそうなほど暴力的なパワーで。体を二つ折りにするように、陽子のシャウトは床に向かってほとばしり、仰ぎ見ては天井に向かって火を噴く。リンダリンダ、リンダリンダリンダ。
アフロは、日頃ジャズやソウルを好む陽子の豹変ぶりに言葉を失い、普通なら一緒になって歌ったり、合いの手をいれるところも言葉もなく、ぽかんと口をあけていたた。
陽子は大声で歌い続けた。本物のブルーハーツのライブパフォーマンスもかくやと言わんばかりの熱唱だった。
髪を振り乱し、全身で歌い上げた時、陽子は汗をかいていた。泣かないようにするのに必死だった。
陽子はマイクを手にしたままテーブルのビールグラスをつかむとごくごくと咽喉に流し込み、アフロに向かって尋ねた。
「……なに歌う?」
驚いたのはアフロで、
「えっ。あ、ああ。ええと俺は……」
と、急いで歌本をめくるふりをした。
「ねえ」
「ちょっと待って」
「そうじゃなくて」
「え?」
「聞いたでしょ」
「なにを」
「知ってるんでしょ」
「だからなにを」
「……婚約破棄」
「……」
二人の視線がモロにぶつかった。
陽子はアフロがコインランドリーから現れて、信じがたいことに自分を常に監視していることから、この悪魔が事の真相を知っているように思った。
それは「悪魔の力」ですべてを見抜いているというよりも、陽子の預かり知らぬところで交わされた会話の数々や隠密行動も、アフロが姿を消して見ていると思ったのだ。言うなれば、私立探偵のように。
「正直に言って」
陽子の声は低く、固かった。さっきまでの気合の入った歌声とは別人のように力なく、口から出た途端失速してべったりと床に落ちるようだった。
「聞いたでしょ。今日。ロッカーで」
「……」
「私の婚約者を千夏が……」
「盗ったってか」
「わかんない」
「そういうことは俺にも分からんで。確かに若い子らが噂してるんは聞いたよ。でも、それだけや」
「結婚するはずだったのよ」
「ふん」
「でもしなかった」
「その理由が……」
「彼氏の浮気?」
「浮気じゃないじゃない」
実際のところ、浮気なのかどうなのか陽子には分からなかった。なにが本当で、なにが嘘なのかも。
アフロは陽子の吐き捨てるような言葉を聞くと、立ちあがりフロントへビールのお代わりと頼んだ。
二人の間を絶えずこうるさいBGMが埋めている。
「浮気が本気になってしもたんやな」
浮気が本気に? 一体それはいつから始まっていたのだろうか。婚約前なのか、それとも婚約後か。
陽子になくて千夏にあるものといえば、女らしさと、情緒と可愛げと……。陽子自身があげられる、自分とは対照的な性質。哲司はそこに惹かれたのだろうか。
でも、それならなぜ最初に哲司は千夏を選ばなかったのだろう。いや、それよりも、何年も付き合って今になって千夏を選ぶのは浮気なんて単純な言葉では片づけられない。心変わりと言ってしまえばそれだけのことかもしれないが、陽子はそれも納得できなかった。
追加のビールが運ばれてきた。アフロは自分が歌う曲を入力し、マイクを手に取った。
「調べてよ」
「えっ?」
「昼間、ヒマなんじゃないの? だったら、調べてよ。特にすることないんでしょ」
「調べるってあんた、なにを……」
「哲司と千夏のこと。できないなら、いいよ」
「調べてどうするねん」
「できるの、できないの?」
「……」
「あ、これ、別に願い事じゃないから。頼みっていうか、スパイっていうかね」
アフロが入力した曲のイントロが流れ出す。陽子はビールを飲む。アフロが選んだ曲は「雨上がりの夜空に」だった。
複雑な顔で歌い始めるアフロに陽子はそれ以上は何も言わず、自分も一緒になって歌を口ずさみながら、ああ、この曲は哲司も好きだったなあと思いだしていた。
結局、その夜はアフロとカラオケに興じてから、いつものバーで飲み直し、〆めにラーメンを食べて帰った。
部屋に帰ってからシャワーを浴びて出てくると、アフロはベランダに出て手すりにもたれながら煙草を吸っていた。
「あんた、歌うまいね」
陽子は髪を拭きながらアフロに声をかけた。
「いや、あんたには負けるわ。俺、女子があんなパンチ効いたブルハ歌うん初めて見たわ」
ベランダからは街の灯りが細かい光の粒になって眼下に広がっている。ぬるい風がアフロの煙草の煙を蹴散らすようにして、吹き過ぎていく。
「ストレス解消にいいのよ」
そう言うと二人はふっと笑った。
「現代人はストレス社会を生きとうからな」
「悪魔にはないの? 複雑な人間関係とか」
「さあ、人によるんやろな」
「あんたは? ある? ストレス」
「あんたが願い事決めてくれへんことかな」
「む」
俄かにアフロは真剣な顔をしたが、すぐに笑いだし、
「冗談や。俺らはな、朝は寝床でぐーぐーぐーやし、学校も試験もなんにもないからな」
「それ、妖怪」
ああ、どうしてこんなに気が楽になるのだろう。陽子は不思議だった。相手は、見た目はただのアフロの気のいい兄ちゃんだが、悪魔なのだ。気を許したらなにをされるか分かったものではない。
アフロは現代社会のストレスを指摘したけれど、それと同じぐらいにこの現代社会で誰彼なく気を許すのは危険であると認識されている。陽子は常々そのことを無味乾燥とした、冷たい世の中になったと思っていたけれど今なら分かる。信じて裏切られた時の傷は大きいから、前もって予防線を張って人を信じないことは一つの自衛手段なのだ。
正直者が馬鹿を見る時代なのだということを陽子は痛感していた。
アフロは煙草の火を丹念に消すと、
「ほな。まあ、またな」
「……うん」
「おやすみ」
アフロは目の前ですうっと空気に溶けるように姿が薄くぼやけて、そのまま夜の中にかき消えた。
背中から黒い翼がでて、月夜に向かって飛んでいくのかと思ったので陽子は少しがっかりした。
窓を閉める。髪を乾かす。歯を磨く。一連の作業の合間、陽子は一人きりの部屋で今日聞いた打撃が薄れるほどまでに回復していた。一人の孤独は一人きりで味わうもので、陽子には当て嵌まらない。陽子は今、自分は一人ではないと思った。
仕事に行くのがこんなに嫌だったことがかつてあっただろうか。いや、ない。
行けばすでに社内中に広まった噂が面白おかしく脚色され、手垢にまみれているだろう。そこへ出て行かなければならないなんて、恥さらしとはよく言ったものだと思う。
今日はブライダルフェアのレポートを作成し、後片付けやらこまごまとした仕事がある。フェアに来たお客が別途申し込んだブライダルデスクへのアポイントも数を把握しなければいけない。回収したアンケートも早急にまとめなくては。やるべきことは山ほどある。それだけが陽子を救う唯一の手段だった。
……はずだった。なのに、どうしたことだろう。婚約破棄の痛手を紛らわせた仕事は、今回に限ってまるで陽子に有効に働かなかった。頭の中は仕事のシュミレーションでいっぱいなのに、心の中は千夏と哲司のことが渦を巻き、気を抜くと意識のすべてをかっさらっていく。
ロッカールームに入った途端、一瞬でその場の空気がしんと水をうったように静まり返った。気まずい。手早く着替えてオフィスへ行くも、そこかしこで囁かれる噂が陽子をかき乱す。
みんなに挨拶をし、仕事の指示や報告をし、自身も忙しく書類を作成したり電話をかけている時でさえも、陽子は今この瞬間にも社内を駆け巡っているさまざまな憶測について考えずにはおけなかった。と、その時、携帯電話がメールの受信を知らせた。
陽子は何の気なしにそれを開いて、驚愕した。メールは哲司からだった。
陽子は思わず胸に手を当てた。心臓が止まるかと思うほどびっくりして、深く息を吸い込む。メールは今は他人であることを示すように件名が「岡崎さん」となっていた。
いや、他人だったのだ。今も昔も。陽子は苦く笑うと、携帯電話を片手に立ちあがった。
「岡崎さん」
「ん?」
後輩が椅子をくるりと回転させ、
「ショーで使ったドレスのクリーニングは即出しでいいんですよね」
「ああ、そうね。業者発注かけといてくれる? 小物類のチェックはブライダルデスクでやってもらうように頼むから」
「あ、じゃあ、デスクに申し送りを……」
「それは宮本に話しが通ってるから、そっちで確認してくれる? 詳細は分かってるはずだから」
陽子が千夏の名を出した途端、みんながぴくりとした。腫れもの。陽子の頭にそんな言葉が浮かんだ。今の自分の立場はまさにそれだ。
陽子は携帯電話を握りしめ、休憩室へ行った。
従業員施設となっているそこはラウンジの様相を呈していて、時々、やる気のないスタッフがうだうだと時間を潰しているだけの放埓な場所だった。
陽子は紙コップのコーヒーを買い、隅の方に腰かけて飲みながらメールを開いてみた。
まるで懐かしくない。懐かしくなどなろうはずもない。なぜなら、それは別れて日が浅いからではない。陽子の携帯電話から哲司のアドレスは削除されていないからだった。
今頃、陽子が席を外したオフィスでは千夏との噂が取り沙汰されているだろう。
コーヒーに口をつけると、熱くてやたらに薄っぺらな味が舌を焼いた。なんて物悲しい味なんだろう。陽子はそう思うと今度は用心しながらコーヒーを啜った。
メールには、今更連絡をとれる立場ではないけれど、会って話したいことがあるとあった。忙しいと思うけれど、時間がとれないだろうか、と。
付き合い始めた頃、哲司のメールはビジネス文書のように丁寧で、礼儀正しさのあまり冷たい印象を受けることがあり、その度に陽子を不安にさせた。真面目な性格だから、相手に失礼のないようにと考えすぎる傾向にあって、そのせいだと分かる頃には哲司のメールは友人らしいくだけたものになり、最後は恋人のそれになった。
そして今はまた他人行儀なメール。しかし、そこからまたやり直し、同じ軌跡を辿ることは二度とない。
陽子は哲司が言うところの「話したいこと」というのが千夏のことだろうと思うと、なんと返答していいか分からなかった。
正直言って、会いたいような会いたくないような複雑な気持ちだった。メールが来た瞬間、心の片隅がほんのわずかにきゅんと窪んだことが陽子は自分でも意外だった。そんな馬鹿なと思うけれど、陽子の心は反射的に動いた。嬉しいとまではいかずとも、少しのときめきを無視することはできない。
と同時に、怒りがふつふつと再燃してくるのも事実で、だから陽子はしばらく黙ってコーヒーを飲んでいた。
文面には、自分が勝手なことを言っているのは承知しているので、会いたくなければ無論断って欲しいともあった。これ以上傷つけるのは本意ではない、と。それから、会って話すことができないなら、代理を立てたいので返事だけでも貰えないか、と。
代理とは一体誰なんだろう。陽子は頬杖をつく。まさか千夏ではあるまい。いや、まさか、そんな。
まとまらない思考が、そのまま大きな波になって陽子を動かした。気がつくと陽子はメールに返信を返していた。「それでは」と場所と時間を指定して。
都合や待ち合わせ場所を相談する必要はなかった。陽子は哲司の仕事が大抵何時に終わるのか、また、いつ忙しいのかも知っていたし、陽子の行く店ならどこだって哲司も知っている。それは二人がかつて恋人だったことの名残みたいなものだった。
送信してしまうと陽子は空になった紙コップを握り潰した。オフィスでもっとまともなコーヒーが飲めるのに、わざわざ自販機のコーヒーを飲むなんて、よほど動転していたのだろう。陽子は自虐的に笑って紙コップをゴミ箱に投げ込んだ。
その日、陽子がそうしたように、千夏も陽子を避けているらしく、用事があってブライダルデスクへ出向いても千夏の姿はなく、昼食時もロッカールームでもとにかく千夏と遭遇することは一度もなかった。
そう大きなホテルでもないのに、いつも密接に仕事をしているはずの二人が一日顔を会わせないなんて不自然極まりないのだが、だからこそ陽子は今夜の哲司との会談が再び自分を傷つけるものであると想像できた。
傷つくと分かっていて会おうとする自分がどれだけ愚かで、間抜けで、情けないかは自分自身が一番知っている。終わった恋の残骸を拾い集めて仕舞っておこうとしているようなものだ。捨てられたのは自分の存在そのものだというのに。けれど、そういった意味では陽子の恋はまだ「終わっていない」のかもしれない。陽子は自分が不甲斐なかった。
陽子は集中して仕事をこなし、次のバンケットの打ち合わせにも参加し、誰にも何も言わせる余地を与えないぐらいに背筋を伸ばした。
仕事を終えると陽子はロッカールームで化粧を直した。アイラインはよりくっきりと、マスカラもしっかりと。元々黒目の大きい方だが、そうやって強調すると瞳は泣きそうに潤んで見える。でも今は化粧のせいとは思えなかった。
哲司との待ち合わせは百貨店を囲むように設計された回廊にあるオープンカフェだった。
目の前を車が行き交い、買い物客や近隣のサラリーマンが絶えず闊歩する喧騒の中のカフェ。陽子がそこを選んだのは、周囲が騒がしいほど、人が大勢行き過ぎるほどどんな話しをしようとも誰も自分達に関心を払わないだろうということと、人目が多いほど自分が取り乱さないでいられると思った為だった。
そう、陽子には取り乱さない自信がなかった。いくら話しの内容が想像がついていても、本人の口から聞けば衝撃であるのに間違いはない。映画やテレビではないのだから激烈なドラマを演じることはないのだ。どうせすべては怖いぐらいの現実なのだから。
信号の向こうからもフランスのカフェと同じように通りに面して整然と列をなすテーブルが見える。黒いベストに白く長いエプロンのギャルソンがコーヒーを運んでいる。ここのアルバイトの男の子は顔で選んでいるのだとか噂にきいたことがある。緊張のせいかどうでもいいことばかりが胸を去来する。
陽子はカフェに哲司の姿を探し、まだ来ていないと分かると空いている席へ座った。
店員が注文をとりにくる。でも、陽子には若いギャルソンの顔を見る余裕もなかった。ただ、なんとなく垢ぬけてすっきりしているなという印象を受けただけで、あとは「お洒落な店だしお洒落なギャルソンだけど、さすがにアフロはいないな」と思っていた。
だいたいなんで悪魔がアフロなんだか。お洒落のつもりなのだろうか。まさか地獄の釜の熱気で焼けたとかいうのでもないだろうし。それともあれは黒人並みの天然なのか。陽子は運ばれてきたカプチーノに角砂糖を落としぐるぐるかき混ぜた。今この瞬間も、アフロは陽子を見ているだろう。緊張と不安で強張った顔の陽子を。
「ごめん、待たせて」
そう声をかけられてはっとして我に返ると、目の前に哲司が立っていた。陽子は「あっ……」と慌てて腰を浮かした。
「エスプレッソ下さい」
哲司は椅子をひき、わずかに距離をとりながらギャルソンに向かって少し声を張った。
初めて会った時、なぜか合コンだったのに二人は名刺交換をした。誰もそんなことはしなかったのに。哲司も陽子も丁寧に両手で互いの名刺を受取り、ぺこぺことお辞儀をした。それから、自分でもそれがおかしくて、一緒に笑った。
陽子は自分の記憶がまるで錆びていないのに、もう泣きたくなっていた。
「だいぶ待った?」
「ううん……」
哲司は重そうな鞄を足元に置いていた。陽子の見たことない鞄だった。きっと別れてから買ったのだろう。少しばかり痩せたような気もするが、どうなんだろう。
「急に、ごめんな。忙しかったんじゃないの?」
「ん。でも、一段落したとこだから」
「そうか」
「て……哲司は……」
陽子は名前を呼ぶことに一瞬ためらった。
「これから忙しい時期でしょう? 暑くなると庭木の手入れ大変だもんね」
「うん。でも、最近は現場に行くこともあんまりないから」
「そう……」
造園設計の仕事といっても、設計だけが仕事ではない。実際に庭に植える植物の育ち具合によって配置や、造作そのものを変えることもある。哲司は植木屋にも出入りし、花木や植栽の育ちを確認し、時には世話を手伝い、育て方を学び顧客へのアドバイスにもする。
哲司と付き合い初めてから陽子はそれまで目に止めることもなかった公園や、その辺に雑草の如く生えている草花について教わった。それが今自分の仕事にも生かされている。ホテルの中庭や前庭、観葉植物にいたるまで陽子はこまめにメンテナンスをし、重宝がられている。陽子が枯らしたのは、自分の恋愛だけだ。
運ばれてきたエスプレッソに哲司はミルクと砂糖をいれ、ちらっと陽子に視線を走らせた。
あ、くるな。陽子は瞬時に悟った。言いにくいことを言う時の、哲司の視線。気弱な子供のように相手の顔色を窺う目。そのくせ、言い出したら絶対に引かない頑固さ。陽子は身構えた。
「あの」
「うん」
きた。
「実は話しっていうのは……」
「うん」
「……自分の勝手でこんなことになって本当に悪かったと思ってる」
「……うん」
「陽子のお父さんお母さんにも」
「うん……」
「それで……」
「……」
「こんなことしたからって許されるわけじゃないのは分かってるし、気を悪くしたら謝るけど……、俺、陽子に慰謝料っていうか……その……」
「え」
あんまり意外で陽子はぽかんと口を開けたまま、固まってしまった。
「式の為に貯めてたの、あれ、陽子が使ってくれたらいいと思って」
「……」
「……陽子?」
二人の婚約中にかかったお金などたかが知れている。式場のキャンセル料も仮予約だったのでとられなかった。買ったものといえば婚約指輪ぐらいなもので、それは破棄と同時に哲司へと返却されている。そういえば、あの指輪はどうしたんだろう?
哲司が貯めたお金は陽子の貯金を遥かに上回る額面だったけれど、結婚と新生活にかかる費用は双方が出し合うことで合意していた。割合からいうと、それは哲司の負担の方が少し多くなる予定だったけれど、今となってはそれも単なる「お話し」に過ぎない。ようするに、哲司のお金は哲司のものなのだ。
「慰謝料なんて……」
「気を悪くしたなら、本当に、謝るよ」
「いや、そうじゃなくて……」
「……ごめん」
「なんで慰謝料なの?」
陽子はほとんど素朴な疑問と言っていいほど不可解で、膝の上で拳を固めて俯く哲司に問うた。
「そんなの貰うつもりないよ」
「けど……俺の気がすまないっていうか……。なにか、陽子にお詫びというか……」
何か変だ。陽子の勘のようなものが脳裏にちかっと閃いた。
哲司とて自分が振った女とこうして会うのは気まずく、緊張するだろう。でも、それ以上に今日の哲司の様子は妙に視線を彷徨わせたり、困惑したように肩を怒らせていて、それが陽子には「なんか、あやしい」と思わせた。
「お金なんか貰えない」
その次に喉元まで出かかった言葉を飲み込むために、陽子はカプチーノに口をつけた。
千夏の差し金なんじゃないの? 慰謝料で片づけて、綺麗さっぱり後腐れなくしようとしてるの? そうして千夏と結婚するの? そもそも千夏と結婚するのは本当なの? 一体いつからそんなことになっていたの? そのせいで私と別れたの? 嫌いになったわけじゃないって言ったけど、私より千夏がよかったの? なら、どうして結婚なんてしようとしたの?
陽子は大きく息を吐き出した。
「とにかく、お金はいらないから。……哲司だってこれからお金いるでしょ」
哲司ははっとしたように陽子の顔を見つめた。待ち合わせに現れた時からろくに顔を見ようとしなかった哲司が、初めてまっすぐに陽子に視線を注いでいた。
「話しはそれだけよね? 私のことは、いいのよ。もう。終わったことだから。気にしなくていいから」
飴玉を誤飲したような息苦しさが胸のあたりにあった。声が震えないように、ゆっくりとした語調で続ける。
「私、もう行くね。仕事頑張ってね。あんまり無理すると体壊すから。ごはんもちゃんと食べてね」
こんなことを言いたいわけではなかった。他に聞きたいこともあれば、言いたいこともあった。けれど、そのうちの何一つ言葉にすることができなかった。
陽子が自分の分のコーヒー代をテーブルに置こうとすると、黙っていた哲司がかろうじてそれを押しとどめた。
「コーヒーぐらいは奢らせてよ」
「……じゃあ、ごちそうさま」
必死の思いで笑顔を作る。さよならを言う為に。せめてこの瞬間が美しく見えるように。でなければ、自分が可哀想すぎる。
いつもそうであるように、陽子はぐんと背筋を伸ばして大股で歩き始めた。
鼻の奥と眼窩がひどく痛む。唇を噛みしめ、信号が青に変わるのを待つ。この期に及んで、陽子は哲司が自分の名前を呼んだことがひどく懐かしく、愛しく、やりきれなかった。 「岡崎さん」から始まって「陽子ちゃん」と呼ぶようになり、気がつけば「陽子」と呼んでくれた人。今更だけれど、陽子は本当に馬鹿げて一途に恋をしていた自分を思い知った。
信号が変わる。歩き出す。胸の中で黒く渦巻くもやもやは、暗雲がたれこめるように陽子の心を覆い隠し、雨を降らせようとした。
「おかえり」
失意のどん底で帰宅した陽子を仰天させたのは、当然のような顔で玄関に出迎えてくれたアフロだった。
「な、なにしてんの。呼んでないよ」
「メシ」
「は?」
「この前奢ってくれたやろ。せやから、今日は俺が作ったから」
「作ったって、何を……」
靴を脱ぎ部屋にあがるとテーブルにはキムチ鍋の用意がされていて、ご丁寧にナムルまで並べられていた。
アフロは冷蔵庫からビールを取り出しながら、
「俺、意外と料理好きやねん」
「好きはいいけど……」
勝手に人んちで作るか? 普通。陽子は呆れるのを通り越して、あんまり唐突だったので食卓を眺めながらしばし立ち尽くしていた。
「ほら、はよ手ぇ洗ってきいな。食べようで」
「……」
「心配せんでも、ちゃんと美味しくできてるで」
豚肉、白菜、ニラ、もやし、厚揚げ。キムチ。オクラとブロッコリーのナムル、にんじんと玉ねぎのチヂミ。なんだ、こいつ!
陽子はこらえ切れなくなってふふふと唇から漏れ出たかと思うと、とうとうげらげらと大声で笑い出してしまった。
一体、どこの悪魔がアフロで韓国料理を作るんだか。これまで自分が見たり聞いたりした数々のファンタジーや伝承はなんだったんだろう。まるで「学校で勉強したことは、社会に出てなんの役にもたたない」のと同じじゃないか。「悪魔の話しも、実際とはまるで違うから、なんの参考にもなりはしない」。
陽子は涙が出るほど笑った。哲司とのあの泣きそうな会談の後で、あんなに耐えた感情が弾けて壊れてしまったようだった。
何もかも見て、聞いて、知っているくせに。わざとらしくもキムチ鍋なんて。どういうつもりなんだろう。こんなことするなんて。優しい悪魔はキャンディーズの歌で充分だ。
「そんなウケんでも」
「だって、あんた、考えてもみなさいよ。なんで悪魔が鍋作るのよ。しかも、人んちで勝手に」
「悪魔も鍋ぐらい食うがな」
「それがおかしいんだってば」
「マッコリもあるで」
「ぎゃははははは!」
陽子は笑い転げながらも、洗面所で手を洗い、ジーンズとTシャツに着替えてからやっぱり笑いやむことができないまま食卓についた。
アフロは陽子にビールを注いでくれると、
「仰山あるから、ようけ食べや」
と言った。
鍋が二人の間でぐつぐつと煮えている。アフロが取り皿に肉と野菜をごっそり盛って「ほれ」と陽子の前に置いた。
「……ありがとう」
「おう」
ありがとう。陽子はもう一度心の中で呟いて箸をとった。キムチ鍋はとても美味しくて、二人は鍋がからっぽになるまで時間をかけて食べ、大量のお酒を飲んだ。
陽子はこの時間が、悪魔のいる時間がこのまま続けばいいと、初めて思った。
アフロはきちんと洗いものや片づけをしてくれてから消え、陽子は翌日が遅番だったので午前中に部屋の掃除をし、布団を干した。
昨晩、「あんた、料理できるんなら毎日作ってくれればいいのに」と言ったけれど、あれは半分本気だった。家に帰ってアフロがごはんを作ってくれていたらどんなに楽で……どんなに嬉しいだろう。
自称「料理がうまい」男の子は8割方大したことないのが陽子の経験上の統計だけれど、アフロはそれを良い意味で裏切り本当に上手だった。きちんと基礎ができていて、ナムルもチヂミもアレンジが利いていて美味しかった。それに、鍋。キムチ鍋の元でもいれてるのかと思ったら、ちゃんと出汁をとって、味付けも自分でやったと聞いて脱帽した。
普段から割と料理をする方だというアフロの「普段」がどんなものか知らないけれど、なんにせよ陽子がキムチ鍋にどれだけ救われたかは言葉に尽くせなかった。
時間が空いたので陽子は出勤の前に美容室を予約し、久しぶりに髪を切りに行った。
結婚に向けて伸ばした髪だったのだがもうその必要はなかったし、なにより哲司との交際期間中ずっと長い髪をしていたのが実は飽き飽きしていたのだ。失恋直後は美容室に行く気力もなかっただけに髪は伸び放題のぼさぼさだったが、やっと手入れする気になった。
肩より長いロングヘアは暑苦しいし、重いし、肩も凝る。乾かすのも大変だし、そもそも洗うのも大変。セミロングぐらいにしておけばさぞかし楽ちんだろう。陽子はそんな風に考えていた。
なのに、いざ美容室の椅子に座ると、なぜか担当の美容師にこう言い放っていた。
「短くしてください。思いっきり」
言ってから自分でも驚いたけれど、そうはっきり注文した自分がおかしくて、キムチ鍋の余韻なのかテンションがあがっていて、陽子は続けて、
「ベリーショート。セバーグみたいな」
と言った。
担当美容師はびっくりして、何度も何度も、しつこいぐらいに、
「本当にいいんですか?」
とか、
「お仕事は大丈夫なんですか?」」
とか、
「切ってしまうと戻せませんよ」
とか、
「もったいないんじゃないですか」
と念押しした。
でも、一度口にしたからには陽子は翻さない。そういう性格なのだ。突差の言葉ではあったけれど、口にした途端、切る前から身軽になったような気がして気持ちがすっとしていた。
失恋したら髪を切るなんて昔の少女漫画みたいだが、そういうつもりではなく、ただ気持ちが軽くなるようなさばさばとした勢いだけが手足の先をじんじんと痺れさせているようだった。
陽子は美容師に向かって「絶対大丈夫。あとで文句言ったり訴えたりしないから」と笑ってみせた。
もしも昨夜キムチ鍋を食べていなかったら。たぶん、髪を切ったりはしなかっただろう。
シャンプーにかかる前に「じゃあ、先にざっくり切りますよ」と美容師が陽子の髪を大胆に鷲掴みにした。
「はい、どうぞ」
鏡の中から陽子が答える。
鋏が髪に触れ、軽く引っ張られるような錯覚を覚える。気がつくと、20センチ近くの長さがばっさりと切り落とされ、茶色い木製の床にどさっと落ちた。
それを見た途端、陽子はにっこり笑って言った。
「ああ、もう、頭が軽くて気持ちいい」
「髪って結構重いもんですからね」
「そうね」
そう。でも、それだけじゃない。重いものは、他にもあった。
これまでの人生で一度もしたことのないベリーショートが仕上がると、陽子はゴダールの映画では女が男を裏切っていたななどと考えていた。
「似合いますね。ショート」
他の美容師たちも口々に声を揃えて言うのが、くすぐったかった。でも、素直に嬉しかった。
そうして実際軽快になった陽子は、職場でみんなが驚くだろうと思うとそれも愉快で、美容室を出てから弾むような足取りで出勤した。
通用口を通り、タイムカードを押す。通路ですれちがう社員が「あっ」と言うのがおかしくて、陽子は気分良くロッカールームの扉を押し開けた。
早番のスタッフが帰り仕度をしているところで、ロッカーは少し混んでいた。
「おはようございます」
「ああっ?!」
「うそ! 岡崎さん、その髪!!」
後輩たちが一斉に陽子を見て、驚きの声をあげた。陽子は笑いながら、髪に手をやり「切っちゃった」と肩をすくめてみせた。
「うそー、大胆~」
「めちゃめちゃ短いじゃないですか」
「てゆーか、似合うー」
「ありがと」
自分のロッカーの鍵を開け制服に着替え始めると、驚きと称賛の声をあげていた後輩の一人が、
「かなり思い切りましたねえ」
「思い切りっていうか、ね。勢い? 短いと頭軽くていいね」
「若くみえますよね」
「あっはっは」
陽子は声をあげて笑った。
「それねえ、褒めてないからね」
「そんな」
「若く見えるのは、若くない人に言う言葉よ。私は年齢なんて気にしないからいいけど、それ、お客さんとかに言ったら駄目よ」
「はーい」
黒いスーツにベリーショートは思いのほかよく似合い、陽子は鏡の中の自分にまずは及第点を与えた。髪が短くなった分、ピアスをつけた耳が目立つ。
「あの、岡崎さん」
「ん?」
陽子はばたんと音を立ててロッカーを閉め、施錠した。
女の子たちが互いの顔を見合わせながら、実に言いにくそうに肩をつつき合い口ごもっていた。
「なあに?」
その中の一人に陽子は尋ねた。
「あの……宮本さんの送別会のことなんですけど……」
「えっ」
「幹事、私がやることになって……」
言われてみて陽子はその子が千夏と同じブライダルデスクの配属であることを思い出した。
彼女は陽子の顔色を窺いながら、おどおどした調子で続けた。
「宮本さん、退職は来月付けなんですけど有給消化とかで実際の勤務は今月一杯なんです。急なことだからあまり人数集まらないと思うんですけど……」
「送別会、どこでやるの?」
「それがまだ決まってなくて……」
「結婚退職だから、お祝い集めないといけないんじゃない?」
「……はあ……そうですけど……」
「幹事、初めて? 宮本と同じ部署と、あと、うちのバンケットと……、あと宮本と仕事してた部署を部長に聞いて指示してもらって、ざっとご祝儀集めてまわればいいのよ。一口千円ぐらいでいいのよ」
「あの、岡崎さんは……送別会来られます?」
「えっ、私?」
陽子は今更だが、言われてみて気がついた。後輩達が陽子の顔色をこんなにも窺いビクつくのは、陽子だから、なのだ。
後輩達が考えていることも分かる。千夏と一緒に仕事をしてきて、しかも仲のいい陽子を送別会に呼ばないなんて不自然だし、しかし、すでに社内に二人のことが広まってしまっている以上、呼んではまずいと思うのが当然だ。陽子が同じ立場でも、ひどく困ることだろう。
送別会や飲み会の幹事はその時々で手の空いてる者や、性格的にも経験的にも慣れた人間がやるのが慣習だが、まだ入社してそう長くもない若い社員にやらせることになったあたり、どうも今回に限り千夏の送別会の幹事は押しつけ合いになったのであろうことが推測できた。
同僚に婚約者をもっていかれた女と、同僚の婚約者だった男と結婚する女。この二人を同じ場に呼んでも呼ばなくても、物議を醸さないわけがない。
陽子は優しく微笑むと、
「いろいろ気を使ってるみたいだけど、私の事はいいのよ。気にしなくて。ありがとうね、声かけてくれて。なんか悪いわね。気まずい思いさせて。大丈夫、私は行かないから。お祝いはうちの部からってことで出すようにするから、個人名とかは出さなくていいわ。私から部長に言っとく。もうあんまり時間ないでしょ。早めに人数決めてお店も予約しないと駄目よ」
「……岡崎さん……」
陽子は後輩の肩をぽんと叩いた。わざと気のいい先輩のふりをしているわけではなかった。
確かにこんな気遣いを受けなければいけない境遇は情けないけれど、自分が傷つくほど周囲に迷惑がかかるのだと思うと、笑うより他なかった。
後輩達は陽子の微笑にほっとしたように胸をなでおろしていた。
ロッカールームを後にした陽子は、これでまたみんなからひそひそと噂されるのだと思うとため息をこらえるのに苦労した。
良かれ悪しかれ人の口にのぼるのは面倒なことだ。ましてや本当のことなど誰も知りはしないし、そもそも本人だって知らないのに言葉ばかりが勝手に横行していく場合は特に。
気付くと陽子はまた無意識に背筋を伸ばし大股で歩いていた。
その日一日、陽子の新しい髪型は注目を集めた。誰もが驚き、しかし似合うと褒めてくれた。陽子はやはり切ってよかったと思った。お世辞でもポジティブな言葉は聞いていて嬉しいし、癒される。嘘も重ね続ければ本当になるようなものだ。
厨房へ次のバンケットの連絡に顔を出しに行った時も、懇意にしているフランス人コックから「そのショートカット、まるでパリジェンヌ!」と言われた。ふざけてフランス語で「お嬢さん、お菓子をどうぞ」と言われ、新しいケーキを試食させて貰った。陽子はそれで充分だと思った。人生というものは、そうやって万事オッケーになっていくのだと。
遅番だった為、帰宅は0時を回ったけれど陽子は疲れていなかった。
部屋に戻ると着替えてすぐに洗濯籠を持ってコインランドリーへ行き、衣類をどさどさと洗濯機に放り込んだ。
ベンチに腰掛けると、ジーンズのポケットにいれたサンバホイッスルが固い感触で腿に触れていた。
静かな夜だった。いや、勿論、いつもここは静かだ。でも、当初と違うのは「この世界に自分と洗濯機しかいない」のではなく今は「自分と洗濯機と、アフロの悪魔がいる」と思えることだった。
陽子は持ってきた文庫本を開きゆっくり読み進め始めた。するとランドリーの前に人影がよぎり、そろそろと引き戸が開けられた。
珍しいこともあったものだ。このランドリーに自分の他に利用者がいたなんて。陽子は本から目をあげた。が、驚いたことにそこにいたのは利用客ではなく、なんと千夏が立っていて、陽子を見つめていた。
陽子は千夏に釘付けになっていた。それは金縛りのような時間だった。時間といってもほんのわずかな時間。数秒のこと。けれど、陽子には永遠のように長く感じられた。そうして、それは恐らく千夏にとってもそうだっただろう。
「こんな時間に洗濯に来てるのね」
最初に口を開いたのは千夏だった。千夏は後ろ手で引き戸を閉め、中に入って来た。
「毎日来るの?」
「……毎日じゃないけど……やっぱり洗濯物溜まっちゃうし……何日かおきには……」
千夏はマキシ丈のワンピースにサボを履いていて、この殺伐としたコインランドリーにはまるで似合わなかった。
夢を見ているみたいだった。こんな深夜にコインランドリーに千夏が現れるなんて。陽子は乾燥機からアフロが出てきた時と同じようにそっと自分の腕をつねってみた。痛い。いや、そりゃあ痛いに決まっている。こんなことしている場合じゃない。
陽子は文庫本を傍らに置いた。
「どうしたの、こんな時間に。なんでここにいるって分かったの」
「電話したけど出ないから」
「あ、携帯は部屋に……」
「玄関もピンポン鳴らしたんだけど」
「え、うちに来たの」
「うん。いないから、もしかしてって思って。コインランドリー行ってるって言ってたでしょ。だから、近所にいるのかと思って」
「どうして急に……」
「……」
「なんかあったの」
「……なんで来たか、分かるでしょ?」
「……」
陽子は気圧がぐんと下がるような錯覚を覚えた。それは息苦しく、重い空気が頭上にせまるような感じで、二人の間にあるものをぎゅっと押し潰すような圧迫感だった。
仕方なく陽子は答えた。
「……哲司のこと……?」
「……うん」
陽子は固い表情の千夏を見ているうちにもう逃げられないのだと悟った。
二人で手掛けた仕事のこと、いくつものトラブルに協力して打ち勝ってきたこと、新しい店を一緒に開拓し、バーゲンに行き、オフシーズンには温泉旅行にも行ったこともある。
仲が良かったのに。それなのに今すべてが嘘になろうとしている。洗濯が終了を告げる電子音を鳴らし、陽子は立ち上がって籠に洗濯物を引きずりだした。
「結婚するんだってね」
陽子は沈黙に耐えられず切りだした。が、千夏の顔を見ることはできなかった。
「結婚することになったのは、陽子と哲司くんが別れてから決まったことだから……」
「……でも、その前から関係はあった。でしょう?」
「それは……」
籠の中の濡れて団子になった洗濯物をゆっくりとほぐす。清潔な香りが漂う。
「私が一方的に哲司くんを好きだっただけだから」
「そんなことないでしょ。一方的で結婚までは辿りつかない」
「陽子」
「……なに」
「哲司くん、悩んでたのよ」
「なにを」
陽子は千夏の方に目を向けた。感情的になりたくなかった。罵りあうことや、まさか殴り合うこともしたくはなかった。争いは醜い。でも、そうしないと決着をつけることができないのだとしたら、果たして自分はこのかつての親友を殴ることができるだろうか。陽子の胸はぎゅっと締めつけられ、痛みが吐き気を伴って襲いかかって来た。
千夏は意を決したように、言葉を継いだ。
「送別会のこと、聞いたわ。自分は参加しないから気にしないでくれって言ったそうね」
「幹事の子が困ってたからね」
「それ、見栄なの?」
「……どういう意味?」
「髪を切ったのも、なんかのパフォーマンスだったりするのかな」
「なにが言いたいのよ」
「確かに陽子はいつも冷静だし、頭もいいよ。でも頭がいい分だけ先回って計算しすぎる。取り乱さないし、自分が不利になるようなことはしないし、言わない。だから本当の気持ちだって言わない。それって、相手を信用してないからなの? 自分のプライドがそんなに大事?」
「……」
「なんで哲司くんが悩んでたか、分かる? ううん、悩んでたこと、気付かなかったの?」
「……」
「陽子はなんでもてきぱきしてるのはすごいけど、自分の計画通りに進めようとしているだけで、入り込む隙がないって。時々、陽子にとって自分は特別必要ってわけじゃないんじゃないかって」
「……」
「陽子は仕事でもそうじゃない。自分にも他人にも厳しくて、言ってることはいつも正論だけど、人情味がないっていうか、冷たい感じするじゃない。いくら優秀でもそれだけじゃあ人を追い詰めるのよ」
「それが理由なの?」
「……」
「私がしっかりしすぎるから、哲司は千夏と浮気して私とはサヨナラってわけ?」
「……」
「一体なにを考えてるのよ」
聞いているうちに猛烈に腹が立ってきた陽子は拳を固く握りしめ、千夏を見据えた。怒りと興奮で陽子の目は光り、頬には赤味さえ差していた。
「千夏、私に言うべきことあると思わない?」
「……」
「ねえ? なんで会いに来たのか知らないけど、この状況でなにを言うよりも、哲司が悩んでたとか私が見栄っぱりだとか、後輩の手前いい格好してみせて、これみよがしに髪切ったなんて非難するよりも、千夏も哲司も言うことあるでしょう?」
実際痛いところを突かれていると思った。おっとりした哲司とちゃきちゃきした陽子。哲司が何か言いかけるのをつい遮ってしまう自分。理屈で相手を丸めて、自分の意思を通そうとする自分。いつでも理論武装して弱さを見せないから可愛げがなく、はなから男に頼る気持ちもないもんだから時として相手を突き放す態度をしてしまう。それを哲司が「陽子にとって自分が本当に必要なのか」という疑問や不安に繋がったというなら、そうかもしれない。そして陽子はそれに気付きながら素知らぬ顔をしていたのかもしれなかった。そうしなければ陽子の得意の「スムーズ」に事を運ばせることができないと無意識に案じていたのかもしれない。
しかしその一方でそうではないと言いたいのは、後輩達に対して自分のことは気にするなと言ったこと。あのアドバイスはこれ以上人に迷惑をかけたくなかっただけだし、本当に後輩に悪いと思えばこそだった。いい格好したわけではない。それに髪を切ったこと。これはアフロが昨夜キムチ鍋を作ったことによるテンションの余波だ。明るくなりたくて、気分を変えたくて切ったのは本当でも、感傷的な悲劇のヒロインぶって切ったのではないと声を大にして言いたかった。
でも、今はそれより陽子が言いたいのは一つだけだった。
哲司は自分を嫌いになったわけではないと言った。それは方便かもしれないが、それ以前に二人が重ねた年月。哲司は陽子を好きで、だから付き合っていたのではなかったのか。だからこそのプロポーズではなかったのか。
ひどい。陽子は単純にそう思った。今はどうでも、千夏にそんなことを言うなんて。哲司に対する怒りで眩暈がする。しっかりしすぎて愛想がなくて、可愛くないなら、なぜ結婚しようなどと思ったのだ。気が変わったのならそう言えばまだいいものを。それでは非は陽子だけにあったのか。恋愛は二人のものなのに、どうしてそこに第三者が現れてさも自分こそが調停者であるように正義の大鉈をふるうのだ。
「社内に知れ渡らなければバレなかったかもしれないけどね。それでどんな噂されてるか、千夏だって分かってるでしょ。だけど噂は噂よ。本当のことなんて私だって知らないわ」
「それは……」
「理由はどうでもいい。今さら人の恋愛の経緯なんてどうでもいいわ」
「陽子と別れた後に始まったことなのよ」
「だからなによ。でも、こうなった以上、謝るのが筋じゃないの?」
「……」
「……それとも、私のせいだとでも? 私が哲司にもっと優しくて、女らしくて、甘え上手な女なら別れずにすんだし、千夏とどうにかなることもなかったとでも言うの?」
腹が立つほど冷静になろうとする習慣はこの時も発揮され、陽子の言葉はひどく手厳しく冷たかった。声を荒げたりしないで、いつも通りの語調でぴしりぴしりと言い放つ。
なんでこんなことになってしまったのだろう。言いながら、腹立たしさと悲しさでやりきれなかった。千夏がただ一言ごめんねとか、どうしても哲司をあきらめきれなかったとか、成り行きでそうなったとか言ってくれれば陽子もこんな態度をとらずにすんだかもしれない。それなのに、千夏から出た言葉は陽子を唖然とさせた。
「だから、哲司くんが慰謝料払うって言いに行ったはずよ」
「えっ」
「どうして断るの」
「……あれは千夏の入れ知恵だったの?」
「そんな言い方しないで。哲司くんだって陽子に悪いと思うから何かしたいって言うから」
「だから、お金なの?! もう、あんた達は一体どういう神経してるのよ?!」
とうとう陽子は我慢しきれずに怒鳴った。
「お金払えばそれでいいと思ってるの? それで私が許すとでも思ってるの? 誰がいつそんなこと望んだっていうのよ? お金なんか欲しくないわよ!」
陽子の激昂するのを初めてみた千夏は、あまりの激しさにおののき、咄嗟に後ずさった。
「慰謝料ってなによ。馬鹿にしないでよ。あんた達がしようとしてるのは、謝罪でもなんでもない。ただ、自分達が罪悪感から逃れたいだけじゃない。お金払えば自分達がすっきりして、後腐れなく幸せになれるってだけじゃないのよ!」
「……」
「どうせ私は可愛げのない女よ。正論ばかりのつまらない女よ。確かに私の理屈は冷たいばかりで人を追い詰めるかもしれない。でも、こんな風に人を傷つけたりはしない」
「……」
「結婚でもなんでも勝手にすればいい。もう私にはなんの関係もないし、千夏とも哲司とも会いたくない!」
最後にそう叫ぶと陽子は洗濯籠をつかんでコインランドリーを飛び出した。
マンションに駆け戻り、震える手で鍵を開けて部屋に入ると乱暴にドアを閉めた。心臓が破裂しそうに激しく鼓動し、耳の奥で血管がどくどくいうほど陽子は興奮し、そのまま卒倒してしまいそうだった。
玄関に放り出した洗濯籠がころげて、床に濡れた洗濯物がこぼれ出した。
ドアに背中を預けたまま、陽子は靴を脱ぐこともできず、天井を仰いで唇を固く引き結んでいた。
あのカフェで哲司と会った時の自分が悲しかった。まだ好きで、ときめいてしまった自分が悲しかった。
何度も深呼吸してからのろのろと部屋にあがり、洗濯籠を拾い上げベランダに干し、また深呼吸をした。
夜干しは洗濯物が乾きにくい。せめて仕事で着るようなシャツは乾燥機ででもふんわり、ぱりっと仕上げなければ気分が悪い。でも、今はそれもどうでもよかった。陽子は自分自身が湿った洗濯物みたいになっていると思うと、アフロのように乾燥機の中に入り込んでしまえればいいと思った。
干し終わって、部屋に入ろうとすると一瞬陽子はびくっとして体を固くした。部屋の真ん中にはアフロが立っていて、黙って陽子を見つめていた。
「び……びっくりした……」
言いながら陽子はベランダを閉め、
「今日はごはん作ってなかったのね。あんた、料理上手いから毎日作ってくれたら助かるんだけど。あ、でも遅番の日はあんまり食べないのよ。ほら、夜遅いから。太るでしょ。これでもちょっと気をつけてんのよ。そういえばあんたは普段ごはんどうしてんの? 悪魔とかって別に毎食食べなくてもいいの? ってゆーか、人間と同じでいいの? もっとワケの分かんないもの食べるんじゃないの? ヤモリとかトカゲとか……」
アフロと目を合わせることが怖かった。なにもかもを見ているアフロに今は何を言えばいいのか分からなくて。
台所で琺瑯のコーヒーポットに水を入れ、
「コーヒー飲む?」
と、陽子は背を向けたまま尋ねた。
「紅茶でもいいけど」
そんな風にうやむやに胡麻化そうとする陽子にアフロはずばっと切りこんできた。
「なんで言わへんかってん」
「……なにを」
「あんた、さっきの人に言うたこと、なんで元彼にも同じこと、同じだけ言わへんかってん」
「……」
「そんで、なんで泣けへんかったんや」
「泣いてもしょうがないじゃない」
「別に我慢せんでもええやないか。それとも、あの人が言うたみたいにやっぱり見栄なんか」
「そんなんじゃない!」
咄嗟に陽子はアフロを振り向いた。アフロは音もなく背後に立っていて、怒ったような、まるで睨むような厳しい目で陽子を見下ろしていた。
「あんたが仕事熱心で厳しいんは分かるわ。そら、時々は後輩とかから恨まれることもあるねんやろ。けどな、さっきの人が言うたんはちょっとちゃう思うで。あんた別に嫌われてへんで。そら確かに怖い先輩なんかも知れへんけど、優しいとこかてあるやん。それ、みんな知ってるで。せやから、後輩の子らあんたに気ぃ使てくれてるんやん」
「……」
「でも、あんたが見栄っぱりなんはちょっとだけほんまや思うわ。慰謝料のこと腹立つやろうけど、それ言い出した元彼にはなんで怒らへんかってん」
「……」
「まあ、あんなこと言いに来るあの人もどうかと思うけど……。あの人もあんたと同じでしっかりした女なんやろな。男の為に一肌脱いだつもりなんか知らんけど……」
「……」
「そうかて、あんた、怒鳴るんやったら元彼にも怒鳴ったらんかいな。それせえへんかったんは、まだ好きやからなんか」
「また私のせいなの? また、私が悪いっていうの? 彼氏盗ったのは向こうじゃないのよ」
「浮気したんは彼氏やろ」
「それが私のせいだったわけ?」
「そんなん言うてへんやん。あんた、元彼の前では黙って静かに話し聞いて、これからお金いるやろからそんなんええとか言うて、そない腹立つんやったら言うたったらよかってん。浮気のことも、責めたったらよかったやないか。自分の友達とくっついて、結婚するやなんて、そらひどい思うわ。あんた、それ怒る権利あったと思うわ。でも、それ、あんた全部知ってるくせに一言も言わへんかったやないか。あれは、なんでやねんな」
アフロの口ぶりは陽子を責めるようでもあり、一緒になって怒っているようでもあった。しかし、同時に問い詰められているようでもあって陽子は答えることができなかった。
なぜと言われても答えなどそういくつもあるものではなく、恐らくはアフロの言う通り、哲司をまだ好きで、だから彼を悪し様に責めたくなくて、責める醜さを見せたくなくて、せめて綺麗なままでいたくて、怒るのも取り乱すのも結局は自分の見栄だからできなくて、陽子はそれこそが自分の非であると知り、鼻先に突きつけられてむっと押し黙っていた。
「なんでそんな自分に無理するねん」
「無理なんかしてない」
「してるやん。あんた、我慢してるやん」
「してない」
「せんでええねんで」
「……」
「そんなん、せんでええねん」
なにが無理で、どれが我慢だったのかもう陽子には分からなかった。思えばいつもそうだったのか。背筋を伸ばす癖。あれはいつだって自分を鼓舞しなければいけない苦しい局面のものだった。
陽子はくるりとアフロに背中を向け、シンクの縁を両手で掴むようにして水の入ったポットを見つめた。
赤いポットが流しの中で静かに光沢を放っている。シンクを掴む手に力が入る。陽子は唇を噛みしめた。そうしなければ後から後から溢れてくる涙のせいで嗚咽をこらえることができなくて。
大粒の涙がぽたっとシンクに音を立てて落ちた。こんなに大きな音が出るのだと思った。水道の蛇口から水が垂れるのと同じ音。今や陽子は壊れた水道も同然だった。
すると背後に立っていたアフロが陽子の手首をおもむろに掴み、シンクから指を引き離した。
「あんた、悪ないで」
アフロはそう言うとそのまま陽子を抱きしめた。
それが不意打ちだったので陽子はアフロの胸に顔を押しつける格好になり、とうとうこらえきれずに激しく泣きだしてしまった。
アフロのTシャツに涙や鼻水をこすりつけ、しゃくりあげて泣いた。その間、アフロの大きな手が陽子の頭や背中を撫でさすり、時々子供をあやすように軽く叩いた。
陽子は哲司も千夏も好きだった。しかし、今はもう好きではなかった。それが裏切りよりもつらい事実として陽子を切り刻む。知らずにいれば幸せだったのに。少なくとも今よりはマシだったはずなのに。もう後戻りはできない。
泣きながら陽子は自分の心が今までと真逆の方へ走り出すのを止めることができなかった。
ひとしきり泣くとアフロの手が陽子の頬を挟み込んだ。
「あーあ、鼻水ずるずる……。顔ぐちゃぐちゃやん……」
うるさい。余計なお世話だ。悪かったな。陽子はそう言い返そうとした。が、できなかった。陽子の唇にアフロの唇が触れ、言葉の出る余地はなかった。
長い口づけの後、陽子は小さな声で言った。
「……殺してよ」
「え?」
「あの二人、殺してよ」
「……なにを言って……」
「願い事」
「……」
「これが私の願い事よ」
アフロは陽子の目の奥を真剣に覗き込んだ。陽子の黒目は泣き濡れて透明に光り、怒りや憎しみ、悲しみに縁どられていた。
陽子は自分の言っていることがどんなに残酷で、非道なことか自分でもちゃんと分かっていた。本気かと聞かれれば、本気だと答える用意もあった。
この剥き出しの殺意を、憎悪を、言葉にしなければ一体自分の気持ちをどこへぶつければいいか分からなかったし、もう、見栄を張っていい人のふりをするのに心底うんざりしていた。
一体、何のための見栄だったのだろう。そうやって守ったプライドが自分にとってどれほどの役に立つというのか。この先もずっと。千夏と哲司。二人の言葉もそれぞれの人格も、三人の思い出も陽子にとって今は泥水をぶっかけたようなものだ。そして、この汚染は永久に濯がれはしない。
呪いの言葉は自分を醜く愚かにしているのも分かっていた。でも、この呪いを自分の中に押しとどめて、自分だけが侵されていくのも許せなかった。
アフロは尋ね返すことはしなかった。ただ黙って陽子を見つめていた。陽子の目から最後の一滴とも思わせるような涙が一筋頬を流れた。今、陽子はすべてを捨て去った気がしていた。
二人の距離は近かった。アフロは腕の中の陽子を再び抱き寄せてキスをした。陽子も無言のうちにそれに応えた。
その夜、陽子はアフロの髪が思いのほか柔らかく、ふかふかした手触りであることを知った。アフロというのはもっとごわごわして、金タワシみたいみたいなのかと思っていた。ぱさぱさで痛いのかと。
アフロはその髪も、悪魔であることのイメージも、すべてを裏切って優しかった。長い手足、滑らかな胸、たくましい肩幅。陽子はそれらが普通の男の子となんら変わりないことに驚いたし、することも普通の男の子と変わらないのにも驚いた。
殺してよ。陽子は自分が口走った言葉を後悔しないのと同様に、アフロとの肉体の交接も後悔しないだろうと思った。
朝、目が覚めるとアフロの姿はなく、代わりにテーブルにサンドイッチが乗っていた。
陽子は自分が裸であることから昨夜の出来事が夢ではないことを再確認し、自分の乳房の上に残されていた赤紫の内出血が打撲ではなく、アフロのせいであるのをしみじみと眺めた。
べッドから出てシャワーを浴び、サンドイッチを食べる。軽くトーストしたパンにレタスときゅうり、トマトと、卵。卵は厚焼き玉子になっていて、ケチャップとウスターソースとマヨネーズを混ぜたものがかかっていた。田舎っぽい味だった。
テレビをつけ、ニュースを眺めながらもさもさとサンドイッチを食べ、コーヒーを飲む。画面の中では次から次へと陰惨な事件が繰り出されていて、いかに世界が混沌としているかを映しだしている。
カトリック的にはこういうのは悪魔の仕業とでもいうのだろうか。陽子はふとそんなことを考えた。強盗も強姦も、轢き逃げも放火も、誘拐も虐待も悪魔の仕業。無論、殺人も。
陽子は宗教に関心もなければ信仰も持たないので、これまでそういった事件というものは人間だけが引き起こす、人間の罪だと思っていた。
が、今はそれだけではないのかもしれないと思った。現に自分も悪魔に願い事をした。千夏と哲司の死を。
死をもってしか償われないとか言うつもりはない。でもこの裏切りを償うのは彼らの浅はかな慰謝料ではないとも思う。
ではなぜ彼らの死を望んだのか。理由はひとつ。死だけがすべてを過去にしてくれるからだった。
単純な憎悪が手伝ったのも事実だが、それよりも、三人の間に起こった事を絶対に未来永劫塗り変えることができないよう完結させてしまうには他に方法がない。生きている限り記憶は塗り変えられてしまう。ましてや、これから幸福になろうという千夏と哲司には陽子だけが邪魔で、陽子だけが過去になっていく。それが我慢ならなかった。
陽子はテレビを消すと食べ終えた食器を片づけ、洗面所で鏡に向かった。
うんと短く切った髪のおかげで陽子の顔は明るい印象に見えたけれど、目の奥には暗い光が宿っている。呪いの色だ。
呆れただろうな。陽子はそう思うと一人苦笑いをした。願い事なんてないと言いながら、言ったのがこれだなんて。それについてアフロが何もコメントしなかったのが気になるけれど、陽子は着々と出勤の準備をした。
今晩は自分がアフロに何か作ってやろう。陽子はそう思い、冷蔵庫の中身を確認してから家を出た。
しかし、夜になり、スーパーで買い物をして戻ったにも関わらず、アフロはそれから一週間まるまる姿を見せることはなかった。
一週間。陽子は自分がヤリ逃げされてしまったのかと思い、腹が立った。が、アフロに何かあったのではと心配でもあった。
悪魔に何があって心配になるのか分からなかったけれど、今の陽子にはアフロは普通のそのへんのあんちゃんとなんら変わりはない存在に思えた。
それならばとサンバホイッスルを鳴らすことも考えたけれど、これが本当にヤリ逃げだったり、陽子の体に気に食わないところがあったり、いや、陽子そのものに愛想を尽かしたのだったらと考えると鳴らす勇気がでなかった。
ただ飲みに行くとかなら鳴らすものを、もうそんな気軽さはなく、あるのは悲しいまでに傷つくことを恐れる陽子の貧弱な心だけだった。
もしや今日はと思い、帰宅してから食事の支度をして待ってみたりもしたけれど10分もすれば気持ちは萎えた。この瞬間もアフロは自分を見ているはずなのに。陽子は無視されていると思い、ひどく傷ついた気持ちになった。
泣いても、腹を立てても、アフロは自分を見ている。見られていると分かっていて独り言を言うような感情の吐露はわざとらしくて、陽子にはできそうになかった。
しかし、一週間である。陽子はいよいよ我慢ならなくて、今夜こそサンバホイッスルを鳴らそうと決めていた。
職場では千夏の送別会の日も決まり、陽子は後輩と話した通り上司にお祝い金のことを話して全員からいくばくかを徴収した。無論、自分も払った。
送別会の場所は二人でよく出かけたあのオープンカフェのあるイタリアンだった。陽子は自分も気にいっていたあの店に、もう行くことはないような気がした。
千夏の噂はすでにおおっぴらにあちこちで聞かれるようになっていた。無理もない。すでに広まっていたとはいえ、もう退職も目前となると憚る気持ちもないのだろう。こうなると耳を塞ぐ気にもなれなかった。
同情の視線を浴びる陽子と、冷たい視線を送られる千夏。間を埋めるのは無責任な人間の好奇心。
陽子はブライダルデスクから回送されてきていた次のウエディングの予定やプランニングに目を通した。そこにはバルーンを使った装飾や、キャンドルではなく小さな花火の演出や、チョコレートファウンテンなどのプランが書かれていて陽子を困惑させた。
バルーンも多用しすぎると子供っぽく、ホテルのイメージに合わないし、装花とのバランスなど打ち合わせが難しい。小さな花火はレストランでケーキに使うこともあるけれど、火薬臭いし、なによりバンケットなんかで大量に使うと火災報知機が鳴りかねない。チョコレートファウンテンもデザートビュッフェにいれたい気持ちは分かるが、招待客のフォーマルが汚れる可能性があるからあまり取り入れたいプランではない。
書類にはまだ経験の浅いスタッフのハンコが押してあり、陽子は心ならずも千夏とはなんと違うことかと思った。
千夏ならこんなことは考えつかない。いや、考えたとしても実現可能な範囲にアレンジするだろうし、もう少し具体的なプランを記入してくる。見積もりやイメージ写真だって添えてくるし、お客様の希望だって明確に回送してくる。そう考えると、千夏と手掛けた仕事は本当に充実していたことが今更のように思いだされた。
紙吹雪の代わりにシャボン玉。チャペルに子供で構成された聖歌隊。和装でのブーケトス。一瞬の煌めきの数々。千夏だからできた仕事であり、陽子だからできた仕事がいくつもあった。
上司の反対を押し切り、二人で厨房に無理を頼みこみ、時には中庭の植栽の一つ一つに二人でクリスマスの飾りを施したこと。赤と緑のベルベットのリボン。真冬の結婚式。徹夜で準備して、朝に仮眠室で二人で熱いココアを飲んだのも、あの熱さも甘さもはっきりと覚えてる。
そんな二人の仕事を、その仲の良さを、哲司はいつも楽しそうに聞いてくれた。いい仲間と仕事してるんだなと言って、羨ましそうに。
「岡崎さん」
「えっ?」
デスクでしばしぼんやりしていた陽子は、名前を呼ばれてはっと我に返った。
「お電話です。内線」
「あ、ごめん……」
陽子は急いで受話器を取った。電話は件のブライダルデスクからだった。
「吉田です。岡崎さん、今、いいですか?」
「はい、どうぞ」
「えーと、ご相談にいらしたお客様からなんですけど……」
「うん?」
「夜、中庭での人前式で、イルミネーションつけたいって希望があって……」
「イルミネーション? 中庭に? 規模はどのぐらい?」
「どのぐらいならできますか?」
「いや、どのぐらいって……。お客様の希望はどうなの? それによって出来るか出来ないかは判断できるでしょう」
「とりあえず出来るんですよね?」
「どんだけのイルミネーションをイメージしてるの? まさか百万ドルの夜景を再現しろっていうんじゃないでしょ? もうちょっと具体的にまとめてもらえる? 宮本は? 宮本が前にそういうのやったことあるけど、資料ないの?」
「……聞いてみます」
「イルミネーションの備品資料、あとで回すから」
「はい」
受話器を置いてから陽子は首をかしげた。変な電話。厳しいと恐れられている陽子よりも千夏に聞けばいいのに。それで不貞腐れたみたいな返答なんて、子供じゃあるまいし。
陽子はそう思いながら、後輩に備品のリストをコピーするように言った。
「イルミネーションが欲しいんだって。去年のクリスマスにLEDライト買い足したよね。数、全部でいくつあったかな」
「岡崎さん」
「ん?」
ファイルを手に後輩が陽子の前に来ると、他のスタッフをちらっと見てから言いにくそうに口を開いた。
「あの……、なんか、ブライダルの方が今微妙っていうか……」
「なにが微妙なの?」
「いろいろ噂されてて……」
「なに? はっきり言ってよ」
後輩は怒られるのではとびくついているようで、おどおどと、今にも逃げ出しそうな及び腰になっていた。
「宮本さん派と岡崎さん派に分かれてるっていうか……」
「……なんの派閥なのよ。それは」
ちょうどいいタイミングで、上司は会議に出席していてデスクにはおらず、オフィスは後輩ばかりだった。
口ごもってしまった後輩に陽子は言った。
「あのね、みんなも聞いてちょうだい。そんな噂があるのは知らないけど、これはプライベートなことよ。仕事は仕事。関係ないわ。私にも関係ないのに、どうして回りの人間がそれに振り回されなくちゃいけないの。一体なんの派閥だか知らないけど、宮本はもう辞めるんじゃないの」
「でも、噂になってるんですよ。岡崎さんが宮本さんに慰謝料要求してるって」
陽子は聞いた途端、ぎょっとして青ざめた。そんなことまで広まっているのか!
陽子はぴりぴりしてくる神経をどうにか抑えながら、無理に笑って見せた。
これも見栄というやつかもしれないが、この場合は仕方ない。ここで取り乱したり、怒ったりしたら後輩達が可哀想だ。
「誰が噂してるのよ。まったく」
「岡崎さん、そんな人じゃないのに。なんかもう、腹立って……。ブライダルの方では宮本さんの後輩の子とかが岡崎さんの悪口言ってるし……。私たち、本当は送別会だって出たくないんですよ」
「なに言ってるのよ」
「でも……」
「噂でしょ。噂。そんな事実はないから。心配しなくても大丈夫。とにかくね、仕事は仕事でちゃんとやろう? それに、送別会も。宮本にはあなた達も世話になったでしょ? 噂に翻弄されないで、気持ちよく送ってあげなさいよ」
「岡崎さんは大丈夫なんですか?」
「もちろんよ」
大丈夫なわけあるか。陽子は本当はそう言いたかった。
慰謝料のことまで知られているとは。喋ったとしたら、千夏以外にはありえない。陽子は千夏とランドリーで会った時の仕返しがこれなのかと、内臓の奥深いところが熱く煮えていくようだった。
千夏との仕事のレポートをファイルからめくり、後輩にコピーの追加の指示を与える。陽子はこれが恋愛写真のようなものならこの場でまるごと焼き払ってやるのに。二人の軌跡を。しかし、そうすることができない以上、やはり方法は一つしかないと思った。
アフロの力を借りるより他にない。いい仕事してきたのに。陽子は思い出ばかりが悲しかった。同じ人を好きにならなければ、二人は今も友達でいられたのに。袂を別った今、あるのは無残な思いと何度も再燃する怒りだけだった。
帰宅した陽子はコインランドリーへ行き、洗濯をした。洗濯籠にはいつものように缶ビールが二本入れてあった。
洗濯機が回っている間ベンチに腰掛け、片膝を抱き、ヘッドフォンで「リンダリンダ」を聞いた。そして小声で歌っていると、ランドリーの入り口が開き、アフロが現れた。
陽子はどきりとしたが平然とした顔で言った。
「久しぶり」
照れくさくてなんとなくぶっきらぼうな言い方になってしまった。
「雨が降りそうやな」
「うん、蒸し暑い」
アフロは陽子の隣りにやってきて腰を下ろすと、籠の中からビールを拾い上げた。
「あんた、洗濯機買う気ぜんぜんないねんなあ」
「……だんだんこれに慣れてきたからね。慣れればそう不便でもないかなって思うし」
「そうか。まあ、そういうもんかもなあ。人間は慣れていく生き物やからな」
「悪魔は違うの?」
「いや、それは同じやろ。慣れていくよ。色んな事に。長く生きてるから、同じことが何べんも起きる」
人間の女と寝るのにも慣れているのかと、陽子は尋ねたい気がした。が、黙って自分もビールのプルタブを抜いた。
「いや、違うか……。なんべんやっても、なんべんおうても慣れへんことってあるわ」
「煙草、持ってる?」
「あれ、あんた、吸うたっけ」
アフロはジーンズのポケットから煙草を取り出した。銘柄はやっぱりラッキーストライクだった。
陽子は一本取り出して口に咥えると、ライターで火を点けようとしてからふと思い直した。
「ねえ」
「ん?」
「火、点けてよ」
「ええ?」
「あれ、やってよ。ほら、前にスターバックスでやったやつ。ここなら誰も見てないし」
「ああ、あれか」
陽子の頼みにアフロは体を斜めにし、二人向き合う格好になった。
二人の視線が初めてまともにぶつかった。戸惑いが、瞬間、走る。
アフロは無言で人差指を伸ばした。青い炎。すべてを焼き尽くす地獄の火。陽子はそれで煙草を吸いつけた。
紫煙が漂いだすと、陽子は少し笑った。煙草の辛みが口中を満たし、吸いこむ咽喉に違和感があった。咳き込みそうになるのをかろうじてこらえ、煙草の先が燃えるにまかせた。
「前に話した、初恋成就のおっさん覚えとる?」
「ああ、あの人生やり直したいっていう……」
「それからどうなったんかあんた聞いたやろ。どないしてんのかって」
「うん」
「あれな、死んどったわ」
「え!」
陽子はびっくりして煙草を落としそうになった。
「誰が? なんで?」
「おっさんが。嫁に刺されて」
「えええ!」
アフロは自分も煙草を咥えると、ライターで火を点けた。陽子はアフロの眉間に苦々しい皺が寄るのを見つめていた。
「不倫しとったやん。おっさん。初恋の……おばはんと。それが嫁にバレてなあ。嫁が相手と別れてくれって頼んだんや。子供もおるねんから、相手の女とは手を切ってくれって。でも、おっさんは断ってん」
「……」
「断られへんかってん。なんでか分かるか?」
「それはその人を好きだったからじゃないの……?」
「ちゃう。恋愛を続けるのがおっさんの願い事やったから、や。おっさんがなんで初恋のおばはんと再会して、また付き合うようになってん。それはおっさんが俺に願い事したからや。俺はそれを叶えた。ようするに、おっさんはその願いから逃げられへんねん……。もしもおっさんが別れたくなっても、嫌になっても、おっさんはおばはんと別れることはできへんのや。嫁と別れることはできても、初恋成就は絶対や。死ぬまでおっさんはその恋を続けんとあかんねや……」
「……」
「とにかく、おっさんは別れへんって言うた。そんで、喧嘩になって嫁に包丁で刺し殺されてしもてん」
「それ、あんたのせいじゃないの?」
陽子はビールに口をつけ、コンクリの床に視線を落とした。
悪魔が叶えた願い事。初恋の成就。永遠の恋。陽子は俄かに背筋がぞっとするのを覚えた。
アフロは陽子の問いには答えなかった。
「なんで不倫がバレたか分かるか」
「なんで?」
「相手がな、自分から暴露しに行ってん。おっさんに内緒でな」
「……」
「あんた、おっさんを殺したんは嫁と相手の女とどっちやと思う?」
陽子はアフロが何を言わんとしているのか測りかねた。
悪魔の手を借りた身勝手な願いのツケがそんな風に回ってくるのだとでも言いたいのか。そうやって陽子を戒めようとしているのか。悪魔のくせに。
死んだ男は妻に詰問されなんと思っただろう。子供の為にも女と別れてくれと言われて、迷いはしなかっただろうか。悪魔の効力はどこまで彼を動かしていたのだろうか。
それに、初恋の女。なぜ密告したのだろう。なんの為に。男にとって永遠に守りたい恋であっても、女にとっては違ったのか。
いや、ちがう。女にとっての恋の語りが男とは違っていたのだ。女は男を自分だけのものにしたかった。
しかし男にとっては。永遠だった。本当に、永遠になってしまった。死をもってして、永遠に。
悪魔は願いを叶えた。男の願いを。女の思惑は、願い事には含まれていない。それだけのことなのだ。
陽子もアフロの問いには答えなかった。男を殺したのは愛人でも妻でもなく、悪魔だと思った。
ビールを飲み干すと陽子は空き缶をゴミ箱に向かって投げた。空中を綺麗な放物線を描いて空き缶が吸いこまれるようにゴミ箱に落ちる。固く乾いた音が警鐘のように響いた。
「あんたの願い事のことやけど」
「うん……」
「初めに言うたと思うけど」
「うん……」
「二つの願いはでけへん」
「うん……」
「一つの願いの中に二つのことは盛り込まれへん。俺、そう言うたやろ」
「うん……」
「どっちか一人や」
「……」
「殺すのは、一人だけ。どっちにする」
「……」
陽子は無意識にごくりと唾を飲み込んだ。
重い沈黙が二人の頭上にどっしりと圧し掛かり、気圧がぐんぐん下がっていくような錯覚さえ覚えた。
陽子は二人が未来へ進むことを阻止したいと思っていた。それ故の願い事だった。二人の死。でも、どちらか一人だけというならば、自分はどちらの死を望むだろう。憎いのは、どちらだろう。
二人とも自分を裏切っていたのに変わりはない。どちらも同じだけの罪だと思う。どちらが先に恋を仕掛けたとか、応えたとかではない。すべては結果でしかないのだから。
では、彼らにとってどちらの死がよりダメージが強いだろう。哲司が千夏を失うことか、それとも千夏が哲司を失うことか。恐らくはどちらにとっても同じだけの痛みだろう。今、彼らは愛し合っているだろうから。
「……どっちでもいいわ。あんたが決めて」
「そんなん俺には決められへん」
「私にも決められないわよ。だって、どっちも死ねばいいと思ってるから」
「……」
「私、今、自分がすごく最低だって分かってる。でもあの人たちが死なないと私が生きていけない。あの人たちが幸せになることが許せない。すべてなかったことにして前に進んでいくなんて……。希望と幸福の前に、反省は存在しないのよ。だって過去は捨てればいいんだから」
「あんたも捨てたらええやん」
「……」
「……」
二人はまた黙った。
アフロは陽子を止めようとしているのだろうか。悪魔なら悪魔らしくもっと残虐になって陽子が後悔するぐらいに素早く決めて、実行すればいいのに。
「あんたは過去は捨てられへんのんか。全部忘れることはでけへんのんか。あの人らが死んだところで、あんたはどっちみち忘れへんのんやろ。せやったら、殺さんでもええんちゃうん」
「そうね。そうかもしれないわ。あの人たちが死んでも、そう私の人生は変わらないかもね。でも、それってようするにあんたが殺したくないんでしょう? 悪魔のくせに」
陽子の心は残虐さに炒られていた。
アフロの手が陽子の手をつかんで、握りしめた。その手は驚くほど冷たくて、陽子は思わずアフロの顔を見た。
アフロの横顔はこれまでのどんな時よりも真剣で、青ざめてさえいて、陽子は急に不安を覚えた。
「どうしたの……?」
「……どうしても、か」
「……」
「どうしても殺すんか」
「……」
「……分かった。そしたら、殺す。どっちを殺すかは俺が決める。ええな」
アフロの手に力がこめられた。陽子は急にアフロを抱きしめたい衝動に駆られ、アフロの手を握り返した。強く、強く。痛いぐらいに。
アフロは絞り出すように続けた。
「明後日、あんたの元彼か、あんたの同僚のどっちかが死ぬ。方法は、俺が決める」
「場所は……」
「そんなん、あんたは知らんでもええ」
二人の間を割るように洗濯が終わったという知らせの電子音が鳴った。それが合図であるかのように二人は無言のうちに顔を寄せてキスをした。陽子はこのキスが悪魔との契約であると思った。
自分の寿命というのはあと何年あるのだろう。とりあえず健康だからまだ当分はありそうに思う。
陽子はアフロとの契約について考えていた。
寿命から一年分の命。それと引き換えに叶える願い事。それがアフロの条件だった。
例えば80歳まで生きられるはずが、79歳で死ぬ。陽子はその一年分を後悔することがあるだろうか。想像もつかなかった。
概ね、人は自分の寿命など考えもしないで生きている。末期癌で余命いくばくとでもいうならさておき、いつ死ぬかは健康な時こそ考えもしないものだ。遠い未来のことなのか、それとも事故で突発的に死んでしまうのか。それが分かっていれば、もう少し利口に生きられるのに。
哲司も千夏も自分達の寿命など考えたこともないだろう。明日尽きるなんてことはもとより、一年後でさえも想像できないだろう。
今、陽子は彼らの生命与奪件を握っている。陽子はそのことについてなんの優越感もなければ、恐怖感もなかった。いや、むしろなにも感じないことが怖かった。
かつて愛した人の死を、かつての友人の死を望む自分がいる。それも今は静謐な感情で、言葉にした時の激しさは失われて、ただ二人の死によって訪れるすべてのドラマの完結だけに意識が注がれていた。
婚約者を奪われた陽子は人々の同情を集めている。が、哲司か千夏のどちらかが死ねば、恐らくその同情はそちらへ移るだろう。そうしてすべての真相は闇に葬られ、新たなドラマが人々の口にのぼり、語られていく。
陽子は早く時間がたち、すべての記憶が風化されればいいと思った。憐れまれるのは、みじめだ。
アフロは千夏と哲司のどちらを殺すのだろう……。陽子には想像もつかなかった。
どんな方法で行うのだろう。そして死はどのようにして訪れ、どのように連れ去って行くのだろう。
近しい人の死に、陽子は泣くことができるだろうか。彼らのために涙を流すこと。陽子に涙を流させた人の為に悲しむことができるなら、こんな願い事はしなかっただろう。
送別会の日、陽子は仕事を片づけながらぼんやりとオフィスの窓から見えている空を眺めていた。今日がアフロとの取り決めの日だった。
薄暮の中、疲弊したような空気が街を流れている。埃っぽくて、暑苦しくて、人恋しいような空気だ。こんな日に三人で飲んだことがあった。あれはまだ陽子と哲司が付き合い始めたばかりの頃のことだった。
三人でお好み焼きを食べに行き、いつものバーで飲んだ。三人とも、お好み焼き屋の油と煙の匂いを体中に染み込ませていて、マスターに笑われた。
あの時、哲司はまだそんなには陽子を好きではなかったかもしれない。二人の間はぎこちなく、お互いを知り始めたばかりだから会話は腹の中を探り合うようだった。しかし陽子はそれが恋愛の始まり特有のものだと思っていたし、甘い感情を従えての相手のリサーチは楽しかった。哲司はどうだったかは、知らない。それから、千夏も。
千夏はいつから哲司を好きだったのだろう。あの時から? それとも、その後から?
哲司は紳士的で、お好み焼きに丹念にソースを刷毛で塗り、三等分してそれぞれの皿に取り分けてくれた。陽子はそのマメなところに好感を持っていたが、千夏はどうだったのだろう。
二人からこんな形で裏切られるとは夢にも思わなかった。そして、その二人の死を願うようになるなんて。
今頃、千夏の送別会はつつがなく進行しているだろう。
かつて、二人はお互いの結婚式のプランニングは自分達でやろうとふざけて言いあっていた。陽子が結婚する時は千夏が、千夏がする時は陽子が場を仕切り、幸せの瞬間を完璧に演出し、永遠のものにしようじゃないか、と。そう約束した。それも今は遠い夢だ。
「あれっ、岡崎、まだいたのか」
会議に出席していた上司がデスクへ戻ってきて、まだ仕事をしている陽子を見ると頓狂な声をあげた。
「真面目なやつだな。まだ仕事してるなんて」
「宮本の送別会に行くんじゃないんですか?」
「ああ……、今から行っても遅いだろ。会議が長引いたな……」
「お疲れ様です」
「岡崎」
「はい」
「結婚なんてのはな、事故なんだよ」
上司は不意に切りだした。
「いや、恋愛そのものが、かな」
「……」
「事故は誰があってもお気の毒さまで、まあ、確かに過失割合でどっちがより悪いとか悪くないとかあるけど……。でも、事故は事故だろ。しょうがないって言葉で片づけるのはどうかと思うけど、でも他に言いようもないと思う」
「……」
「でも、当事者にしてみれば、被害者と加害者に分かれて争うこともあるだろうし、被害者は加害者を許せないこともある」
「……」
「だから、早く立ち直っていけるように、また、長く争うにしても本人の代理を務める保険屋がいて助けてくれる」
「部長」
「なにが言いたいかっていうとな、お前も事故っただけのことなんだよ。事故は、偶然だよ。で、今、お前を立ち直らせてくれる保険屋っていうのは、たぶん、幸せだった頃の記憶だと思うよ。思い出すのも腹立つかもしれないけどな。けど、思い出ってのは自分だけの都合のいいもんだ。過去を否定すると自分自身を否定することになる。後遺症残すような事故じゃなかったんだ。岡崎は、頭もいいし、仕事は……まあ、時々雑なとこあるけど、でもよくやってる。まだお前、頑張れるよ」
「……色々ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした……」
陽子は思いがけない上司からの言葉に泣きそうになり、慌てて立ちあがって深々と頭を下げた。
「どのみち宮本は去って行くんだ。岡崎はリハビリでもしながらのんびりいけばいいよ」
「はい……」
「さ、もう俺は帰らしてもらうよ。岡崎も適当に切り上げて、帰れよ」
上司は陽子の肩をぽんとひとつ叩いて、帰り仕度をするとオフィスを出て行った。
陽子はよろよろと窓辺に寄り、ガラスに額を押しつけるようにして眼下を見下ろした。
事故とはよく言ったものだが、陽子はその事故でかつての幸福な自分が死んだと思った。
オフィスのほぼ全員が送別会に参加している。きっと場は明るく、なごんだものになっているだろう。出席を渋っていた後輩たちだって、行けばそれなりに楽しく過ごしているだろうし、こんな事になってしまったとはいえ千夏には元々人望があった。
地上を行く人々の群れが陽子の目には小さな虫の隊列に見える。この中に悪魔が見える人間はいるだろうか。もしくは悪魔に願い事をしたことがある人はいるだろうか。いるとしたら尋ねたい。悪魔に願いを叶えてもらった後の人生どうですか、と。
初恋成就の男は妻に刺されて死んだという。でも、その後、妻や愛人がどうなったかはアフロは教えてくれなかった。一人の男を二人で争い、その当の男がいなくなったら女たちはどうするのだろう。その愛情はどこへ向かうのだろう。やはり終息を迎え、それぞれの立場へ帰っていくのか。妻は妻の立場、愛人は再び一人の女へ。
陽子はアフロを偶然というか、ある種の奇跡の力で呼び寄せてしまったけれど、それは一つの幸運なのだろうか。悪運ではなくて。どちらにしても陽子は運を使い果たした気持ちだった。
今や空は暮れなずみ、薄墨を流したような藍に染まっている。西の空に夕焼けの名残がわずかな光を残していた。
陽子は仕事を続けた。他にすることがなかった。仕事への意欲は失われているのに、目だけが数字を追い、文字列を追いかけた。
アフロはいつ、どのようにして事を運ぶのだろう。
時計を見る。まだ会は続いているだろうか。それとももう終わる頃だろうか。千夏は生きているんだろうか。そして哲司は……?
陽子は携帯電話を取り出し、履歴からアフロに電話をかけた。アフロが電話を寄越した時も驚いたが、今、自分が悪魔に電話をかけているというのも奇妙なことだった。
呼び出し音が鳴る。陽子はイライラと机を指で叩く。
「あっ、もしもし?!」
繋がった瞬間、陽子はかみつくように叫んだ。
が、それはアフロではなくマナーモードのアナウンスで、留守番電話への伝言案内だった。
悪魔にマナーモードって一体なんなの! 陽子は心の中で声を荒げる。
続けざまに今度は送別会に出ている後輩に電話をかけると、こちらはすんなりと電話に出て、怪訝そうに、
「どうされました?」
と尋ねた。
どうもこうも、ない。陽子は一瞬、言葉に迷った。聞きたいのは、千夏が生きているのかどうかだった。
「あの、送別会、もう終わった?」
「今、終わりましたよー」
「そう。えーと、どうだったかなと思って」
「え、普通でしたよ? ブライダルの子とかは泣いたりしてたけど……」
「そう……」
「どうしたんですか? なんかあったんですか?」
「いやいやいや、なんでもないのよ。無事終わったんならいいの。二次会とかあるんじゃないの?」
「あー、それが……」
「ん?」
「宮本さんねえ、お腹大きいらしいんですよ」
「え!?」
「……だから二次会とかはなしってことで」
「……」
「岡崎さん?」
陽子は携帯電話を握り締めたまま愕然として、言葉もなく、ただ口を鯉のようにぱくぱくと開き、倒れそうになる意識に空気を送り込もうとした。
「岡崎さん? 大丈夫ですか? 私らだけでこれからカラオケ行くんですけど、もしよかったら岡崎さんもどうですか? 今、どこにいるんですか?」
「宮本は? 帰ったの?」
「あ、はい……」
陽子は通話をいきなりぶちっと切った。
そんなことってあるだろうか。千夏が妊娠しているなんて……!
頭がひどい混乱にはまりこみ、陽子は椅子をなぎ倒すように立ち上がり、オフィスをうろうろと歩きまわり、何度も立ち止まっては爆発しそうな胸を押えて深呼吸を試みた。
こめかみの血管内で血流が音をたてるのがはっきり感じられるほど興奮していた。
千夏が妊娠。いや、それなら辻褄があう。急な結婚も、逃げるような退職も。ロッカーで噂されていた「このままドロンするつもり」という言葉はまさにその通りだったのだ。
驚きに次いで怒りが再び沸き起こるのを感じ、嗚咽が胸にせりあがってきた。それは嘔吐にも似て、陽子は発作的に口元を押さえる。その手がぶるぶる震えていた。
またしても陽子の中で「いつ」という疑問が湧き上がる。今、何カ月なんだろうか。逆算したら、二人がいつから関係を持っていたのかは分かる。自分との婚約中なのか、それとも別れた後なのか。それによって、別れた理由が明らかになる。けど。しかし。
陽子は唇をかみしめた。涙を堪えるのに必死で、頭ががんがんしていた。
今更そんなことを知ってなんになるというのだろう! もう、陽子は願い事をしてしまったのに!
デスクに投げ出した携帯電話が、けたたましく鳴りだした。
後輩からの折り返しだろう。陽子はとてもカラオケなんて気分ではなくて、着信音が鳴り響くのを黙って聞いていた。
携帯電話はしばらくしつこく鳴り続け、ふっと途切れた。陽子は携帯電話を取り上げると着信を確認した。それは後輩からではなくアフロからだった。
陽子は慌ててコールバックした。今度はアフロもすぐに電話に出た。
「もしもし! 今どこにいるの?!」
陽子は怒鳴った。アフロの背後には賑やかな雑踏があるらしく、周囲の音を拾ってひどく耳障りでうるさい。
「もしもし?!」
「聞こえてるがな」
「どこにいるの」
「今から駅に行くところ」
「……駅ってなんで……?」
「あの人に着いて行くねやん。どっちを殺すかは俺が決めるって言うたやろ」
「どっち?! どっちを殺すの?!」
「さあ、どっちやろうな」
電波の向こう側でアフロが笑ったような気がした。意地悪く。悪魔的に。
陽子は電話を切ると、鞄を掴んでオフィスを飛び出した。
猛烈な勢いで通用口から出ると、その勢いのままタクシーに乗り込んだ。
自分がなにをしようとしているのか、陽子には自分でも分からなかった。頭の中で後輩が教えてくれた言葉がエコーのようにいつまでも響き、その次になぜかアフロと行ったあのヤケクソなカラオケの「リンダリンダ」が鳴っていた。
いつもなら歩いたところで大した距離ではないから、駅までタクシーで乗り付けるのにはほんのわずかな時間だった。
陽子は「お釣りは結構ですから」と転がるように車を降り、コンコースに行き交う人々を押しのける勢いで改札を抜け、ホームへ駆けあがった。
混雑するホームを、靴の細い踵が折れそうになりながら走る。
陽子は血眼になって千夏の姿を探していた。そうしながら、はっきりと自分の中で浮かび上がって来たことがあった。
電車を待つ列をなす人々が不審顔で、さも迷惑そうに陽子を睨む。でも陽子にはそんなことどうでもよかった。
陽子は携帯電話を取り出し、千夏に電話をかけた。呼び出し音が数回鳴ってから、千夏が電話に出た。
「もしもし……?」
「千夏?! 今どこにいるの?!」
「どうしたの? なんかあったの?」
尋常じゃない叫びに千夏は驚いているようだった。
「もう、家帰った? 今どこ?」
「今、駅にいるよ。今から帰るけど……。どうしたの?」
その返答を聞いた瞬間、陽子が見たのは反対のホームにいる千夏と哲司の姿だった。
送別会で千夏が貰ったのであろう花束とプレゼントを哲司が抱えている。その横で千夏が携帯電話を耳にあて、怪訝な顔をしている。
そうして、さらにそこに陽子が見たのは、二人の背後に周りの人より頭ひとつ、ふたつ高いアフロだった。
二人は向かいのホームの陽子には気づかず、顔を見合わせあっている。ホームに電車が入るアナウンスがかかり、陽子はアフロと視線がぶつかった。
アフロが両手を彼らの背後でまっすぐに伸ばした。
「待って……」
陽子は呟く。アフロの姿は陽子にしか見えていない。
電車が轟音を立ててホームに滑り込んでくる瞬間。陽子の目には世界のすべてがスローモーションとなった。特急電車のスピードも、千夏と哲司をホームへ突き落そうとするアフロの両手の力も、立ち尽くす陽子が邪魔と言わんばかりにぶつかってくる人も、音を失い、色を失い、完璧なコマ送りに。
待って、待って、待って。陽子の絶叫は言葉ではなく、ホームに強烈なサンバホイッスルを鳴り響かせた。
渾身の力で吹いた警鐘は、周囲の人を飛び上がらせ、耳を塞がせるほどの威力だった。
次いで、目の前を電車が駆け抜けて行き、その後の一陣の風の中、向いのホームでは千夏と哲司が唖然としてサンバホイッスル女を見つめていた。
アフロはゆっくりと両手をおろした。陽子の目から涙が溢れた。
「陽子? 陽子、どうしたの? 大丈夫?」
左手に握りしめた携帯電話から千夏の声がする。
哲司が千夏から携帯電話をとりあげ、
「もしもし? どうした? 今の笛なに? なにがあったんだ?」
というのも聞こえる。
二人の慌てふためく姿を、心配そうに代わる代わる携帯電話に叫ぶ姿を、陽子は泣きながら見ていた。
「今そっち行くから」
千夏が言った。もう二人とも階段へ駆けだそうとしている。重そうな荷物を抱えて。
「千夏」
「えっ、なに?」
「もういいの」
「えっ?」
陽子は千夏に語りかけながら、その実、背後のアフロに向かって言葉を投げるように言った。
「……やっぱり、好きだった人を嫌いになるのはむずかしいよ……」
「……」
「私、哲司のことも、千夏のことも好きだった……」
「……」
「嫌いになりたくないのよ」
この姿を会社の後輩達や上司が見たらなんと思うだろう。あの冷静で、厳しくて、てきぱきしていてしっかり者で、クールな岡崎陽子が人目を憚らずしゃくりあげて泣いているなんて。
泣きやまなければと思っても、理性がぶっ壊れた陽子は涙を止めることができなかった。
「私たちの間に起こったことは全部忘れて。私も忘れるから。でも、私たちが友達だったことは忘れないで」
「陽子、ごめん……。ごめん……」
「さよなら。元気で」
今度は陽子の立っているホームに電車が入って来た。陽子は停車した電車にそのまま乗り込み、電話を切った。いつの間にかアフロの姿は消えてしまっていた。
殺せなかった……。陽子は扉にもたれて大きく息を吐き出した。
陽子はもう二度と千夏にも哲司にも会うことはないと思った。無論、まだ見ぬ二人の子供にも。
いい事も沢山あった。それは嘘じゃない。本当に愛していたし、友達だった。二人。それが陽子の手に残った真実だった。無論、許すことはできないだろう。けれど、陽子が二人を好きだったことは変えられない。
陽子はしつこく溢れてくる涙を堪えることができなくて、酔っぱらいを見るような侮蔑的な視線の中、ぐずぐずと泣き続けた。死ななくてよかった。ただそれだけを思いながら。
心身ともに泥のように疲れた陽子が部屋に辿りつくと同時に、アフロがベランダをがらりと開けて入って来た。
泣き腫らした目で陽子はアフロに苦く微笑んだ。
「ごめん……」
そう一言呟くと、もう後はなにか言う気力もなかった。
アフロは無言で部屋を横切り、台所へ行くと冷蔵庫を開けた。
「あ」
アフロは小さく声を漏らした。
「テキーラが……」
マリアッチの瓶を取り出し、陽子を振り向く。
陽子は鼻先で「ふん」と答えるだけで、のろのろと寝室へ入り、どさりとベッドに倒れこんだ。テキーラはアフロが飲むかと思って先週買っておいたものだった。
冷凍庫から氷を取り出す音、グラスの中で立てる涼しい音。陽子はうつ伏せになって枕に顔を押しつけて聞いていた。
「なんで謝るねん」
アフロが戸口に立って言った。
「……」
「まあ、ええけどな……」
「……」
「もう、泣かんとき」
陽子はむっくりと体を起した。
「泣いてない」
「そうか」
泣いてはいなかったが体中にひどい脱力感があり、それこそ泣きたいほどだった。
べッドに腰掛ける姿勢になると、陽子はアフロに手を伸ばした。
アフロは無言で歩み寄り、その手にグラスを手渡した。陽子は指をグラスに突っ込み、ぐるぐるとかきまわしながら、
「……どっちを殺すつもりだったの……?」
と尋ねた。
アフロは陽子の隣りに腰を下ろすと、答えて言った。
「さあ、どっちかや……。線路に突き落して、運のええ方が助かる」
「……」
「ま、どっちも死なんかったけどな」
「ごめん」
「だから、なんで謝るねん」
「勝手な願い事しといて……」
「……いや、ええねん」
陽子は痛むほど冷えた指を舐めてから、グラスに口をつけた。独特の甘い花のような香りと突き抜けるようなアルコールが咽喉を焼く。
再びグラスがアフロの手に渡る。
「俺も、殺したくなかった」
「……」
「つーか、あんたの願い事叶えたくないねん」
「……」
そう言うとアフロはぐいとグラスを空けた。
「俺、嘘ついとった」
「なに?」
空になったグラスを弄びながら、アフロは自嘲気味に笑った。
灯りのついていない寝室は暗く、開け放した扉の向こうからの光が長く白く部屋をななめに切っている。
不意にアフロが陽子にキスをした。陽子は面食らって、
「どうしたの? 嘘ってなに?」
と眉をひそめた。
アフロは何か意を決するように大きく息を吐いた。
「あんたの願い事をなんでも叶える代わりに、あんたの寿命から一年分の命貰うって言うたやろ」
「うん」
「……俺が願い事叶えたら、その次の日にあんたは死ぬねん」
「え……」
「それが、あんたの寿命やねん」
「……じゃあ、私、明日死ぬの……?」
「いや、死なへんよ。あんたの願い事叶えてへんやん」
「……寿命って……」
陽子は弱っているところへさらに打ちのめされるような衝撃に、言葉が喘ぐように呼吸と共に漏れた。
「偶然が重なるのは、ある種の奇跡や。で、その奇跡を重ねて行くのが人の運命や」
「……」
「運命は、変わる」
「……」
「悪魔っていうんは、人間の弱さやエゴにとりつくもんや。だから悪魔なんや。なんでも願い事叶えたる言うて誘惑する。その誘惑に負けた時点で、その魂はもう悪魔のもんや。せやから、悪魔に願い事した時点で運命は変わってしまうんや」
「もしかして、じゃあ、初恋成就の人が死んだのは……」
「願い事、してへんかったら、百まで生きたかもな。運命が、変わってしもたんや」
「……」
「なんというても、俺らは悪魔やからな。神様とは逆の方におるねん。俺らになんか物頼んだらどうなるか分かるやろ? 俺、初めに自分は悪魔やって言うたはずやで」
「それじゃあ、私が願い事したのも……」
「ぎりぎりやったな」
アフロは笑った。けれど、それは明るいものでは決してなく、痛ましい笑顔だった。
「俺があんたの願い叶えとったら、あんたは明日には死ぬ。交通事故や。そういう運命になるとこやった」
「じゃあ、私の運命が見えていたの?」
「あんたの魂が悪魔に近づいた時だけ、その先が俺には分かる。でも、もう分かれへん……」
「……」
「あんたが俺を止めた。それでまたあんたの運命は変わってしもた」
「……千夏、妊娠してるんだって……。子供に罪ないじゃない……」
「そうかな。それは分からへんで。赤んぼができた時点でほんまは罪やったんちゃうんか。浮気して出来た子やねんからな。あの人らの罪の中で生まれてくる子やで」
「私はそうは思わない。生まれながらに罪を背負うなんて。それこそ、そんな風に初めから決まってる運命なんて、ないわ」
「あんたがそう思えるんやったら、その子の罪はなくなるわな。なあ、単純なことやで。あんたが許せるんやったら、なにもかも罪はないで」
「……」
「まあ、ええわ。俺の仕事は終わりや」
「えっ? 終わり?」
アフロはグラスをサイドボードに置き、陽子の視線を避けるように両手を膝にのせ深くうなだれるような格好で、床に向かって続けた。
「もうタイムリミットや。あんたの魂、とることでけへんかった」
「なにそれ……」
「何事にも制限時間っつーのがあるねん。もう、終わりや」
「……どうするの……? 帰るの……?」
帰るという言葉の不自然さ。そもそもアフロはどこから来てどこから帰るのか。しかし陽子は自分を滑稽だとは思わなかった。そのぐらい、真剣だった。
「あんたの魂とれへんかった代わりに、俺という存在は消滅する」
「え……」
「悪魔に失敗は許されへんねん」
「……ちょ、ちょっと待って……どういうこと、意味分かんない……」
「ようするに、俺は廃棄処分や」
「死ぬってこと……?」
「悪魔に死はないねん。俺という存在が消えてまうだけや」
「消えるってそんな簡単に……」
「簡単なもんなんやで。命なんてもんはな。せやのに、なにが大事か分からへんのはいっつも人間だけや」
「ねえ、ちょっと待ってよ。死ぬの? 私の命とれなかったから、あんたが死んじゃうの? 誰がそれを決めるの?」
陽子はアフロの腕にとりついて、揺さぶるように詰め寄った。
いきなり乾燥機の中から出てきて願い事を叶えてやるといって、なぜか一緒にごはんを食べたり飲みに行ったりして、仕事の話しも聞いてくれて、カラオケにも行って、キムチ鍋作ってくれて、本当のことはなにも言わないでただそこにいてくれて、それが消滅するなんて。陽子は両腕で強くアフロに抱きついた。
「なんで初めにそう言わなかったのよ。だから私、聞いたじゃない。願い事叶えられなかったら罰とかあるのかって」
「……ごめん」
「なに謝ってんのよ!」
「なんで怒るねん」
アフロが笑った。また、痛ましい顔で。陽子の胸は締め付けられるような痛みを覚えた。
「まさかこんなことになるとは思ってへんかった」
「私だって思ってなかったよ」
「いやいや、そうやなくて」
「……」
「あんたの魂とるん嫌やなと思ってん」
「……」
「あんたかて、言うたやないか。あの人ら殺されへんって」
「……」
「俺かてあんたのこと殺されへんわ」
「私だってあんたに死んでほしくないよ」
「だから死ぬんとちゃうってば」
「消滅したら、それは死ぬのと同じじゃない」
「泣かんといてえな」
「泣くに決まってるでしょ!」
アフロの長い両腕が陽子を強く抱きしめた。その力が、涙を絞り出すように陽子を泣かせた。
こんなことになるなら奇跡なんて起きなくてよかった。出会いたくなかった。今確かに陽子の心はアフロにあるのに、でも、アフロの為にじゃあ自分が死ぬとは言えないのが、陽子を苦悩の渦に巻き込む。
人間って、一体なんなのだ。あんなにも簡単に人の死を願い、それを覆し、何が大事かを見失っても、自分の命だけは結局惜しくて、好きな人の為になにができるということもないなんて。
アフロが陽子の体を引き離し、涙を拭った。
「あーあ、また鼻水ずるずるやんか……」
うるさい。馬鹿。このアフロ。そう言いたかった。いや、言い続けたかった。この先も。
「じゃあな」
「……」
「元気でな」
「……」
「笑てえな」
「……」
「って、無理か。まあ、ええわ」
「……」
涙で視界が歪む。歪む先からアフロの姿が空気に滲みだしていく。溶けるように、蒸発するように。
陽子はアフロの手を握った。アフロも握り返した。
「あ。せやせや。言い忘れとった」
「……」
「あんた、その髪形似合てるで」
消える。陽子の奇跡が。握りしめていた手が霞みのようになり、何も感じなくなり、そうしてついにアフロの姿は完全に見えなくなった。
後にはテキーラのグラスがあるだけで、陽子の頭がおかしくなったのでもなければ夢でもないことを物語っている。陽子はポケットのサンバホイッスルを慌てて取り出し、ぴりっと一吹きした。
が、甲高い音が部屋を震わせただけで、待てども待てどもアフロは姿を見せることはなかった。
陽子はアフロが一度も自分を名前で呼ばなかったこと、そして、自分もアフロに名前を尋ねなかったことを思い、その夜一晩中泣き続けた。
岡崎陽子の内部にどす黒くどろどろと渦巻いていて、油田から沸くガスのように弾けていたあぶくが、大量の涙と共に浄化され、岡崎陽子は自分が再び日常に戻って行くのを感じていた。
日常というのは安穏で平坦であると同時に陽子の本来あるべき姿でもあった。
この、ほんのわずかな日々は激烈で、陽子は食べすぎた後のように疲れていたけれど、食べた分だけの充足感はあった。
食べたものは血となり、肉となる。哲司との別れも千夏の裏切りも、今は陽子の骨や皮になっていた。
そしてアフロ。あれは一体なんだったのだろう。背が高くて、奇妙に爽やかな顔で笑うアフロ。よく食べて、よく飲んで、関西弁でよく喋って。陽子の中を台風のように通過していった。
台風の後には、突き抜けるような青空だ。陽子は彼らが去って行ったあとも仕事をし、友達と会い、酒を飲み、変わりなく暮らしていく。ただ、それだけのことだった。
千夏と哲司からは哲司の父親を通して慰謝料が送られてきた。
添えられた手紙はパソコンのプリントかと思うほどの達筆で、哲司の父親からの謝罪の文面がしたためられていた。
額面は相当なものがあり、陽子はそれをやはり返そうと思って哲司の父親に電話をかけたが、どうしても受け取って貰わないとこちらが申し訳ないと懇願されてしまったのでもう受け取るよりほかなくて、とうとう最後は「それでは」ということになってしまった。
哲司の父親は最後まで「本当に申し訳ないことをした」とか「自分達の教育が間違っていた」とか「哲司が優柔不断でいけなかった。陽子さんにはなんの非もない」などと言いした。
「いえ、もうすんだことですから……。こちらこそ、こんなにしてもらって……」
「いや、陽子さんには受け取る権利がある。ぜひ貰ってほしい。こういってはなんだが、それが互いの為になるんだから」
「はい……」
「陽子さん、あなたの人生はこの先いくらでも変わって行くよ。運命なんてものは、先々どうなるか分からないからね。哲司だって、どうなるか分からない。でも、私は陽子さんが幸せになってくれることを願っているよ」
陽子はこの知的で人の良い父親から出る言葉が真実であると思った。
確かにそうだ。運命なんて分からない。人生なんて分からない。曲がり角ひとつ違えば、何もかもが違ってしまうのだから。
陽子は哲司と千夏が死ななかったこと、そして自分も死ななかったことの運命についてものすごく大きな力を感じていた。
それは神がかりなことではなくて、むしろ悪魔的な力であるのだけれど、陽子にはアフロが所謂悪魔であるとは思えなかった。あれは、あの関西弁は、陽子には天使だった。
突如舞い込んだ多額の現金。しかし陽子は今はまだそれで洗濯機を買うような気分にはなれなかった。
アフロが消えて一カ月。陽子はその間もコインランドリーで洗濯をした。
洗濯している間に本を読み、ビールを飲む。
時々、立ちあがってみて、アフロが出てきた巨大な乾燥機を開けてみる。中はやっぱりただの乾燥機だ。
陽子はある時ふと思いついて、もしかして自分もここに入れるのではないかと考え、酔っているわけでもないのに、誰もいない深夜であるのをいいことに突然片足をあげて乾燥機に体を押しこんでみようとした。
乾燥機の中は洗剤の残り香と、生温い空気が満ちていて決して入り心地のよさそうなものではなかったが、陽子は妙に真剣だった。
あれから陽子はテキーラを飲む習慣がつき、サンバホイッスルはお守りのように携帯電話のストラップにぶらさがっている。
「おーい……、ほんとはいるんでしょー……?」
陽子は体を半分乗りいれた状態で、乾燥機の中で小声で呼んでみた。
返事はない。当然である。
が、はっと気がつくと、コインランドリーの入り口にあっけにとられて陽子を見つめる人影があった。
陽子は慌てて乾燥機から這い出した。そして、その人を見た瞬間、
「あっ!!」
と声をあげた。
「なによ、いるんじゃないのよ!!」
入口に立っていたのは、アフロだった。
陽子はもうすでに泣きそうになりながら、アフロに向かって突進した。死んでないじゃん。消えてないじゃないのよ。気を揉ませやがって。言いたいことが山ほどあって、大声で叫びそうだった。
しかし、飛びつく一歩手前で押しとどまった。
それはアフロではなかった。
そっくりだけれど、アフロではない。普通の、その辺の学生みたいな男の子だった。何より頭がアフロではない。
男の子は驚くというより、奇妙な35歳の女が乾燥機に入ろうとして、飛び出て来て、自分に突進してくるという恐怖に完全に逃げ腰で顔がひきつっていた。
陽子は、
「す、すみません。間違いました……」
と、一秒前の猛烈なテンションから急速落下する落胆の中で、すごすごと謝った。
「……いえ……」
男の子は完全にびびってしまっていた。
陽子はベンチに戻り、がっくりとうなだれた。
洗濯機が終了の電子音を鳴らす。情けない涙がじわっときたが、陽子はかろうじで堪えて洗濯機から洗濯物を掴みだした。
地味な下着を着ていると言われたのが不意に思いだされた。
アフロそっくり青年は、びくびくした様子でランドリーに入ってくると、持ってきた洗濯物を洗濯機に入れ始めた。
いやな沈黙だった。陽子は自分が頭のちょっとおかしい、イタイ女だと思われているだろうと思うとますます情けなく悔しかったが、それよりももう、本当にアフロが世界のどこにもいないのだということが痛烈に刻み込まれていくのが悲しくてたまらなかった。
好きだと言えばよかった。いや、言うヒマもなかったし、言うタイミングもなかった。でも、言えば運命はちがったかもしれないのに。名前も聞けばよかった。今こうして悲しいのに、思い浮かべたところで「アフロ」としか呼べないなんて、お笑いだ。
「……大丈夫ですか?」
「えっ?」
陽子は声をかけられてはっとして我に返った。
「え?」
「あの……大丈夫ですか?」
「……」
アフロ似青年が怪訝そうに、しかし、それでもいくばくかは心配そうに陽子を見つめていた。
大丈夫かと、これまでさんざん聞かれたこと。そのたびに思ったこと。陽子は潤んだ目をぐいと擦ってくっきりと答えた。
「大丈夫です」
にっこり微笑むことも忘れなかった。
「僕、ここで洗濯してる人初めて見ましたよ」
青年がほっとしたように陽子に笑いかけた。
「しかも乾燥機から出てくる人も初めて見た」
と、おかしそうに付け加えて。
言われてみると、陽子もそうだった。洗濯機が壊れてからの数カ月。このランドリーで洗濯している人を一度も見たことがなかった。
……でも、乾燥機から出てくる人は見たことはあった。アフロで関西弁だった。
陽子はふふふと一人で笑いながら洗濯物をさっきまで自分が入ろうとしていた乾燥機に投げ込んだ。
運命は変わるのだ。
陽子は乾燥機に小銭を投入し、スイッチを押した。乾燥機がごんごんと音を立てて回り始める。
陽子の運命もまた、まわっていく。陽子は心の中で「大丈夫です」ともう一度、しっかりと呟いていた。
了
ランドリーより愛をこめて(一気読み版) 三村小稲 @maki-novel
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