第2話 再会

 内陸の盆地を囲む高く険しい山脈、その山脈へと連なる盆地の西端の丘陵の麓にその施設はあった。あらかじめ休業日と知って訪れた施設の正門は人気がなく、閉じられた扉だけがキイキイと夕暮れの風にかすかな音を立てて揺れていた。この門の中に兄がいるのだ。長らく会えなかった兄が……。その日初めて訪れた施設の門を、弟である彼はやるせない想いで見つめた。

 行方知れずとなっていた兄が大怪我を負ってその施設に収容された、しかも、全治不能の障害が残り、もう一生施設から出られる見込みはないそう風の噂に聞いたのは、かなり以前の話だ。

「人のやっかいになって生きるとは、一族のとんだ面汚しだ。あの親不孝者め」

 消息を知らされた時、わずかに悲しみをよぎらせながら、吐き捨てるようにつぶやいた昔かたぎの父の表情が目に浮かぶ。

「ねえ、大丈夫?もうすぐ日も暮れるし、気が進まないのなら、また日を改めて来ることにしたら?」

 同行した一緒になったばかりの妻が、彼の様子を見て、案じるようにたずねた。

「いや、大丈夫だ。せっかく、ここまで来たんだ、やっぱり会っていこう」

 彼は自分自身に言い聞かせるように答えて、意を決して門の中に入った。もし、ここで引き返してしまえば、再び会いに来る勇気が二度と出ないような気がした。彼の決意を察した妻が急いでその後を追った。


 施設の中は予想以上に広かった。兄がいるのはどこだろうか。できることなら施設の職員とは顔を合わせずに済ませたいのだが。初めて訪れた場所で勝手がわからずにしばらくあてもなくウロウロと迷っていたその時、どこからか聞き覚えのある懐かしい歌が聞こえてきた。

  風そよぐ小川よ

  岸に茂る楓よ

  変わることなきふるさと

  わが谷は緑なりき……

 ああ、あれは幼い頃によく母が歌ってくれた歌だ。決して忘れることのない……。

「兄さん」

歌をたどって行き着いたエリアの透けたガラスの向こうにその姿を見つけ、思わず呼びかけた声に、歌の主が振り返った。久方ぶりに見る兄の姿だった。今は亡い母に似た優しげな面立ち、そして、怪我の後遺症で体の自由がきかないせいか、あるいは生来の虚弱な体質のせいか、精悍な体格が持ち前の一族にしては、華奢な体つきだった。

 ガラス越しに相対した弟と兄は、しばらくはお互い声も出ずに相手の顔を見つめ合っていた。

 最初に口を開いたのは兄の方だった。

「すっかりたくましくなったな。声をかけられた時、父さんかと思ってびくっとしたよ。あんまりそっくりだったから」

「うん、よく言われる……兄さんは母さんによく似てきたね。さっき歌ってるのを見て俺は母さんの姿を思い出したよ……母さんが死んだこと、知ってる?」

「ああ、前にここに寄った山の連中から聞いた……やっぱり、俺のせいかな?子供の頃から心配かけ通しだったし、あげくに、こんなところで暮らすはめになっちまったから」

「そんなことないよ。仕方ないよ、あれが母さんの寿命だったんだ。もともと体が丈夫じゃなかったし、父さんよりも年上だったし。むしろ母さんは兄さんがここにいることを聞いて安心してたよ。これであの子も無事に生きていていけるって。どこにいたって、生きてさえくれればそれでいいって」

 兄の問いかけをあわてて彼は否定した。子供の頃から兄は体が弱かった。その地の頂点に立つ一族とはいえ、山の暮らしは厳しい。病弱な体質が似たせいではないかと自分を責め、無事、山で生涯を全うできるか、兄の行く末を母はいつも案じていた。兄が成長し、親元を巣立つ時が間近になるまで、ずっと母の心は安まる暇はなかった。そして、家を出るとなったとたんに兄は今の境遇に陥ったのだ。

「そう、だな……確かにここにいれば日々の生活を心配する必要もない。連中にとって俺は特に重要な”研究対象“だとかで、他の奴らより大切に扱われて観察されてるしな。そういう意味じゃ、ここの暮らしもまんざら悪いもんじゃないかもな」

 足にはめられた金属製のリングを無意識のうちにいじりながら、兄はふっと自嘲気味に笑ってつぶやいた。兄の口から出た“研究対象”“観察”という言葉がキリリと彼の胸を刺した。兄の足のリングがその“研究対象”の証であることを彼も知っていた。遙か昔からあの山に君臨してきた一族の末裔としての誇りを何よりも重んじる父が、この兄の姿を見、つぶやきを聞いたなら、どんな気持ちがするだろうか……。故郷の山にいる父に思いを巡らせて、彼が沈黙すると、

「ところで、お前の後ろにいる彼女は?」

 背後の妻に目をとめて兄が問いかけた。

「ああ、ごめん、最初に紹介しなきゃいけなかったな。今度、一緒になったんだ。覚えてるかな、兄さんもこいつが小さい頃に見知ってるはずだけど。ほら、西の谷の……」

「挨拶が遅れてごめんなさい。お久しぶりです」

「ああ、あのチビちゃんか。見違えたよ、すっかり綺麗な大人になって…そうか、おめでとう。これで名実ともに一人前だな」

「うん、ありがとう……」 

 祝福の言葉を告げた兄の表情にかすかに寂しげな影が差したのを彼は見逃さなかった。事実上の幽閉状態にある兄の元を妻とともに訪れたのは、やはり残酷だったかもしれない。それでも妻と一緒にどうしても兄に告げなければならない話があった。

「それはそうと、もうすぐ暗くなる。これから山へ帰るのは無理だろう。今日はこの町に泊まる予定なのか?」

「いや……もう山には戻らない」

「?」

 彼の言葉の意味が理解できないように兄は小首をかしげた。

「俺たち、この町に住むつもりで山を下りてきたんだ。俺たちだけじゃない。こいつの家族や他のみんなも、どんどん町に下りてきてる。もう山に残ってるのは、父さんみたいな一部の年寄りだけだ。それほど山の状況は兄さんがいた頃よりもっと悪くなってるんだ。実際問題、いくら必死にがんばったって、毎日食うや食わずの暮らしだし。今度、山腹を穿って鉄道の線路やそれと平行した大きな道路を作る工事が始まるそうだ。そうなったらなおさら山での生活は難しくなるだろう。それよりは町の方が何かと暮らしやすいって話だし、この機会に思い切って決めたんだ。今日、ここにこいつと来たのは、そのことを知らせるためでもあったんだ」

 彼の言葉にかなりの衝撃を受けたようで、兄は顔をつらそうに歪めた。

「最近、山から下りてきた連中によく会うとは思っていたが、そんなことにまでなっていたのか……すまない、全然知らなかった……。それにしても、よく父さんが許したな」

「いや、むしろ、父さんの方で山を下りるように勧めたんだ。俺は母さんを亡くした父さんが心配だったし、無理してもずっと山で暮らすつもりだったんだけど。もう、山には俺たち一族の未来はない、お前たち若い者は山と心中してはいけない、新天地で新しい道をさがせって。もちろん、それなら父さんも一緒に下りようって何度も一所懸命誘ったさ。でも、どうしても首を縦に振らないんだ。俺は死ぬまでこの山を見守るとか言って」

「相変わらず、頑固なんだな」

 懐かしそうに兄が言った。

「うん……でも、父さんは頑固だけど、馬鹿じゃない。長いこと山のみんなの上に立ってきただけあって、誰よりも物を見通す力を持ってる。俺たちだけじゃなく、俺たちの子どもや孫や、もっと先の世代のためにどうするのが最良の道なのかを考えてる。俺も、できることなら、俺たちがそうだったように、あの山で子どもを産み育てたかったんだけど……兄さんがさっき歌ってたあの歌の文句みたいに、ふるさとはいつまでも変わらないままだったら……でも、現実は歌とは違う。もっと、どうしようもなく残酷だ。」

 嗚咽をこらえて声が震えていくのが自分でもわかった。物心ついた頃から口癖のように故郷の山の美しさ、豊かさを語り、誰よりも故郷を愛してきた父。その父が自ら自分たちに故郷を捨て、町に出ることを勧めることがいかに辛かったか。父にそこまでの苦渋の決断をさせるほど、荒れ果てていく故郷の山や谷を見ることなく生きてこれた兄はある意味幸せなのかもしれない。哀れみと痛ましさばかりを感じていた兄を羨む思いが初めてわいた。

 兄もかける言葉が見つからないようで、困ったようにしばらく口をつぐんだが、やがてポツリと言った。

「それでも、俺たち、少なくとも俺にとってはあそこがただ一つの故郷なんだよ。」

「うん、それは俺だって……」

「だらしない話だけど、このガラスと鉄格子に囲まれたスペースに籠もっていると、どうしようもなく物憂い気分になることがあるんだ。そんな時、あの歌を歌ってると、故郷の山や谷が目に浮かんで心が励まされるんだ。さっき、歌っていた時も、な」

「今は俺にもわかるよ。山にいた時はそんなこと思ったこともなかったのに。失ってしまって、当たり前でなくなって、初めて気がつくものなんだな」

 兄の言葉に頷いて彼は力なく笑った。 

「それじゃ、もう行くよ。夜になる前に市の中心部に着かなきゃ。あの辺にみんなも住んでるんだ。また落ち着いたら会いに来るから」

「どうぞ、お義兄さんもそれまでお元気で」

「うん、君たちも……ああ、そうだ。俺も伝えておくことがあったんだ」

 ぺこりと頭を下げた妻をほほえましげに見ながら、ふと思い出したように言った。

「なに?」

「うん……ここの職員がこの間、言ってたんだが、俺も近いうちに嫁さんをもらうことになるらしい。同じような施設からだけど。向こうは子どもの頃からそこに保護されて暮らしてるんだそうだ。まあ、会ってみてお互いの相性がよければってことだけどな」

「へえ、それは……」

 その次にどう言葉を続ければいいかわからなかった。相手もおそらく兄同様、彼らの“研究対象”なのだろう。施設の中で一生を送ることを運命づけられた兄たちを夫婦にさせるのは、おそらく子どもを作らせるためで、そして生まれた子どもも当然“研究対象”として“観察”されることが前提となっているのだろう。兄たちの境遇と未来を思うと、彼は祝福よりも苦い悲哀を感じた。

「そんな顔をするなよ。確かに、お前からみれば、俺はさぞかし惨めに思えるかもしれないけどな。でも、俺は家族を持てるかもしれないと聞いた時から、一つの希望がわいたんだ」

「希望?」 

「ああ、俺は、死ぬまで施設を出ることはできないだろうが、でも俺に子どもができたら、その子はここを出て外で暮らす予定なんだそうだ。まあ、観察は続けられるけど、ここみたにい四六時中というわけじゃないし、基本的に生活に干渉はされないで済む。俺にできなかった生活を送ることができるんだ。そしたら、いつか、故郷の山を見せてやりたいんだ」

「でも、山は、もう……」

「ああ、わかってる。山が昔の山じゃないことは。ただ、どんなに変わってしまっても、俺の生まれた場所を一目見せたいんだ。そして、なぜ、そこで生きていけなかったかを知ってほしいんだ。今の山はこれから生まれてくる子どもたちの故郷になることはできないだろう。子どもたちにとってはその生きる場所が故郷だ……こんなところにいる俺が頼めた義理じゃないけど、できたら、その新しい故郷をお前たちに作ってほしい。父さんがあえてお前たちを町に送り出したのも、そういう意味でなんじゃないのかな」

「新しい故郷を俺たちが作る……」

「そしたら、その時、また新しい歌も生まれるだろう。」

「さっき兄さんが歌ってた、あの歌みたいな?」

「そうだ、お前や、叶うなら俺の子どもの心のよりどころとなる新しい故郷の歌が」

 兄の言う“新しい故郷”がどのようなものになるのか、彼にはまだ思い描けなかった。しかし、兄の言うとおりこの町にそれを築くのが自分たちの使命であることはおぼろげながら理解できた。

 いつの間にか日は西の山に沈み、薄暗い黄昏の気配が辺りを包んでいた。家路につくヒヨドリやカラスの群れの鳴声が遠くから聞こえてくる。

「すまない。引き留めてしまったな。すっかり暗くなる前に、行った方がいい。もうすぐ連中が巡回に来る時間だし」

 兄が促した。彼は妻とともに会釈をすると、兄の居住スペースを離れ、施設の門を出た。背後からまた、送り出すようにさきほどと同じ歌を歌う兄の声が聞こえてきた。

  風そよぐ小川よ

  岸に茂る楓よ

  変わることなきふるさと

  わが谷は緑なりき……


「やあ、お前、また歌ってるな」

“ハヤブサ”と書かれたプレートのついた飼育舎の中をのぞき込んで、飼育員が話しかけた。

「やっぱり、外の世界が恋しいんだろうな。もうこの鳥獣研究センターに来てけっこう経つもんな。お前も羽が片方砕けてなければ野生に帰せるんだけどなあ」

「でも、最近この辺でもハヤブサの姿をよく見かけるようになりましたよね。さっきも、つがいらしいのが二羽、市街地の方に飛んでいきましたよ」

 一緒にいた後輩格の飼育員が言った。

「都市のビル街は、ハヤブサの生態からすれば、もともとのすみかの岩山の断崖と似たようなもんだからな。環境の悪化で、獲物が少なくなった山にいるより、町中でドバトでも獲って暮らす方が楽なもんで最近、町の中心部に引っ越してくるのが増えてるんだ。ビルを所有している企業や役所も、イメージアップにつながるってことで、ハヤブサの営巣に協力的だしな。山地が暮らしにくい環境になってるのは問題だが、まあ、どんな形であれ、絶滅危惧種が繁殖するのは悪いことじゃない」

「繁殖といえば、こいつの花嫁候補の件も本決まりですよね。そしたらお前も寂しくなくなるよな。あれ、なんだか、今、こいつ頷きませんでしたか」

「時々俺たちの言ってることがわかってるようなそぶりを見せるよな。賢い鳥だから本当にわかってるのかも知れないが」

二人の飼育員に時々顔を向けながら、まだ若い、しかし飛翔の自由を失った雄のハヤブサは宵闇に沈みゆくかつて生まれ育った故郷の山地の方をじっと見つめていた。

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翼ある者たちの物語 @chibiko30

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