第53話 ポリス・イン・ワンダーランド8

 ユリウスは絶句した。細い首筋に幾つも残された明らかな虐待の痕を眼にして。

 祭囃子の明るく陽気な音色が、他人事のようにどこか遠くに聞こえた。


「ちかちゃん……お願い。お巡りさんに教えてくれるかな。今日は、お父さんとお母さんは?」


 跪いて少女に視線を合わせる。黒々としたあどけない大きな瞳が、ユリウスをきょとんと見つめて小さな口が動いた。


「おとうさんはたまにいるよ。おかあさんはちかとおにいちゃんがきらいだから、いつもたたくの。だからね、おにいちゃんが一所に遠い所にいこうって」


 それを聞いて、チカにゃんが苦し気な表情で後ろから少女をそっと抱きしめた。眼に涙すら浮かんでいる。

 この純粋で幼い瞳が、どれ程の惨たらしい仕打ちを受けて、涙を流してきたのだろうか。それを思うと酷く暗澹たる気持ちになった。

 尋常ではない事態に、ユリウスは流石に地域課長に指示を仰ぐ。紛れもなくこれは虐待事案であり、下手に動けば子供の命に係わるケースであった。

 ユリウスが事の顛末を報告すると、杉本地域課長は神経質そうな表情を更に険しくして、暫しの間思案した。


「……成程。判りました。私は生安課長と署長、副署長に報告、そして地域生安の待機員を呼び出すように当直へ指示します。ガーランド君は周りの課員と情報共有を。それと彼女から出来るだけ色々聞きだしてください。身元が分からない事にはこちらも動きようがありません」

「了解しました。チカにゃんさんには引き続きご協力頂いても……? ちかちゃんが凄く懐いているみたいで……」

「今の状況では仕方ありません。皆出払っているのでお願いしましょう。後に感謝状の上申はしておきます」

「判りました」


 てきぱきと的確に指示を出した後、地域課長は忙しそうに携帯電話で連絡を取り始めた。

 彼女達の方を見やれば、楽しそうに遊んでいるようだ。ユリウスは拾得物の受付がようやくひと心地ついたらしく、缶コーヒーを啜っていた犬飼に事情を説明した。


「……マジか」

「そうなんです……でも身元も分からないのでなんとも……」


 犬飼は缶コーヒーを啜りながら低く唸る。ワーウルフの金色の鋭い眼が行き交う人の波を見つめた。


「まぁなぁ……今の状況じゃ何とも言えねぇがよ。その場合、一番怖いのは親の連れ戻しだ。一緒に来た兄貴からも事情を聞かなきゃならねえし、慎重に行かなきゃなんねえぞ」


 ユリウスは頷いた。あの首筋の痕は紛れもない虐待の痕だ。あの言葉には信ぴょう性がある。兄妹は酷い家庭環境から逃げ出してきたのだろうと推測された。


「せめてちかちゃんのお兄ちゃんが見つかればいいんですが……」

「どこではぐれたんだっけ?」

「それも分からないんですよね」

「困っちゃったな~。つーかあの子、最近よくバズってるチカにゃん似てね?」


 犬飼が二人の方を見ながら呟いた。ユリウスはげ、と慌てて人差し指で沈黙のポーズを取る。


「本人ですよ。さっき落とし物を取りに来られて……それでちかちゃんの相手をしてくれると申し出てくれたんです。でも言っちゃダメですよ。丸山さんとかが聞いたらはしゃいじゃいますから」

「マジか後でサイン貰おう。一緒に自撮りしてくれねえかな」

「意外と流行に詳しいんですね。犬飼部長」

「当たり前ぇよ! 常に俺のアンテナは最先端だぜ」

「へー。ていうかお腹空いたな」


「え、今流した?」と言うワーウルフの巡査部長を無視して、ケバブの屋台から漂う匂いで騒ぎ始めた腹の虫を、分厚い耐刃防護衣の上から抑え込み、ユリウスは溜息を吐いた。


 ──────


「ちょっと!  待ちなさい!」


 喧騒を切り裂く様な叱声が響いて、思わずユリウス達は顔をそちらに向けた。

 丁度目の前のケバブ屋台を横切る様に、ハーフエルフの女性警察官、エルミラが細身の少年を追いかけている。

 エルミラが少年を追い抜き、両手を広げて立ちはだかった。


「あれ……? エルミラさん?」

「おおっと。揉め事かぁ? 行くべか。ユリちゃん」

「あ、はい」


 空になった缶コーヒーを長机に置いた犬飼とユリウスがエルミラの応援に行こうとした時であった。


「あ、おにいちゃん」

「え! ?」

「おにいちゃん!?」

「うそ! 見つかったの!?」


 ちかが指差したのは、エルミラが追いかけていた細身の少年。ユリウス、犬飼、チカにゃんが口々に驚きの声を上げるので、驚いたエルミラが思わず身を強張らせてこちらを見た。


「何ですかもう……あ! コラ待ちなさい! !」


 その一瞬にするりとエルミラの脇を潜り抜けた少年であったが、声に気づいたのか「ちか!」と叫んだ。


「ハーイ。お兄ちゃん止まってね~」


 身長2メートルのワーウルフの警官が少年の前に大木のように立ち塞がる。細身の少年が顔面に恐怖を貼り付かせて彼を見上げるので、思わずユリウスが割って入った。


「犬飼部長、あまり怖がらせないであげてください。君、あの子のお兄ちゃんでいいのかな?」


 少年に目線を合わせて、出来るだけ穏やかに問いかければ、少年が微かに頷いた。


「おいラヴィネ。さっき何やってたのよ?」


 端正な容姿を汗みずくにして息を切らせるエルミラを、犬飼が物珍しそうに見た。


「はぁ、もう……。さっき自転車が盗まれたって来場者に言われて警らをしていたらこの子がその自転車に乗ってて。それで声を掛けたら乗り捨てて逃げたという事です」


 数十分前の酔客とのトラブルで少年の顔を知っていたエルミラはすぐに少年を追いかけたのだが、思いのほか俊足の少年に苦戦していたというのが事のあらましであった。

 エルミラと犬飼の会話を聞きながら、ユリウスは少年を安心させるように笑いかける。

 滴る汗を少年が腕で拭った。長い前髪に隠されていた白い額が現れる。そこには大分前につけられたであろう痛々しい痣や、傷跡があった。

 それを見て、ユリウスは自分が傷つけられたかのように眉根を寄せた。


「ねえ、教えて欲しいんだ。君とちかちゃんの事を。もしかしたら、お巡りさん達が助けになれるかもしれない。僕達は、君の敵じゃないよ」


 拳を握って俯いたままの少年に語りかける。ユリウスは辛抱強く彼が言葉を発するのを待ち続けた。


「……てください」

「……え?」


 今にも消え入りそうな声が、喧騒の中で辛うじて聞こえたが、全て聞き取れない。

 ぽたり、と汗では無い水滴が少年の顔から地面にとめどなく落ち始めた。


「お願い。僕達を、助けてください」


 あまりにも切実な彼の訴えに、ユリウスは胸が締め付けられる思いだった。

 そして、彼等をこのような状況に追い込んだ元凶に、激しい怒りが湧いた。

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